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第137回 マルサといけばなの巨人~古い家元制から経営の近代化へ

公開日:2021.9.24

『週刊読売』昭和45年2月6日号

[発行]読売新聞社
[発行年月日]1970年2月6日
[入手の難易度]やや難

参考
『華日記~昭和生け花戦国史』(早坂暁コレクション13) 早坂暁・著 勉誠出版 2009年

昭和、戦後のいけばな界をめぐるさまざまな人間模様を描いた小説『華日記』(新潮社1989)は、テレビ番組の放送作家、脚本家、小説家として多くの作品を残した早坂暁の作品である。この本は当時、最前線で文字通り互いに切磋琢磨していたいけばな作家や家元らの姿をフィクション(小説)という形ではありながら実名で活写する意欲作だ。早坂は、いけばなとお茶の専門紙「日本女性新聞」の記者をされており、登場する作家や家元に実際に交流し面識があった。早坂にしか書けないようなディープな世界がなまなましく表現されており、実際にタイトル通り、日記のように日付を入れながら時間軸に添って多数の登場人物の行動を織り込みつつ、それぞれの戦後の真摯な戦いの軌跡が描かれている。

今回、取り上げるのは、いけばな草月流の創設者、家元の勅使河原蒼風が国税局の査察を受け、当時の個人としては記録的な巨額脱税事件としてニュースになった事件である。当時のいけばな界は、戦後の復興から3,000流派、生徒は1千万人(三大流派だけでもそれぞれ100万人の門下生)ともそれ以上ともいわれるほど隆盛を極めており、いわば「古くて巨大な集金システム」の集合体であった。こうしたブームに対して、不透明な「家元制度とお金」への批判がつねになされるような状況だったが、昭和42(※小説では43)年の池坊に対する税務調査(脱税容疑)と3年後の本事件をきっかけに、古い経営方法を残すいけばなの各流派は完全に近代的な組織づくり、経営にかじを切ることになった。それは「師弟制度、お礼」といったあいまいさを脱して、「授業料、受講証、資格認定」というふうに変わり、「おけいこごと」から「教室、スクール」への転換であった。いずれにしろ、戦前の「大福帳」的な勘定、生徒が数百人規模のシステムのままでは必ず行き詰まる。「おけいこごと」から日本固有の文化、芸術としてさらなる発展をめざす戦後いけばな界の経営近代化は必達の課題だった。そのためには誰かが象徴的に祭壇へその身を捧げられなければならなかったのだと思う。そのような歴史的な転換点を示す記録である。

スポーツでいうと、プレイヤーとコーチは役割も技術も異質であり、それぞれに備えるべき知識と技術がある。サッカーの場合、日本サッカー協会が取りまとめをし、リーグ戦や大会の運営、観客への対応、次世代の教育・育成といったあらゆることがらを組織的に運営、経営している。指導者をめざす人には教育プログラムがあって資格認定の制度が用意されている。サッカーは国内だけでなく、国際的な取り決めも整備され、世界的な競技としてなりたっているわけだが、そこには世界的に普及していくために問題を解決し変わっていった歴史がある。いけばなとスポーツをいっしょにはできないが、多くの人々に支持され続けるためには、持続可能な仕組みが必要なのは同じことだろう。

昭和45年1月25日火曜日 晴一時曇り

『華日記』には、この日のことを勅使河原蒼風の長女、霞の行動から書き出している。この日とは、国税局の職員が査察に入った日のことである。霞はいつものように草月会館に出てきており、手伝いの女性が「あれは、なんでしょう」という声にうながされ、窓から階下の通りを見ると、十数台の車が会館の前に続々と停車しているところだった。小型トラックも2台つけられていた。背広にネクタイの男たちが次々と車から出てくると、玄関にどんどん入っていった。その数は50名にもおよんだ。霞はすぐに市ヶ谷の蒼風邸に電話を入れたが、すでにそちらにも捜査の手が入っていた。夕方からは蒼風と霞の二人が大手町の東京国税局に呼ばれて査察官から5時間に及ぶ取調べを受けた。

