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第139回 カラジウム小史~戦前に高い評価を受けていた小笠原諸島の園芸品種

公開日:2021.10.8 更新日: 2021.10.13

「小笠原島に於けるカラヂユームの栽培」

[著者]新田瑞気
[掲載]『実際園芸』第3巻第1号 1927年7月号
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1927(昭和2)年7月
[入手の難易度]難

「太平洋上の新進園芸国 小笠原島を見る」

[著者]鳥潟博高(千葉高等園芸学校)
[掲載]『実際園芸』第17巻第3号 1934年8月号
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1934(昭和9)年8月
[入手の難易度]難

 

表紙を飾った「カラジウム」

フリーペーパーの『園芸探偵』1の巻末に、『実際園芸』の表紙一覧をつけた。現在わかっている別冊含めて総冊数203冊の表紙をまとめたもので、「カルチベ」登録者はネットでも見ることができると思う。この203冊のなかから、今回取り上げる、カラジウム(カラディウム、Caladium)が表紙になっているものを図1~3に示す。

図1は、森田ひさしの絵で、植物園か、好事家の温室の棚にカラフルな観葉植物が並んでいるなかにカラジウムと思われる鉢植えがずらりと置かれている。大正ロマンの雰囲気を感じさせる抒情的な画風で描かれた女性は、当時のモダンガールというのか、袖やスカートの柄がはっきりした洋装をしている。森田ひさしは、創刊号以来、何年も表紙絵をたびたび描いている。誠文堂新光社の『子供の科学』を創刊した原田三夫もそうだが、『実際園芸』の石井勇義も幅広い交友関係を持っていたとされる。当時、宝塚歌劇団などの美術部門の責任者を歴任し、忙しくなる直前の森田ひさしに表紙画を頼めたことがすごい。森田の画風は女性にも人気があったというから、女性の読者層をも意識した園芸雑誌を作ろうという意図が感じられる。

森田ひさしは、図1の表紙を描いた頃、昭和2年に宝塚少女歌劇のヒット作「モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜」(日本初のレビュー)の舞台美術を手がけ、資金を得た森田は、西池袋の要町付近のアトリエ村「すずめヶ丘」に洋館を建て、芸術家たちに貸し出した。以後、このあたりに芸術家のアトリエが集まるようになり、いわゆる「池袋モンパルナス」の文化の発展・隆盛に寄与することとなった。のちに、いけばな草月流の3代家元となる勅使河原宏や作家・安部公房なども応召、出征するまでこの地域でともにアーティストとして活動していた。戦後、ふたりは日本の前衛芸術・文化活動をリードする「草月会館」、「草月アートセンター」の主体となっていく。

図1『実際園芸』誌の表紙を飾ったカラジウム。昭和2(1927)年8月号。
図2 昭和7(1932)年8月号。
図3 昭和15(1940)年7月号。

南米、ヨーロッパ、横浜、小笠原

石井勇義の『園芸大辞典』には、かなりの分量で、とても丁寧な説明がある。これによるとカラジウムは熱帯南米に16種が原生し(塚本の『事典』では15種)、属名は、ギリシャ語のKaladion(杯)から出たものといわれ、また西インドの呼び名ともいわれている。

ヨーロッパへの来歴は、まずエートン(Aiton)氏によって1789年、『Hortus Kewensis』にArum bicolorの名で初めて記載され、同氏による図が1805年(※正しくは1804年と思われる)に、『カーチス・ボタニカル・マガジン』第21巻に掲載された。一方で、すでに1773年頃には英国のマデールMadèreに生品が紹介されており、ヴァントナVentenat氏によれば、1767年にリオ・デ・ジャネイロ付近で発見したもので、1778年にはパリ植物園にあったという。

本種はその美しい葉と繁殖の容易さから急速に普及し、1795年にはシュトゥットガルトのケルネルKerner教授により『Hortus Sempervirens』および『Hortus Schoenbrunnensis』に図が紹介されている。その後も時間をかけて原種の発見が続いた。1858年のハンブルク植物園では春季の目録にカラジウムを特集、展示は注目を集めた。

日本には、園芸品種の中心となるC.bicolor(二色の意)が明治半ば、C.piclatum(絵のようなの意)が明治末年に渡来。最初に扱ったのは横浜のボーマー商会と思われ、明治20年頃とされている。その後、小笠原の母島において球根生産と品種改良が行われている、とある。

