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第133回「おかんがいうにはな」~高田保が母から聞いた「いけばな」の心得

公開日:2021.8.27

『ブラリひょうたん 』

[著者]高田保
[発行]創元社
[発行年月日]1951年9月25日(第一ブラリひょうたん)
[入手の難易度]やや難

場といけばな

ことの始まりは、華道家、「大和花道会」創始者である下田天映(1900~1983)の『いけばな入門』(愛隆堂、1976)を読んでいたときに出会った次のような文章だ。本書はタイトルどおり、いけばなの入門書なので、基本的なことが順番に書かれているのだが、技術編第10章の「場といけばな」という項目で、下田天映は次のように述べる。

図1 下田天映の『いけばな入門』1976。赤い大型本は、「日本のいけばな」シリーズの『下田天映』1978。

戦後のいけばなは、それまでのように装飾として、どこまでも場所に従属するものとしての状態から抜け出して、作品の存在自体の意味、すなわちオヴジェとしての意味と力を主張するようになった。その結果、作品の深まりはあったが、オヴジェの意味が誤って受け取られ、展覧会中心主義=大作中心主義におちいった。これに対して、厳しい批判が起こり、旧来のように装飾として生活のなかからにじみ出た、そして民衆の生活のなかに溶け込めるオヴジェとしてのいけばなが求められるようになった。

こうした歴史的な変遷と、前衛いけばなの試行錯誤を経て登場してきた新しい考え方は、いけばなと場の問題の新しい発展としてたいへんに興味深い事柄である、と下田は問題(イシュー)を指摘し、さらに次のように続けている。以下引用。

 

戦後間もなくのことでしたが、高田保氏は随筆「ブラリひょうたん」のなかで――、

昔の床の間は、掛軸が中心で、床の花はあくまで掛軸の付属品として目立たないことが好いとされていた。掛軸の引立役であった。それはちょうど、封建的な「家」の中での家長である夫と、妻との関係に似ていた。ところが戦後床の間のいけばなは、いけばな自体の意義を主張し、床の間の枠を破って独立した。

それは戦後の家族制度に対する女性の独立の主張に呼応したものであった…。

というような意味のことをいっていました。

この問題は、深く考えていくとむづかしいことになりますが、民衆の生活の中でいけばなが果たしていく役割は、場所の飾りとしての消極的な役割だけでなく、もっと積極的に、いけばな作品が見る人にいろいろの感情をもって働きかけて行くーーいけばなを通していける人の気持が見る人に伝わって行く――ものでありたいと思います。

場所に飾られるから意味があるだけでなく、それ自体に意味のあるオヴジェでありたいのです。

 

下田はこうした取り組むべきテーマが今のいけばなにはあるとしながらも、一般的には「装飾としてのいけばな」が広く求められているので、まずその時々の目的や場所に見合った花をいけることはおろそかにはできないし、伝統的な決まりごとに則った花のいけ方も心得ていたほうがよいと説明している。

ここまで読んだところで、さて、文中に出てきた高田保の『ブラリひょうたん』という面白そうなタイトルの随筆が気になる。そこにはどんなことが書かれていたのだろうか。急いで随筆集『ぶらりひょうたん』を入手して調べてみると、いけばなについて書かれたものが2編見つかった。これが、お笑いの「ミルクボーイ」の有名なネタ、「おかんがいうにはな、」という話で、高田の母が語る「いけばな」論がとても面白い。さっそくその部分を読んでみよう。

※高田保(図2)は明治28(1895)年、茨城県新治郡土浦町に生まれた。中学時代より演劇に興味を持ち早稲田大学文科に進み、以来、新劇や新国劇の演出や小説、戯曲の著述に従事する。戦後になって東京日日新聞に「ブラリひょうたん」を連載し、好評を得るが、昭和27(1952)年、胸部疾患により逝去(文庫版の「著者紹介」から)。

自宅は大磯にあった島崎藤村の最晩年の旧居だった。藤村は白い花が好きで白い花が咲く植物が多く植えられていたという。高田保はここで日々「ブラリひょうたん」を書き、この家で死去した。文庫の解説で、大宅壮一は高田を随筆家ではなくコラムニストだったと述べている。

図2 創元文庫『第一ブラリひょうたん』の口絵に掲載された高田保の肖像。昭和の文人らしい、いい雰囲気がある。

随筆の達人が「いけばな」を語る

「母の話」 昭和24年4月12日 東京日日新聞 (「第一ぶらりひょうたん」所収)

