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第140回 戦前にあった病院附属の温室について(前編)

公開日:2021.10.18 更新日: 2021.10.21

「隠れたる大温室」倉敷中央病院

[著者]三輪丈丸(京都府農事試験場園芸部)の寄稿
[掲載]『実際園芸』第16巻3号 1934年2月号
[発行]誠文堂新光社
[発行年月]1934(昭和9)年2月
[入手の難易度]難

「温室」を備えた病院

本連載では、これまでも「病院と園芸」について取り上げてきた。

第8回 花や植物が人を癒やす

第78回 「倶会一処」多摩全生園の農園 ~園芸技師、広畑隣助について

第115回 臨時東京第三陸軍病院の園芸作業~戦時のリハビリテーション

うち2回が『実際園芸』の記事で、フリーペーパー版の『園芸探偵』2での多摩全生園の「宮川量・園芸技師」についての記事も入れると4回になる。さらに今回、新たに見つけた「温室」を備えた病院、「病院らしくない病院」に関する記事を紹介したい。

最初の記事は、昭和9(1934)年2月号(第16巻3号)にある「隠れたる大温室」と題した記事で、岡山県倉敷市の倉敷中央病院を取り上げている。著者は、京都府農事試験場園芸部の三輪丈丸氏であり、写真とともに寄稿されたと記されている。雑誌主幹の石井勇義は、早くから読者の寄稿を募っており、全国各地からこのようなレポートがあったと思われる。

大原孫三郎は、日本最大級の紡績会社のオーナーとして事業を経営するにあたって、顧客だけでなく、従業員の生活、福利厚生に力を入れる非常に先進的な経営者だった。『実際園芸』では今回の倉敷中央病院以外に、従業員住宅の庭園の記事もあったと思うので、資料が見つかり次第、また紹介したい。

以下、記事を採録する。

図1 大正12年、洋画家、児島虎次郎の設計になる温室と噴水(現存)。十分にスペースをとってヤシ類が配置されている。当時の新聞には、「病院の芸術化」「病院の中に楽園」といった言葉で病院内の「常夏の部屋」を称賛した。
図2 温室外部の様子。大型の観葉植物が見える。外壁はナツヅタで覆い、夏場の気温上昇を防ぐ。

世に隠れたる大温室を見る

岡山県倉敷市倉敷紡績会社社長にして大原農業研究所や大原社会問題研究所その他多くの社会事業をなされている大原孫三郎氏経営にかかる倉敷中央病院温室で、(面積9米✕14米、高さ棟木まで7米)2棟、暖房は高さ32吋(インチ)4柱式「タヂエーター」120枚を使用す。設立大正15年6月同年4月園丁が台湾に出張し、原産地豪州、フィリッピン、ジャバ等から移植栽培せる由である。主として観葉植物と蘭科植物で蘭科植物はデンドロビューム、カトレア、ファレノプシス、エピデンドラム、バンダ、ソブラリア、セランセ、シプリペデューム等である。

設立の主旨

居は気を移すといい、また病は気からということわざがあるが、病気にかかると必ず精神的にそうとうの影響があって、誰しも陰鬱な気持に鎖(とざ)されるものである。しかもこうした人々を迎える病院は従来一般のごとき設備ではいかにも病院らしく、清浄で清潔さはあるがそこに温かさとか柔らかさとかいう情味の何物もない陰気な場所になりがちであって、そこにいる患者は病気であるという痛々しい感じを一層強めることが多く、こういった精神的の痛手はまた病気の治療の上にもしばしば悪い影響を及ぼすものであるから、それよりもむしろ病院は明るく温かくしかも柔らか味を帯びてしかも別荘のごとく住心地の佳い住宅のごとく、あるいは気持のよきホテルのような気分を漂わせ、設備の上に於いて病院らしくない病院となし、患者に陰鬱とか憂愁とかいう気持を忘れさせ明るい気持の中に治療を施すのが合理的であり理想であるという見地から病院の芸術化とでもいった設備の一端として院内に入院患者および外来患者用2ヶ所の緑室を設けたのである。右の主旨を案内せられし医学博士外科部長宇野俊治氏より拝聴したことである。

