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第131回 ユリの名品「スターゲイザー」の誕生―ウッドリフ氏と「ラクダ毛のブラシ」

公開日:2021.8.13

『Flower Confidential: The Good, the Bad, and the Beautiful 』電子書籍版

[著者]Amy Stewart
[発行]Algonquin Books
[発行年月日]2008年3月18日
[入手の難易度]易

「ユリ」(『花の品種改良の日本史』第4章)

[著者]岡崎桂一(新潟大学教授)
[出典]『カラー版 花の品種改良の日本史』 新発田道夫・編集
[発行]悠書館
[発行年月日]2016年6月30日
[入手難易度]易

花のグローバルな流通を追いかける

『フラワー・コンフィデンシャル Flower Confidential』というタイトル、「花の秘密」「知られざる物語」、「ここだけの話」といった感じだろうか。「The Good, the Bad, and the Beautiful」という言葉が付け加えられている。この本の著者、エイミー・スチュワートはニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー作家であり、熱心な園芸家だという。カリフォルニア園芸協会の作家賞を受賞し、園芸に関する幅広い情報を発信するホームページも運営している。

※参考 エイミー・スチュワートのHPサイト

スチュワートは本書で「世界の花産業の光と影」に取り組んだ。花ビジネスの国際化、グローバル産業化によって出現した巨大な取り引きの実態とそれが国内外の人々にどのように影響しているのか、「グッドとバッド(功罪)」の複雑な様相を描いている。著者はサンフランシスコの花市場を皮切りに、国内各地の花産地や赤道中南米で大規模に花を生産する巨大な温室、遺伝子組み換えで青いバラの完成を目指すオーストラリアの企業やオランダの巨大市場などを訪ね、様々な種類の美しい花々が手頃な価格でいつでも買えることの意味を考える。今回は、電子版をOCRソフトで活字化し、それを翻訳支援アプリ「DeepL」を使って少しずつ訳しながら読んでいった。2008年という過去の記事とはいえ、当時から今日に至るまで、日本ではあまり話題にならなかった海外の実情には非常に興味深いエピソードがいくつも見出され、いろいろ考えさせられた。

切り花を国際商品にするために関係者はたいへんな努力をしているにもかかわらず、花が好きな人たちからすると、香りがない、剛直すぎる、(前処理、後処理に)様々な薬品処理がなされる、低賃金労働による生産、花束工場で組まれる画一的なブーケ……といった様々な問題が不満のタネになっていた。輸入の花に押されて国産の花は減少の一途をたどり、例えば1930年代までバレンタインデーの主役だった可憐なニオイスミレのブーケも駆逐された。人々は花にありとあらゆる「完璧さ」を求めすぎているのではないか、そのために花のよさが失われていないのだろうかと問いかける。すでにオーガニックフラワーの花束の話も出ており、地元産(メイド・イン・アメリカ)の花が見直されるようになるのはこのあたりの意識からであろうし、現在の「ホームユース」における草花ブームへとつながっている。

こんなふうにいろいろと得ることの多いこの本のなかで、今日、紹介したかったのはオリエンタルユリの名花「スターゲイザー」とそれを生み出した天才的な育種家、レスリー・ウッドリフ(Leslie Woodriff)の話だ。1章を当ててこの稀有な人物の数奇な人生を描き出している。※日本で人気の高かった「ル・レーブLe Reve(別名Joy)」もウッドリフの作出。

図1 オリエンタル・ハイブリッド・リリーの名花「スターゲイザー」。1970年代から80年代にかけてオランダから大量に輸出され、世界の花市場で一世を風靡した。(画像はWikimediaから)

ユリの世界を劇的に変えた名花「スターゲイザー」

大輪のユリ、花弁は上向きで白い縁取りに色鮮やかな赤い色(深紅色)、強い芳香を放つオリエンタルユリの名花「スターゲイザー」(図1)は、1975年に発表された。RHSが発行する『The International Lily Register and Checklist』の2007年版の記載では次のようになっている(図2)。

