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第138回 勝つとも負けるとも、私たちはすべてを失うだろう~ドイツの老育種家の言葉

公開日:2021.10.3 更新日: 2021.10.27

『ガーデンライフ』1971年11月号

[発行]誠文堂新光社
[発行年月]1971年11月
[入手の難易度]やや難

参考
コルデス社のHP 沿革 HP内Historyの記述等
https://www.kordes.us/

ドイツのバラ愛好家のためのサイトからコルデス社について
https://www.welt-der-rosen.de/zuechter/kordes.html

 

戦争はすべてを奪い、貧しさだけが残る

本連載、第131回で、ユリの銘花「スターゲイザー」の作出者について触れた。今回は、幾多の銘花を生み出したバラの育種家、巨人、ウィルヘルム・コルデス2世(1891-1976)の人生についてみていこうと思う。きょうのお話は、ドイツの有名なバラの育種家の物語だが、ふと、宮崎駿監督のアニメ作品風『風立ちぬ』に登場する主人公、堀越二郎があこがれたイタリア人飛行機設計者、ジャンニ・カプローニ伯爵が思い出された。カプローニが二郎に語りかけるように、老ウィルヘルム・コルデス2世は、現代を生きる私たちに何を語ろうとするのだろうか。

テキストは、いまからちょうど50年前、1971年の『ガーデンライフ』誌上に掲載されたミスター・ローズ、鈴木省三とバラ愛好家だった国会議員、青木正久の両名が書いた、巨匠との出会いと親しい交流の記録である。この記事で気づかされたのは、歴史ある会社にはたくさんの人々から愛された栄光の記念碑もあれば、暗い時代の影に覆われた悲しい記憶も必ずあるということだ。

ドイツのバラで有名な種苗会社というと、このコルデス社(Kordes)の他に、ローゼンタンタウ社(Rosen Tantau)のようにいずれも100年を超える世界的な会社がある。両者の所在地は近く、同じシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にあるが、どちらも二つの世界大戦で施設や種苗のほとんどすべてを失っている。また1925年8月10日の「雹(hailstorm)」の被害も大きかった(ユーテルゼンのタンタウ社は施設、種苗ともほぼ全滅)。

日本はドイツ、イタリアとともに枢軸国として同盟し第二次世界大戦を戦い、敗戦した。そのため、加害者というより被災者として自分たちの過去を強く記憶しているが、ドイツもその多くの地域で連合国軍による空爆を受けぼろぼろになっていた。ここで紹介するウィルヘルム・コルデス2世は、自身が戦地に行くことはなかったが、第一次大戦と第二次大戦の両方を経験している。その経歴を見ると、フランスとイギリスで長く仕事をしており、友人も数多くあったはずで、戦争はそうした人々との交友を残酷に絶ち、すべてを奪った。第一次大戦ですでにその悲惨な体験をしたウィルヘルムは、第二次大戦が始まろうとする時、その最初から結末をよく理解していたのだと思う。ウィルヘルムは、ヨーロッパやアメリカのバラの友人たちに向けて「勝つとも負けるとも、私たちはすべてを失い、貧しさだけが残るだろう」というメッセージを残している。

戦争になれば、総力戦で、もはや花作りどころではなくなる。栽培施設を失い、栽培のための資材を失い、大切な種苗を失い、そして顧客も、生産に携わる人々の命も失われるのだ(コルデス社25人死亡)。貧しさとは、モノの欠如だけでなく人のこころの貧しさも含めているのだと思う。

※タンタウ、コルデスを生んだドイツ北部地域のバラ愛好熱について
https://www.rosarium-uetersen.com/historie.html

ユーテルゼンを含む私たちの地域がドイツ最大のバラ栽培地に発展したのは、バラの接ぎ木を広めたユーテルゼンのバラ学校の先生、エルンスト・ラデヴィッヒ・メイン(Ernst Ladewig Meyn)のおかげである。1909年には、ユーテルゼンで初めてのカットローズショーが開催され、ドイツ中の注目を集めた。同じ頃、ミュレン通りと現在のリヒトホーフェン通りの間にカイザー・ウィルヘルム・ローズ・パークが作られた。