18世紀の後半に南米からヨーロッパにもたらされたカラジウムは人気となり、19世紀後半にはフランス、イギリス、ドイツ、ブラジル、アメリカにおいて数多くの園芸品種が作り出されたが、その多くは現在まで残っていない。日本での生産量も少ない。アメリカの栽培中心地フロリダで行われた1982年の調査では80品種があった(『園芸植物大事典』)。

『大辞典』の記述をもとにインターネットの「Biodiversity Heritage Library (BHL)」のページから図を探してみると、ちゃんとそこに出てくる(図4、5)。これは感動的ですらある。BHLは、米国ワシントンD.C.のスミソニアン図書館・公文書館に本部を置き、自然史・植物学・研究・国立図書館が協力して取り組む世界的なコンソーシアムとして運営されている生物多様性に関する文献やアーカイブを集めた世界最大のオープンアクセスのデジタルライブラリー、ということで、15世紀から21世紀までの数十万冊、5,900万ページ以上の文献と謳われているとおり、これまで世界でもほんの一握りの図書館でしか利用できなかった資料を無料で自由に閲覧、利用できる。

図4 1804(文化元)年、英国の植物・園芸雑誌『カーティス・ボタニカル・マガジン(Curtis’s Botanical Magazine)』第21巻に掲載されたカラジウム。「Arum bicolor」の名前になっている。「杯」状の花。(図はBHLから)
図5 ベルギーで1858(安政5)年に発行された園芸雑誌『Flore des Serres et des Jardins de L’Europe(ヨーロッパの温室と庭園の花)』に掲載されたカラジウム(図はBHLから)。『Flore de Serres…』(1845-1888)は、19世紀のヨーロッパで制作された最も優れた園芸雑誌のひとつで、フランス語、ドイツ語、英語のテキストと多数の精密な植物画で高い評価を受けていた。

【大正3年】横浜植木の『園芸植物図譜』

横浜植木の国内向けの輸入植物の販売に大いに貢献したと思われる豪華な園芸植物図譜がある。ここでは、大正2~4年に全2集のシリーズで刊行された『園芸植物図譜』のうち、第2巻第4集として刊行されたカラジウムの図から4枚を取り上げた(図6~9)。『横浜植木物語』(2021)のなかで、著者の近藤三雄は、これらの絵は当時の植物図鑑編集の権威であった村越三千男が手がけたもので、横浜植木の温室で実物を見ながら描かれた、まさにボタニカルアートの傑作集といえるものだと述べている。大判の図集で、学校や研究機関の図書館、富裕層の書斎などに置かれ、いつまでも眺めていたくなるような図譜だったろう。あとでも触れるが、小笠原へのカラジウムの導入は、明治42(1909)年頃、横浜の植木会社によってなされたという。『横浜植木物語』によると、明治末年となる44、45年ごろ、30種の球根を輸入した記録があり、力を入れていたことがわかる(図10)。

図6~9 大正3(1914)年、横浜植木発行の『園芸植物図譜』から。
図7
図8
図9
図10 1911年頃の横浜植木株式会社の第二温室内に置かれた様々な種類のカラジウムのコレクション(明治44-45年版の国内向けカタログ「定価表」から)。

【大正9年】東洋園芸株式会社と小笠原の園芸

明治20年代には横浜のボーマー氏が扱っていたというカラジウムは、その後、鈴木卯兵衛と国内有数の植木屋集団によって設立された横浜植木が導入に力を入れた。横浜植木は黒潮の影響で年中温暖な関東近海の伊豆諸島(八丈島)および小笠原諸島に着目し、これらの島に園芸植物を導入した。小笠原には、先述のように、明治42(1909)年頃、横浜植木により各種移入されたという。

小笠原は、明治初期から日本の領土を確定し、海外列強の進出を阻むために重要な島として移民と産業開発・育成が求められるようになった。そこに深く関わったのが旧肥前佐賀藩の藩主の鍋島家に連なる人々だった。ここに佐賀藩出身で政府の要職を務めていた大隈重信が関わり、園芸作物の導入が企画されていった。このあたりのいきさつは、福田定次の『東洋の楽園』に詳しい(図11)。