日本原生のカノコユリとヤマユリをベースとした「第7ディビジョン」の交雑種で時代を作った「スターゲイザー」は、「1975年以前にL・ウッドリフによって作出、T・T・カーシュにより命名された。またこの品種はサンバレー球根農場によって市場に導入、J・カーシュにより登録された。1975年のことだった。花は上向きで平開する。花期は7、8月(花の特徴は省略)。ある雑誌『Lilies and other Liliacea, 1975』に「Stargazer」と表記されているのは誤りで正しくは「Star Gazer」とすべきである。販売される球根には、L.×parkmanii ’Journey’s End’などの類似品種が「スターゲイザー」の名前で販売されていることが多々あるので要注意。ウッドリフは1960年代後半にサンバレー球根農場に移り、彼が持っていたユリはすべてオーナーであるテッド・カーシュに引き継がれた。」

図2 『Lily Register』2007に記載の「スターゲイザー」。ウッドリフ、カーシュらの名前が見える。

ユリの育種はアメリカで大きく飛躍した

「スターゲイザー」と作出者、ウッドリフについて、過去の資料に「ユリの育種物語 品種開発に貢献した人々のこと 1960年代から現在まで」というタイトルの記事を見つけた(『アイバルブ・ニュースレター』2013年6月号)。オランダの花ビジネス誌『Bloemenbollen visie(花球根のビジョン)』に掲載されたものを要約したもので、スカシユリ系統の「エンチャントメント」「コネチカットキング」を作出したヤン・デ・グラーフJan de Graaff 1903~1989)とオリエンタルユリ「スターゲイザー」のレスリー・ウッドリフ(Leslie Woodriff 1910~1997) の功績に触れ、2人をオランダのユリ産業を大きく発展させた立役者として称えている。ユリは現在、世界の切り花トップ5に入る大品目だが、60年前は「その他の球根」程度の扱いでしかなかったという。

世界のユリ育種で不滅の貢献を果たしたヤン・デ・グラーフは、オランダの球根生産者の家庭に生まれ、1928年、25歳の年にアメリカに渡った。その後1934年にオレゴン州のオレゴン・バルブ・ファーム社を買収し、アメリカに定住することになった。当初はスイセンとアイリスの栽培と育種を行っていたが、1938年からユリの育種を始め、50年代にはユリだけに一本化していく。ユリの育種家として多大な功績を残したエドワルド・マックリア(Edward McRae)の入社も大きな力となった。 1960年代の同社のカタログを見ると、アジアティック・ハイブリッドからミッドセンチュリー・ハイブリッド、フィエスタ・ハイブリッド、ハーレクイン・ハイブリッド、オウレリアン・ハイブリッドと多様なタイプに渡る見事な育種品種の歴史を概観できるそうだ。アジアティックを中心にカラフルなユリのパレットを創り出し、切り花の人気品目に押し上げたヤン・デ・グラーフの功績は測り知れない。

清水基夫の『日本のユリ』には、現在ごく一般に使われている「アジアティック・ハイブリッド」や「オリエンタル・ハイブリッド」という言葉も、多様な交配品種群をまとめたデ・グラーフによる呼称から広まったということが記されている(オリエンタルというが、ほぼすべてにカノコユリ、ヤマユリ、タモトユリなど日本原生のユリの遺伝子が入ったグループであり、ジャパニーズ・ハイブリッドと呼んでほしいくらいだ)。80年代から90年代に市場をにぎわしたこれらのグループも、アジアティック(A)はLA(テッポウユリ×アジアティック)に、オリエンタル(O)はOT(オリエンタル×トランペット)へと入れ替わっていった。これは、美しい花の探求ばかりでなく、耐病性や作りやすさを求めたことによる結果だという(『花の品種改良の日本史』岡崎桂一2016)。

※ミッドセンチュリー・hyb.のグループは(オニユリ×ホランディカム)×スカシユリの交配種、J. de Graaffにより1944年に作出、上向き咲きの強健な名品「エンチャントメント」1949はこのグループの代表種、その後品種群が拡大したためアジアティックと称されるようになった。

※フィエスタ・hyb.のグループはLilium amabile、 L. dauricum、L. davidiiなどの交配種、同系統の「コネチカットキング」を親とする品種群。

※ハーレクイン・hyb.のグループはミッドセンチュリー・hyb.からの選抜品(複雑な交配品種群)、あるいは、L.willmottiae× L.cernumとなっているが不明な点あり。

※オウレリアン・hyb.のグループはL.×aurelianense(sargentiae×henryi)とL.sargentiaeおよびL.leuchanthum var.centifoliumの交配種(清水1971)、1928年に作出、リーガルリリーとの交配でトランペット・ハイブリッドのグループを形成する。これらの品種群とオリエンタルが交配されOTの系統が生まれた。

(以上、『Lily Register』RHS 2007、『日本のユリ』清水基夫1971による)

名花「スターゲイザー」の誕生

「ユリの育種物語 品種開発に貢献した人々のこと 1960年代から現在まで」によると、70~80年代のオランダではデ・グラーフの作出した明るい黄色のアジアティックユリ「コネティカット・キングConnecticut King 」が長い間、トップの人気を誇っていたという。そこに登場したのがあの「スターゲイザーStar Gazer」だった。花が上向きで、特徴のある濃いピンク色とその強い香りで一躍人気となり、1995年の作付面積では486ha (オランダ国内全体の作付面積3562haの約14%のシェア)に及んでいた。

この「スターゲイザー」の仕掛人が、レスリー・ウッドリフ(Leslie Woodriff 1910~1997) というアメリカの育種家だった。ウッドリフは、家族でユリとベゴニアの育種会社を営んでいたが60年代にアメリカ、カリフォルニア州のサンバレー・バルブ・ファーム社に譲渡し、その会社でユリの育種を続けた。ウッドリフが力を入れたのはオリエンタル品種の開発で、1974年、ついに名花「スターゲイザー」が誕生する。「スターゲイザー」はオランダで増やされ、間もなくオリエンタルを代表する品種となった。ウッドリフはその後、再び独立の道を選び、フェアリーランド・ベゴニア・アンド・リリー・ガーデンズ社を設立し、生涯、植物の育種に携わった。後年になって、オランダのフレッター・エン・デンハーン社が彼の功績を称え「Woodriff’s memoryウッドリフズ メモリー」という品種を発表しその名を残した。

記事は、「今日のオランダのユリ産業成功の歴史には、遠くアメリカの地で活躍した2人のオランダ大先駆者がいたことを忘れずにいたいものです」という言葉でしめくくられている。

※参考 アイバルブ・ジャパン ニュースレター 2013年6月号(アイバルブ・ジャパンのサイトから)

https://www.ibulbjapan.jp/newsletter/pdf/ibj-news-1306-007.pdf

http://www.bloembol.info/pdf/wereldbol58.pdf

「タネつけ中毒」の変人だったウッドリフ

レスリー・ウッドリフは飾り気がなく、いつも温室でなにかをしていそうな、いかにも園芸家という人物だったようだ。ここからは、再び『Flower Confidential 』の記述に戻って、この偉大な育種家の人物像を見ていこうと思う。著者のエイミーは、本人には会うことはかなわなかったが、写真を確認したり家族から話を聞いたりしている。

「レスリー・ウッドリフは、ユリの育種家の間で、園芸界の伝説的存在となっているというが、私の地元では、ハイウェイ沿いの壊れた温室にいる風変わりな老人として記憶されている。彼は1997年に亡くなっており、私は彼の写真しか見たことがない。『エキセントリック』という表現は正しいと思う。白い髪の毛が四方八方に伸びていて、目鼻立ちがハッキリとした四角い顔をしていた。どの写真を見ても、歯並びが悪いのを隠そうともせず満面の笑みを浮かべていて、いつもユリの花に囲まれている」