その後、1925年の降雹被害により大きなダメージを受けたカイザー・ウィルヘルム公園のバラ園は、最終的には解体されることになったが、地域の世界的なバラの生産者であるマティアス・タンタウとウィルヘルム・コルデス2世は、閉鎖された工場の池の跡地に新しいバラ園を作ることを提案した。このプロジェクトに賛同したユーテルゼンの町は1929年にバラ園の建設を開始し、1934年に一般公開された。

北部ドイツ地域の有名なバラ栽培会社である、ユーテルゼン(Uetersen)のタンタウ社(Rosen Tantau)、シュパルリーショオップ(Sparrieshoop)のコルデス社(W. Kordes’ Söhne)、ホルム(Holm)のBKN Strobel(Meillandシリーズの販売パートナー)などがこのバラ園の運営を継続的にサポートしている。

※ちなみに明治初期に北海道開拓使の教師、ボーマー商会の経営で日本と関わったルイス・ベーマーは、同じく北部のリューネブルクの出身者であった。

図1 バラ育種の巨人にしてコルデス社の中興の祖、ウィルヘルム・コルデス2世(1891-1976) Kordes II, Wilhelm J.H。(『ガーデンライフ』1971年11月号の記事から)

 

コルデスのバラ

コルデス社は、1887年に創業し、現在も健在である。これまで多数の銘花を創出(図2~7)し、バラの世界を豊かにしてきた。そのファミリービジネスの系譜は次のようである。

コルデス社since1887の沿革 HP内Historyの記述(DeePLにて翻訳し修正した)

https://www.kordes.us/

1887年、ドイツ・ハンブルグの北に位置するエルムスホルン(Elmshorn)という小さな町で、22歳の青年、ウィルヘルム・コルデスが「W.Kordes’ Sohne」というバラ苗生産のための苗圃園(ナーセリー)を設立した。彼はバラの増殖のために様々な場所からバラを集め、当時のバラの第一人者として知られるようになった。事業は順調に推移し、1918年にはドイツのシュパルリーショオップ(Sparrieshoop)に移転し、現在に至っている。

やがて、ウィルヘルム2世(という表記)と弟のヘルマン(※きょうの記事中では2世を省略したウィルヘルム、ハーマンと表記されている)が父の事業に参加するようになった。ヘルマンはマーケティングと生産に専念し、ウィルヘルム2世は1920年にバラの新品種の育成プログラムを開始した。

この兄弟のパートナーシップにより、生産量は大幅に拡大し、1930年代後半には年間100万本以上に達した。また、1935年に発売された「クリムソン・グローリー」のように、世界的な品種改良にも成功した。1950年代から1960年代にかけても、新しい温室、近代的な低温貯蔵施設、生産量の増加など、会社は拡大を続けた。

1950年代後半には、第3世代が会社を率い始める。ライマー・コルデス、ハーマン・コルデス2世、ヴェルナー・コルデスの3人は、アイスバーグ「コルビン」(1958年)、「リリ・マリーン」(1959年)、「カラー・ワンダー」(1964年)、「ウェスターランド」(1969年)などのバラを発表した。生産量はピーク時には年間400万本を超え、W. Kordes’ Sohne社はヨーロッパでも有数のバラのナーセリーとなった。1970年代には、「サンスプライト」(1973年)、「ロザリウム・ユーテルゼン」(1977年)、「ヘルムート・シュミット」(1979年)などのスーパースターが誕生した。1988年、ウィルヘルム・コルデス3世、ベルント・ヘルムス・コルデス、ティム・ハーマン・コルデスの3人で4代目への経営交代が行われた。現在は、アレクサンダー・コルデス、ノーマン・コルデス、ジョン・コルデスら第5世代がファミリービジネスに参加している。Kordes®は、世界30ヵ国以上でバラを販売しており、北米でも容易に入手できる。

図2 コルデスパーフェクタ(上)、ノイエレビュー(下左)、ケーニゲンデルローゼン(下右)。
図3 シルバースター(上)、エステルオファリム(下左)、トラディション(下右)。
図4 カーディナル(上左)、バレンシア(上中)、イザベルデオルティッツ(上右)、トライアンフ(下)。
図5 バヤッツォ(左上)、レッドクイーン(左中)、クリムゾン・グローリー(左下)、ゴールドトッパーズ(右上)。
図6 ゴールデンゾンネ(上)、ソニヤホルストマン(下左)、ペールギュント(下中)、ボッブポープ(下右)。
図7 パーフェクタシュペリオール(左上)、リバティーベル(左中)、アーネストH.モース(左下)、オールドタイム(右上)、ドゥフトツアウバー(右下)。

