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第130回 景気が悪い時こそ苗を植える~100万ドルを稼いだ園芸家・清野主

公開日:2021.8.6

『農耕と園芸』1954年9月号(第9巻第10号)

[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1954年9月1日
[入手の難易度]やや難

参考
『LIFE』1939年3月6日号
*グーグルブックスで『LIFE』1939年3月6日号を閲覧できる。

https://books.google.co.jp/books?id=lU0EAAAAMBAJ

*アラバマ州モビールのツバキ協会のサイトから閲覧、ダウンロードできる。

http://www.mobilecamellia.org/Home%20Page%20Links/camellia_history_links.html

KIYONO LIFE MAGAZINE 1939

 

清野氏渡米40年の苦闘

清野主(きよの・つかさ、1888‐不明)氏についての略歴などについては、本連載第122回で紹介したが、今日はさらに詳しく見てみたいと思う。清野は、アメリカの「ツバキ文化史」において、沢田幸作とともに、欠くことのできない重要な人物として挙げられている。アメリカでは1930年代、50年代というふうに幾度となくツバキブームが起きているが、その初期のブームに沢田と清野は深く関わっている。とくに清野はアメリカで「ツバキ・キング」と称され成功を収めるとともに、戦後は日本国内で園芸文化の振興に多大なる貢献をされた。

今回、読んでいくテキストは、清野が紹介された1939年の『ライフ』誌と戦争を挟んで20年後の1954年のインタビュー記事である。アメリカを代表する写真情報誌『ライフ』(1936年創刊~2007年)の記事がどのようなものであったのか、さらに『農耕と園芸』昭和28年9月号の記事から、清野氏渡米40年の苦難の実態と成功までの道のりをたどりたい。あと、補足的に、アメリカで植木鉢の代わりに普通に使われていた「缶」についての記事をつけてある。

景気が悪いときこそ準備をする

1954年の『農耕と園芸』9月号のインタビュー記事の聞き手は、日本のミスター・ローズ、鈴木省三だった(第59回参照)。この当時、他の号でも鈴木はたびたび取材をこなし、記事を書いており、誠文堂新光社との親密さがうかがわれる。戦後の『農耕と園芸』は食糧難時代の要請もあって、野菜や果樹の記事の分量が多くなっていたが、花や植木の需要も大きく伸びており、関連記事への要望に答えるには適任者だったろうと思われる。「とどろきばらえん」園主、1913年生まれの鈴木省三はこのとき41歳だった。昭和33(1958)年に京成バラ園の創立に参加していく、その前の時期であった。鈴木は昭和37(1962)年に初めて渡米するが、それまでに世界のバラ関係者と密に文通を重ねていたという(『薔薇に生きて』2000)。僕たちの先輩はみな不便な環境を克服していたのだった。『農耕と園芸』の記事の中に二人で大きなソファに座って話をしている写真が載っている(図5)。バラ園を経営し世界にその名を知られる育種家でもあった鈴木は、清野の感覚をよく理解し、話がはずんだのではないかと思われる。

インタビューの中で印象的なのは、「不景気の時にほんとうのリッチマン(金持ち)ができる」といわれていて、清野はその言葉通りに我慢しながら苗をどんどん作った、という話をしている。それがまさに数年後、景気の持ち直しとともに売れはじめ大金持ちになった、という。当時、清野が支払った所得税が大統領の年収より多かった、と話していて、ほんとうにものすごいことを成し遂げたんだとわかる。

また、こんなことも話している。「われわれ園芸家の本当の敵は、うちなるエニミー(敵)じゃない、つまり外にいるライバル(競争相手)です」。今だと、ゲーム業界やアマゾンだろうか。同業で争っている場合ではない、協力するところは協力し、買ってくれる人の満足度を高め、新しい顧客を増やすようにすべきだと、これを占領が終わって主権回復後数年という時代に語っているのに驚かされ、目が開かれていた人だったとあらためて感慨深く思う。

以下、『ライフ』の記事の日本語訳と『農耕と園芸』のインタビューを抄録する。

図1 全米最大のツバキの農園主として清野の記事が掲載された『ライフ』誌1939年3月6日号
表紙はアラバマ出身女優のタルラー・バンクヘッド Tallulah Bankhead。