僕もインターネットでウッドリフの写真を探すしてみたが、ほとんどヒットしなかった(これはデ・グラーフも同様だ)。唯一見つけたものには、眉も髪も真っ白で、欠けた歯を見せながら笑っているがっちりした男の姿が写っていた。

※参考 ウッドリフの写真が載っているNational Gardening Associationのブログサイト

https://garden.org/thread/view_post/790281/

その姿もインパクトがあるのだが、この天才育種家、ウッドリフの品種改良の手法にはもっと驚かされた。ひとことでいうと、「やたらめったらタネつけしていた」ようなのだ。しかもハチやチョウがすることと何ら変わらない、とても原始的な方法でそれをやっていた。エイミー・スチュワートは、その手法を次のように描写している。

ウッドリフの友人たちによると、彼はあまりメモを取らず、交配親についてもあまり気にしていなかったそうだが、ジミー・カーター大統領に宛ててウッドリフが書いた手紙を読むと、どのように交配を進めるかについては、確かに考えていたふしがある。息子のジョージは、彼がすべての交配株にタグを付けていたことを覚えているのだが、そこに書かれた記号(コード)は、他の人には理解できないものだったと言っていた。

こんなふうに新しい花を生み出すことに熱意を持っていたウッドリフだが、一方で、一度交配を行った後は、その新しい品種を販売するために十分な量を育てることにはあまり興味がなかったことは、多くの人が認めるところだろう。育種仲間が次々と証言してくれたように、ウッドリフが愛したのは「プロセス」だったのだ。彼は、あるユリの花粉を別のユリの雌しべに刷り込むという物理的な行為に魅了されていたのだ。ただそれだけだった。それが彼のやりたかったことなのだ。

College of the Redwoodsの農業講師であるバート・ウォーカーは、学生たちをウッドリフの温室に連れて行ったことを覚えている。「彼は小さなガラス瓶をたくさん持っていて、そのなかに黒い絵の具を入れると、渦を巻いてなかが真っ黒になるように動かしていた。そしてキャップを被せ、アイスピックでキャップに穴を開け、キャメルヘアー(ラクダの毛)のブラシを逆さにしてその穴にはめ込んで持ち歩くのだ。彼は学生たちに、「この小瓶には乾燥した絵の具以外何も入っていない、ハイになれるものではないが、一度ハマると抜け出せなくなるよ」と笑いながら言った。

ウッドリフは、この小さな黒い角瓶(瓶のなかではなく、外側の瓶)を使って花粉を集めていた。瓶の表面が平らなものを選んだのは、作業しやすいようにするためだ。瓶の内側に黒い絵の具を塗ることで、外側はまるで鏡のようになった。1本のユリを叩いて花粉をボトルの平らな面に振ってから、キャメルヘアーのブラシを抜き取ると、そのブラシで花粉を拾って別のユリに振りかける。

「そのようなボトルを何本も持っていましたね。」とバートは私に言った。「それが彼の中毒だったんだと思います。問題は、彼はある種の交配の仕方を知っていたかもしれないのですが、それを書き留めたり、何度も繰り返して確かめたりはしなかったということです」。

ウッドリフがあるユリの血統を知っていると言っても、バートは必ずしも納得はしなかった。ラクダの毛のブラシは決して清潔とはいえないし、そのブラシが日々どれだけの花粉を運んでいるのかを知る術もなかったからだ。その上、彼はわざと作業にカオスの要素を取り入れていた。驚くことに、花粉を瓶に入れて振り混ぜてから、咲いているユリの花に撒くといった荒っぽいこともやっていたという。ウッドリフの球根を農場ごと買い取ったカーシュは26の品種を登録したが、そのうち25品種が「親が不明の苗」から作出という記述にせざるを得なかった。ウッドリフは自分のビジネスを「フェアリーランド・リリー・ガーデンズ」と呼び、花粉をこすりつけると魔法がかかると言っていたという。ある生産者はこんな話もしてくれた。「ここにレスリー自身の哲学があるんだと思う。彼はこう言っていたよ。トランプを持って、空中に投げる。カードを拾い始めれば、最終的にはロイヤルフラッシュになるだろう、とね。つまり、彼は遺伝子を撒き散らしていたんだ。それが彼の仕事のユニークなところなんだけどね。他の人ができないと言ったことにも気にせずにどんどん挑戦していたよ」。

