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第132回 恵泉女学園、山口美智子先生と「日米交換船」

公開日:2021.8.20

『日米交換船 』

[著者]鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創
[発行]新潮社
[発行年月日]2006年3月30日
[入手の難易度]易

『恵泉・園芸・河井道 山口美智子先生のお話』

[著者]山口美智子
[発行]恵泉女学園同窓会
[発行年月日]2008年10月27日
[入手難易度]やや難

ブライダルブーケの原寸大写真集

1960年代から70年代にかけて日本のフラワーデザイン発展に大きな貢献をされたビル・ヒクソン氏の著作を調べているうちに、英文タイトルの本が日本の古書サイトに出ていることに気がついた。タイトルは『A Treasury of Bridal Bouquets(宝物のような花嫁のブーケ)』という。さっそく取り寄せてみたら、びっくりするほど大きな書籍だった(図1)。新聞のサイズと比較してもらうとわかるだろう。

ページをめくると、すばらしいブーケの写真が1ページに1作品、ほぼ原寸大で掲載されている(縮小したものには「size is reduced」とその旨が記載されている)。ワイヤリングして制作された多様なブーケがおよそ色や季節をテーマに見やすく並べられているほかに、ブートニア、コサージュなども数多く紹介されている(図2~10)。全体では152ページのボリュームだ。発行は1972(昭和47)年となっている。写真はアメリカと日本の両方で制作・撮影され、凸版印刷で印刷製本されている。本連載第107回や、118回で触れたように、1970年前後という時期は、戦後の日本フラワーデザインにおける一つのピークだったと思われる。原寸大の写真で紹介された作品は使用する花の輪数やグリーンやリボンの使い方などよくわかるため、ブーケの設計図のように利用できただろう。価格は不明だが、そうとう高価な本だったと思われる。

恵泉園芸センターではこれまで生花やドライフラワー、ギフト関連で何冊もの本を発行しているが、洋書扱いになるなど、なかなか検索しても見つけにくい。そのなかでも、1991年に発行された『Flower Arranging by   Bill Hixson』はバブル期のフラワーデザインブームで発行されたもので、よく知られた著作だと思う。この本も大型の実に立派な本である。 しかし、『A Treasury of Bridal Bouquets』は桁違いに大きい。恵泉女学園と山口、ヒクソン両先生方の「日本にホンモノのフラワーデザインを広めたい」という本気度が強く感じられる。

図1 巨大な本、『A Treasury of Bridal Bouquets』1972。外箱つき。
タイトルには特徴のあるフォント(文字)が使われている。
図2 白のキャスケード・ブーケ、右はコチョウラン、左はユーチャリス(アマゾンリリー)が使われている。
図3 白カトレアのシャドークレセントオーバルブーケ、右はユーチャリスとミニバラのクラッチクレセント。
図4 左はスズランとガーデニア(クチナシ)のオーバルブーケ、右は白ユリとステファノーティス(マダガスカルジャスミン)のサイドクラッチブーケ。
図5 様々なラウンドブーケ。香りや花などテーマに沿ってそれぞれ名前がつけられている。
図6 黄色いユリを編み込むように(knotと呼ぶ)まとめたラウンドブーケ(左)と「ポプリ・ブーケ(くす玉)」と称する真ん丸なブーケ(右)。リボンの使い方にも注目。
図7 左、アームブーケ3種、右はクラッシックなカラーのアームブーケ、カラジウムの葉を添えて。
図8 かわいらしいバスケットブーケ2種、左はパンジーメイン、右はアネモネ。
図9 様々なコサージュ。当時の日本のフラワーデザインでは、コサージュは技術の見せ場になっていた。
図10 花婿が胸につけるブートニア、シンプルだがグリーンで印象が変わる。

この本に掲載された作品は、いわゆる「アメリカン・デザイン」と呼ばれる輪郭がはっきりしたスタイルになっている。戦後の日本のフラワーデザインはこのスタイルで始まった。丸や三角を基本とした形態のなかに「マス」「フィラ」「ライン」といった性格の異なる花をバランスよく配置する、とても合理的で、商品としてつくりやすく、顧客も買いやすい、そんな明快なデザインであった。50年前の作品集であるが、花は古臭さをあまり感じない。あえて挙げるなら、ほとんどのバラが高芯剣弁であることや、特にグリーンの種類が今とは大きく異なっている。レモンリーフやユーカリがない。一方で、最近はここで多用されているタマシダが若い人たちに人気でリバイバルしている。

ブライダルブーケは、80年代まで花や葉を分解してワイヤリングして組む手法が主流だったが、現在では、「ブライディー」と呼ばれる吸水性スポンジにハンドルがついた資材を利用するものがほとんどだろう。婚礼の数日前に制作し冷蔵保存することができるので、作り手の心身にかかる負担は大きく減った。

余談になるが、インターネットでいろいろ調べているときに面白い話を知った。この本のタイトル文字にインスピレーションを受けたファッションブランド「ネペンテス」という会社のロゴに、このフォントが使われているというのだ。見てみると、まさにこの文字であった。ネペンテスのディレクター、青柳徳郎氏は大の植物好きで知られ、雑誌「BRUTUS」などの植物特集でそのコレクションを紹介するなど面白い活動をされている。ネペンテスというブランド名自体が植物の名前でもある。いったいどのような経緯でこの本がネペンテス社の関係者とつながっていったのかは不明だが、恵泉女学園に関係する想像もつかないつながりがあるかもしれない。