THE SOUTH’S MOST ARISTOCRATIC BLOOM IS YANKEE FAVORITE
南部で最も高貴な花はヤンキー(北部のアメリカ人)のお気に入りに

アメリカのほとんどの人にとって、ツバキは未知の花だ。一般的な北欧人は、本物の椿を見たことすらない。もし知っているとすれば、フランスの小説に出てくる女性が好んでいた白い花という程度だろう。

しかし、南部ではツバキはとても愛され、尊敬される花である。アザレア(ツツジ)よりも一般的ではないが、南部では最も高貴な花として知られている。愛らしく、エキゾチックで、ローズレッドから純白まで様々な色を持つこの花は、冬にしか咲かない。最初のつぼみは10月に開き、3月初旬には遅咲きの品種が艶やかな緑の葉の上に花びらを広げるが、4月にはすっかり色あせてしまう。

一方、北部の大都市では、社交界の女性たちがツバキの不思議な魅力を発見している。香りはなく、茎も短く、手で触ると散ってしまうのに、椿は女性の髪やコサージュの花として、ランやクチナシに次ぐ人気の花となっている。北部の温室で栽培された椿は、1本1〜4ドルで販売されている。

東洋原産の椿は、1739年にモラヴィア派のイエズス会士カメルによって初めて西洋にもたらされた。スウェーデンの偉大な植物学者リンネによって、この花は、修道士カメルと、この花が盛んに栽培されている日本にちなんで、Camellia japonicaと名付けられた。椿を最初に愛したのはイギリス人だったが、この花の崇拝は1840年代のフランスで最高潮に達した。当時のパリのダンディたちは、ジャケットに椿を身につけていないと、まともな服装とは思えなかったようだ。デュマが書いた「La Dame aux Camélias (ツバキの花の貴婦人)」は、後に戯曲「カミーユ Camille」やオペラ「椿姫 La Traviata」にもなった哀しい物語である。

1804年にチャールストンに持ち込まれた赤いツバキは、やがて花の美しさとその低木性ゆえに南部で人気を博した。今日では、ツバキの木は樹齢、大きさ、品種によって5ドルから150ドルの価格で売られている。アメリカで最大の商業生産者は、おそらくアラバマ州モービルのT・キヨノ氏だろう。彼は20エーカーのツバキの苗圃を所有し、年間15万本の苗と低木を販売している。キヨノ氏は日本で生まれ、1908年にアメリカに渡った。気さくで文化的な園芸家で、アメリカの骨董品を収集し、珍しい椿の品種をいくつも栽培しているが、手放すのは株式市場が下がったとき(株で損したとき?)だけという。

ツバキは、常緑の低木であるチャノキ(ツバキ)科に属する植物で、米国ではあまり知られていない。丈夫な低木で、赤土、黒土、砂、豊かなデルタの泥土など様々な土壌に適応する。半日陰を好むが、全くの日陰でも花を咲かせることができる。冬の気温が45度から55度(華氏)の間であれば、花を咲かせることができるので、冬の観葉植物としても最適だ。健康な株は数ヶ月にわたって花を咲かせ、一度に200輪もの花を咲かせることもある。 ツバキは交配しやすいため、多くのハイブリッド品種が作出、発表され、アメリカでは300種ほどの交配種が知られている。しかし、商品価値があるのは約50種類である。

 アメリカでは、北はバージニア州、南はフロリダ州中部、西はミシシッピ州まで屋外で生育し、大陸を横断して太平洋岸の一部で盛んに見られるようになっている。(カリフォルニア州)サクラメントでは、公園や庭園に美しいツバキが植えられている。またジョージア州のオーガスタはツバキの栽培に適しており、ここではツバキが人気の高い庭園樹となっている。今年の冬のフラワーショーではツバキが何千と花を咲かせ、たくさんの来場者を集めた。

このショーで多くの賞を受賞したのはアロンゾ・P・ボードマン氏だ。本記事にカラーで掲載したツバキのほとんどが彼の庭で栽培されたものである。現在43歳のボードマン氏は少年時代に父親の影響でツバキの栽培を始めたという。長い間、アマチュア(趣味家)としてやってきた彼だが、最近、プロに転じた。その規模はキヨノ氏に比べれば、はるかに小規模なのだが、彼は自分が作出した数多くの品種のうち、15種類については高い価値があると考えている。その中でも特に気に入っているのが、美しい妻の名にちなんで名付けられた「エリザベス・フレミング・ボードマン」である。