参考
『東洋の楽園』 福田定次 著 東洋園芸株式会社編集部 1920(大正9) 国立国会図書館デジタルコレクションから
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962073

図11 『東洋の楽園』 福田定次(1920)の表紙(国立国会図書館デジタルコレクションから)。

小笠原は、開発当初から日本の園芸人の関わりが強かった。「日本園芸会」には、大隈重信や鍋島直映(佐賀藩第12代当主)がおり、直映は第3代会長にもなっている。こうした有力者が横浜植木の設立にも深く関わっており、当然、小笠原の園芸振興にも関係していたと思われる。

国内外の植物輸送に大きな役割を担った日本郵船は、日本の国際的な玄関口である横浜港に拠点を置いた。日本郵船のもととなる郵便汽船三菱会社は、明治9年12月に小笠原に航路を開拓した。戦前は、東京と(父島~硫黄島間)の定期船「芝園丸」(大正初期~1945)が活躍した。その他には、筑後丸と天城丸が日本~サイパン航路の途中、父島に寄航した。大正初期の芝園丸は、月に2航海、東京~小笠原~硫黄島まで8日間かけて運行された。横浜植木の扱った植物も、この定期船に積まれていたことだろう。(現在は、大型船おがさわら丸が25時間30分で東京~父島間を結ぶ)。

ここに、大正6年に設立された「東洋園芸株式会社」という園芸会社がある。いままで幾度も取り上げてきたが、明治30年代にアメリカで学び、日本に西洋の花き装飾を伝えた恩地剛が創設に深く関わった園芸会社だ。設立時に常務の肩書を持つ恩地の関係で、恩地家の隣に住み家族づきあいをしていた有島武郎の実弟、佐藤隆三もこの園芸会社に勤めた。また、この立ち上げ時に園芸主任として当時小田原の辻村農園に研修生としていた石井勇義を引き抜いたといわれている。その数年後、日本のフラワーデザイナーの先駆け、永島四郎が千葉高等園芸学校を卒業と同時に入社した。永島四郎の学生時代、卒業論文のテーマは「小笠原島をハワイのような楽園にする計画」という内容だったという。永島四郎の兄は日本郵船に勤めており、のちに重役となった人物でもある。興味深いのは、「東洋園芸株式会社」が設立当初から小笠原島の園芸開発と深く関わっていたのではないかと思われるところだ。ぼくもいろいろ調べてきたが、詳細はまだよくわかっていない。ただ、先に挙げた福田定次は恩地とともに会社の立ち上げに関わっているし、『東洋の楽園』は東洋園芸の編集部から発行されており、総合的にみれば、東京周辺に花や緑の生産拠点を持ち(三軒茶屋の農場、大久保の庭石置き場)、新宿・角筈(現在の新宿3丁目)に売店、アメリカに輸出拠点を持った総合的園芸会社を目指していたように思える。仕事のベースは「宮内省御用達」とあるように、皇室、皇族関係の御用を承り、大隈らをはじめとした有力な政治家、富裕層を対象とした商売を行っており、著名人の葬儀の告知が新聞に掲載されると、必ずといっていいほど、その告知の隣に花を承るという広告を載せたりしている。永島四郎の回想では、、丸の内の「東洋軒」や「中央亭」など高級西洋料理店で花を飾ったことなどが語られていた。図12は、その営業案内である。

フリーペーパー『園芸探偵』2(2017)にも1章を設けて説明をしたのだが、パンフレットの後ろに書かれた「主要な株主」のリストに「小笠原島庁技師 大友栄正」の名前が見える。東洋園芸は大正6年12月に設立。日本證券史資料などによると、昭和14年2月10日に(上場)廃止となっている(*14年12月には横浜植木も上場廃止しているので戦時対応だと思われる)。大正7年の第一期決算では、社長:三枝守富、常務:福田定次、取締役湯谷磋一郎、恩地剛、牟田口淳介、監査:古賀春一、武見喜三となっており、大正8年は同様、9年では、恩地剛が抜けるが他は変わらず。三枝守富は、大隈重信の妻・綾子の兄で小倉鉄道社長。娘は大隈の養子と結婚している。以上を概観すると、東洋園芸の経営陣には、大隈重信の人脈と皇室・皇族関係、商社経営などの富裕層、キリスト教関係者といった人々の姿が見え隠れしている。

