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第136回 貧困、汚れた空気、フラワーショー~19世紀ロンドンのソーシャル・フラワー

公開日:2021.9.17

『Window Gardens for the People, and Clean and Tidy Rooms』

[著者]H・S・パークス(Samuel Hadden Parkes)
[発行]S. W. Partridge
[発行年]1864年(※日本は元治元年)
[入手の難易度]易(グーグルブックス等で閲覧、DL可能)

https://www.google.co.jp/books/edition/Window_Gardens_for_the_People/6Vtb33xbgGQC?hl=ja&gbpv

参考
『ガーデニングとイギリス人』 飯田操・著 大修館書店 2016年
『Flower Shows of Window Plants, for the working classes of London』 Samuel Hadden Parkes 1862年
『花と木の文化史』 中尾佐助・著 岩波書店 1986年

本連載第22回 人をまきこみ、「花の街づくり」を進める方法~調査研究報告を読む

元禄時代、庶民に広がる園芸文化の奇跡

花や緑を楽しむ文化(花き園芸文化)というのは、歴史的に富や権力と結びついて発達してきた。世界的にも、日本でも、これは同じような歩みをみせている。ただ、その発展は文明によって大きな違いがあって、文明や経済が発展する地域や国ではどこも園芸文化が発展してきたかというと、そうではないという。栽培植物学の権威、中尾佐助は『花と木の文化史』で、古代に発展した中国や西アジア・地中海地域とその後に続く西ヨーロッパ・アメリカと日本という偏りがあるのだと指摘している。特に、日本の園芸文化で見るべきは、大衆庶民にこの園芸文化が広まったのがどこよりも早かった、という事実である。

図1 『画菊』潤甫・著 元禄4(1691)年に出版された日本最古のキクの図譜(国立国会図書館デジタルコレクションから)。

花き園芸は、多くの文明、地域で社会のごく狭い局地だけにあった。王侯、貴族や富豪の独占物であり、普通の庶民には無関係の存在だった。長い花文化の伝統を誇る中国でもインド、西アジア、ヨーロッパでも、いずれもそのような「貧しい」状態で、中尾は、例えば宗教や思想、造形芸術、学問やイデオロギーといった他の芸術文化からみると、あきらかに傍流におかれてきたのだと指摘している。ヨーロッパで庶民の間に窓辺に鉢花を飾ったり、ガーデニングを楽しんだり習慣が始まるのは18世紀の後半頃からだという。ところが、日本では17世紀末、元禄時代(1688~1704)には庶民に花き園芸文化が浸透していた。ヨーロッパより、およそ100年も早い。最初は富裕な商人など経済的に裕福な町人たちから始まった娯楽だったと思われるが、幕末には最下層の庶民、下級武士の間にまで広まっていた。中尾は、日本のゆるい階層意識(階層間の通婚など)や高い識字率などから広がった中流意識と強い相関関係があると述べている。また、「植木鉢」の大量生産と流通が大きな役割を果たしていた。最初は塩壺や水瓶などの底に穴を開けて「転用鉢」が利用されていたが、やがて植物を栽培するための「専用鉢」が大量に流通するようになり、庭のない庶民も季節の草花を楽しめるようになった。

参考
元禄時代の園芸書のいろいろ 国立国会図書館のサイト「描かれた動物・植物~江戸時代の博物誌」から

「植物生活」~江戸の園芸熱~

本連載第2回 そこにある鉢植えの意味 『鉢植えと日本人』

図2 1872年頃、ロンドンのスラム街、「セブン・ダイヤルズ」の様子。この地区は、コヴェント・ガーデン周辺の7つの道路が交わる場所で、悪徳、病気、犯罪の温床となっていた。『London, a Pilgrimage』に掲載されたギュスターヴ・ドレの「Dudley Street, Seven Dials」(1872年、Wellcome Libraryから)。