華道というからには中に立派な精神がこもっているべきだろう。が現代の華道について私は知らない。すでに八十を越した母から昔の活花については聞いたことがある。

活花には本来、形というものがない。形はそれが置かれた場所によって生まれてくるものだというのである。天地人とか真行草とかのやかましい約束があるのだから、形式主義的なものかとおもっていたら大きに間違いらしい。さらにまた、活花がお客の眼に残るようではだめだというのである。

床の間へ飾る。床の間の主人は何といっても掛軸である。花はそれを引立たせるためにあるのだから、掛軸が生きて花が消えるようにする。これが働きだと昔は教えられたものだというのである。だから何を活けるかも掛軸次第、たとえば牡丹の掛軸のときに芍薬を活けたりしたら笑われる。不即にして不離。もしも松柏何とかにして濃しというような掛軸だったら、しずかな水仙などつつましく活けるといった調子である。その形も相手が植物だったりしたらそれに相応させる工夫が大切となる等々、いわれてみれば成程形がないという意味がわかる。

内助の功というようなことをいえば、折柄に「婦人週間」だし、時代遅れの封建主義といわれるかもしれぬが、昔の華道が女性のたしなみとされていたのは、一種の人生教育だったのだろう。主人よりも細君の方が先きに立って目につくような家庭は誉められなかった。これが昔である。

今は華道そのものも芸術だなどと、大いにそれ自身の存在を強調するような傾向になっているらしい。どこへ置かれるかによって形を変えるかもしれぬが、それはあくまでも花そのものを目につかせようとするものであるらしい。これは多分、解放された近代女性が、いかなる場合にも自我を主張しようとする傾向に同調させたのかもしれない。

アメリカの家庭生活について私は何も知るところはないが、映画の中でみる夫人たちはブロンディといいマギイといい、奔放自由な生きのいい暮し方をしている。多分日本の女性たちはいま彼女のごとくに在りたいと念願しているのだろう。どこへ置かれようとも本来の自我をすこしもゆがめられずに墓場まで持って行く! 彼女たちは幸福であるに相違ない。そしてのそのときわれわれ男性は、あのダグウッドとなり、あのジグスとなる!

昔の華道を復活させるものがあったら、それはきっとわれわれ男性だろう。現に私の知っている新家庭の二、三では、いずれも男の方が相手に順応して別人のごとく変えられてしまっている。

 

高田はもうひとつ、こんな「おかんがいうにはな、」なこともいっている。前日に引き続き、いけばなについて語で、タイトルも「ふたたび母の話」である。

 

「ふたたび母の話」 昭和24年4月13日 東京日日新聞 (「第一ブラリひょうたん」所収)

母から聞いた昔の活花の話を、もう一つ続ける。

花は出来上りの一歩手前で活けなければならなかったのだそうである。活けた時に全部出来上がっていたら、その時から花は崩れてしまう。出来上りの余地を残して、あとは花自身に任せて出来上らせる。明日の午後に客を迎えるための花だったら、丁度その時刻に出来上って、絶頂の勢いにあるように活けなければならぬ。そのためには間の抜けたすき間を花のために作って置いてやらなければいけない。

これはしかし容易なことではあるまい。無責任な突放しでは覚束ない。藤なら藤、牡丹なら牡丹、花の伸び咲く速度の計算が必要となる。この計算のためには日ごろから自然観察をして置かねばならぬ。そうなると活花は花や枝の単なる編集ではないことになる。大げさないい方をすれば、自然の生命と活け手の呼吸とを合致させることだともなるだろう。こうなるとたかが活花などといい切れたことではない。

事実母の活けた花は、当座物足りなく、しかし翌日あたりになれば形を整えて勢いがつよくなったものだった。小さなつぼみだったものが枝頭一点の光彩となったときにそれが全体へのアクサン(※アクセント)となり、ぐっと引緊って成程と合点せられたことが多い。しかし未来に対する計算とか用意とかいうものは、性急な、あまりに性急な現代ではおそらく不必要とされるだろう。何事も即座主義の世の中では通用する活け方でないに違いない。

あとは花に任せる。だから母は自分で活けた花をいかにも楽しそうに自分でながめたものだった。任せたかぎりにはもう自分の活花ではないとして、その成行きを楽しむのは謙虚な精神である。この謙虚さのゆえにその楽しみは天真の清潔なものとなって、さらに奥深く楽しめるというわけなのだろう。しかしこんなことももはや現代では歓迎されぬだろう。

こうして活けた花がやがて絶頂を極める。それからは勢いが衰える順だが、その衰えを見せはじめると母は何の躊躇もなく取捨てるのだった。私などの眼からみるとまだ鑑賞に堪えるものなのである。しかし母はそのたびに、衰えを人の目にさらさせるのは情なしだといった。これも活花の心得として教えられたのだそうである。