図2 ツバキの花を手にするキヨノ氏 50歳ころ 『ライフ』誌
図3 上段はキヨノ氏のツバキ圃場。広い面積全体が遮光されている。記事では下段に歴代の「カミーユ」役の女優が並ぶ。舞台ではクララ・モリスやファニー・ダベンポート、オペラではフランシス・アルダ、映画ではノーマ・タルマッジやグレタ・ガルボなどが演じた。『ライフ』誌から。

ここからは、戦後、『農耕と園芸』誌に掲載された清野の記事を紹介する。戦前、数多くの日本人がアメリカに渡った。当時の外務省の統計によると、上位三県は、広島、沖縄、熊本だという。ついで和歌山、山口、福岡とある(ハワイ州等を含む)。北米に関しては、広島、和歌山、岡山からの移民が多かったという。清野もまた岡山の人だった。

アメリカで40年の苦心  私は花で「百万ドル長者(ミリオネア)」になった
(『農耕と園芸』1954年9月号)から

きよの つかさ

明治21年岡山の医者の家に生まれ、19才で早くも渡米、農園を始め、多年の苦労をかさね、ついにツバキなどの花苗の生産で成功、その収入はアメリカ大統領にまさり、人いってツバキ王とゆう、これもまた過言ではあるまい。終始植木好きに生き、現在も東京原宿の新居で、日本花園芸界のために、何ものかをと計画をねっている。

図4 『農耕と園芸』1954年9月号の記事。

アメリカへ米作り

鈴木 清野さんが、どうしてお医者さんの家からアメリカに渡って、園芸をやられるようになったかとゆうことからお伺いしたい。

<清野>私のおやじは帝大の第一回卒業生で、十年間大阪病院長をつとめ関西で腕をならしましたが、私の兄弟9人で、そのためやめて個人で開業した。それが当って、その当時の百万長者になった豪傑です。ちょうど私も18才になり、自分の将来を考えるようになった時ですか、おやじは何でもよいから世界一の者になれ、清野家は先祖代々医者だから、兄貴は医者をたのむが、弟は何でも好きなことをやれ、山屋(清野氏の副院長)から聞いた話であるが、日本人がテキサスで非常に米作りに成功しているとゆう。ちょうどお前は、植木好きだからテキサスへ行ってやって見ないか、…と…(※テキサス州は早くから米作と柑橘栽培で知られており、1910年代末期から石油ブームとなった。棉花、牧畜、穀物も主要産業になっている『米国日系人百年史』)

私は中学出たころで、18です。夢のようです。「やりましょう、金がいりますよ」、「金は出してやろう」、…それで、何でも5万ドルぐらい出してくれた。今の金で何千万円です。私も日本でぐずぐずしているよりも、とゆうので、1911(明治34)年に1人で行ったわけです。中学をデタテの英語で、ずいぶん無鉄砲でした。向うで農科大学に入るつもりで行ったのです。向うでは、何も百姓になるのに大学に行くことはない、それよりすぐやりなさいと言うのです。とにかく私は語学をやろう、それでアメリカ人の家庭に入って英語を習うことにした。その時には日本から岩村男爵の息子さんが3人来る。それから岩倉侯爵の息子、森村男爵の息子、などが来てだいぶ面白くなってきた。(※西原の移民、入植運動には上流階級の師弟が多く参加していたが、やがて多くが帰国した。)

植木好きが忘れられず

清野 そうやっているうちに、どうも私は米作がおもしろくなくなった。おやじがほれ込んだ米作というのは、アメリカの見渡す限り広い野原で大きな機械で種子をまくことを考えておったが、私は元来植木好きで米作を見ておるとどうも、つまらない。

おもしろいことに、ちょうど、その当時、日本の温州ミカンみたいなものが、サツマ・オレンジ(日本ミカン)と言って、テキサスで栽培されるようになった。私らの手が届かぬほど大きくなるもので、今でもこれは非常に金もうけとなる。テキサス州といっても日本の2倍で、寒いところもある。私の行ったのは、ヒューストンといって、テキサスのずっと南の地方です。おやじ、オレンジ作りをよく承知してくれ、また、5万ドルほど送ってくれた。のみならず日本から2人の下男を送ってくれた。