イギリスにおける園芸の大衆化

園芸大国、イギリスで一般大衆に花を育て、飾る文化が広がるのは産業革命後に「労働者階級 working class」の人々が大量に生み出されて以後のことだった。イギリスの産業革命は、1764年、ハーグリーブスによるジェニー紡績機の発明から、蒸気機関車の鉄道が各地に開通し始めた1830年代までとされている。その間、様々な機械が発明・導入され、製鉄・製造・交通などの分野が発達し、生産力は加速的に向上した。イギリスは「世界の工場」となり、歴史的な繁栄を迎える。その一方で、貧富の差の拡大や都市部の人口集中による住居問題、労働問題など、しだいに多くの弊害が表面化していった。こうしてイギリス市民は上流階級=支配者層(王室・貴族・ジェントリ)、中流=ブルジョワジー(産業資本家や銀行家など)、最下流の労働者階級=プロレタリア(賃金労働者)の3つの階級に分かれて存在するようになっていた。

19世紀半ば以後、製造業の中心であった都市には、職を求めて地方から多くの人が流入していたが、急激な人口の増加にインフラの整備や住居の建設が追いつかず、様々な問題が生まれ、労働者たちは劣悪な環境で生活することになった。労働条件は悪質で、1日14時間以上の労働や低賃金、子供の雇用が当たり前になっていた。資本家によって搾取されるままになっていたのである。

多くの労働者は、不衛生なスラム街に住むことを余儀なくされ、狭い部屋を複数の人間で借り、すし詰めの状態で暮らしていた。当時の労働者たちは、そのような劣悪な環境でしか生活できないほど追い詰められ放置されていた(図2)。このような問題のある社会を背景に数多くの文学作品が描かれ、労働組合、労働運動が起きる。マルクスやエンゲルスらが活動するのもこの時代であった。人々の運動によって工場における年少者の長時間労働を規制する「工場法」や環境を改善するための「改正救貧法」などがつくられた。

ロンドンの大気汚染

貧困の問題は当初、労働者階級だけの苦しみであったが、工業化が進展するにつれてひどくなる一方の大気汚染の問題は富裕層も貧乏人もすべての人にとっての問題だった(図3)。ロンドンで石炭の使用を制限する動きが始まったのは、14世紀の初めにさかのぼり、長い間の課題となっていたという。18世紀に入ると新興の中産階級は澄んだ空気と水を求めて郊外に庭付きの住宅を建てて住むことがステイタスとなる一方、都市近郊では囲われた敷地に植物を植えた緑地や庭園がつくられ、自然を求める人々に有料で公開されるようになる(後の公園、遊園地、行楽地)。農地の囲い込みによって地方の田園地域から追い出された都市労働者はこうした都市の緑地にかつての田舎をなつかしみ、環境が悪くなるほど、自然や草花を求める人々の思いは強くなっていった。新しい中産階級、富裕層の間では植物の栽培のブームのような動きも出てきていた。プラントハンターの活躍もあり、世界中から美しく新しい植物が入りつつあり、各地で花の展示会が開かれ人気になっていく。

「アマチュア(素人)」という言葉は18世紀の終わり頃に様々な分野で使われ始めた言葉だという。以前は専門的な知識や技術を要するとされてきた職業や技術が余暇の普及とともに趣味や娯楽、気晴らしとして行われ始め、こうした人たちのことを「アマチュア〇〇」と呼ぶようになっていった。ガーデニングも同様で、「アマチュア・ガーデナー」があちこちに生まれていく。このような時代に、労働者階級の生活改善と園芸活動を結びつける、いわば「ソーシャルな園芸活動」というような動きが始まろうとしていた。

図3 19世紀半ばのロンドン、大気汚染がひどく、昼間なのに明かりをつけなければ歩けないほどだった。 ”A London Fog”, (1847)(「The Illustrated London News」、Wikimediaから)。