何もかも現代には不向きな母の時代の華道の中で、あるいはこの最後のものだけが喝采されるかもしれない。政府の公約でさえが風向き次第でさっさと取捨てられてしまうのである。思いきりのよさは似ているのだが、しかしこれくらい似ないものもないかもしれぬ。

 

「暦日」 昭和25年1月3日 東京日日新聞 (「第二ブラリひょうたん」所収)

これからが冬なのだが、新春ということになると気持だけは春めいてくる。私のいる大磯は東京に比べてずっと暖地だから、梅の咲くのが早い。もう一週間も経つと白いのを見せる木があるだろう。

田舎にいて母と暮らした時分、大晦日となるときまって母が梅を活けた。夕飯をすませるとはじめたものである。二時間もかかってやっと活け終る。これを「除夜の梅」とだけ教えてくれた。やがて十二時が来る。除夜の鐘が鳴り出すと、それをこわしてまた新らしいのを活けた。今度は全然趣が変っている。「今度のは後夜(※ごや)の梅だよ」と母はいった。

その除夜と後夜と、趣がどう違っていたか、残念ながらはっきりとおぼえていない。方則としての除夜のは真の枝がどうで、後夜のは全体がこうだという風の説明も聞かされたのだが、見事に忘れてしまっている。ただ後夜の方がのびのびと、幾分締りがないような形だった感じだけが残っている。

この後夜の梅を活けるのがいつも二時近くで、それから幾分経つか経たぬかでそれもこわす。その後で改めて迎春の花を活けるのである。南天に水仙といった風のものだったが、誰に見せるでもなくての除夜と後夜とを活けるのを、その頃の私はつまらぬことにおもった。

昨日は世界的などということを少し息張って書いたが、私の腹の隅には昔の人のこうした生活風流を懐かしむ気持もあるのである。新しい年への移り変りを人間の世界だけでなく、植物の生気と一緒にやるような余裕はもはや現代人にはない。若水などという言葉は俳句の中には残っているのだが、水道の栓をひねるのでは、別に新しい感慨も湧いて来ない。初日影(※はつひかげ=元日の朝日の光)、初鳴き、初富士、自然の物象のすべてに新年を感じる感覚は、現代人ほど鈍っているようである。

初夢というものをことさらめでたがったなども、大いに素朴だったからだろう。一富士二鷹三茄子。しかしこんなものは今のわれわれに全く無縁である。宝船の画を枕の下に置いてなどということ。百人に一人はおろか、千人に一人も今はやりはせぬだろう。

知合いの家の犬が、わが家のようにやって来て庭の日向で眠っている。私はその背を撫でてやりながら、犬には正月はないと考えたが、正月をせぬ犬のほうが実は存外正月を感じているかもしれぬとふとおもった。暦日の運行の中で人間は人為的なあれこれをやっている。結局は人為的なのである。昔の人はその人為の中に自然を持ち込むことを忘れなかったのだが、現代人は人為だけで正月を騒いでいるのである。暦日の本当の運行はしかし、人為よりも自然の中にあるのだろう。

暦日を忘れて暦日を感じてみたい、とふとおもったら、私は柄にもなく詩人になったような気がした。

 

「水くぐり」 昭和25年1月19日 東京日日新聞 (「第二ブラリひょうたん所収」)

合せものは離れものという。ぴたり一体になることはむずかしい。接着のニカワがゆるんで足のぐらつく古机があった。器用な知人が合わせてやると持っていってくれたのだが、こんなものでも決して簡単ではない。

古いニカワを使ってつけてくれたのだが、今度はそれをぐるぐる紐で巻いて、一分一厘も動かぬように緊めつけた。しばらく使わずにそっとこのままにしといてくれというのだった。ニカワが苦情ないまでに乾いて固まるのは相当の時間がかかるのだそうだ。古机の修理ですらこの調子だと保守合同は一通りではあるまい。

さすがに賢明な吉田さん(※吉田茂首相)は、無理をしないといった。問題を合同委員会へ任せて気長く待つつもりだなと感心したら、その委員長が総裁自身だと発表されたので、アレヨとおもった。気の短い人物がよくやって失敗する手である。

昔の活花に「梅の水くぐり」というのがあったものだ。水盤へ活ける。一枝の梅が水面へと伸びてその水をくぐる。そのくぐった枝が先の方へいって水面から出て、その枝頭に一輪二輪白いのをつける。技巧的にすぎて厭味といえば厭味なものだが、活け方によっては風情がなくもない。