鈴木 それがサツマ・オレンジ(日本蜜柑)ですか。

清野 そうです。それを3年ほど一生懸命にやった。

その頃、ヒュームという人が私のところに来て、いろいろなことを調べた。

鈴木 あのカメリアの著書で名高いヒュームですか。

清野 そうです。

(※H. Harold Hume 『Camellias in America』 1946の著者
エドワード・ハロルド・ヒューム(1875‐1965) 大学教授、行政官、園芸家。フロリダ大学の植物学、園芸学の教授を長く務めた。カンキツ類の専門家で後年、ツバキやアザレアに関する研究で多数の著述を残した。)

鈴木 ヒューム氏も清野さんもその頃はまだ若かったわけですね。

清野 えー、ヒュームとはかれこれ40年の知り合いになってしまいました。長いものですね。

鈴木 ヒュームさんはその時には何をやっていたのですか。

清野 フロリダの農科大学のプロフェッサーで植物の研究をしていたのです。それで私は3年間オレンジをやって、よくできておったけれども、4年目に、一晩でみな枯らしてしまいました。テキサスはカナダの方から風が吹いてきたら、一晩のうちにみるみるうちに零下5度、10度になる。

その頃、テキサスの東のアラバマ州のメキシコ湾に面したモビルという町はそんな寒さが来ないので、モビルでオレンジを植えた方がよいと、評判になっておった。ところがテキサスの私の農園は、枯れてしまったし、することがないからどうしようかと思っておった。その時にモビルで大きくやっていた西原(※西原清東、さいばら・せいとう)さんによばれてそこのマネージャーになって、モビルという所で大いにやりました。それが今のモビルのオレンジの始まりの大きな原動力になった。

西原さんは非常に不幸な人で、変なことから手違いで失敗されて、テキサスの米作もできぬということになり、モビルの農園もやめることになったので、それをいやおうなしに引き継ぐことになった。私は25才でしたか。それが、自分のモビルでの事業の始まりです。その当時は、オレンジ、それから台木にするキコク(カラタチ※キコク 枳殻)の苗やペカンというナッツ(クルミの如きもの)の種類のものをやった。それから苗木を作った。それで数年間やっておったが、だんだん時の変遷とともに変っていった。

鈴木 アラバマのモビルはフロリダの隣ですね。フロリダは冬も海水浴ができるんですね。

清野 私の主眼はそこです。

鈴木 モビルの農場はどのくらいの広さですか?…。

清野 初めは80エーカー約32町6反です。そこで、またちょっとエピソードがあるのです。その時に自分より十年上のアメリカの未亡人と結婚したのです。それには日本のおやじはむろん反対でした。私も片意地になって、おやじからはそう言ってきたのじゃないけれども、自分としてはどんな苦しいことがあっても、おやじには世話にならぬと決心した。結婚生活をしたのみならず、その当時としては重荷すぎる事業をやった。それが1913年です。その翌年の1914年が第1次世界大戦が始まった年です。

苦難を乗り越えて

清野 その年でした。今でも忘れないが、7月5日、独立祭のあくる日ですが、私の一生で初めての大暴風雨があった。大きい松の木が見ているうちに折れてしまう。家なんか吹っ飛び、私の家も家の半分が飛んでしまった。死ぬような思いでした。大きな未曽有の大暴風で、作物は全然ペシャンコ。その後がまた、1月の間、毎日どしゃ降りなんです。8月初めになったら作物を植えるのはだめなんです。遅すぎる。借金をして始めたばかりなのにその年はまるで無収入です。あちらの語わざの…つまりトラブル・トラベルス・イン・コンパニー…困難は連れ立ってくる。泣きつらに蜂というか悪いことがくると、連続してくる。つまり西原さんの事業を受け継いた最初の年で、それもいやおうなしに借金してやった。そこへ未曾有の嵐です。