バートは、ウッドリフがシャツのポケットにユリの写真を入れて持ち歩いていたことを覚えている。「ウッドリフ氏はシャツのポケットにユリの写真を入れて持ち歩いていました。これはおもしろいぞ、もし、この植物のまっすぐに伸びる性質を入れることができたら、もし、この植物の香りを入れることができたら、もし、この色を入れることができたら、100万ドル稼げるぞ」。そんな彼に対して、みんなは、それは本当に素晴らしいことだね、レス、と言うわけです。でも私たちは、本音では《こいつは夢想家だな》と思っていました。そして彼は実際そういう人だったのです。レスは夢想家でした。そして、生きているうちに100万ドルを手にすることはなかったのです」。

ウッドリフの悲劇、植物特許の黎明期

レスリー・ウッドリフは天才的で「クレイジー」な育種家ではあったが、商売には無頓着だったようで、家族で営んでいた球根農場は火の車だった。ウッドリフは交配して生まれた花を捨てることが苦手だったようで、労多くして功少なし、家族は貧しい暮らしをしていた。1970年、ウッドリフは、現在のサンバレー・フローラル・ファームズ初代オーナーであるテッド・カーシュとビジネスに関する取り引きを行い、その結果、カーシュは彼のユリをすべて買い取り、ウッドリフ家に農場での仕事を与えるという契約を結んだ。カーシュは、レスリー・ウッドリフとは長年の付き合いがあった。

契約書の具体的内容はウッドリフ社のユリをすべて買い取り(命名権、特許権を含む)、サンバレーでウッドリフ夫妻を雇用するとともに、ブルッキングスの彼らの土地の所有権を取得し、売却して費用を回収することを意図していた。いっさいがっさいの球根の代金は1,000ドルだった。これを支払い、またウッドリフの借金を1万2,000ドルで返済した上で、ウッドリフには時給2ドル、妻と息子のアラン、娘のウィンキーは時給1.65ドルで雇うことに合意したという。彼ら家族はサンバレーの家に住み、家賃として毎月25ドルが各人の給料から差し引かれた。また、ウッドリフは、彼のユリの花の販売によって生じた利益の5%を得ることになっていた。雇用契約は原則として7年間継続されることになっており、ウッドリフがサンバレーの雇用を離れた場合はその後、3年間の競業避止義務に同意した。

ウッドリフ夫妻がアルカタにあるカーシュの農場に到着したとき、自分が交配したユリを持ってきていた。カーシュはこれらの交配種を畑に植えたが、ほとんどがラベル付けされていなかったので、自分が何を買ったのか、花が咲いたときにどのように見えるのか、まったくわからなかったという。しかしある日、カーシュは畑に出てじっと眺めているうちに1本の変ったユリを見つけた。ほとんどが下向きに咲くユリのなかに、1本の赤いオリエンタルが空をまっすぐに見上げて咲いていた。初めてみたその姿から、この花を「スターゲイザー」と名づけた。やがてこの1本のユリが世界中のビジネスを永遠に変えてしまうことになる。

1970年代半ばには、オレゴン州とオランダの生産者に「スターゲイザー」を送り、より大規模に、様々な条件で栽培して切り花としての適性を評価してもらうことにした。こうして1976年9月、カーシュは「スターゲイザー」の特許を申請した。その内容は「私の新品種のユリは、1971年にカリフォルニア州アルカタにある試験場で栽培されていた交配親不明の苗から発見された」と書かれ、申請書にレスリー・ウッドリフの名前はなかった。

一方、ウッドリフは、サンバレーのスタッフとして働くことに不満を覚えるようになり(温室の建設や修理など育種以外の仕事も要求された)、結局9ヵ月で袂を分かつことになった。現実に訴訟問題に発展している。