スラム街で行われたフラワーショー

今回の舞台となるのはロンドンの中心部に位置するブルームズベリー地区だという。大英博物館やラッセル・スクエアなどがある。自身も靴工場で働いた経験を持ち貧しい人々の生活を数多く描いた作家ディケンズも、この地区に居住していた。あとでまた触れるが、この地域は17世紀から作られた「ガーデンスクエア」方式の住居が集まっている。ガーデンスクエアとは、建物に囲まれた都市部の共同庭園のことで、背の高いテラスハウスやタウンハウスに囲まれた共有スペースがある。いまはその面影もないが、当時は貧しい労働者がひしめき合って暮らすスラム街になっていた。

図4 極貧層の人々が暮らすリトル・コラム・ストリートは病気と犯罪の巣窟のような場所だった(挿絵)。

『Window Gardens for the People, and Clean and Tidy Rooms(庶民のための窓辺の庭と清潔で整えられた部屋)』という書籍は、1864年(※日本は元治元年)にこの地域にあった極貧層の人々を対象に数度にわたって実施された「窓辺の花」と「きれいな部屋」のコンテストについて詳細が描かれている。著者のH・S・パークス(Samuel Hadden Parkes)はこの地域のセント・ジョーンズ教区の副司祭を務める人物だ。パークスは、貧困と不衛生、病気のまん延、犯罪の危険にさらされる極貧層の人々の生活改善に苦心していた。これまでにもキリスト教の精神に基づく他の社会慈善家とともに、様々な支援を行ってはいたが、パークスはただ、お金やモノを支援するだけでは根本的な解決にはならないと考えていた。それらの支援が人々に受け入れられ、実際の生活向上に役立つようにするには、なにか「架け橋」になるような取り組みがひとつ必要で、その鍵となるのが、「花と緑」であり、「きれいな部屋」なのではないか。そんなふうに思いつき、まず自分の教区の最も貧しい人が集まっている「リトル・コラム・ストリート」に住んでいる人々を対象にコンテスト(フラワーショー)を実施することにした。

都市の再開発で追われる人々

19世紀の半ばというと、日本では黒船がやってきて大騒ぎをし始めていたころだが、ロンドンでは街の再開発で、貧しい人々が住む地域から人を追い出して広い通りを作ったり、地下鉄の駅を作ったりしていた。そこに住んでいる人が移り住む新しい場所を提供することもなく、3、4週間前に「家を出ろ」「上の階から取り壊しを始める」というわけで、とにかく建物を壊して追い出すのだ。これらの人は生活があるので、遠くに引っ越すこともなく、同じ地域のまた別なスラムに入り込んでいく他なかった。シティのフィールド・レーンという地区では1,000軒の家屋が取り壊され、4,000世帯、1万2,000人が周辺の長屋に追いやられた。当時の調査では、各家庭の平均人数は5人で、部屋の大きさは15✕10から8✕9フィート(日本でいう8畳から3.5畳の広さ)が一般的で、家賃は(この当時は週払い)週4.5~2シリングほどだった。とてもわずかな家賃だがそれでも支払えない人もいた。このような人がこの地区に5,665人も住んでいた。彼らの多くは、屋台の行商人で、果物や花、クレソン、干し魚、ネコの肉などを籠や手押し車に入れて売っていた。この他、特定の職業を持たない日雇いをしたり安物のおもちゃ(ペニー玩具)を作って売ったり、馬車を洗う者(もともとは馬車引きだったが免許を失った人々)、低賃金で長時間労働のお針子、軍隊の下働き、麦わら帽子作り、靴の縫製、港湾労働などで日銭を稼いでいた。

図5 8つに仕切られた小さな部屋のある建物にはたくさんの人が密集して暮らしていた。図の一番下に描かれた半地下や地下の暗いところに住む家族も少なくなかった。この中には花や野菜を売り歩く人もいた。(挿絵)

図5は、リトル・コラム・ストリートにあった建物の様子である。ひとつの建物は8つの部屋になっていて、それぞれに1家族が住んでいた。地下室(いわゆる半地下の部屋)や台所は別にあってそこにも人が住んでいた。きれいに改修して暮らしている人もいるが、多くは暗くて不衛生なところにひしめき合って暮らしている。先に述べたように、ロンドンの空気はとても悪く、健康を害しやすかった。