その上にまたえらいのが来た。あのころ日本からいろいろ苗木を輸入し日本から何万本でも入れた。ところがミカンにキャンカー(柑橘腐爛病)という恐ろしい病気が入っていた。キンカンとサマー・オレンジはほとんど出ないが、これがグレープ・フルーツに来るとどっと来て枯れてしまう。それから向うのヴァレンシャ・オレンジに来ると、非常に害をする。しかし、それが一朝フロリダやカリフォルニアに入った時には、カリフォルニアのグレープもフロリダのオレンジも全滅になるから、まだほんの僅かなアラバマの物なんかほとんど眼中にないことになる。それでフロリダ、カリフォルニアの者がみな一致してワシントンの国会へ申請して、あれは撲滅すべきだというので、エラジケーション(根そぎ根治)をやった。エラジケーションをやったという例はほとんどないけれども、とうとうそれをアメリカでやり出した。これはコントロール…つまり調節じゃない。絶滅です。それで大きな金をワシントンで出した。

鈴木 それは具体的にはどういうことをやるのですか。

清野 これはアメリカだからできるのです。もしシトラス・キャンカーをちょっとでも見つけたら、その木を切って焼いてしまう。それから農園で一本でもこれがある木を見つけたら、苗木全体の交通遮断される。交通遮断されると、苗木屋さんはほかへ何にも出せない。そのシトラス・キャンカーを見つけられた。焼けというのですが、私は何もサマー・オレンジに害をしないので焼かなかった。ところが私の門は人間の出入り禁止にしてしまった。貧乏で借金までしておるし、おやじとは今言ったような関係で補助はもらえない。ついに私は泣く泣く焼いてもらいました。その当時はサマー・オレンジが一番の収入のもとだったんです。私は、その収入元を失ってしまったんです。

鈴木 全部焼いたんですか。

清野 全部焼いた。一本でると何十万あってもみな焼いてしまうのです。一々あるかないか検査していやしない。そんなことしてもキャンカーは絶えぬぞと言った。それは40年近く前でしょうけれども、いまは立派になくなった。それだけ徹底的にやった。

その上精神的には、私と結婚した家内は教養の高いアメリカ夫人でしたが、経済的に不況になると苦情が出る。私生活がおもしろくなくなって、別居してしまった。しようがないので、モビルから15マイル先の農場で自炊した。電気も来ていないのでランプをつけてね。実に惨憺たる生活でね。のみならず先が見えない。自分の一番命の綱のサマー・オレンジが焼かれた。そうして毎週数人のインスペクター(検査官)が見に来て、一本でもあったら焼かれてしまう。

それと同時にその年に戦争が始まった。1914年(第一次世界大戦)です。アメリカはその次の年に戦争に入った。戦争になると、私たち苗屋は全然収入がない。私は負けん気なんですけれども、こうなったらどうにもしようがない。自殺しよう、どういうふうにして自殺しようかということも考えた。夫婦仲はおもしろくないし、借金を返すあてもない、自殺よりほかない。その手段に移ろうとした時に―三菱の貨物船の船長、二十代か三十になるかならんで1万トンの船の船長、朝倉さんという人その人といろいろ話したら、えらく意気投合したのです。本居宣長が詠んだ歌を引いて「うきことのなおこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」…うき(憂)きことは自分の力だめしのためにきているのだ、だからうきことを喜んでうけるべきだ。死ぬなんていうような弱いことじゃいかん、大いにやりなさいと激励されたのです。その人とはモビルで、夜寝ずに話した。それで私の心境はガラッと変って、よし、これからは苦しいことが来たら自分の力だめしに来ているのだと、それからそれへと一々とっくんだ。ところがみな勝てるのですね。もっとやって来いという気になって来た。また時期もそういうふうに変って来ておったのです。

図5 清野主と鈴木省三 (清野氏邸にて 清野66歳、鈴木41歳の頃)。

苗商売で百万ドル長者

鈴木 時期というのは、戦争の…

清野 ついに戦争が終わった。それからテキサスで私の昔の土地が売れた。5年間の戦争が終わったので、草の中から木を掘り出してやった。それがみな売れる。その時分にはシトラス・キャンカーはない。非常に曙光が見えてきた。それから日本に帰ってきて、つまり今の家内と結婚したのですが、それからはむろん二人共稼ぎで非常に苦心をしましたが、要するに時期もよかったのでしょう。カメリヤ(つばき)、アザレア(つつじ)に変わりました。それがよく行って、どっちかといえばとんとん拍子です。