図12 宮内省御用達(Purveyor to the Imperial Household )、東洋園芸株式会社の営業案内パンフレット。株主の肩書などからみると大正10年以前のものだと思われる。

【昭和2年】における小笠原の状況

最後に、『実際園芸』誌に記事として掲載された小笠原の園芸の状況を2編抄録する。

ひとつめは、創刊まもない昭和2(1927)年7月号の記事。小笠原在住の園芸家が筆を執ったもので、小笠原への来歴など貴重な証言となっている。島内で育種が盛んになっていることや新品種の選抜と固定にむけての工夫がわかる。記事の他に、美しい品種が集められたカラーの口絵がある。

図13 小笠原で販売用の球根を生産していたカラジウムの優等種の画像。(『実際園芸』昭和2年7月号の口絵)

カラヂュームは、夏の温室を飾る美しい観葉植物でありまして、このくらい色彩の豊かで変化に富んだものは他に余りあるまいと思います。

カラヂュームは、かなり以前から一部の園芸家には知られていたようですが、他の花卉に比較して古い割合に、一般にはまだ知られておりません。その原因は何かと申せば、主に温室栽培をしたためと、現今のように園芸が発展しなかったためではなかろうかと思われます。

ところがこの4、5年(※大正時代後期、関東大震災以後か)になりまして、一般に園芸熱が高くなるにしたがって、温室園芸が盛んになりましてからは、カラヂュームも、次第にみとめられて、栽培書もかなり多くなりましたけれど、まだまだホンの一部にすぎませぬ。元来カラヂュームは、温室でなければ時期は少し遅れますが夏物でありますから戸外で十分栽培ができます。花壇植えとし、鉢物とし、水揚げもよく長くもちますから、切花としても面白いと思います。

今日、内地で栽培しております、カラヂューム球根は、ほとんどこの小笠原島で生産したものと言うても過言ではありますまい。来歴その他のことは他日に譲り、この関係深い小笠原島に於ける、カラヂューム栽培の状況をだいたい述べさせていただきます。

この島に最初移入した時は、明治42(1909)年頃、横浜の植木会社から、各種移入せられ、その後他からも、多少移入せられました。しかしあまり内地でも歓迎せられなかったため、ホンの好事家が、わずかに栽培していたに過ぎません(※夏だけ楽しむ植物としてではなく、周年温室管理が必要な植物と思われていたせいか)。最近、急に熱が出始めたので、栽培者も非常におおくなりました。ところが品種が混合して、栽培者により、品種名を呼ぶもの、移入者名を呼ぶもの、あるいは移入番号を呼ぶもの等があって、同品種で番号が相違していたりして、発展上支障があるのでこれを統一するため、小笠原島園芸会(半官半民 おがさわらじまえんげいかい)で、その当時栽培されていた品種を全部狩り集めた品種は、四十種あって、移入せられた品種は、幸い全部保存せられておりました。その四十種のうちあまり美しくないのを普通種、美しいものを優等種として、左の番号のように区別いたしました。

優等種
1、2、3、4、5、6、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36。

普通種
37、38、39、40(※7が抜けている?)

これは全部移入原種でなく、多数の実生もあったのです。その後2、3の熱心家の実生繁殖により、新品種作法が盛んになり、毎年開催される、小笠原園芸会主催の品評会には、各自が、秘術を尽くして作出した実生新品種を出品するのです。それを審査員が厳重な審査をして、優等種番号付きとして価値ありと認めたものは、実生優等種第何号と登録して、戸籍ができて一人前となるのですが、後は全部落伍者で、それがまた、優等種混合と、普通種混合とに区別せられ、結局上中下の3つに、選別せられるのです。そのため、会には、あらゆる園芸植物が出品せられますが、その一室は、実にそのカラヂューム新品種をもって満たされ、その妍を競う艶麗さは、実にたといようがなく、ただ恍惚となるのみであります。そのときの出品者の顔は、あたかもカラヂュームのように赤くなったり、青くなったりですが、それも道理、交配から出品までの苦心培養、実に3年間を費やし、何百球から出品するのが、一球あるかなしであるかを思えば、無理もありませぬ。話が横道へ入りましたが、そうした実生新品種は実に素晴らしいものばかりで、昨年までに四十種程登録せられております。それで勢い在来種(移入当時のものをいう)中優等種として選出せられた品種も、今日では普通種に落とされるものも出てきました。