図3 大原孫三郎(1880~1943)。

大原孫三郎について

倉敷紡績(および倉敷毛織、現・クラボウ)、倉敷絹織(現・クラレ)、中国合同銀行(中国銀行)、中国水力電気会社(中国電力)の社長を務め、大原財閥を築き上げる。

社会、文化事業にも熱心に取り組み、財団法人石井記念愛染園、倉敷中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現・法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。倉敷教会の最初の教会員。

倉敷中央病院の沿革(HPから)

倉敷中央病院(当初は「倉紡中央病院」)は、1923(大正12)年倉敷紡績株式会社社長、大原孫三郎によって創設された。

大原はクリスチャン・石井十次(岡山孤児院の設立者)の影響で、独自の人道主義(後に人格主義と改める)を育み、社会から得た富は社会に還元するという考えのもとに、労働環境の整備をはじめ、大原農業研究所、大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原美術館等を設立した。

病院の創設も、そうした彼の理想の現れの一つであり、開設当初より倉敷紡績従業員はもとより、広く地域住民の診療も行った。

何事にも最高を求めた大原は、病院建設にあたり、「治療本位(研究目的でない、真に患者のための治療)」「病院くさくない明るい病院」「東洋一の理想的な病院」という3つの設計理念を打ち出し、優秀な人材を集めると同時に、ヨーロッパから最新の医療機器、施設・設備、ならびに最新の医学情報を得るために、多数の医学図書を購入した。

患者の療養環境にもゆきとどいた心配りをし、開院当日の中国民報では「病院は明るく温かく、柔らかく住みよい住宅の如し。患者はここに来ると気が晴れ、心が和み陰鬱も憂愁も忘れ、自分が病人であることも忘れるほどの患者本位の病院」と紹介された。95年の昔に、今日でいうところの患者アメニティが実現していた。

「ナイチンゲール式の病棟」とは

有限会社ユー・アール設計相談役の辻野純徳氏による「大原孫三郎の理想 倉敷中央病院の療養環境 ~創立の精神と現在解~」という講演録のなかで、大原孫三郎が構想した「ナイチンゲール式病棟(ナイチンゲールが提唱した病棟スタイル)」について、わかりやすく説明しされた記事がある。

「ナイチンゲール式病棟」は、現在のコロナ禍で、いわゆる「野戦病院」のモデルとしてテレビなどで繰り返し出てきたワードだが、治療設備の整わない簡易な施設、ということ以上に、ナイチンゲールの看護の思想がよく表れた合理的で人にやさしい施設だったことがわかる。それは次のような特徴に表されていた。

・病室は、大部屋だが、しきりが設けてあり、男女分けになっている。
・壁には絵が飾ってある。
・各翼に防火壁、便所に至るまで全館暖房(原則床暖房)。
・冷房はないが、床下には開閉できる大換気口があって、暑さを防ぐ。
・自炊室は設けず中央炊事場でおいしい食事を出す。

大原孫三郎は、ナイチンゲールの思想をベースに、建物は、当時、関西を中心に活躍していた建築家、ヴォーリズの建物を研究し、病院の設計に生かしている。さらに、病室に飾る絵は洋画家、児島虎次郎に依頼して、準備を進めた。温室の構想も児島に任せている。こうしてパビリオン型の診療・外来棟が延びる間に、外来・入院患者用それぞれの娯楽室(温室)を配置する建物ができた。内装は児島虎次郎が設計、農業技師の山元佳誠に管理を任せた。病室の壁に飾る絵は、児島虎次郎がパリからの帰国の際、西洋絵画の複製、約70枚を選んで持ち帰り、開院前に自ら飾り付けをしたという。

参考

クラボウ創業時に構想された「労働環境対策」 蔦(ナツヅタ)による壁面緑化
https://www.kurabo.co.jp/sogyo/detail.html

ヘルスケア・アートマネジメントに関する講座 「大原孫三郎の理想 倉敷中央病院の療養環境 ~創立の精神と現在解~」
https://healthcare-art.net/case/tsujino2019.html

※以下、資料として 『実際園芸』昭和9(1934)年2月号(第16巻3号)「隠れたる大温室」と題した、岡山県倉敷市の倉敷中央病院の誌面を採録する。

図4、5 「病院らしくない病院」。『実際園芸』にて倉敷中央病院が紹介された誌面、昭和9(1934)年。
図5

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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