そこで自分としてよくやれたと思うのは、一時は―1932年ぐらいですか、非常に事業が悪かったのですが、そういう不景気の時にほんとうのリッチマン(金持)ができると言われるのです。そこで私は苗をどんどん作った。それが数年の後の景気持ち直しとともに売れはじめ非常に金持ちになってしまった。1940年近くには私は年収の税金は1年に10万ドル以上です。その当時大統領の年俸はわずかに7万5千ドル、私は苗木屋でもアメリカでは最高収入だから、ミリオネーヤ(百万弗長者)と言われた。しかし戦争前に帰ってきて、財産は大部分凍結されてしまった。

鈴木 ツバキのグラフティング(接木)は清野さんが…

清野 私の考案ではない。だれが考えたか、考えたって新しいことではない。みな割接ぎですから、それをカバーで掩うということが私の独創です。

鈴木 カバー覆いは何ですか。

清野 普通の大きなコードジャイヤで4分の1ガロン、それの口の大きいビンです。ガロンジャイというのもあり、葉が2枚ついている。それで覆いをして、密閉する。土をうんとかけて上をカバーするかあるいはそれを白い布でおおう。

(※コードジャイヤ、ガロンジャイヤについては不明。Jarだろうか)

鈴木 こういうふうにかぶせて、下の方は泥の中に埋めるのですね。空気の出入りは全然ないわけですね。

清野 全然ないのです。カバーを上からうんと土に押し込んでおる。それをやるのは、向うでは1月15日ごろからやる。向うは暖かいから、それをひと月半なり二月して、3月初めになると芽が出始める。芽が出だすと今度は少し開けて空気を入れる。それにはいろいろな方法があるが、ある人はとってしまって土管をたてる。そういうふうにすればもっと完全になる。それからある人は植木鉢をさかさまにする。あれは暗くなる。

鈴木 そうすると大きさはその年にはどのくらいに…。

清野 このくらいの芽ですと2尺ぐらいになって枝が出るのです。それがもし親指ぐらいのものでしたら、3尺ぐらいで枝が出る。それはとても接木でないとあれだけにならない。

(図5-2) 1930年代後半、サザンカ「峰の雪」の大木と清野の2人の娘。アラバマ州モービル市郊外にあった清野の住宅で撮影された。当時、アメリカのツバキ熱は盛んになりつつあり、この品種もたいへん珍しがられたという。この2人の娘も「いまでは、Bachelor of artsとMaster of social workである」と記している。(『日本の花』誠文堂新光社1964、p228から)。

鈴木 カメリヤ以外はどんな物を

清野 それ以後ほとんど変っていない。どっちかというと欠けているものが多い。私はカメリア、アザレア(ツツジ)ばかりでなく、マグノリア、モクレンの種類、モッコクとかツゲ類、ヒイラギ。

鈴木 こういうのを清野さんがアメリカではじめて苗木として売ったのですね。

清野 イギリスやフランスやイタリヤや日本から集めては苗木としてふやして売ったのです。それは何千か何万か何十万という単位で、親木もそれにはびっくりするほどいる。背より高いツバキの親木が何万といるのです。

鈴木 日本みたいに2本や3本では間に合わない。

清野 たいていの種類はこのようなスタートでやっておるのです。もともと日本から持って行ったのですからね。そんなことからだんだんふやしていった。それにはずいぶん苦心と時日を要する。しかし新しい種類の花は高く売れる。たとえばカメリアの一年苗でAクラスのカメリアが30ドル、Bクラスが25ドル、Cクラスが20ドルと売れる。

鈴木 エンペラー・オブ・ルシア(ロシア皇帝)という。

清野 それはいい。ビイクトリア・マニュエル、これは非常にきれいです。咲く時期が遅い。とても大きい花です。生長がいい。私はこれ1本150ドルで買った。みなびっくりした。あんなちっぽけな木を清野は金持ちだから買えるのだというのですが、私はそんなことはない、150ドルが非常に安いことを見せてあげると言って、一番初めの年には250本ぐらい小さい苗を作った。その小さい苗を1本5ドルで売った。1,250ドルもうけた。1本150ドルぐらい出したって何でもない。1939年の『ライフ』(※図1)に私のカメリヤが出ております。この時は何百と照会がきて困りました。私の所は卸売りですから。