裁判ではウッドリフの持っている球根を含む資産の想定額は問題にならないほど低い見積もりだったという。そのなかにあった「スターゲイザー」がその後に生み出す巨大なマネーについて、誰も想像できなかった。

ウッドリフの功績を記念して

レスリー・ウッドリフは、自分の作ったユリがベストセラーになるのを見て、がっかりしたという。エイミーは、コーヒーショップのレジに「スターゲイザー」の花束が置かれていたり、母の日やバレンタインデーに花屋が「スターゲイザー」を配達しているのを見て、自分の手を離れてしまったことを実感するのは、とてもつらいことだっただろうと想像し胸を痛める。その後「ソルボンヌ」(1988年作出)などの新しい交配種が「スターゲイザー」を凌ぐようになっていくのだが、「スターゲイザー」を親にした新品種も少なくなかった。大切なものを失ったのはウッドリフだけでなく、カーシュも同様だった。ウッドリフがカーシュに自分のすべてのユリを1,000ドルで売った後、そのカーシュが「スターゲイザー」をオランダ人に1万5,000ドルほどで売ったのは、悲しい皮肉となった。このユリはその後、何百万ドルも稼ぐことになるのだが、育種家にもオーナーにも関係のないことだった。「スターゲイザー」はオランダが得意とするメリステミング(ウイルスを含まない組織培養)のプロセスを用いてクローンが大量に作られ、切り花としてアメリカをはじめ世界中に輸出された。

晩年のウッドリフの姿を友人たちはこんなふうに語っていた。彼はほとんど車椅子に乗るようになっており、温室ではどこからか拾ってきたような古い簡素な椅子に座っていた。首からラジオを下げ、伝説のユリを求めて新しい人が温室に来ると、シャツのポケットから黒いボトルを取り出し、「俺はこのボトルにはまっているんだ!」と叫んで振ってみせていたという。

ウッドリフが亡くなる10年程前の1988年、オランダの生産者であるピート・クープマンがウッドリフ社を訪ね、有名な「スターゲイザー」という有名なユリを育種した人物と面会した。この頃、ウッドリフは破産し、健康を害していた。家も崩壊寸前の状態で温室はかび臭く乱れたままになっていた。そこに、世界に誇るユリのコレクションが、無造作に置かれているのを見て、クープマンは愕然としたという。それでもウッドリフは平気な顔をして、クープマンが興味を持っている「ユリの品種改良」の話だけをしようとした。彼はユリに関しては写真のような記憶力を持っていて、それぞれの種や品種を暗記していた。彼は交配する前からユリの姿をはっきりと思い浮かべており、組み合わせられる特徴を直感的に把握し、想像のなかで生き生きとしたユリを作り出していた。

クープマンは、この偉大な育種家を目の前にしながら、周りの光景に気を取られて話に集中できなかった。彼は「ユリ業界のために尽くしてきた人が、こんな生活をしているなんて信じられないと思いました」と話した。ビデオカメラを持っていたが、撮影できなかった。「オランダの生産者は『スターゲイザー』であれだけ儲けているのに、彼の手元にはほとんど何もないなんて信じられませんでした」。

ウッドリフ氏の窮状を憂えたクープマンは、彼の現状を公表して資金を集めようと考え、実行に移した。クープマンは業界誌に記事を書き、約4万5,000ドルの資金を集めたのである。さらにオランダの生産者グループが「Woodriff’s memory(ウッドリフを記念して)」というソフトピンクのオリエンタルを発表し、その印税はこの有名なブリーダーのために使われた。90年代初めには、別のオランダ人グループがカリフォルニアに来て、ウッドリフにオランダ王立球根生産者協会の名誉あるディックスメダルを授与した。長年苦労をともにしたウッドリフの妻ルースは1990年に亡くなっており、この賞の受賞を見ることができなかった。ウッドリフは1997年に亡くなった。二人ともガンで亡くなったのだが、その後、娘の一人も同じ病気で亡くなっている。娘のベティは、3人の死は温室で使っていた農薬に原因があるのではないかと考えている。