図6と図7は、同じ場所の約60年後の変化を示している。先に述べたように、この地区は「ガーデンスクエア」方式の住居が集まっている場所だった。建物に付属した中庭は、建設当初は共同できちんと管理され、樹木や花が美しく育てられていたが、60年後では貧しい人々がひしめき合って暮らしており、洗濯物の干し場のような使われ方しかされていない。

図6 コラム・ストリートの1800年頃の姿。
図7 図6の同じ場所が60年後にスラム化した様子。

コラム・ストリートのある場所は、著者のパークスが仕事をしている地域だが、ここには長さ90ヤードの細い通りに、通りと直角に交わるように左右に走る6つのコート(建物で挟まれた袋小路)があり、そこに1,700人の住民が暮らしていた。ロンドンでも最も貧しい人たちが暮らしている場所で、警察が「ならず者を見つけるのに最も適した場所」と言うような場所だったという。ここも、別な場所が再開発される時に追い出された人たちが住み着いた場所だった。

モデルハウス制度の失敗

この時代の人々は、富裕層が自分たちとは関係ないとして、貧困層を放置することは、結果的に自分たちに大きな問題となって返ってくることを知ることになった。安定した社会を持続可能にすることは決してないのである。このことは、過去も現在も少しも変わっていない。自己責任、自助ですませられる問題ではないし、ほどこしをすればいい、という簡単な話でもない。パークスは、貧しい人々の問題を放置することで、大規模な犯罪者の集団や病気の労働者が生み出されるという。犯罪者が増えることで警官や刑務所の数も増やさなければならないし、病院も同じだ。伝染病のまん延も心配された。こうした社会的なコストに多大な税金が費やされることがよいわけがない。

このような弊害に対して、多くの慈善事業が計画され、実施されてきた。モデルハウス制度もその一つだった。公的な協会や団体によってロンドンの様々な場所に労働者階級向けの住宅が建設され、多くの職人や機械工などが暮らすようになったという。その一方で、これらの住宅は住居の面積や使い勝手、あるいは家賃等が貧困層には見合っていないものであったし、そもそもそれらの住宅が建設された場所にいた貧しい人々はさらに悪条件の場所に追いやられていた。実際、誰であっても、現在の仕事環境から遠く離れた場所に住宅が作られてもそこには移れないだろう。仕事や友人家族のつながりを断ち切るような計画自体に無理があった。経済的だけでなく、感情的にも習慣的にも受け入れられなかったのである。

パークスは、貧しい人々を追い出すような計画を延期し、その間に、地域に住む住民の生活スタイルを、その地域に暮らしながら改善する方法を採ることが重要だと考えた。そこで住民の生活を見ながら気づいたのは、春から夏にかけて、貧しい生活をしながらも窓辺で草花を大事に育てている者がいるということだった(図8)。このことは植物をいつくしみ育てることに潜在的な興味があることを示していた。彼らの多くは田舎からロンドンに出てきた人たちで、幼い頃に親しんだ野原や草花に郷愁をいだいていた。パークスは、貧しい人々が植物を育てることによって自らの生活の場を改善することに価値を見出せるようになるのではないかと直感した。ほどこしや善意の押し付けではなく、生活者自らが自律的に清潔で規則正しい暮らしを営むことに価値を見出し、自尊心を取り戻すように行動するきっかけ、「架け橋」を用意できるのではないか。植物を使うことで、それができるのではないかと気づいたのだった。こうしたアイデアの成否を確かめるために、パークスは自分の務める教区で実験的なイベントを企画・実施した。もうひとつパークスの思想が興味深いのは、さらに「部屋」そのものをコンテストの対象としていったことだろう。植物を育て、部屋をきれいにすることで暮らしを整えていく、これらをひとつのセットとして捉え、自ら行動するな生活改善につなげる運動の「テコ」にしようと考え、フラワーショーの他に、「清潔で整頓された部屋」のコンテストも開催している。