園芸家の敵は

鈴木 先日もいっておられた…つまり園芸家の敵は中にあるのじゃなくて外にあるとおっしゃった。あのおことばを日本の園芸界に紹介していただきたい。

清野 私は終始言ってるのですけれど、われわれ園芸家の本当の敵は―中なるエニミー(敵)じゃない、つまり外にいるライバル(競争相手)です。園芸家はお互いに傷つけ合いをしようとしてるけれども、これは非常な間違いですよ。苗木屋のほんとうの敵―競争相手というものは、同業の苗木屋ではなくて、ほかの事業、たとえば映画館とか、ラジオを作る所とか、そういうものをやっている人がほんとうの敵です。というのは大部分のアメリカの家庭では、月々に出せる額というものはだいたい限度がある。だから娯楽費の金の取合いの敵というのは、ほかの事業の人であって、われわれ同業者達は一致協力して、できるだけ値段も安くし、サービスをよくし、宣伝するとか、作り方の要領を簡単に書いたものを苗木につけて売るとか、買った人に対して十分な値打ちを味わわせる、これが非常に重要です。

鈴木 それにマザース・デー(母の日?)ですが、あの頃カーネーションが豊富にできる。もちろんお母さんの記念日にという意味あいもあるでしょうが、その時にカーネーションの宣伝という意味合もありますね。協力してカーネーションの切花の需要を多くする、その点、むこうの花屋はえらいですね。

清野 それはそうでしょう。しかしマザーズ・デーはどうして起こったか知りませんけれども、実際に協力して大いに宣伝し、…お母さんへの贈り物としてカーネーションをより多くの人々に買ってもらい花になじみにさせる。

鈴木 日本では、かえってカーネーションがべらぼうに高くなってしまう。そこで街では造花のカーネーションが巾をきかす。

清野 日本人は自分の意思でなく、ほかの人がしているから真似してやるという人が多い。だから導きやすい国民なんです。だからマザーズ・デーというのは、カーネーションをつけるものだということを頭に入れやすい国民です。そういうことを利用して、花というものを大きく宣伝すればよいのです。

鈴木 最後に、私清野さんのお庭には、楽しそうにいろいろお花を作っていらっしゃいますが、どういった物がお好きですか。

清野 私のいたモビルは暖かすぎて、球根とか、宿根は、ほとんどできないので、植木が主でした。私は旅行が非常に好きで、各地で非常によいものを見つけるのです。作りたいと思っても作れない。日本も気候的に言って、理想からかなりかけ離れた所ですが、モビルなんかよりもずっとよい。今度こそはこの庭ではペレニアル(宿根草)に主眼をおいて、ペレニアルの間にアニアル(アニュアル、一年草)なもので詰めて、年中色のあるものにしたいと思っている。

実は、私はこのごろ大きいのより小さい花が好きになった。かわいい瀟洒なものにしたい。アメリカはそういうことはないと言うけれども、そうじゃない。このごろは日本のツバキのワビスケのようなものも重用されるようになった。そういうような、単調な詩的情味を持ったものがね。

鈴木 やはり日本的な単調な美とゆう所におちつきますか。(終)

(※西原清東、さいばら・せいとう、きよきは政友会の代議士、同志社社長=総長として重きをなす人物であったが、神学勉強のためにコネチカット州ハート・フォードの神学校に2年を学び、学位を得たが帰国後に仲間を募って再渡米し、米作りに挑戦した。大西理平、西村庄太郎ら仲間とともに1903年、ヒューストンに入り米作りを始めた。この地には西原らに続いて岩村両伯爵などが入植し、開拓者の苦難をなめ尽くし、ようやくテキサス米の名声を得るに至った。当時の移民の間では「テキサスは蚊さえ暑さで死ぬ灼熱地獄」と噂されるほどで実際に蒸し暑さと蚊やブヨ、疫病に悩まされた。西原は海外移民によって日本人の人口過剰問題が解決できると信じる、いわゆる集団入植のリーダーだった。

当時は野生米のような品種だったものを土地にあった品種に変更しながら規模を拡大していった。当初は収穫量も多かったが、日本人は土地を購入し、そこで繰り返し生産を行うために地力が落ちる、雑草に覆われるなど問題が多くなり収量は激減し、入植者の多くは出ていくことになった。そのため米作りからサツマ・オレンジの栽培に移るものが増えていった。西原が隣接するアラバマ州でミカンの栽培を始める時に日本にやってきた若者が清野青年だった。日本人の人口過剰問題解決のための移民という理想実現のためにアメリカやブラジルへと東奔西走した西原はその望みを叶えることなく1941年に他界した(『百年史』*1939年没の説あり)