参考
ネペンテスHP https://nepenthes.co.jp/

ビル・ヒクソン氏による地獄の集中レッスン

ビル・ヒクソン(William(Bill)Hixson)氏は1929年4月8日、アメリカ、オハイオ州Bereaで生まれ、現在も同州のクリーブランドに在住。1951年に「ヒクソン・スクール・オブ・フローラルデザイン」を開校し、店舗も構えた。当時22歳。その後、スミザーズオアシス社とキャンドルメーカーのレノックス・チャイナ社の後援を得て、全米を回る花の講演会、ショー、講習会などを行い、その名声はアメリカ全土に広まった。93歳となった現在も店舗を営み、クリスマスツリーのオーナメントの膨大なコレクションでも知られる。米国大統領官邸「ホワイトハウス」のクリスマスの花装飾を33年間も務めたというので、歴代の大統領、政府機関に対して、たいへんな信用があったことがわかる。

恵泉女学園との関係では、戦後に再渡米した園芸科教授、山口美智子(1914~2013)がヒクソン氏のスクールで学んだことをきっかけに、ヒクソン氏の人柄や教える技術を見込んで日本に招聘することになった。山口の人選はまさに適材適所で、1966年の初来日以来、ほぼ半世紀にわたって毎年のように来日し、恵泉女学園での特別授業や全国各地でのデモンストレーションを行い、日本にフラワーデザインを広める大きな役割を担った(図11)。68年に行ったブライダルショーは日本で最初の花のファッションショーだったといわれている。恵泉では「フラワースタディグループ」という名称でフラワーデザインの研究会を始めていたが、ヒクソン氏来日以降、体制を整え、恵泉フラワースクールへと発展していった。ヒクソン氏はその後、「恵泉名誉アーティスト」の称号が授与されている。

ヒクソン氏の業績として忘れてはならないことは、「オアシス®」の伝道者としての活動である。1954年、世界初のフローラルフォーム(吸水性スポンジ)を開発したスミザーズ・オアシス社が同じオハイオ州にあることから、ヒクソン氏はその開発時から助言し、また世界を回ってデモを行った。恵泉はオアシス社と契約し日本にその利用法を広めていく原動力になっていく。(※ヨーロッパにおける吸水性スポンジの普及はゆっくりと進んだ。60年代にヨーロッパを回ったマミ川崎の「フラワーデザインライフ」の記事には、化学製品の利用を「邪道視」し、使用をひかえていた印象がある。)

※ヒクソン氏については恵泉出身のフラワーデザイナー、森由美子氏のHPに詳しく紹介されている

http://mori-yumiko.jp/bond-list/bond1-11.html

※ミスター・クリスマス ビル・ヒクソン氏とそのコレクション

http://www.clevelandseniors.com/people/hixson.htm

※ヒクソン氏の最近の様子 動画

今年、2021年3月 クリスマスのオーナメントだけでなくイースターエッグも収集

https://www.youtube.com/watch?v=1Iab5jeflgs

昨年、2020年9月 パート1と2に2本立て

https://www.youtube.com/watch?v=JJwkS3pYTU4

https://www.youtube.com/watch?v=YJgfWxvvgtY

図11 1960年代に行われた日本でのデモンストレーション、ヒクソン氏30代。山口は通訳を担当し、時にはブーケを持つモデルまで務めた。(『改訂新版 フラワーデザインのすべて』誠文堂新光社1969から)

ヒクソン氏は毎年のように来日し、夏休みに集中講座を行ったが、これが朝から昼食を挟んで夜遅くまでみっちりと行うたいへん密度の濃いレッスンで、受講した人たちは口を揃えてたいへんだったと話す。ただ、実際の教会を使っての会場装飾など実践的で価値のある講習だったようだ。霊南坂教会は「三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた教会」として有名だが、レッスンの最中にヤブ蚊が出てとてもたいへんだったそうだ(恵泉女学園、宇佐節子先生談)。

図12 山口先生の思い出を語りながらデルフィニウムを活けるヒクソン氏。2015年初春、85歳。たいへんお元気で、デモンストレーションは2時間におよんだ。

2015年2月28日、恵泉園芸センター60周年を記念して、ビル・ヒクソン氏による特別講演が行われた。僕もこの日、取材に行かせてもらい、伝説のフローラルアーティスト、ビル・ヒクソン氏の特別講演とデモンストレーションを観ることができた(図12)。講演は春の陽気に恵まれた2月28日土曜日の午後2時に始まった。80歳を超えるご高齢ながら生涯現役とおっしゃるヒクソンさんのデモは、楽しいお話を交えながら大小十数作品を作り、いつの間にか2時間を超えた。恵泉女学園の園芸科をゼロから作り支えた故・山口美智子先生との長い友情や日本の思い出をお話しされた。

図13 1970年代に自身が研究、栽培を手がけたデルフィニウムの花と山口美智子。アメリカ留学時に初めて出会い、一目惚れした花だった。(『恵泉・園芸・河井道 山口美智子先生のお話』から)

戦時期にアメリカで最先端の園芸を学んだ山口美智子

 書籍や恵泉女学園同窓会などの資料によると、山口美智子の略歴は次のようになっている。

1914年、京都で海軍の軍人の家庭に生まれ、津田英学塾を卒業後、恵泉女学園に英語教師として就職。

同年、富士見町教会(植村正久牧師)において受洗。

1940年には河井道学園長の希望により、園芸と専門教育の実際を学ぶため米国に留学(~42年)、ペンシルベニア州アンブラーの女子園芸学校(Pensylvania School of Horticulture for Women)で学ぶ。

卒業式を目前にした1941年12月の日米開戦により、翌1942年秋に帰国。これを機に恵泉女学園は園芸科を創設、その後定年まで、恵泉女学園にて園芸科主事、学科長を歴任し、女子園芸教育に尽くされた。

戦後は、1964年にオハイオ州立大学園芸学部、ブルックリン植物園等で1年間、在外研修を行う。この時、ビル・ヒクソンズ・スクールに入学し花き装飾を学んだ。帰国後は学校での授業の他、テレビ番組への出演や雑誌などでも一般にわかりやすく園芸を解説し、テキストとなる書籍の制作発行にも力を入れた。ヒクソン氏との出会いは、その後の交流により、恵泉園芸センター、ひいては日本のフラワーデザイン界の発展に大きな貢献を果たした。

1980年には「短期大学教育に功労著しい者」として文部大臣賞を、1985年には園芸文化協会より、園芸文化賞を受賞。

2004年、恵泉女学園短期大学名誉教授。2008年には日本キリスト教文化協会より、キリスト教教育の分野でキリスト教功労者として顕彰された。

退職後は高崎に住まわれ、前橋教会、高崎教会で信仰生活を送り2013年に逝去された。

河井道が構想した女性のための園芸学校

恵泉女学園の創設者、河井道は、幼い頃から親しく育てられた新渡戸稲造の高弟と呼ぶべき社会活動家であり、基督教系の団体を通じて日本のYWCA(Young Women’s Christian Association)のリーダーの一人として嘱望されていたが、女子教育への熱意が強く、自らの学校を創設し教育の分野で力を尽くすことに人生をかけた。河井が敬愛した内村鑑三は「ほむべきは天然(自然)、なすべきは労働、読むべきは聖書」といわれたそうだが、河井道の学校は、「信仰」「国際」「園芸」という3つを柱とするユニークな方針を掲げ、現在に至る。河井の園芸教育は信仰に基づいた大切な行為であり、「神の大地を耕すこと」と同義だった。恵泉での学びは、聖書(キリスト教)をベースとした倫理に基づき、国際的に通用するコミュニケーション力を備えて、植物をいつくしみ育てるように自ら行動し、自然や環境に合わせて時には厳しい労働(※園芸を通じた労働と勤勉さ)をも厭わない、そんな女性像が思い描かれる。河井道は「体を動かす肉体労働にたいする尊敬と自然にたいする愛情を園芸を通じて少女たちのうちに養いたい」と願っていた(『スライディング・ドア』1995)。全寮制を取っていたことの理由でも、植物の育つ所に自分の身を置いて、朝に夕に見守っていくなかで園芸の本質や理屈以上に多くのことが学べる、山口もそう述べている。

新渡戸稲造は河井道が学校経営に向かうことを反対していたという。もしも教育者にならなければ、どこの国の人たちとも対等に堂々と話ができる優れた国際機関のリーダーになっていたに違いない。しかし、そうなると今の日本の園芸界は20年は遅れていたかもしれない……。

こうして恵泉女学園では創立時から授業のなかに園芸活動が取り入れられていたが、専門科目として「園芸科」を立ち上げることとなり、その専任として山口美智子が選ばれ、1940年、アメリカに留学することになった。戦時中もその末期にもかかわらず専門学校を新たに立ち上げるのだから、河井の胸のうちにはなみなみならない強い思いがあったに違いない。

こんな話がある。河井は1934年にアメリカ女性庭園クラブ(American Women’s Garden Club)会員約100名が来日したときに応接している。メンバーには植物学者や造園家がおり、庭園史や花き装飾について深い学識を持っていることに驚いた。またこうした女性たちがアメリカ各地の地域社会で活躍する様子を見聞きし、日本でもこうした園芸に関する高等教育がぜひとも必要だと感じていた。そのためにはまず教員を養成しなければならない。そんな思いのなか、山口に白羽の矢が立てられたのだった(『恵泉女学園短期大学誌』)。河井は山口が留学に出る際に、「アメリカ婦人のガーデンクラブの働きを見てきてください。それから、これからの計画も聴いてきてください」と言っていたという。河井の眼には女性による園芸活動とその先のソーシャルな活動につながる道が見えていたに違いない。以下、『スライディング・ドア』から河井道のことばを抜粋する。1940年の山口が留学する頃に河井が考えていたことがわかる。