少年の頃、私は毎年この「水くぐり」を見た。季節が来るたびに母が活けて楽しんでいたからである。ところが私はある日、重大な疑問にぶち当ってしまった。

私の母のは古流だったのだが、友人の母で遠州流の師匠をしていた人があった。その家へ遊びにいったら、同じように「水くぐり」が活けてあったのだが、外観が同じようでも活け方はまるっきり違っていたのである。すなわち私の母の方は、伸びて水中へとくぐった枝と、水中から飛び出た先枝とは全然別なものだったのである。別なものを挿して別なものでなく一つ枝に見えるところにミソがあったのだろう。

ところが友人の母の方はそうではなかった。あくまでも一本の枝を苦労してくの字形にひん曲げ、つまり正真正銘に水をくぐらしていたのである。当時私は私の母の方を負けとおもった。帰って母にその話をすると母は笑って、そんなことは私には、梅の木が可哀そうでできませんといった。後年になると母の気持ちがわかった。今の私ははっきりと母の方を本当の芸だとおもっている。しかし各人各流は自由であろう。吉田さんの遠州流を私は決して非難しているのではない。

 

「みじめ」 昭和25年5月18日 東京日日新聞 (「第三ブラリひょうたん」所収)

生け花を喜んでいた母はよく「お花にみじめをみさせてはいけない」といった。挿した花が咲ききる。勢いの絶頂に達したわけで、それからは衰えに傾くだけだろう。花としたらその衰えを見せたくはない。だからそこで、おもいきりよくその花を捨ててしまってやれ、というのである。衰えの美しさなどということもないではないが、そんなことは近代の感覚で、昔者の母にあった筈のものではない。実際母は、折角挿し活けた花を、まだ惜しいとおもううちに捨ててしまっていた。

これができそうでなかなか出来にくい。先日も立派な芍薬を貰ったのだが、咲ききったとき、そのことをおもい出しながら、翌々日までそのままにして置いた。さしもに豪華なその花が、みじめにしおれてしまったところでやっと捨てた。咲ききったところでおもいきりよく捨てれば、生き生きとした美しさが印象としていつまでも残ったのだろうが、未練をだしたためにみじめに落ちきった最後の姿が今に瞼に残っている。後悔しているのだが仕方がない。

大阪から延若(※二代目實川延若、歌舞伎役者26年、73歳で没)が上京している。老衰しきってはいるが、舞台へ出るとやっぱり何ともいえぬ立派な味だと評判になっている。さもあろうとおもい、今度見て置かぬともはや彼を見る機会はなくなるかもしれぬと考え、出かけて行きたくはなるのだが、以前の元気一杯に豊熟していた舞台をおもうと、待てよと足のすくむ気もする。「延若」と彼の名を浮べたとき、立派ではあっても老衰の無残な舞台姿がまず浮んで来ることになったら、という心配である。で未だに出かけてはいかない。

私が延若をはじめて見たのは、帝劇での「盲兵助(※めくらひょうすけ)」が最初だった。この最初から私はつかまってしまった。その後ほとんど上京の度毎に見ているから、印象は極めて生々とはっきりしている。それだけに今度の舞台を見るのが恐ろしいのである。以前の私は歌舞伎に傾倒し、片端から見物したものだが、晩年の羽左衛門、幸四郎を見たとき、見物の度を越してしまった気がさせられた。老境円熟、渋いながらもいよいよ光輝さんらんなどと人は賞めていたが、俳優にとって肉体の生気は何といっても絶対のものである。見物の度を越したと感じたのは、その生気の衰えた老境のみじめさをしみじみと感じたからである。妙なもので、一度でもその老境の現実を見てしまうと、以前の生気溌溂時代の印象が古くなり、消えかかってしまう。

枯れた芸などというが、その渋味がわからぬ私でもない。しかしやはり十分に血肉の通った生身のものが私には喜ばしいのである。私が俗情をもち過ぎてるからだろうか。私は歌舞伎というものを枯淡なものとして考える智慧はない。やはり一種遊興的な色気調のようなものとして受取りたい気持があるのである。「役者にみじめをみさせてはいけない」と私は、母の言葉をひそかにこう翻訳してみた。通用しないであろうか。

図3 昭和52年、下田天映 77歳頃の肖像写真が掲載されたページ (『下田天映』1978から)。

私の花伝書 下田天映

最後に、はじめに触れた、花道家、下田天映の作品集に戻る。「私の花伝書」という小文は、発行当時、日本を代表する10人の花道家で企画された「日本のいけばな」というシリーズのなかの一冊にある『下田天映』のトップに掲載されている。このシリーズは勅使河原蒼風、霞の父子(草月流)、小原豊雲・工藤和彦(小原流)、池坊専永(池坊)、池田理英(古流系)、中山文甫・肥原康甫(未生流系)といった大流派のほかに早川尚洞(清風瓶華)と下田天映(大和花道会)が選ばれている。