結局、東京国税局は家元、蒼風の脱税容疑で局員約200人を動員し、草月流本部や支部を強制捜査した。このときの捜査では、蒼風は過去3年間に3億7千万円の所得を申告し、所得税として2億4千万円を納めたが、ほかに5億円の所得を隠しており、個人では史上2番目の脱税ということがわかってきた。査察官は「家元としての収入となる免許料と出稽古収入をごまかしている」という指摘だった。調査資料は5年前の分から記録されており、査察が長い時間をかけて内密に調べを進めてきたことを示していた。5年前というと、蒼風が日本いけばな芸術協会の理事長に就いた頃であり、そのときからマークされていた。大阪国税局による池坊学園や池坊華道会の調査が入った昭和42年の時点で、すでに草月流にも調べが進められていたのだった。

結局、勅使河原蒼風は7億5千万円の脱税をしたとして起訴され、検察側は懲役1年、罰金1億円を求刑した。蒼風は一審の判決の罰金1億円を不服として控訴したが、二審でも同じ判決となった。この事件は草月流だけでなく、いけばな界全体にも大きな衝撃となり、各流派は近代的な経理機構を大急ぎでととのえることになった。なかでも小原流の対応は機敏で、免状のシステムも学校の単位制を取り入れ、教授資格は学力試験も加えるなど大きく刷新していった。

以上が、小説『華日記』に書かれていることの大要である。

余談だが、いけばなの流派に所属する生徒の人数に関して、とても興味深いことが記されていた。それは、当時の各流派はどこも、「自分たちの流派で習っている門弟の数を正確に把握していなかった」という驚くべき事実である。各門下生は各支部の現場で教授している教授者それぞれが各自把握しているので、総数はいつもあいまいなのだという。それで、どうやって人数を推定するかというと、「平均して教授者一人につき十人の門弟がいると、計算する」のだそうである。これはあくまでも今から50年ほど前の話で、現在はまったく違っていると思われる。

週刊誌は事件をどのように取り上げたか

日本のいけばな界を代表する巨人が「巨額脱税」の疑惑で1月末に当局の査察を受けたことが世間に知られると、さっそく週刊誌がこれをかっこうの「ネタ」として記事にしている。ここでは、『週刊読売』の記事(図1、図2)を取り上げる。記事のタイトルと見出しでは、かなりスキャンダラスな事件を追求する、といった印象を受けるが、いけばな関係者に何人も取材しコメントを取っており、日本の伝統文化に共通する「家元制度」についてのまっとうな批判記事となっている。とくに、家元制度の研究で第一人者と言っていい西山松之助教授の小論文も掲載されていることには驚かされた。記事では、いけばな以外にも「家元制度」をビジネスモデルにした新しい分野についても不透明な経営にならないよう警鐘を鳴らしている。

図1 記事が掲載された週刊誌の表紙。
図2 いけばな界トップの不祥事に対して大きな見出しできびしい言葉が投げかけられた誌面。

記事でコメントが掲載されているのは、次のような人たちである。

評論家、ジャーナリストの大宅壮一、青地晨。茶道の裏千家家元、千宗室。いけばな界からは、安達流から飛び出し、自ら「制作室」を構えて作家として活動する安達瞳子、国際的に活躍した国際生け花協会会長の大野典子。日本の音楽・舞踊評論家、蘆原英了。他の記事からの引用でNHK交響楽団の正指揮者、岩城宏之、そして、東京教育大学教授の西山松之助の論文である。いずれも「家元制度」の功罪について触れていて興味深い指摘がみられるので、ここにメモしてみたい。

ピカソは弟子に代稽古させたり免状を与えたりしない(大宅壮一)

「彼の成功の最大の原因は、昔ながらの古典的な“生け花”と芸術的な“オブジェ”とを同じ組織の中に結びつけ、家元という、もっとも古くて、もっとも巧妙な搾取形式と、もっと高踏的、超俗的な前衛芸術とを同一基盤の上に仲よく“共存”させていることである。一口にいうと“もうかる前衛”をつくることに成功したのだ。もっとも、大いにもうけているのは蒼風氏だけで、これは芸術とは関係ない。ピカソやマチスに傾倒するものが世界中に何百万人あっても、彼らは弟子に代稽古をさせたり、金をとって免状を与えたりしない。芸術家と芸術商人、芸術職人、芸術企業家との違いはそこにある」

”錯覚”を売る制度(青地晨)