図8 身の回りのありあわせなものに草花を植えて楽しむ人。
図9 貧しい暮らしのなかにあっても、家のなかの一番明るい場所で草花をいつくしむ人。

フラワーショーの開催要項について

パークスの実験的なフラワーショーは、1861(※日本は万延2・文久元)年に小規模なイベントとして開催され、その成功に勇気づけられたため、1862(文久2)年にさらに大規模な実験が行われた。

※この年号に関して、パークスは、前作(1862年発行の著作)の中で最初が1860年、2回めが1861年と記している

フラワーショーの開催にあたって、日時や会場をおさえたパークスは、コンテストへの出品についての募集要項を記したチラシを少数制作し、対象地域にある様々な店舗に掲示した。ほんとうに小さなスタートだったのだ。まず、コンテストに出品ができる対象は、貧困者が集まって暮らすリトル・コラム・ストリート地区の住人とそれに隣接するコート(路地、袋小路)に住んでいる人に限定した。これによって経済的な差や栽培条件に差がないようにした(日当たり等の条件によって地区を細分化していくことで公平性を保つようにする)。その他の条件は以下のように計画した。

①出品希望者は展覧会開催日の遅くとも4週間前に申し込みをする。植物を栽培するのに短すぎず、かつ、あまり長く設定して、育てる人が忍耐力を切らしたり、途中で枯らしてしまわないように設定した。

②申し込み時には自分の名前と住所、出品する植物を通りに面した店で登録し、審査官によってチェックを受け、その後、出品まで自分で管理をする。途中で別な植物に交換したり、展覧会直前に店で買ってきたものに交換されたりしないように目印をつけるなどされている。茎にテープを巻いて留め、その端を鉢に持っていって溶けたロウなどで封印するといった方法がある。ルールの裏をかこうと思えばいろいろな方法が考案されるだろうが、少なくともそうした不正をされないように務めることが大切で、それにより、真面目に参加する人たちのモチベーションを守ることができる。

③開催時期はその年の気象条件や花苗の出回りに合わせて臨機応変に決める。苗が一番数多く流通する時期にすること。貧しい人々が高い値段で苗を買うような事態は避ける。最初の取り組みでは140名の植物が登録され、開催日に出展されたのは94名となった。

④コンテストの審査は専門家(地元の庭師)に頼むが、多様な種類を比較するのは難しいので、窓辺で簡単に育てられるゼラニウム、フクシャ、一年草の草花の3部門を設定した。いずれも数多く流通しており、苗代は安くすむし、失敗して残念な思いをするリスクも減らせる(成功体験重視)。

⑤展示会場について、最初の開催時は地域の聖書伝道室だったが、2回目は国立学校の教室を借り、3回目はラッセル・スクエアの庭園というふうに規模を大きくしていった。基本的に少額ながら入場料(大人1ペニー、子供0.5ペニー)を取って賞金や経費に充てるようにした。ただしコンテストに出品する人たちは無料とし、参加へのインセンティブとした。

⑥コンテストは「お父さん、お母さんの部(一般)」「子供の部」「専門家・花商の部」というふうに区分し、入賞者には賞金が出る。貧しい生活者にとって現金は最もわかりやすく魅力のあるものである。といっても、それぞれわずかな金額で総額にしてもたいした金額にならない。実際、初回の賞金は1シリングから5シリングで、全部あわせても1ポンドだった。これは入場料収入で十分に支出できた。結果的に2ポンド以上集まったというので、1ポンド=20シリング=200ペンスで換算すると、出店者を含めて、ざっと300名を超える入場者があったことが想像できる。

⑦最初の実験開催で展示会場にした聖書伝道室では、フラワーショーのような華やかな雰囲気を出すために壁にひな壇を設けて緑の薄紙でおおい、そこに植物を並べた。出品者は自ら植物を搬入し、自分の名前と住所が書かれたカードを添えて会場に届けるようにした。会場はとても盛り上がった。入賞者の発表は夕方に行われ賞金が贈られた。