山口さんには園芸の科学的な知識と同様、その文化面における知識も身につけてもらいたい。園芸の専門家はもちろん、都市の指導者、実践的に造園にたずさわっている人々、勤勉で知的な農業家とその奥さんたち、子どもたちといった、きわめて広い範囲におよぶ人々に会う必要がある。園芸クラブの会員たちにも会って、彼らが達成したこと、地域社会の福祉のために計画しつつあることについて、聞かせてもらうことも有益だろう。アメリカの太平洋岸に住む日本人の農業家を訪問して、しばらくいっしょに働き、その地の経済的、社会的状況を視察する必要もあるだろう。さらにヨーロッパにも足を伸ばして小国を訪問し、私がかつてイギリス、ケント州の王立園芸学校における短期滞在で学び知ったように、またデンマークの農場の生活から学んだように(中略)、教育のある、知的な女性たちが、男性に伍して農業や園芸にたずさわっている現状もじかに見てきてもらいたい。

残念なことに、山口の留学は戦争が始まったために園芸学校卒業と同時に終わってしまった。しかし、戦後に派遣された宇佐節子先生の留学では、園芸学校から、コーネル大学、帰国時には太平洋岸のアーサー伊藤といった研修を加えての帰国となっており、河井、山口、宇佐のつながりから日本の女子園芸教育の発展の道筋が見えてくる。

河井道が日本でも展開されることを希望していた園芸と社会とをつなぐ活動について、山口美智子は2004年になってブルックリン植物園の活動について触れている(『恵泉・園芸・河井道 山口美智子先生のお話』)この年、ブルックリン植物園のChildren’s Gardenが始められてから90周年を記念して様々な行事が企画されていた。そのお知らせが書かれた手紙をもとに、ブルックリン植物園の活動を紹介している。山口は河井道が亡くなったのち、1964年に渡米し、5ヵ月間をブルックリン植物園のスタッフの一員として過ごした。この時、市民に開かれたクラスで日本のいけばなと「景盤」(盆上に箱庭のような風景を造形する)を教えた。この間に多くを学んだが、特に動植物園が小中学生に対して行っている教育活動に最も強い関心を持った。この活動は現在、すでに107年めになっているのでたいへんな歴史がある活動である。山口は次のように記している。

そのProjectの始められた主旨は、都市の子供達に自然を植物の世界を通して知らせる〈一粒の種子から植物が育ち、彼等の世話のもとに育ち、終わりにみのり、その新鮮な収穫物を家庭に持ち帰り、家族と喜びを共に経験させること〉でありました。このProjectの背後には、他の多くの学ぶべき精神が織り込まれていました。他者との協力、与えられた仕事への責任感等々、また健全なるリクリエーションの面も加えられていました。私が居た時これに参加する生徒の数は700名前後で、親子二代、或いは親、子、孫三代にわたってChildren’s Gardenのコースをとった記録がありました。大概は2年、3年と続けられているようでした。

この植物園のChildren’s GardenはModel Gardenとなって全米諸州の植物園または大都市に広まっていました。成功している理由は種々ありましたが、栽培の対象を野菜にしたことが正しい選択であったと考えられています。都会の子どもが自分の栽培した新鮮な野菜を家庭に持ち帰るとその野菜は食卓に出される。誰もマーケットに出ている野菜よりその新鮮な味に驚きまた喜ぶ、それは子供達の喜びとも、誇りともなり、子どもへの大きな励ましとなります。花の場合野菜ほど家庭の人々の関心を引くとは限りません。

(中略)

このような教育にほんとうに実りをあげて行くのに、いろいろ考えるべき問題があると思いますが、先ずその指導にあたる人が問題です。指導者の養成が第一の問題だと思います。手前みそと考えられるかも知れませんが、園芸科の卒業生は、それに当たる基礎を充分備えていると思います。現在の日本にとって大事な教育の一分野であり、また園芸科の卒業生のすすむべきすばらしい道であると。私は胸の中にフツフツと燃えるような思いをもって考えています。

山口美智子先生を偲ぶ会の記録(恵泉女学園同窓会)

http://www.keisen-dousoukai.jp/reunion/2014/05/post-50.php

ブルックリン植物園のChildren’s Garden

https://www.bbg.org/collections/gardens/childrens_garden

植物園の活動について 京都植物園の事例 本連載第114回

https://karuchibe.jp/read/14164/

アンブラーの女子園芸学校への留学

山口美智子は昭和14(1939)年、恵泉女学園に英語の教師として就職した。津田英学塾を卒業し、3年間、昭栄学園で教員を務めたあとのことだった。学校内での草取りなどに参加するうちに、群馬県の実家で野菜や花を育てている父から草花の苗をもらって「草抑えのために」学校のあちこちに植えていたのを河井道はよく見ていたらしく、ある日、「あなたは園芸が好きなんですか」と尋ねられたという。それで山口は「英語の勉強より園芸が好きだったが進む道がありませんでした」と答えた。これを聞いた先生はたいへんに喜ぶと話がトントン拍子で進められ、結局、アメリカに園芸の勉強に送られることになった。

