農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第141回 戦前にあった病院附属の温室について(後編)

公開日:2021.10.22

「東京市内の 病院の温室めぐり」

[著者]G・K・K=目次には「掛川生」の表記
[掲載]『実際園芸』第20巻第2号 1936年2月号
[発行]誠文堂新光社
[発行年月]1936(昭和11)年2月

東京における温室のある病院

今回は、軍関係の病院に付属する温室についての記録となる。時代は昭和11(1936)年で、日本は軍部の台頭によりだんだんと戦争に向かって歩を進めていた頃だが、人々の暮らしには全くと言っていいほど暗い影は感じられない。記事を書いた「掛川」某という人物の素性はよくわからないが、紹介する二つの記事ともにこの人が書いているので、病院関係者か、編集に関係したライターだと思われる。

記事によると、温室は篤志家による寄付によって建てられたり、専門家ではない人が管理をしていたり、予算がほとんどない、という様子をみると、「上から降りてきた温室」、押し付けられた感じがある。ただ、温室があり花や緑があることの良さは多くの人が理解し患者を慰めていたに違いない。

掛川氏のレポートでは東京の2つを訪ねている。ひとつは、現在の中央区築地にあった「東京市立築地病院」と、もうひとつ、新宿区若松町の「陸軍衛戍(えいじゅ)病院」である。

東京市立築地病院は、築地の市場があった場所に近く、「海軍兵学寮」「海軍参考館」の跡地であり、関東大震災後に「東京市立築地病院」「海軍軍医学校」となった。戦後の1962(昭和37)年、このあたりに、「国立がんセンター」が開設された。1992(平成4)年に病院は「中央病院」に改称、1998(平成10)年に新棟が建設され、2010(平成22)年「国立がん研究センター」に改称され現在に至る。

図1 東京市立築地病院にあった附属温室と担当者の森さん。白い服を着ている。

余談になるが、日本のフラワーデザイナーの先駆け、戦後のフローリストに大きな影響を残した永島四郎(第一園芸生花部部長)は胃がんを患い、最後はできて間もない築地のがんセンターで手術したが手遅れで1963(昭和38)年9月10日に亡くなった。満68歳だった。弟子たちはのちにこの日を「花露忌(かろき)」と呼び故人を偲んだ。

もうひとつの陸軍「東京第一衛戍(えいじゅ)病院」は、1929(昭和4)年、麹町から「陸軍戸山学校」の敷地の一部だった場所(当時は牛込区の若松町)に移転してきた。この記事の書かれた1936(昭和11)年に「東京第一陸軍病院」と改称、終戦後の1945(昭和20)年に「国立東京第一病院」となった。その後、1974(昭和49)年に「国立病院医療センター」、1993(平成5)年に「国立国際医療センター」、2010(平成22)年に「国立国際医療研究センター病院」と改称し現在に至る。

それにしても、記事の中で、温室係りの森さんが、「予算がない」と繰り返し述べているのが心に残る。予算がないなかで、患者さんを喜ばせることだけを考え、草花を慈しみ、小さなものから大きく生長させる努力をしている。それでも最低限の資材を買うにもお金が必要だったろう。なかば「どうにもならない」とあきらめたくなる思いを抱えながら、誰に言うともなく続けていたのではなかったか。

図2、3 陸軍衛戍病院の温室と盆栽棚および温室の内部の様子。
図3

このころの日本はどんな時代だったか、年表をふりかえってみたい。一番大きな事件は二・二六事件だろうか。軍部の台頭が急速に進む。日中戦争の勃発は目前だった。日中戦争は1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件から始まり、やがて泥沼化していく。

昭和6年 満州事変。軍部の独断により実行。関東軍は満州を占領し、一方的に「満州国」の建国を宣言。
昭和8年 国際連盟はリットン調査団を派遣し侵略として非難する。日本政府はこれに反発し国際連盟を脱退。
昭和9年 「天皇機関説事件」で美濃部達吉を攻撃し学者の言論を封殺、軍部の政治介入を止める手段がなくなる。
昭和11年 1月、軍縮会議から脱退。同年末のワシントン海軍軍縮条約の失効により軍備拡大へと舵を切る。
昭和11年 2月26日、青年将校らによるクーデター未遂事件がおきる(二・二六事件)。

以下、資料として『実際園芸』1936年2月号の記事を採録し本稿を終える。

病院の温室めぐり

病室に花、病院に温室と書き出すと何かの標語のように聞えるかも知れないが、しかし少くとも『病室に花』という言葉ぐらい現代に生活する人々にとって、極めて常識的な親しみ深いものになり切っている筈である。それならば次の言葉である『病院に温室』の方はどうであろうか? 花卉園芸の発達普及した今日であるから、『病院に温室』の言葉も決して不調和なものではなく極く自然な、親密な、同時に或る美しい余韻を以て、多くの人々の耳に響く事であろう。ではどの程度に、『病院と温室』の関係が有機的に結合されているか?言葉を換えるならば、どの程度に病院に於て温室が利用されているか? それを実地について調べて見ようと思い立ったのが、『東京市内に在る大病院の温室めぐり』と言う此の記事のプランなのである。

最初に訪れたのが東京市立築地病院の温室である。ここの温室はスリークォーター(3/4式※片屋根と両屋根の折衷式。「へ」の字に見える。)で地上に建てられ、面積は10坪。昭和9年の4月に建設されたものである。その設置された由来を尋ねてみると、何か患者の慰めに使って欲しいーーと言う事で、或る篤志家より金壱千円也の寄付を受けた際、それではひとつ温室をーーと言う事になって出来上ったのがこの温室だと言う話である。