以下、鈴木省三、青木正久の記事を再録して本稿を終える。記事で何度も称賛されている「クリムソン・グローリー“深紅色の誉れ”」は、1936年のイギリス・バラ協会で金牌を受賞するなど世界的に評価されるバラとなっていた。

 

ぞくぞくと銘花を生む ウィルヘルム・コルデス

創業80年を超える西独のバラの巨匠をみる  鈴木省三

 ウィルヘルム・コルデス師との対話

1970年9月22日(火)、その日は私の生涯にとって忘れることの出来ない日になった。

その日は北欧全体に3日つづいた雨がすっかり上がり、西ドイツのホルシュタインの大空は透き通った青空に、雲ひとつなかった。

私は、当主ライマー・コルデス氏に案内されて実生の大温室や試作場で、息もつかせぬ説明をききながら、(先年の来園に比べれば迫力ある充実ぶりを)ていねいに見てまわった。

そしてあの4分の3世紀を超える光栄ある歴史と伝統を持つその実生温室の横をぬけて戻ろうとしたその時!! 老ウィルヘル厶・コルデス師が杖をついて、私達の方にかなりたどたどしい足どりで、一生懸命努力していそいで歩いてくるのだ。息子さんのライマー・コルデス氏は横綱「大鵬」そっくりの体格で、2mの巨体をゆるがして笑いながら、「そんなに急ぐことはありませんよ、ミスター・スズキがそちらへ行くのですから」となだめたが、老ウィルヘルム師はニッコリと微笑で答えながら、少しも足をゆるめず急いで私達に向かって近づいてきた。私の前に立つと、老ウィルヘルム師は姿勢を正して握手の掌をさしのべてくれた。

しわくちゃな痩せた手であったが厚い大きな掌で、これが4分の3世紀、バラの世界をゆるがした老ウィルヘルム師の掌であったのだ。

園芸を学ぶ学生時代から、私はバラの美しさに魅かれ、コルデス氏のような育種家に憧れていた。そして1度目1968年には会えず、今度の二度目の訪問にようやく会うことができたのであった。そしてすぐにライマー社長に英語で「私としては永い間の希望がかなって、老ウィルヘルム・コルデス師に逢え、こんなにうれしいことはない。日本のバラの愛好家でウィルヘルム・コルデス師を知らない人はいない、どうか日本にも来て下さい」と話し、「私はドイツ語は喋れないから私のこの英語をドイツ語に通訳してあげて下さい」とライマー氏にたのんだ。老ウィルヘルム師は英語を絶対に喋らないことを、かねて幾人の人からも聞いていたからだ。しかし、この時、突如、老ウィルヘル厶師は、口を開いた。

「アイ アンダスタンド オール オブ ユア スピーキング(あなたの喋ることは何でも分りますよ)」と流暢な英語でいって透んだ青空を見あげて笑い、ニコニコして私の顔を見守った。私はおどろいて「それは失礼しました。おゆるし下さい」とあやまった。

老ウィルヘルム師は「いや、あやまることはない。ほんとはあなたが日本語を喋るのを私が聞かねばならないのだけれども、まったく日本語が分からないから、私があやまらなければならないのだ」と言ってくれた。それから、諷刺的な言葉で有名だという老ウィルヘルム師とはまるでちがった、神のような言葉で交雑育種に関していろいろ親切に答えてくれた。

クリムゾン・グローリー、コルデス・パーフェクタをはじめ、幾多の不朽の銘花を知っている日本のバラ愛好家があなたの来る日を待っている旨を話したが「私はもう年寄りだ、あまりに年をとっている。バラも若い世代の人達の時代なのです。私が行っても何も日本のバラ愛好家に与えるものはない」と淡々と答えが。私は「バージニアのリジャンドルさんも、ペンシルバニアの老ハットンさんも二人連れで、この春、日本へ来てくれました。おふたかたとも73才だそうですね、まだ両氏に比べれば、あなた様はおわかい様に思えます。どうか日本バラ愛好家のために講義をしてあげて下さい」とたのんだ。