河井はさっそく山口美智子の母校であり、かつて自身も教員として働いていた津田英学塾の協力を得てアメリカからスカラシップ(奨学金)を見つけてくれたのだという。そうやって、山口の留学が実現した。アンブラーの学校の様子を山口は次のように記している(『恵泉・園芸・河井道 山口美智子先生のお話』)。

 

1940(昭和15)年、私は河井先生がかつて訪問されたペンシルベニアの女子園芸学校に参りました。ヨーロッパ風の小規模の二年制で全寮制の学校でした。りんごの果樹園と牧場に囲まれたほんとうに美しい環境のなかにあった、親しみやすい学校でした。

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学校での最初の授業は化学でした。河井先生の期待に応えるため、すべての学課をマスターせねばと、教室の一番前の席につき、熱心に講座をきいたのでしたが、悲しい事に内容はほとんど理解できませんでした。終わった時私は涙ながらに先生に訴えました。「講義はほとんど判りませんでした。先生の講義された内容が書かれた本が図書館にあったら教えて下さい。」と申しましたら「私は本に書いてあるような事を講義にはしない。クラスメートのノートを見せてもらいなさい。」が返事でした。クラスメートから借りたノートは、速記で書いてあるのにまたビックリしました。

花卉の講義は先ずラテンネームで草花の名前を憶える事でした。そしてテストがしばしば行われました。カードの記入も並行して行われました。学期末は一年草ボーダーの設計でした。それは(※恵泉の)皆様もご存知の事で、私がお教えした事は、アンブラーの授業の踏襲でした。

授業は苦手でしたが、実習は楽しく行いました。花卉、蔬菜、果樹、どれも生きいきと私は実習を行いました。果樹は、実習する果物は、袋に入れて持ち帰らぬ限り、自由に食べて良いのでした。

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私が最も心打たれたのは卒業式でした。アメリカの卒業期は夏です。アンブラーの学校の卒業式は6月でした。園芸学校の卒業式にふさわしく、式場は夏の花の美しいボーダーに囲まれた芝生でした。芝生の西には小さいプールがあって、少女の持つ壺から水が静かにプールに流れ込んでいました。プールの背後に先生方の席があり、音楽はハープとバイオリンでした。

日が傾き、涼風がそよぐ頃式が始まりました。卒業生は白いロングドレスに夏の花を茎長く切った、アーム・ブケーを、胸一杯にもち抱えて、芝生の上を音楽に合わせて、入場して来ました。うっすらと日焼けした彼女達の顔は喜びに輝いていました。プールに面して彼等が席につくと式は始まりました。私は美しい卒業式に心奪われてしまいました。式後の食事のパーティも芝生で終わる頃には蛍も飛びかっていました。来年はこの卒業式に私も参加できるのだ。―すべての課目をパスすれば― 栄えある姿を河井先生に写真でお見せすることが出来るのだ、と心が高ぶるのでした。

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私が初めてリース作りを習ったのは、1940年アメリカの女子園芸学校でした。中心の環は、リンゴの木の、その年伸びた節のない徒長枝でつくりました。それに常緑樹のいろいろの小枝を巻きつけました。クラス全員のが飾られた時は実に見事でした。飾りは松笠や、木の実で、リボンもないものでしたが、堂々として立派でした。(※本格的なリース作りを学んだことで戦後、進駐軍への販売などで学科の財政難解消に大きな役割を果たし、花き装飾を応用した商品開発を進めるのに役立った)

 

後述するが、山口の2年間の留学は日米開戦という最悪な状態で終わりを迎え、1942年、開戦後に残留していた両国民を交換する日米交換船により帰国することになった。日本では形勢不利のまま国民生活の困窮は度を増すばかりだったが、このとき河井道は園芸の専門学校を創設することを決めていた。そもそも恵泉女学園の創立趣意書には「近き将来において農園芸の専門学校を目指す」と記してあり、今こそその時が来たのだと思われた。実際に食料の生産は女性の仕事となり、新聞雑誌にもそうした関連の記事がたくさん掲載されるようになっていた(『スライディング・ドア』)。こうして空襲の激しいなか(むしろこういう時だからこそ)、文部省に日参して必要書類を提出し、訂正が求められるところは直ちに訂正をして再提出を繰り返したという。設立協議会の委員には河井の恩師、新渡戸稲造に教えられた門下生がおり、そうした人たちが陰で支援してくれたという。新しい学校の先生になってくれる人も見つかり、大口の寄付をして下さる人も現れた。特に内田康哉伯爵(元外相、臨時総理大臣)の夫人からの寄付金は大きな力となった。(※内田夫人はいけばな草月流の支援者でもあった)

図14 1939年4月、サクラが咲く頃、恵泉を訪ねてこられたアメリカ駐日大使、ジョセフ・グルー夫人のアリスと河井道。テッポウユリが飾られている。この時から2年と8ヵ月後、日米開戦となり、グルー夫妻と大使館員らは大使館に軟禁され、1942年の第一次日米交換船で帰国した。軟禁された時期、グルー大使は夫人に2鉢の蘭を贈っている。また日本の友人たちは許可をとって様々な贈り物をしているが貴重な肉、食品の他、花束や果物も多かった。恵泉から贈られた花もあったかもしれない。

こうしてついに1945年3月、戦時中にもかかわらずキリスト教系の女子農芸専門学校の開設が許された。同時期には埼玉県に淑徳女子農芸専門学校、神奈川県に大和女子農芸専門学校も認可がおりた。男性が戦地に送られ、女性に多くの仕事が求められていたこともあっただろう。しかし、東京を始め各地が大規模な空襲に見舞われ戦争は末期を迎えており、本格的な教育がはじまるのは戦後になってからとなった。専門学校は恵泉の本校の一部から始められたが、1946年、当時の教授であった誠文堂新光社の『農耕と園芸』主幹、石井勇義を通じて東京都西部の小平に元の陸軍経理学校の敷地を借用し、全寮制で座学とフィールドワークが同じ場所でできるようになった。生徒はなにもないところで土地を開墾し植物を植えつけ、文字どおり一から学校を作っていった。最初に植えたのは1万本のサツマイモだったという。農芸専門学校、のちの短期大学園芸科(のち園芸生活科)はこの小平から始まり、1965年に伊勢原へ移転した(~2005年、園芸短期大学の廃止)。

図15 1942年に実施された第一次日米交換船の航路と日程。山口はニューヨークからグリップスホルム号に乗船し、アフリカ大陸東岸ロレンソ・マルケスにて日本からやってきた浅間丸(およびコンテ・ヴェルデ号)に乗り換えて横浜に帰港した。危険をともなう2ヵ月の長旅であった。(作図:マツヤマ)

突然の日米開戦と交換船での帰国

 山口が日米開戦を聞いてから軟禁状態となり、翌年6月の卒業時に日米交換船で帰国するまでの話に戻る。18日に出航するという交換船のスケジュールはギリギリまで知らされず、6月に入ってから帰国の意思確認が行われたようだ。帰国を選んだ山口は、卒業は認められたものの卒業式には出席できなかった。

 

時制は厳しく変化し、戦争となり、卒業式の数日前、日米交換船で日本に帰るため、アンブラーを去らなければなりませんでした。親友とおそろいの式服もととのえたのに! 一年間栄えある卒業式を迎えられるように、一心に努力し、勉強したのに! 私の心は残念さと悲しさで一杯でした。

 

『恵泉・園芸・河井道 山口美智子先生のお話』には「忘れ得ぬクリスマス・イブ」と題して次のような逸話が記されている。

 

1941年12月8日太平洋戦争が勃発した時、私は北米フィラデルフィヤ郊外の女子園芸学校で学んで居りました。たちまち敵国人となった私はFBIの取調べを受けました。女子学生であるので、学校に軟禁ということになり、勉強を続ける事が許されました。

やがて学校のクリスマスも終え、冬期休暇になりました。皆嬉々として家に帰ってゆきました。私は軟禁の身ですから、寮に残ることになりました。親しい上級生が家に招いて下さいましたが、敵国人が動くと、いろいろむずかしい手続きがあり、まわりの方々に、迷惑がかかるので、お断りしました。

学校では校長先生が動物の世話や温室の植物の管理などのアルバイトをさせてくれたという。それで一日が忙しく過ぎるので、戦争のニュースや戦時下の日本のこと、河井先生や両親のことを思って悲しんだり悩んだりする時間がほとんどなかったと述べている。クリスマス・イブの夜には校長が夕食を持ってきてくださり、学生監の方と共に過ごすことができ、さらには知人の子供たちがクリスマス・キャロルを歌いに来てくれて忘れられない一夜になった。

◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

残念なことにその翌年1941年12月に日米の戦争が勃発しました。女子学生である私は学校に軟禁という状態で勉学を続けることができそして卒業することもできました。そのすぐ後で中立国によって計画された日米の交換船(日本にいるアメリカ人とアメリカにいる日本人を乗せた船を交換する)という計画が立ちました。校長先生は「日本は空襲を受け食糧難でこれから大変な状態になるから、あなたはこのまま学校にとどまり、勉強を続け、状態が収まってから帰国なさい、そのほうが河井先生のお役に立つことができるのではないのですか」としきりに勧めてくださいましたが、その窮乏のときこそ河井先生のもとにありたいと願った私は、帰国を決意いたしました。スパイの監視が非常に厳しいときでしたので紙一枚持つことが許されず二年間書きためたノートも本もすべて没収され、着の身着のまま交換船で大西洋航路を廻り、70日の航海をして横浜に着きました。河井先生は横浜まで迎えに来てくださっておりました。

 

こうして、無事に帰国した山口だったが、悲しいことがありすぎる帰国だった。2年間、必死で努力して学んだノートや標本がすべて没収されて持ち帰ることができなかったのだ。『恵泉女学園短期大学誌』には次のような記述がある。

 

帰国に際し、植物学の教員は山口が集めた植物採集の標本のすべてに学名を記してくれた。日本へ帰っても学名がないと困るだろうとの配慮からである。しかしニューヨークで、交換船グリップス・ホーム号に乗船する検査の際、植物採集の標本や書き貯めたノート類はすべて没収されてしまった。ラテン語で書かれた学名を暗号と疑われたためである。

 

以前、宇佐節子先生に取材した際にもこの話が出て、肥料などの勉強で化学式がびっしり書かれたノートも、(爆薬の製造を連想?され)没収の原因になった、というようなことをおっしゃっていた。どんなに無念なことだったろうか。山口先生は、文字通り、体一つで帰国し、自らの経験と記憶を頼りに新しい園芸教育の第一歩を踏み出したのだった。

帰国後間もない9月1日、山口は園芸教育の専任者として教育現場に復帰し、高等部園芸科新設の準備に取り掛かった。山口の帰国後の第一声は次のようなものだったという。

「皆様、私は元気いっぱいで帰ってまいりました。(中略)これから恵泉でいたします私の仕事は、花の栽培に関することでございます。…美しい花壇をつくることは科学であり、同時に芸術であり、また全くの労働であり、美しい詩でございます。…ご一緒に恵泉の中に美しい場所を作り出そうではありませんか」(『恵泉女学園短期大学誌』)。

 

現上皇の家庭教師ヴァイニング夫人の秘書、松村たね

恵泉女学園から海外に留学していたのは山口の他にもうひとりいた。松村(旧姓・高橋)たね(1818~2018 ※100歳で逝去)である。高橋たねは、戦後間もなく、当時12歳だった皇太子(現・上皇)の家庭教師として来日したヴァイニング夫人の秘書兼通訳を務めた女性で、アメリカではキリスト教系(クエーカー)の学校の学生だった。(※ヴァイニング夫人もクエーカー)。その後、高橋は戦後のアメリカで図書館学を学びなおしてICU(国際基督教大学)の図書館長を長く務めた。晩年は聖路加国際病院で外国人患者が入院登録をするとき、奉仕として英語の通訳をするなどボランティアをされていた。(※高橋は普通部2回生、第2回恵泉留学生、山口美智子もフィラデルフィアでクエーカーの教会に通っていた)交換船が横浜についたとき、河井道は、滞在先の御殿場から横浜埠頭まで2人を出迎えに行き、互いに無事を喜んだという(『恵泉女学園短期大学誌』)。帰国した山口は園芸科の教育者となり、5年の留学を経験した高橋は英語教育にあたった。

鶴見俊輔らの書いた『日米交換船』という本のなかで山口美智子と高橋たねについて短く触れている。また松村(高橋)たねのインタビューも最後のところに掲載されていた。鶴見俊輔と姉の鶴見和子は二人ともアメリカに留学しており、第一次日米交換船で帰国した。当時日本側が作った学生の帰国候補者リストの筆頭が鶴見和子、鶴見俊輔で3人目以下が、南博、武田清子、田島信之、福原信和、福原由紀雄、神谷宣郎、山口美智子、高橋たね子、という順番で並んでいたという。日本の有力者の師弟やキリスト教関係者が多い。そして、戦後日本の知識人、教育者として社会をリードしていった人たちばかりである。

松村(高橋)たねは日米交換船の当時24歳だった。鶴見俊輔は19歳で船ではほとんど話をしていない。『日米交換船』に掲載されたインタビューは63年ぶりの再会であった。高橋たねが通ったクエーカーの学校の校長は、あなたの暮らしの世話はするから戦中も米国に留まるように言ったという。しかし、その校長の夫人は違った。夫人は、あなたのお母さんのことを考えなさい、どんなに淋しい思いをなさるでしょう、と言う。それで帰国を決めたそうだ。

・船を交換する時、手荷物のスーツケースが重すぎて手で提げられなかった。それで、この時初めてスーツケースを足で蹴飛ばして動かすことを覚えた。この習慣はのちのち役立った。(※じわりとくるジョークです)

・ロレンソ・マルケスで日本から来た浅間丸に乗り換えて帰路につくが、ここから日本人だけになり、空気が変わる。食事も極端に悪くなった。日本から乗ってきた軍人が、時間を決めて時局の講演をした(帰国後に備えて教育が始まった)。内容はなにも覚えていない。ただ、英語を使わないようにと注意されたので、それからは食堂でも「そこにある黄色いものをこちらにわたしてくださいませんか」などと冗談に言っていた。バターのことだ。

・ニューヨークで船に乗る前に収容されたホテルを出る時、書物と自分の書いたものが検査官に取り上げられた。そのとき検査官からは「あなたが日本に持って帰ると困ることになるから預かっておく。後で返します」と言われたという。それらは、戦後になってからほんとうに返却された。一方、浅間丸に乗ってから書いていた日記はどこでとられたのかなくなっていた。日本は戦争が終わってもそれを返さなかった。

・日本に戻って、空襲の下での生活となった。それでも、こういう暮らしのなかに戻ってきてよかったと思った。日本に帰る決心をしたことを後悔したことはない。

以前から知人であった河井道と秘書を務めた高橋たねの関係もあって、山口美智子は1947年の7月、皇太子殿下の教育係、ヴァイニング夫人のお茶の会に招かれている。なぜ招かれたのか知らなかったが、実は、山口が学んだ女子園芸学校の校長(クリスマスをともに過ごしてくれた方)とヴァイニング夫人は親しい友人だったという。校長は、ヴァイニング夫人に頼んで、山口美智子が何を必要としているのかを聞いてくれるように頼んでいたのだった。山口は突然の申し出にびっくりして何も考えることもなく、とっさに口をついて出たのは「クリスマス・デコレーションです」という言葉だった。真夏の盛りですから、周りにいたお客様も驚いていたが夫人はほほえみながらメモを取られたそうだ。