アメリカの米作りは、17世紀にサウスカロライナで始まっているが、マダガスカルの遭難船の救助のお礼としてもたらされたアジア米(中粒種)だったという。西原らは日本の「神力」「渡船」といった短粒種を導入し成績を上げた。「渡船」は品種改良の親となり、現在のカリフォルニア米へと受け継がれている。(『アメリカ大陸コメ物語』松本紘宇2008)

※「神力」という品種は兵庫県中島村の丸尾重次郎という農家が明治10年に自らの田んぼに実った稲穂から発見した3本の優良株から育成した品種で、収量の多さから人気となり、大正時代には西日本を忠臣にで作付面積日本一の品種となった。当時の三大品種のひとつで、ほかは「亀の尾」「愛国」がある。「神力」はその後「旭」という品種に取って代わられるが、「神力」から改良された「コシヒカリ」が戦後の米作りの歴史にその名を刻んでいる。(『ひと萌ゆる』2001)

図6 多以子夫人(右)、長男の清顕(左)と西原清東(中央)。

アメリカにおける「缶植え」の実際について

1950年代のアメリカでも、まだプラスチック製品が普及していなかったのか、苗木を販売するのに「缶」が多用されている。日本では素焼き鉢を使っていたが、缶には軽さやコスト等のメリットが多い。清野氏のツバキ苗も缶入りで販売されていたのではなかったかと思われる。

『農耕と園芸』1954年11月号には「缶植え」の実情が紹介されていた。岩垣駛夫による連載「すべての花の中、バラこそ麗し…アメリカバラ記行」の第1回、「バラこそ麗しのシェークスピアの肖像」という記事である。岩垣駛夫は元福島県園芸試験場場長、教授東京農工大教授を務め、アメリカからブルーベリーの優良品種を日本に導入し普及させた功績から「日本のブルーベリーの父」と呼ばれている。

記事によると、岩垣はアメリカ各地の園芸施設を見て回っており、ここではロサンゼルスの東郊、オンタリオにあるアームスロトングナーセリーを訪ねて、バラ苗が缶に植えられ大量に並べられているのを見ている。パサデナ在住の押山英夫氏に案内してもらった。「缶植え」については次のように記している。

この「缶植え」は、いつでも買って根を傷めないで、持って帰って植えられる苗の陳列場があると記している。

缶植えというのは、カタログを見ると、バラに限らず、ツバキや鑑賞灌木などガロン缶2ドル50セント、5ガロン缶7ドル50セントとか書いてあるが、日本ならさしずめ鉢植えという所を、缶の国だけあって空缶植えにしてあり、その大きさでガロン缶、5ガロン缶というのである。これらの缶がは底に穴をあけない。下の横に三角形のやや大きい穴を数か所あけて、通気、排気、排水に役立ててあり、黒く塗ってある。

空缶を鉢に使う場合

底に穴をあけないで下の横に穴をあけること(図7)。ちょっとしたことであるが、底に穴をあけてやってみてどうしてもうまく育たず失敗してからなるほどとわかるが、これは缶鉢(缶植え)のキーポイント(カギ)だと思う。第8図は鉢用の缶と用土の山と缶植えを能率的に行う流れ作業機である。

図7 『農耕と園芸』1954年11月号から。
図8 栽培用土がヤマにして積みおかれている。空缶は現場に無造作に置かれていて、日常的に使われているようすが感じられる。用土のヤマからはおそらくローラーだと思うが土を入れた缶が流れ作業で送れるようにセットされている。途中で2方向に分かれているのは、サイズ違いのものを別々に分けて流せるようにしてあるのだと想像する。『農耕と園芸』1954年11月号から。

参考
『農耕と園芸』1954年11月号
『薔薇と生きて』 鈴木省三 成星出版 2000
『アメリカ大陸コメ物語 コメ食で知る日系移民開拓史』 松本紘宇 明石書店 2008
『ひと萌ゆる 知られざる近代兵庫の先覚者たち』神戸新聞文化生活部 神戸新聞総合出版センター 2001
『日本の花』園芸文化協会・監修 誠文堂新光社 1964

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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