カラヂュームも普通の花卉同様、優等種となると、ご機嫌の取り方がいたってむずかしくて、繁殖はおろか、なくなりやすく、なかなか栽培繁殖に骨を折らせられます。で、現在でもすこぶる美しく愛すべき品種ではあるが、島中にタッタ7、8球くらいしかないのがあります。それですから在来種中にも、まだ移出販売のできないで、皆さんにお目にかからない、美しい箱入り娘がたくさんおります。実生新品種はなおさらのことですが、しかしそれらのうち幾分ずつは嫁入りする時の来るのも、遠くはありますまいと思います。

最近フランスから30種ほど取り寄せた熱心家がありましたが、いずれも見るべきものがなく、わずかに1、2種はやや見られるのがありましたが、小笠原実生の方が数等優っておるようで、ちょっと鼻の先がむずかゆくなりました。

口絵(※図13)のカラヂュームは、在来優等種中比較的壮健で栽培しやすい、美しい品種を選びましたのですが、ここにちょっと色彩について、ご注意しておきたいことがあります。それは同じ品種でありましても、培養土、日射の多少、球根の大小、肥料の種類、最初の葉と後の葉、春、夏、秋の気候等の如何によりまして、ほとんど別品種かのように、葉の色彩が全然相違して出ます。それで多年栽培している本当の園芸者でも、ウッカリするととんだ間違いをすることがたまたまあります。

島でもその栽培場所により、色彩がよほど相違しますから、内地、ことに温室作りでは、よほど相違した色彩となるでしょう。口絵の色彩は島での標準の色彩です。なお各品種につき、その色彩の変化や特徴を説明したいと思いますが、それは後日に譲ることにいたします。

終わりに栽培法ですが、これは島の栽培法を述べましたところで、あまりご参考となる点も少なく、ムダのことですから書きませんが、栽培法をのぞまれる方は、本誌主幹の石井先生の、球根草花の作り方、温室園芸の知識、等に詳細記載されておりますから、それをご覧くださればわかります。

【昭和9年】における小笠原島の状況

こちらは、昭和9年8月号(第17巻3号)に掲載された写真レポートで、小笠原と八丈島の風景が撮影されている。観賞用植物だけでなく、早出しの野菜や熱帯果実が栽培されていた。興味深いのは、第一次大戦後にドイツから獲得した海外領土(南洋諸島)、とくにサイパンをライバル視し、その動向をうかがっているところだ。希少性に価値がある品目は、市場への出回り量が少し増えるだけで大きな影響を受ける。

第二次大戦後、日本は連合国による占領時代を迎えた。1952(昭和27)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、本土は占領を終了、主権を回復した。しかし、沖縄や奄美諸島、小笠原などはその後も占領が続けられ、この間、戦前の園芸産地は完全に空白となった。日本は観葉植物ブームがやってくるが、このブームを支えたのは八丈島や愛知県の温室栽培の植物たちだった。

図14、15 『実際園芸』昭和9年8月号掲載の記事。小笠原島と八丈島の写真あり。
図15

「太平洋上の新進園芸国 小笠原島を見る」 千葉高等園芸 鳥潟博高

帝国の表玄関口たる横浜港から、540浬(カイリ)ばかり離れた南方の太平洋上に、小笠原群島の中央に位する「父島」があり、この「父島」から更に約40浬南に進んだ所に、小笠原諸島中で一番大きい島「母島」がある。「父島」は人々の知っているとおり、小笠原諸島中で最も早くから文化の開けた所で、島内には東京府小笠原支庁を始めとして、あらゆる文化機関がほぼ備わっており、農業上は、農事試験所なども設けられていて、小笠原島独特の作物や家畜について、幾多の試験研究が行われている。「母島」は「父島」に次いで開発された島で、産業上特に園芸上に目ざましき発達の跡が見られる。小笠原の園芸を見るには、この二つの島を見ればよろしく、それには近海郵船の「芝罘丸(1829トンで月2、3回東京芝浦または横浜発)に依らなければならぬ。同船によると、「父島」までの所要日数は4日、「父島」から「母島」までは約3時間にて達することができる。(※ちーふまる、日本郵船が中国航路用に建造した船で、明治36年3月の竣工時には中国の地名から芝罘丸と名付けられるが、昭和10年「芝園丸」に改名。長い間、本土と島を結ぶ定期船として活躍したが、昭和20年1月に魚雷を受けて沈没。)