その後、日々のせわしい生活のなかで忙しくしているうちにそんな話をしたことも忘れていたという。それでも月日はきちんと過ぎて、小平での最初のクリスマスに向けて装飾の担当を受け持つことになった。実習で作ったリースを並べたり、鉢植えのモミの木を一対飾り、終戦間際に敵機から落とされた銀色のテープを捨てずに取っておいたのでそれをきれいに飾りつけたりした。と、その時、外で音がして、見に行くと、ジープに乗ったGIが学校に入ってきた。先生に会いたがっているという。山口は急いで玄関に出てみるとGIは大きな段ボール箱を二つ持ってきて、「ミセス・ヴァイニングからです」と言って挙手の礼をして立ち去った。

周りで見ていた学生たちが「先生、開けてみて! なんですか?」と集まってきて大騒ぎになった。開けてみると、箱のなかにはヴァイニング夫人を通じて園芸学校の校長が送ってくれた金、銀、赤、青の大小のガラスボール、金、銀のモール、星、つらら等々いろいろなオーナメントがぎっしりとつまっていた。学生たちは大喜びで飾りつけをし、忘れることのできないクリスマスになった。

山口美智子とピーナッツウィーク

山口は、アメリカで学んだ多くのことを恵泉での教育にもたらした。「ピーナッツウィーク(2週間)」というイベントもそのひとつである。クリスマス前のアドヴェント(キリストの降誕を待ち望む待降節)に行われていた。現在でもその想いは、大学の授業に受け継がれているという。どんなイベントかというと、「相手に気づかれないように親切をする」という活動をゲームのような面白さを取り入れて行うものだ。

まずピーナッツの殻のなかにクラスメートの名前を書いた紙片を隠しておく。これを全員がそれぞれ引いて自分の相手「ピーさん」が決まる。こうしてピーナッツウィークの2週間、相手に気づかれないように、親切なことや相手が喜ぶような何かいいことをやっていくというルールだ。最終日になって、誰が「ピーさん」だったかがわかる。「私の名前は~です。私のピーさんはどなたですか?」と言うと、尽くしてくれていたピーさんが手をあげる。そこで尽くしていた相手に、メッセージカードとささやかなプレゼントを渡す、という。何も難しくないし、お金もかからない、味わい深いイベントだと思う。ピーナッツはなぜひとつの殻に2個の実が入っているのだろう。あらためて不思議な植物だ。そのようなものをシンボルとして使っているところも奥深い。

「ピーナッツウィーク」について 恵泉女学園のサイトから

https://www.keisen.ac.jp/institution/farmgarden/education/post-147.html

第一次日米交換船の旅程について(『日米交換船』による)

1942年
6月18日
グリップスホルム号、ニューヨーク港から中立国であるポルトガル領東アフリカ、ロレンソ・マルケス(現モザンビーク共和国の首都マプト)に向け出航

6月5日
浅間丸、横浜港外からロレンソ・マルケスに向けて出航

6月29日
コンテ・ヴェルデ号、上海からロレンソ・マルケスに向けて出航。7月6日、昭南島沖のリンガ泊地で、横浜からの浅間丸と合流

7月20日
グリップスホルム号、ロレンソ・マルケス港に到着

7月22日
浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、ロレンソ・マルケス港に到着

7月23日
グリップスホルム号と浅間丸およびコンテ・ヴェルデ号の間で、日米双方の帰還者が交換される。

7月26日
浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、ロレンソ・マルケスを出港

7月28日
グリップスホルム号、ロレンソ・マルケスを出港(8月25日ニューヨークに帰着)

8月19日
浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、館山沖に停泊、警官、憲兵、税関吏らが乗り込み、帰還者のうち101名の取り調べを行う

8月20日
浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、横浜港に帰着。

※日英交換船は7月29日から9月11日の間で2系統が実施された。第二次は実施されず。
※第二次日米交換船は1943年9月2日の現地出港から10月21日の帰着(帝亜丸)で実施された。
※開戦後の日系人に対する強制移住に関しては、本連載第123回を参照

 

参考
『A Treasury of Bridal Bouquets』 ビル・ヒクソン 恵泉園芸センター 1972

『証言集 河井道―人・信仰・教育』 恵泉女学園創立七十周年記念文集委員会 恵泉女学園 2000

『スライディング・ドア』 河井道・著/中村妙子・訳 恵泉女学園 1995

『恵泉女学園短期大学誌』 恵泉女学園 2009

『My Lantern』河井道子 教文館 1939

『滞日十年』ジョセフ・C・グルー 毎日新聞社 1948

『アウトサイダーたちの太平洋戦争―知られざる戦時下軽井沢の外国人』 高川邦子 芙蓉書房出版 2021

『「アンクル・ジョン」と呼ばれた男―香港捕虜収容所通訳・渡辺潔の足跡―』リアム・ノーラン いのちのことば社 2005

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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