エイミーは、ウッドリフの同僚の言葉を記している。「私は彼を天才とは呼ばない。彼は一人の楽天家だった。レスリー・ウッドリフは誰も想像し得なかったとほうもない夢を持っていたのだと思う」。

日本のユリ育種もすぐそこまできていた

戦後、日本のユリ研究者による品種改良は高度に進められており、(カノコユリ×サクユリF1)×サクユリの実生系品種「パシフィックハイブリッド」(=ユリ農林一号、1971年登録)の白花系品種は、「カサブランカ」にその美しさで匹敵するものだったという。カサブランカが登場するより10年も早かったが、まさに早すぎた。短期間の増殖を可能にするメリクロン技術が普及しておらず、また、まだまだ洋風のフラワーデザインが普及するに至っていなかった(『花の品種改良の日本史』)。

※パシフィック・ハイブリッド(Pacific Hybrids)とは

[(カノコユリ「海老名1号」✕サクユリ)✕サクユリ] (農林省園試、阿部博士、川田技官、1966年交配、1968年開花)

これは農林省園芸試験場で1960年に阿州(※ユリの品種)にヤマユリ、サクユリを戻し交配してみたところ、優良形質出現の可能性が認められたので、かつて1959年にカノコユリ「海老名1号」にサクユリを交配し、胚培養によってできたF1に、ふたたびサクユリを交配した戻し交雑第1代(B1)です。(清水「日本のユリ」)

※カノコユリ、ヤマユリを中心にサクユリ、ササユリ、オトメユリなどすべて日本原産のユリを組み合わた園芸種の登場は非常に古く、150年前のホベイス・バラエティ(Hoveys Variety、1864年)や、パークマニー(Parkmannii)に始まる。1869年に北米のパークマンが赤カノコユリ✕ヤマユリで作出したパークマニーはウイルスによって間もなく絶滅したが、同氏の組み合わせは後の育種家によってさまざまに発展され「パークマニー系」という呼称にまとめられていった。ヤン・デ・グラーフはキカノコユリを含めてこれらをオリエンタル・ハイブリッドと呼称した。

「スターゲイザー」が日本に導入されるのは1982年頃で、その翌年1983年に「カサブランカ」が入る。日本への導入時期は作出と登録からずいぶん時間がかかっているようだが、スターゲイザーとカサブランカはそれほど時間差なく入っていたのだった。色物としてのスターゲイザーは強いインパクトがあったが、カサブランカの熱狂ぶりはそれを遥かに超えていた。誠文堂新光社の雑誌『フローリスト』はバブル景気にわく1984年に創刊されたが、86年の8月号「新しいユリ特集」において初めてカサブランカが登場している(図3)。当時は茎がやわらかく、背高く活けられなかったようで、花器の縁に近いところがフォーカル・ポイント(視覚的な焦点)となっている。他のユリも現在のようにつぼみや花の間隔がつまっておらず、カノコユリの原種に近い姿をしていて、ナチュラル系が人気の現在ならとても人気になっているようにも思われる。

図3 『フローリスト』1986年8月号「新しいユリ特集」に掲載された「カサブランカ」。

なぜ日本では1980年代後半に入って、オリエンタルハイブリッドをはじめとするユリ球根の海外依存が急速に進んだのか。『花の品種改良の日本史』のなかで岡崎桂一は3つの要因を挙げている。

①1985年のプラザ合意以後、急速な円高により輸入コストが大きく下がった

②1990年1月、オランダ産球根の隔離検疫制度が撤廃された。実質的なオランダ産球根の輸入自由化

③アメリカの育種家の活躍などによりメジャーな品種が登場し、オランダで行われたアジアティック、オリエンタルハイブリッドの新品種改良が大きく進展した

こうして、日本からのユリ輸出はほとんど終焉を迎えた。国内の切り花用ユリ球根の需要も、テッポウユリを除いて、圧倒的大部分がオランダの育成球根で占められるようになったのである。

※参考
『日本のユリ』清水基夫 誠文堂新光社 1971

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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