⑧出展作品は、うまくいったものも、そうでないものも混ざっていたが、いずれも展示されることが有益だと感じられた。植物が植えられた容器は、様々な日用品を再利用した手作り感あふれるものが多く、それだけ見ても面白く感じられた。なにより、よく手をかけられた植物を誇らしげに見せ合う人々の姿は、普段、罪悪感にさいなまれているような人にも人間らしい心があることを表していた。

⑨1回めの成功を受けて、2回め(国立学校の教室)、3回め(ラッセル・スクエアの庭園)も同様な進め方で実施した。2回め(1861)以降の特徴は、先述したようにより細かい地域ごとに分けて栽培環境を揃えたこと、植物をゼラニウム、フクシャ、一年草草花にしぼったことなどであった。ロンドンの大気汚染は深刻で、窓の外に置いて育てようとしても難しい植物があるため、コンテストの対象とする植物は十分に検討して選ぶ必要がある。難しい植物は、この催しの目的に対して逆効果になる場合があるので注意を要する。反対にいろいろと取り組みを重ねることで、容易に育てられ、またさらに立派な花が得られるような植物を見つけ出すこともできる(ダリアやヒゲナデシコ、ナスタチウムなど)。

最初の小規模な2回の実験的な試みは、ロンドンの他の地域にも影響を与え、3つの同様のコンテスト(フラワーショー)が開催されている。いずれも手応えを感じられる結果となった。栽培期間の設定は、最初は短い期間から始めて、会を重ねるごとに長期間にしていくのがいいだろう。

図10  2つの鉢植えを抱える人(挿絵)。

フラワーショー開催の結果、何が起きたか

最初の取り組みでは、数枚の告知を制作し掲示した以外、特にエントリーを促すような努力はいっさい行わなかった。それにもかかわらず、多くの関心を呼び、出品、来場者ともに満足の行く結果を得、2回め、3回めと広げていくことができた。3回めは栽培チャレンジ期間47日(5月23日~7月10日当日)と長期間となった。そのため、途中で枯らしてしまう人もいたが、会場はラッセル・スクエアという普段は一般に公開されていないすばらしい庭園であったため、ここに無料で入場し一日を過ごせるだけでも特別な体験になったようだ。

その特別感を演出するために、入場券は色分けされた3種類となっており、富裕層向けの一日券(白)は1枚1シリング、夕方5時から8時まで限定のチケット(青)は、労働者層向けで1枚1ペニーで販売され、出品者(エントリーした人)は富裕層向けと同じくまる一日を過ごせるピンク色の特別なチケットが無償で手渡された。

こうした工夫が功を奏して、出展者は274名、出品点数547点、来場者は3,000人以上という盛況となった。

3回目のフラワーショーは、同時に「清潔できれいな部屋」コンテストの授賞式も兼ねて開催された。

ここまで見てきたように、ロンドンがものすごい大気汚染の進むなかで、しかも、極貧にあえぐ人々を対象としたフラワーショー(コンテスト)が成功するのか、当初は、その実行可能性や実現に対して大きな疑問符がつきつけられていたにもかかわらず、彼らの植物栽培は成功し、その後に起きた変化は様々な教訓をもたらし、あらためて、「植物を育てること」「部屋を清潔にきれいに維持すること」が生活そのものを根底から改善することにつながるという意義に気づかされることになった。パークスは以下、5点にまとめて記述している。

①ロンドンの貧困層のすべての階層で、草花に対する愛情が存在することが確認できた。

②草花をいつくしみ育てることは手軽なレクリエーションとして役立てられる。

③フラワーショーの開催によって、健康や社会的なことがらへの重要性を喚起できた。

④植物が部屋の空気の清浄化に役立ち、ひいては地域の環境改善に役立つことがわかった。

⑤植物に触れることが貧しい人々の精神状態に直接・間接的に影響を与え、神に対する信仰心を思い出させる。

図11 仕事終わりの時間を飲酒や遊興で過ごすのではなく、植物に触れることで暮らしが変わる(挿絵)。
図12「THE PET FLOWER」という表記のある図(部分:挿絵から)。

これまで見てきたように、イギリスでは19世紀に入ってから園芸が、人々の生活の質を向上させるだけでなく、様々な社会問題に苦しむ大衆の不満を和らげる働きがあるという視点から、様々な政策や運動が行われるようになっていった。園芸的な活動を取り入れる活動は、貧困層だけでなく、安定した仕事を持つ一般労働者(工場労働者や職人など)向けにも企画されていく。郊外に「野菜や花を育てる土地」を貸し出す仕組み、いわゆる家庭菜園、「アロットメント」の広がりや、王立園芸協会が主催するフラワーショーの開催、地域全体で窓辺の花を競うコンテストの開催といったことが行われてきた。こうした官民あわせての150年を超える取り組みが「ガーデニング大国」を作り上げていったのである。

参考
本連載第22回 人をまきこみ、「花の街づくり」を進める方法~調査研究報告を読む

「部屋をきれいに」して花を飾り暮らしを変える

パークスは、フラワーショーの取り組みと同様に「清潔できれいな部屋 Clean and Tidy Room」の運動に力を入れた。第3回の花展にあわせて、きれいな部屋のコンテストも実施している(図13)。

1860年代のロンドンにおける最貧層の人々の暮らしは想像を絶するほど不潔で無秩序だった。ある意味、当時の未熟な社会制度が生み出す問題のあらゆるしわ寄せがここに集まっており、こうした問題を改善するための直接的、体系的な取り組みはまだ行われていなかった。ただ、パークスは、官民による支援と同時に、生活者自身が心から改善を望み、協力する心構えを持たない限り、衛生的で持続可能な生活環境の改善は果たせないと考えていた。どんなに外からお金と手間をかけても無意味になる。「清潔で整頓されたきれいな部屋」のコンテストは、まず自分たちの生活のなかにある悪に気づくこと、清潔で衛生的であることの意義を知ること、悪い部分を改善したり、取り除いたりすることを、生活者が自らできるように誘導するために企画された。

まず、フラワーショーと同様に、コンテストの要領がチラシで告知され、賞金総額5ポンドの分け方が示された。具体的には、1863年5月9日から7月8日までの期間、きれいに整頓された部屋に対して賞を与える、というふうにした。この期間中に審査員は複数回、実際に部屋を訪ねて審査をする。参加条件はただひとつ、5月9日までにエントリーを済ますことだけ。これに対して86人の応募があった。審査といいながら、住民を調査するスパイ行為なのではないか、などという声もあったというが、訪問審査は意外とすんなりと受け入れられ、むしろ人々は喜んで部屋に迎え入れようとすらしたという。

審査の方法は点数制などいろいろと検討されたが、最終的にはA)きれいに整頓されている、B)整頓されているが、清潔ではない、C)清潔であるが、整頓ができていない、D)きたない、よごれている、の4項目を記録するようにした。こうして評価自体はシンプルにしたものの、それ以外の要素を考慮する必要があった。例えば、家具や装飾品の並び順や配置の具合といったことである。審査は2人で分担して行ったが、「目合わせ」をするために最初のうちは一緒に部屋を回り、特にAとDの基準はしっかりと決めた。おおむね、みな、部屋をよく見せるために努力をした。お金をかけて部屋の壁のペンキを塗り直したり、家主に圧力をかけて必要な修理を実施させたりしていたという。

最終的に、ABCDそれぞれに4点、2点、2点、0点を配分し、「ベストルーム30」を選定した。その上で、2人で再度この30の部屋を一緒に見て回り、メモを取った上で最終検討を行って賞を決めた。結果は満足の行くところに落ち着いたが、審査員の一人は、自分で1ポンドを寄付して、そのお金を、賞に惜しくも漏れた人々に少しずつ分けることにした。

この最終評価をもう少し細かく分析してみると、86人の参加者の部屋がどう変わったかが見えてくる。つまり前回の記録と、次の記録とを見直してみるとどうなるか。結果は31人の部屋は清潔さと整頓において真の進歩を遂げており、3人は開始時からほとんど変化がみられなかった。

さらに、コンテストが終わってからそれぞれの部屋がどうなったか、ということも調べている。想像どおり、大半の部屋が汚れたり、乱れたり、という元のような姿に戻っていた。つまり、コンテストは繰り返し行われることが望ましいということがいえる。また、なかには、きれいな部屋をずっと維持している人もおり、よい結果につながっていることにも希望が得られた。

図13 部屋を整えることで暮らしが変わる。「清潔できれいな部屋コンテスト」で入賞した模範的な部屋(挿絵)。

日本は、畳敷きの部屋に履物を脱いで上がり、お風呂に入って体を清める文化があるため、部屋の清潔さが生活を健康で心地よく維持するために重要であることはよく理解できると思う。現代は部屋についての「風水」であるとか、「片付けのプロ」が活躍する時代でもある。パークスもこの点を重視し、しかも、園芸と同じ地平で考えていた、ということが非常に興味深い。パークスが問題提起したことは、150年を経た現在でもその重要性を失っていない。花や植物がある暮らしがよいことがわかっても、それを置く場所がなければ何も始められないのだ。モノにあふれる現代は、スペースを見つけ、そこを整理し、空間をつくっていくという視点が欠かせなくなっている。「片付けのプロ」が存在する、というのは、片付けが難しいということと同時に、解決方法があるということを示している。

図14 社会には常に花を求める人があり、必要とされる場所がある(挿絵)。
図15 小さな場所にも花を飾ることで空間がよりよい雰囲気に変わる(挿絵)。

花は貧しき人により多くを語りかける

貧しい暮らしに耐えている人々を対象にパークスが企画したフラワーショーに参加することで、飲酒する時間を園芸の時間に変える人も出てきた。ヨーロッパの夏は日が暮れるのがとても遅いので、園芸作業をする時間は十分に取れるだろう。こうしたなかには、意外な才能を開花させる「隠れた園芸家」もいた。世のなかに背を向け、ひきこもっていた人が外に出るきっかけになった事例もあった。ほとんど陽の当たらない部屋に住んでいる一人暮らしの女性が育てたゼラニウムは結局花を咲かせることはできなかったが、本人は満足しているという。自分が植物に毎日手をかけて育てるようなことをするとは思ってもみなかったのだという。図12の挿絵の説明に「THE PET FLOWER」という言葉がある。とても気に入ってかわいがる、まるで動物のように一緒に暮らすという意味が込められた言葉だと思う。それは、単に花を窓辺に飾る、という用途を超えた心の深いところでの結びつきや、愛情のある生き物との交流、慰めといった感情のこもった関係なのだ。

こうした植物との交流で日々感じることを通じて、人々は神の存在を思い出すようになる。この世は苦しく辛いことばかりだけれど、植物はこの汚れた薄暗い場所でも黙って生長し、新しい葉を開き、花をつける。これは偉大なことであり、花を窓辺に飾る人々に明るいエデンの園、その世界を暗示させる。そこ(楽園)には、もはや罪も悪も存在しない。そういうものを自らの手でこの部屋にもたらそうとしているのは、なにより、自分自身なのだと気づくのだ。建物の最上階に暮らす貧しい老女はイチゴの苗を育てていた。筆者が「花が咲いていますね、もうすぐ実がなって食べられますね」と話しかけると、老女は「イチゴが食べたくて育てているわけではないのです」と答えたという。「私はとても貧しくて、生き物を飼うことができませんが、あの生きている植物があるおかげで慰めになっているのです」。パークスはこのイチゴは神の姿であり、老女に語りかけているという。「花やみどりは、財産の豊かさに心を奪われている人々よりも、貧しい人々に、しばしば、そしてより明確に語りかけているのです」と記している。

参考
本連載、第132回 恵泉女学園、山口美智子先生と「日米交換船」

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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