下田天映の書く文章はとても味わいがある。いけばなは若いとき(昭和2年)に、池坊や安達式挿花、古流などを学び、研究を重ねて昭和5年に自ら大和花道会を立ち上げたほどで、深い知識に裏付けされた言葉と建築家らしい理詰めの構文が、いけばなを知らない人が読んでもわかりやすい説明になっている。以下、「私の花伝書」から引用する。先にあげた高田保は母親の話だったが、下田は父親が教えてくれたことについて書いている。

 

私の一生の仕事として、なぜいけばなをえらんだのかと考えてみると、いろいろ理由は並べられても、最後はどうしても父の思い出につきあたる。

父は建築、土木の請負を業としていたから、雨の降る日だけ家にいるという人だった。そんな日は、雨の中で傘を肩にさしかけ、庭いっぱいに繁っている植物を、それこそ一日中じっと眺めているのが常だった。父というと今でもその姿がはっきり目に浮かんでくる。その眺め方が普通でなくて、一本の樹を見つめ始めると、一ヶ所に立ちつくしていつまでも動こうとはしなかった。

 

下田天映は、日本有数の植木の産地で有名な埼玉県川口市安行の近くで生まれた。先祖代々この地に暮らす家系で、父親は当時、近隣に集まって住む親戚一同のリーダー的な存在だった。父は植物が好きだった。下田も父親の影響で幼い頃から手ほどきを受け園芸一般に通じる腕を持つようになった。長じて建築の道に進んだが、いつしかいけばなの道に転向し、自ら会派を立ち上げ花道家、指導者としての生涯を歩んだ。

 

父が常に口にする言葉に「添って伸びる」というのがあったが、植物はすべての部分が生長という目的に添って生き、働いていて、まったくムダや矛盾がないということがいいたかったのだろう。

陰陽の話もよく聞かされた。ものの生長には、この陰陽が重大な影響をもっていて、横に伸びる葉の表面は凹面で太陽の光と暖かさを受けやすくなっている。まっすぐに伸びる葉でも凹面が陽で、同じような働きをしている。また、高低による繁疎の違いについても、低いところほど混んでいて、高いところほど疎になっていると聞かされた。高いほど明るく低いほど暗いのが自然だとすると、いけばなの場合も、高い所に明るい色、低い所に暗い色を置くのが自然ではないかと思う。(中略)花をよく見ること、自然を深く見つめることの重大さは、あの雨の日の父の後姿から学んだといっていい。

それから間もなく、私は第二日曜会という諸流研究会に参加するようになった。その研究会に隈笹をいけようと考えて、毎夜工夫を重ねてみたが、どうしても自分の思うようにまとまらない。思い余って平林寺の隈笹を眺めに行った。雑木林の間に二キロにも亘って密生している笹の美しさに驚き、一日をそこに過して、こんどこそ感じをつかんだと勢いこんで家に帰り、次々にいけてみるのだが、やっぱり満足がいかない。翌日、また平林寺に出かけて一日を過し、一株をそのまま持ち帰って眺めてみた。ひとつの株から出る五、六枚の葉と、その下に覗くいくつかの葉の群がりとの間に、光を求める微妙な配置があることに気づき、やっと菊二本といけ合わせて作品にすることができた。この作品が金井紫雲氏の推薦で某新聞に掲載された。これが世の中への私の最初の発表であった。

このころから、植物が生長し、展開していく姿の美しさを痛切に感じるようになった。そして、植物の生態をよく見て学ぶといっても、その人の持っている力の分だけしかものは見えないのだということも、否応なしにわかってきた。

私の一生は、父のあの後姿に触発されて、ただひたすらに花を見つづけてきたことにつきるといっていい。

(『下田天映』日本のいけばな第5巻小学館 1978)

※金井紫雲 明治末~大正・昭和前期に活躍した美術記者。本名は泰三郎、紫雲と号した。美術だけでなく盆栽・花・鳥なども専門的に研究し、多くの著書を遺した。主な著書に『盆栽の研究』『花と鳥』『花鳥研究』『東洋花鳥図攷』『鳥と芸術』『東洋画題綜覧』『芸術資料』『趣味の園芸』などがある。

参考
『いけばな入門』下田天映 愛隆堂 1976
『下田天映』日本のいけばな第5巻 小学館 1978

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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