「ああ、その話は老ハットン氏から聞いたよ。ああ、リジャンドル氏ね、なつかしいね。古い古い園芸の親友だよ。私は若いとき兵隊でフランスと戦った。彼はフランス兵だったかもしれない。しかし、二人とも園芸家としては親友なんだよ。なに、スズキはリジャンドルの家ヘ泊っていたって、ああ、バージニアの素晴らしい海辺の館(シャトー)だね、スズキ君は私の改良の実績についていろいろ賞め言葉をいったけれど、それは日本のハマナスとテリハノイバラと庚申バラと、ノイバラのおかげだよ。これから何の改良をやるかって?何しろ年とっているからね。もう今は若い世代(ヤングゼネレーション)だよ」

淡々とはしているが話をやめようとはしなかった。これが、かつて欧州のバラ界を席巻し、闘魂みちみちていたウィルヘルムのほんとうの人間のすがたなのだろうか?神様か仏様のような今のすがただが―

育種家としての目の確かさ

彼は1917年(昭和2年)すでに75万本のバラを栽培していると1928年のアメリカバラ会報に驚異の記事がある。そして1930年のアメリカバラ会の会報には、ウィルヘルム・コルデス氏が細かく且つ辛辣に各国のバラの批評をしているが、この中で、英国・チャップリン社のW・E・チャップリンを、すばらしい完全な高芯の紅色の花で、良い株立ちのほんとうに丈夫なバラ等々と絶賛の言葉を綴っている。

これこそ、のち1938年にイギリスバラ協会の金メダルを獲得した彼の銘花、クリムゾン・グローリーの父親なのだ!

また、その同じ夏にマーガレット・マクグレディーを賞め讃えてあるが、これこそ10年後の戦後1億株を植えさせた銘花ピースの親になっている。ウィルヘルム師に戦禍がなければ、また、まる15年の空白がなければ、師はピース以上の大ホームランを放っていたにちがいない。

しかし、ここで私はクリムゾン・グローリーの話に移らねばならない。

イギリスバラ協会は、1909年(明治42年)から優秀な品種に対して賞を出しているが、外国の品種に対しては賞がなかなかでなかった。改良では先進国と思われていたフランスのバラさえなかなか受賞できず、ようやく38番目に、アメリカのフーシャー・ビューティが受賞し、104番目にフランスのミセス・ベクウィズが受賞し、ドイツとしては、はじめて1936年に、ウィルヘルム・コルデスのクリムソン・グローリーが受賞した。

ひとたび、クリムソン・グローリーの濃紅ビロード色の花がロンドンの街に咲きだすや、われもわれもと競ってクリムソン・グローリーを植え、その濃厚なダマスク香に酔った。

1940年、ナチスドイツ軍はフランス、マジノ要塞ラインを突破し、第二次欧州大戦の火ぶたが切っておとされた。この1940年のアメリカバラ会誌が取材は39年と思われるが、ウィルヘルム師の非常に大きな、幅の広い交雑育種の内容をほめたたえたのち、ウィルヘルム師が、「バラとともに戦場で戦う気は決してない」と、手紙のはじめに書いている――とある。

その記事は、ドイツのバラ界からの報告をウィルヘルム師が引き受けて書かねばならない事なのだが、彼は冒頭「こうして外国のどの新品種のどの点がよいという詳細なリポートを、私も外国から受け取っているけれども、翌年の仕事に役立つのは5%にもならない」と、述べている。これはまことに鋭い言葉であるが、全く同感である。日本におけるイギリスのNRS賞しかり、アメリカのAARS賞またしかりである。

 

話はもとのウィルヘルム師にもどるが、彼は細かい詳述の中で、

①マクランタ種の改良したもの。

②ルビギノザ種(葉の馨るスイート・ブライア)の改良したもの。

③フロリバンダ系でなくして、ジャイアントポリアンサ系。

④四季咲つるばら、ランベルティアナ系の改良品種。

⑤東南アジアのブラクテアタ種の改良品種など。

を彼自身の業績としてうず高くあげている。――まさにローマのシーザーに似た世界制覇であった。

 

偉大なクリムソン・グローリー

さて、第二次欧州大戦争ははじまった。ナチスドイツのヨーロッパにおける軍靴は各国を踏み砕きつつあった。イギリスの首都ロンドンに爆撃さえが加えられる日にもなった。

しかもイギリスバラ愛好の話は、映画「ミセス・ミニバー」で有名であるが、さすがにこの頃のバラのカタログには、ドイツのバラは全部抹殺されて、イギリス、フランス、アメリカのバラだけしか載っていなかった。

しかし、クリムソン・グローリーだけはカタログからはずすことができなかった。なぜなら、あまりにもイギリス、フランスいたるところ愛培され、名が英語であることもあって、イギリスで作出されたバラのようになってしまって、いまさらのようにこれはドイツのバラだとは書けなくなってしまったのだ。

これは戦争とはまことに皮肉なもので、血を流し、人を殺しあっているその敵国のバラのおかげで、人間性を取りもどし花の美しさを讃美しているという矛盾が出てくるのだ。

バラの木に精がいるとすれば、彼らは人間をせせら嘲っていることであろう。「人間にもしこの花の美しさがほんとうにわかるならば、なぜ人間たちは殺しあわなければならないのだろうか」と。

戦争で15年のブランク

昭和22年(1947年)東京では戦災のあとなまなましい所が多かったが、寺崎広節、藤井栄治、亀岡泰家の諸先生の強力な後押しで我々は新日本バラ会を組織し、戦後第一回のバラ展覧会を開くべく計画していた。そして世界各国のバラの作出家に「日本のバラ会の再出発に、ぜひ協力してもらいたく、カタログ等出版物があったらばバラ展に展示したいからぜひ欲しい」と手紙をだした。

イギリスはほとんどこず、アメリカからジャクソン・アンド・パーキンス、コナルド・パイル等から若干のパンフレットがきたが、最も期待したコルデス社からはていねいな手紙がきた。

「私達は戦争で25人の働き手を失い、目下は食料と野菜をつくるのにせい一杯です。私達がバラを販売し、ドイツのバラ会が復活するのはいつの日かわかりません。日本のバラ会が復活されることを心からお祝いしますが、もし、ドイツでバラ会ができるときはよろしくおねがいします」と書いてあった。

私達はいまさらのように、先述のあの1940年のアメリカバラ会誌に書いてあったヒマラヤのように大きな改良の業績が一気に崩壊されたような失望を感じた。この時、私はその記事(1940年)の最後にウィルヘルムが「親愛なる編集長マクファーランド氏よ―、あなたがいつまでも健康で末永くバラを楽しまれることを祈り、私としては最高に評価したいアメリカのバラ会に限りない努力を続けられんことを祈る。我々は再度欧州に戦争が押し寄せつつある。どんな結果が生ずるとも(勝つとも負けるとも)私達はすべてを失い、貧しさだけがのこり、バラの大目的に最大の阻害となるでしょう。」と書いてあったことに、この沈痛なほど悲壮な、しかもようやくおさえきれている戦争に対するウィルヘルムの感情を我々は感じないわけにはゆかない。

クリムソン・グローリーとレッドライン

クリムソン・グローリーは単なる銘花だけではない。戦後、アメリカの銘花といわれ、この品種を作らないバラ花壇はないといわれたシャーロット・アームストロングは、まさにクリムソン・グローリーとスールテレーズの交雑であった。これはラマーフ博士の代表品種の一つで、このシャーロット・アームストロングからまた実に多くの名品種が生まれた。

これからわかることは、いわゆる「紅の系統(レッドライン)」としてはきわめて複雑かつ純粋を追ってきている。日本の「聖火」もまた、このレッドラインとピース巨大輪系のローズ・ギヂャールを交雑して、成功している。

図8 寺島致知による「500万本を生産するコルデス」から(『ガーデンライフ』1971年11月号)。

独特のコルデージー系の作出

日本のテリハノイバラとハマナスは、世界中でもっとも耐寒性が強いバラといえる。

その2つの原種が自然交雑したものは、テリハコハマナスとして日本にも発見されたことがあるが、耐寒性の極めて強いものである。マックス・グラフ(Max Graf)はアメリカで作られ、トレーリンググローズとして、耐病性もよく、地上の傾斜や、崖のような地形をおおうのには最適とされている。

このマックス・グラフに目をつけたのは、さすがウィルヘルム氏で、この結実しにくいF1を2粒ほどまき、発芽したものの中、1本は外に植えて最初の寒さで枯死した。残りの1本はきわめて丈夫で5つの八重の花が咲き、明るい紅で直径10cmあった。しかもその後、面白いことにはこの実が100%発芽した。

これらは現在の鑑賞バラと同じ5倍体であったが、これから交雑が始まり、1954年にはポールス・スカーレット一万本に対し、コルデージーのハンブルガー・フェニックスは5万本を売りつくした。

つづいてツワイブリュッケン(1955年、濃紅)ドルトムント(1955年、1色だが四季咲性、耐寒、耐病最高)を発表した。

こうなるともうドイツばかりでなく、外国にも広く販路がひろがった。つづいてイルゼ・クローン・シューの白を発表した。

新品種もぞくぞく

つづいて、花房60cmにもなる濃紅のバート、ノイエナハールを発売、グルース・アン・コブレンツは葉のかおるルビキノサの実生を交雑改良した。また、フラメンタンツはきわめて四季咲性の一番つよいものになるであろう。

日本であれば北海道の日高山脈以北の地方にはなくてならないもので、今後の木バラへの展開が期待されている。

今や改良は令息のライマー氏にバトンタッチされているが、この横綱「大鵬」はさらに大きな記録をつくることであろう。  (京成バラ園芸研究所所長)

 

コルデスの想い出

クリムソン・グローリーとウィルヘルム   青木正久

ドイツの誇る世界的バラ作出家。ウィルヘルム・コルデス――私は北ドイツ、エルムショーンにある彼の家を何回か訪ねた。白髪、白い大きいあごヒゲの彼は芸術家のような風貌をしている。会うといつもニッコリ笑い、苦しかった、しかし楽しかった過去のバラ物語を聞かせてくれる。バラに一生を捧げたこの人だけに、老境にいながらバラを語る時の目はまるで少年のようだ。

いちばん印象的だった会談はやはり初めての時である。私は1956年(いまから15年前)の春浅い3月、ハンブルグから汽車に乗った。約1時間北上しエルムショーン駅に着いた。当時のことだからタクシーは一台しかない。私はそれに乗って約数十分間シュバリエシォープ村に入った。古色蒼然たる事務所で息子のライマーと、いとこのワイナーに会った。大コルデスはこのころから監督役でこの2人が実際に育種作業から販売までやっていた。前回訪ねた時にはウィルヘルムには会えなかったので今日は是非会いたいと頼んだ。

図9 コルデス社の所在地の略図 (青木正久による)。ハンブルグから北へ40km弱の距離にあるSparrieshoop。

「父はあなたをお持ちしていますよ」

との返事に心いさんで事務所から車に乗った。道の両側は一面のバラ畑である。約十五分、ウィルヘルムの私邸に行った。玄関から階段を5、6段登ると右側の八畳くらいの個室がある。ソファーに横になっていた彼は満面に笑をたたえ「日本からの初めてのお客様を心から歓迎します」と手をさしのべた。彼の名著「ダス・ローゼン」にサインして私に手渡し、ついで彼の自慢するバラ参考書のコレクションを逐一説明してくれる。「これは最も古いバラの本です」と示したのはマルメイゾン時代のローズリストだった。

ついで愛着の深いバラを聞いたら、途端に「クリムゾン・グローリー」の名前がでた。この名花の作出について、私がせきこんで質問を始めると「食事をとりながらお話ししましょう。あの花についてはいろいろ伝説めいた作り話が多いので本当のことを是非、語りたいのです」

コルデス自身の運転するスチュードベーカーに乗せられ約30分間、シカ料理店に入った。シカ料理はこの地方の名物である。モーゼルワイン、グスベリの前菜。シカ料理、ジャガイモと郷土料理がつぎつぎに運ばれてくる。その間、バラ談義の方もスペシースから未来のバラまで往復し、ついに「クリムゾン・グローリー」物語に入った。

「1927年だったと思います。約1000の種子を播きました。いい赤バラが沢山誕生しましたが欠点も多かったのでカテリネ・コルデスを親に2代目をねらいました。この結果は思わしくありませんでした。そこでさらにW・E・チャップリンをかけて3代目を期したところ、すばらしい赤バラが生まれました。しかし次の日見ると花色の褪色がはげしいので、もう一度カテリネ・コルデスを使おうと考え、ぐるっと見回した時、やや矮性のため他の花にかくれて咲いているすばらしい赤バラが目に入ってきました。これが後のクリムゾン・グローリーです」