ここに掲げた写真は、小笠原の園芸を見るべく出かけた私のスナップであるが、要塞地帯である関係上、園芸上最も見応えのある「父島」に於ける撮影ができなかったことは、返す返すも残念である。

[図14上右]パパイヤで、パパイヤの木は、父島でも母島でも各民家で栽植しており、果実は四季ほとんど絶えることがない。

[図14上左]母島の沖港御幸浜を望む。この浜から参する貨幣石は有孔虫の化石であるが、その大きさに於いて世界的に著名である。(※硬貨に似た円盤状、大型の有孔虫の化石。採取禁止)

[図14下左]母島にも父島にも民家の付近には、いたるところにこんな工合にタコノキやビローなどが栽植されている。ビローの葉はウチワなどとして島の名産品として数えられる。

[図14下右]母島の北村全景である。

[図15上左]母島の石門山の中腹から、南西方の島々を見る。左方の山頂近くに黒く段々に見ゆるのは、フリージアの栽培畑である。

[図15上右]キングバナナの結実ぶり。これもパパイヤ同様に、各民家で作っている。果実は台湾バナナよりも小形だが、外皮が薄くてすこぶる美味である。

[図15中央]母島の石門山に登山した我らの一行が、ヘゴの木陰にて記念の一枚。

[図15下左]山門山に大群落をなして生育するヘゴ、マルハチの自生状況。ちょっと偉観である。

[図15下右]小笠原に通う船が、必ずその行き帰りに立寄る八丈島の名物八丈富士の遠望。この山麓では傾斜面を利用してスイカ、トマト、キュウリ、トウガン等の蔬菜の早熟栽培や露地メロンのハネジュー、フリージヤ、カラー、カラジューム等の園芸作物の栽培が盛んである。

小笠原や八丈島の園芸を瞥見して、吾々が痛切に感ずることは、内地の主要都市付近における温室業者が底力の知れぬ太平洋上の新進園芸国たる小笠原や八丈に一大脅威を覚えるときが来るだろうということである。

しかしその小笠原や八丈の当事者にいわせると、吾々の頭上には船便により恵まれた南洋上の超新進園芸国のサイパンの進出が問題だという。

※サイパン島を含むマリアナ諸島(サイパン、テニアン、ロタ島等)は、戦前、日本の統治下にあった。これは、第一次大戦中の大正3(1914)年、日本がドイツに宣戦を布告し、ドイツ領であった南洋群島を占領、戦後に委任統治を始めたことに由来する。南洋諸島は、マリアナ諸島の他にヤップ島、パラオ群島、カロリン諸島(トラック、ポナペ、ヤルート島等)を含む広い地域であり、激戦となった第二次大戦終了近くまでの約30年間、日本による統治が続き、沖縄県を中心とする移民が相次いだ。その数は多数におよび、サイパン島に限れば、総人口が約23,500人のうち、邦人は約2万人と圧倒的に日本人中心の島であったという。こうした住民が園芸にも携わっていたということだと思われる。

※サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)後に復帰=本土の占領解除以後の各地の本土復帰奄美群島の本土復帰は1953年12月25日。島民による激しい復帰運動があった。

※1968年、小笠原諸島の本土復帰
小笠原諸島は、サンフランシスコ平和条約第3条で、アメリカを施政権者とする信託統治をアメリカが国際連合に提案するまでは、アメリカの統治権の下に置かれると規定されていた(アメリカの領土になるところだった)。しかし、1962年3月、当時のJ・F・ケネディ大統領は、南西諸島が日本領であることを言明。日米間の協議を経て、1968年4月5日、「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、同年6月12日公布、26日に発効し、小笠原諸島は日本に復帰した。

※1972年、沖縄の返還
1965年8月、佐藤栄作総理は、戦後の総理として初めて沖縄を訪問、1969年11月の日米首脳会談で1972年中の沖縄返還実現について原則的合意が成立。1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄は日本に返還された。

参考
『園芸大辞典』 石井勇義・編 誠文堂新光社 1949年
『園芸植物大事典』 塚本洋太郎・総監修 小学館 1988年
『横浜植木物語』 近藤三雄他 誠文堂新光社 2021年

 

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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