「弟子たちにとっては、家元が生けた作品は“偉大なる芸術品”であり、その“芸術”を免状という形で、金を払って買っていく。そして、自分も“芸術家”の末席につらなった、と錯覚する。―この錯覚を起こさせるのが家元制度なのである。」「なぜ家元がありがたがられるか、それは秘伝、奥伝を持っているからだ。しかし、秘伝、奥伝なんて屁みたいにくだらんものなんです。要するに、褝のような精神的なもので、そういうのは売ったり買ったりするものではない。まあ、一歩さがって芸術だとするなら、家元より優秀な弟子がどんどん出てきて当たり前なはず。芸術より血筋のほうが大切だとされているところから、真の芸術が生まれるはずはないではないか」

いまは「家元」ではなく、いい「作家」をめざす(安達瞳子)

安達式挿花の家元を、父の潮花氏から継ぐはずだった安達瞳子さんも、この制度に強い疑問を持った。

「むかしの、つまりできはじめの花道は、連歌あわせのように、自分の好きな花器や花を持ち寄って生け、それをお互いに批判しあったと思うんです。師もなく弟子もなく、そこには純粋なディスカッションだけがあり、そして発展があった。こういう型を、私は肯定するのです。ところが、こういう型が変じて、いまのような家元制度が確立されてしまった。私の父も自分の生け花をさがし、そして流派も作りました。そういう父は好きです。だから私にも無からはじめよ、自分で自分のものを作り上げよ、というべきだったのです。しかし、父は年をとるに従って、それをさせてくれないばかりか、自分のパターンをそのまま私に押しつけようとしたんですね。とうとう耐えられなくなって、私は自分の制作室をつくったのです。いたずらに自分を押しつけるような花道は、私は好きではありません」

いま、瞳子さんは、生け花作家として勉強している。家元制度のようなボロもうけばできないが、コマーシャル・ベースにのった仕事を見つけながら、一人で勉強していくだけの収入は得ているという。安達式挿花の二代目を継いだ彼女の長兄と家元争いのようなこともあったが「とにかく、いまは家元になるのが私の目的でなく、いい作家になることだけを考えています」という。

「家元制度」のままでは国際的な発展はのぞめない(大野典子)

「生け花というのはハサミひとつあればいいのです。あとはその人の努力と創作していく力だけです。私は十五年前に外国へ行きまして、外国から家元制度を考えたとき、これでは生け花を国際的に発展させることはできない、と思いましたよ。世界の美的感覚はどんどん変わっているんです。その中で生け花をどう生かしていくか、これはもうたいへん努力して個性をみががなくてはならないのです。こういうときに、やれ流派だ、やれ看板だなんて、小さな小さなことをいっていると、家元制度などはしぜんに消滅していくでしょう」

門下生の側が「権威」を求めて制度が維持される(青地晨)

なぜ家元制度がはびこる? というように、家元制度に対する批判はかなりあるが、それでは、いったいどうして 元制度はなくならないのか。そこのところを青地晨氏はいう。

「たいへん極端だが、日本の政治が天皇を家元とする“家元政治”でしょう。考えてみれば、宗教、ヤクザ、バクチ打ちなども家元制度みたいなものだ。しかしねえ、家元制度がここまで続いてきたのには、仕方のないこともあるんだ。家元が死んだあと、次代が長男と決めてあれば、紛争が起こらなくてすむ。これを実力のあるものが…となると、かならず反対派が造反を起こす。だいいち、実力といっても、相撲のように勝負をはっきりつけられる世界ではないのですからね」

さらにもうひとつ、家元制度は未亡人助けをしている。日露戦争の直後と、第二次世界大戦直後に、花道、茶道がもっとも盛んになった。日露戦争後の場合は、未亡人がふえたからで、未亡人は生活のために花道、茶道を習い、権威づけるために家元の看板を買った。この看板は、よりよい商売をするための、資本である。

バレエ界や洋楽界も家元化がみられる(青地晨、蘆原英了、岩城宏之)

洋裁、料理学校の家元化はよく知られているが「民謡にまで家元らしきものがでてきた、といわれているが、いまにセックスの体位の家元なんていうのもでてくるかもしれない」と青地晨氏は笑う。事実、バレエ界にも、家元制度がはびこりはじめている。「バレエは公演することが本命で、理想的な公演は芸術家同士が集まってやればいい。しかし、そうなると役争いが起こり、切符の割り当てでモメる。だから、いまのバレエ界は、それぞれの有名なバレエ家が弟子を集めて一家を作る。公演のときは、そのバレエ家の一存で役が決められる。切符さばきのいい弟子がいい役をもらえるということだってあるんですからね。経済的にこうやっていくより仕方ないんですよ。(以下略)」友井唯起子・法村康之夫妻も、その研究所をむすこに譲るだろうし、松山樹子もむすこの哲太郎にあとを継がせる。これなど、花道、茶道と同じような家元制度になっていきそうな不安がありますねえ」(蘆原英了)。さらにこれと同じような現象は、洋楽の世界でも広まっている(岩城宏之)。

※池坊の長い歴史の中で名人専好に学び、次世代の家元候補と目されるほど立華の腕前を誇った大住院以信の時代(江戸時代前期)、江戸幕府の将軍は3代徳川家光から4代家綱に引き継がれる頃、家光の異母弟であり、将軍家光、家綱を補佐したの保科正之が主導し世襲制度を確立していった。これは家督相続でもめごとにならないように、国家を安定させる手段としての決まりだったが、世の中のあらゆるところに同じ原理が敷かれるようになったという。池坊もその後、代々、世襲で家元が決まるようになっていった。

最後に、西山松之助教授が寄稿した《無限の収奪者「家元」》を再録して、本稿を終わる。

無限の収奪者「家元」

西山松之助

家元という、外国にはまったく例のない不思議な制度が育ってきた秘密は、日本の文化の「遊芸」という独特のパターンによるところが大きい。それは「自分がその文化の創造、鑑賞に参加する(たとえば、花をいける、茶をたてる、あるいは唄う、踊るなど)」というところに、最大の特徴があるのだが―。

家元制度の発生は江戸時代、十八世紀の中ごろ、宝暦、明和、安永、天明期である。このころ、富を築き実力を持った町人-中級階層が勃興してくるが、鎖国政策で閉じ込められているうえ、国内も士農工商の身分制度で固められていて、それら実力者が頭をもたげるすき間がない。

こうした封建社会で不満を解消-自己を解放するには、どんな手段が残されたか。それは現実とはまったく別の「社会」を形成するしかない。その社会が実は家元制度として新しく設定されたものなのである。そこでは戸籍とは違う名前を持ち、身分序列も現実社会とは逆転させることができた。

町人が文化人として誇りを持つようになるのはよかったが、人が多くなるほど権威がほしくなる。実際に免許をもらう場合、いかに師匠でも、その人が現実には横町の魚屋のオッサンでは権威がない。やっぱり、免許を出してくれるのは、はるかに遠い存在のほうがありがた味も多い。門弟たちは免許を最高権威者にもらうことを希望し、このような要求が勢い免許状発行権を家元という最高権威者に集約させることになった。

だから、家元形成の原因は、一つは弟子たちの希望であったともいえる。この家元文化社会の女性化現象は太平洋戦争後いっそう急角度で促進されていった。花道、茶道、日本舞踊などのお稽古ごとに投じた女性は、私の統計によると昭和二十四、五年ごろから急カーブでふえはじめ、三十年ごろに一つのピークに達し、以後、漸増現象を見せつつ今日に及んでいる。ちなみに、その文化人口は、花道だけでも一千万人をはるかに越える女性たちがいる。

この現象は、悲修な戦争体験から、女性自身が自活の道を見つけておくプロフェショナルな必要を感じたことと、いま一つは、文化的、芸術的なふん囲気の中に自己解放を発見するということなどによって招来されたものである。かつて、町人階層を解放した、「遊芸」は、戦後、女性を文化人として組織し、解放する役割をになったのだ。

だが、近年はなはだしい腐敗をみせている。四十二年の池坊に次いで、今回の草月流の脱税事件などはその一端だといえよう。

こうした腐敗は、免許状発行権を独占したことによる収奪から始まっている。「家元の論理」は中間の名取、師匠を通り、末端まで浸透している。この収奪の通路は二本の道になっている。一つは免許料という通路である。いま一つは、きわめて不明確な通路である。というのは、芸の道は果てしなく、したがって果てしなく収奪が続けられる― つまり、無限の収奪が可能になる通道なのである。

家元の腐敗を防止するには、まず家元にきびしい自己鍛錬が必要だ。と同時に、大衆の側でもいたずらに権威をあがめる日本人の伝統的な思考方法を改める必要があろう。

このような大衆の思考や行動様式が改まらない限り、いまのような資本主義社会下においては、家元制度は腐敗し、非難されながらも存続することであろう。 (東京教育大学教授)

 

参考
『週刊新潮』1967年12月9日号(第12巻49号 通巻614号)p140~144

「池坊”脱税”を笑う家元企業–免状ま売り過ぎた必然のつまずき」

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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