あれから何回かウィルヘルムに会った。しかし老齢のため、ほとんど外部には出ず、外の会合は主にライマーとワイナーで担当している。したがって話しを聞きに行くにはどうしても北ドイツまで足を運ばなければならなかった。いわば第一線をしりぞいていたわけだが、さすがバラに一生を捧げた人だけに、2人の2世には細かい注意を与えつづけた。

コルデスのバラ作出に対する姿勢は正統派である。理論と経験をいかし、綿密な計算をたててから育種に着手する。その底を流れる目標は第1にいい赤バラであり。第2に耐寒性、耐病性の高いつまり強いバラである。規則正しい生活態度。第二次大戦中アイルオブマンで苦労した時の強固な意志、礼儀正しい所作……これらコルデスを取りまく雰囲気は、そのまま彼の作出するバラに投影されているといえよう。(衆議院議員)

 

※参考

○アイルオブマン(Isle of Man) オートバイのレースで有名な英国のマン島は、第一次、第二次世界大戦中、敵性外国人の収容所があった。ウィルヘルムⅡは若い頃、フランスやイギリスのナーセリーで仕事をし、イギリスのサリー州で自分の会社を持ったが、折り悪く第一次世界大戦が勃発し、敵性外国人としてマン島に収容され4年半を過ごす。この間、バラの育種に関する勉強をしていたという。終戦後、ドイツに強制送還された。

 

本連載第123回 日本文化の園芸遺伝子~北米に花開いた庭園業

https://karuchibe.jp/read/15045/

○本連載第132回 恵泉女学園、山口美智子先生と「日米交換船」

https://karuchibe.jp/read/15377/

 

○ドイツのバラ愛好家のためのサイトからコルデス社について

https://www.welt-der-rosen.de/zuechter/kordes.html

 

ウィルヘルム2世は、エルムホルンにあるJ.ティム社で庭師の仕事を学んだ。ティム社は、当時ホルスタイン州で最大かつ最も多目的な需要に応じる種苗業者であり、あらゆる形態の果樹、針葉樹、バラ、低木を扱っていた。ウィルヘルムの最初の仕事は、かつてジェームズ・ブースという人物が設立したクラインフロットベクの「Carl Ansorge」社だった。その後、ベルリン、リヒテンベルク区の「Adolf Koschel」に移った。その後、フランスのオルレアンにある有名なバラ栽培者「Léon Chenault」(「Grande Roseraies du Val de la Loire」)のもとで働き、その息子「Raymond Chenault」とはTimm & Co.で友人になった間柄であった。またリヨンではジョセフ・ペルネ=デュシェを探し訪ねている。1912年にはイギリスに渡り、ヘンリー・ベネットの末っ子が働いていたサリー州ファーナムのS.Bide & Sons社のナーセリーで働くことになった。ウィルヘルムはそこでベネットのバラを集中的に研究した。

実家の種苗園は父と兄のヘルマンに任せてあったため、ウィルヘルムは、1913年に親友のマックス・クラウスと共にサリー州のウィズリーに自分のナーセリーを設立した。翌年(第一次世界大戦が勃発したため)、2人は敵性外国人としてマン島(※英国ブリテン島近くの離島)に強制移住させられ、その後の4年半、彼らはここで過ごした。ウィルヘルムはバラの本を読むことに時間を費やし、メンデルの遺伝理論を研究した。彼は後に、抑留中の勉強について、「戦争中は、バラのビジネスを理論的に見る時間があった」と振り返っている。1919年、彼らは望ましくない外国人としてドイツに送り返された。ウィルヘルムは家に帰り、カール・ハーブストは彼の下でバラの販売に従事し、マックス・クラウスは自分のバラの会社を設立した。1938年から1940年にかけては、ハラルド・フォン・ラートレフ博士とともに『ローズ・イヤーブック』を編集し、30年間にわたり『ローズ・ニューズペーパー』と『ローズ・イヤーブック』の編集者を務めた。彼の指揮の下、VDRは第二次世界大戦後の1949年7月24日にハンブルグで再設立されドイツバラ会VDRの名誉会長となった。

参考
「農耕と園芸」臨時増刊『バラのアルバム』 誠文堂新光社 1955年

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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