温室係りの森さんにお会いして説明を訊く事にしよう。森さんは温室内の植物をあれこれと指さして説明された後に、次の如く話された。

「私はもともと花作りの道にかけては素人なので、園芸の事はさっぱり判りませんし、初めから何の予備知識も持ってはリませんでしたが、ただ私にやれという命令でしたのでこの温室の係りを受け持ったまでの事です。他に仕事のある忙しい身体ですし、同僚の手前もあって温室ばかりに付きっきりでいるわけには参りませんから仕事の合間を見て水をかけたり葦簀をあげたりしているような有樣で、思うように充分な手入れも出来ませんが、それよりも困るのは予算の無い事ですね。何せ予算と言ったところで年に10円ばかりの雀の涙ほどの金を貰うばかりですから、まったくお話にもなりません。初め、温室の出来上った時に二百円ほど植物を入れたきりで、それからあとは有るか無しかの予算をもらうだけですから、やり度いと思う気はあったところで、どうにもならぬ状態です。ここにある君子蘭の苗やゼラニウムなども、私が仔をとっては殖し、とっては殖やしして、やっと此れだけにしたものなのです。また患者の方がお見舞に頂いた植物を退院のときに払い下げて貰ってこの温室に入れてあるものなどもあります。それから暖房にしてもそうですが、新しく煉炭ボイラーを据え付けるとなると、どうしても五十円はかかるがその予算が無いので、ご覧のように電熱器を使用してはいますがところでその電気は隣りの軍医学校から貰っているのですよ。万事この有様で、予算が無いからまったく苦しいのです。

此のように内情を訊いてみると、外観すこぶる堂々といている此の大病院の此の温室も、なかなかにして経営困難の如くである。でも此れだけ切りつめた緊縮予算の中に在って兎にも角にもこれだけにやっているのを見るのは一に森さんの努力の賜物であろうが、どうして相当なものである。森さんは一々植物を指さして、あのタコノキは始めこれ位のものであったが、今は此んなに殖えたとか、君子蘭の仔がこんなに多くなったとか、謙遜な言葉の中にも隱し切れぬ自慢の色を匂わせているのも、そこはやはり自分の手掛けた植物に対する愛情の致すところであろうが、私は何となく微笑ましい気持になって森さんの説明に一つ一つ頷いて見せた。森さんに培われる草花逹よ、立派に美しく育って、病室の患者さん達を慰めておくれ、とよびかけたいような気持にさせられて・・・・・・。

温室内を見廻すと、ゴムノキ、タコノキ、君子蘭、ドラセナ、椰子類、アスパラガス(スプレンゲリ、ミリオクラダス、プルモーサス)、電信蘭(モンステラ)、ベゴニア類、サボテンといったようなもので、觀葉植物に属するものが大半を占めているが、此れはやはり何と言っても管理のしやすい点、年中葉が青々としておって四季変わりなく眺めるによい点などから、自然とそうなってしまうのであろう。また一面から考えてみると、「病室の花」としての使命なり用途なりに思い及んでみるならば、観葉植物がその性質上、極めてよくこれに適している事が解る。ただでさえ感傷的になり易い入院患者に対して、すぐに花がポロポロ散ったり、葉がダラリと垂れて仕舞うようなものでは、患者の眼を楽しませ、生気を与うべきはずの「病室の花」として、まるっきり意味を成さないし、第一、そういう性質のもろい花は手数がかかって仕方がないであろうから、観葉植物の耐久力のある性質と、若々しい新鮮な緑こそ、最も望ましいものとなるのであろう。花ならばゼラニウームのようなものがふさわしいわけである。われわれ園芸人の常識として、病人の見舞に花を贈る場合にはこういう点にもよくよく注意して花を選択する事が必要な訳である。

さて次に訪れたのは牛込区若松町にある陸軍陸軍衛戍病院の附属温室である。※旧陸軍の衛戍(えいじゅ)地に設置され、その地域の陸軍部隊の患者の治療、衛生材料の保管、供給、衛生部下士の教育などを行なったところ。

面積は6坪、栽培されている植物の名を挙げてみると、ヒビスカス(芙桑花)、ゼラニウーム、ポインセチア、のぼたん、君子蘭、クロトン、椰子類といったようなもので、やはり観葉植物の類が多いようである。変わったところではろくわい属(※ロカイ属)の薬用植物が作られているーーーと係りの人が自慢していた。これはこの温室だけで、よそには無いもだそうであるから珍しい植物なのであろう。こういう薬用植物を作っている所あたりは、やっぱり病院の温室らしいと思った。

陸軍衛戍病院と名を聞いただけでも、読者はすぐに赤い夕陽の満洲を連想するであろう。御国のために負傷された兵隊さん逹を収容しているこの病院に附属する温室であるから、その中に培れている此れ等の植物達は、傷ついた兵隊さん逹を慰める尊い使命を持っているわけなのである。だから換言すれば、この植物達も御国のために働いているという事になるのである。そこで始めて此の温室の設けられた意義がハッキリして来る。その使命が尊いものになって来る。

温室係りの人は、なかなか園芸趣味の方と見えて、温室の横手に案内されてみると、そこには不完全ながら盆栽棚が造られてあるし、皐月だのつつつじだのバラだの、色んなものが雑然と並べられ、多数の植物が集められていた。(G・K・K)

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア