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第142回 戦前におけるダリアの流行について(1)

公開日:2021.10.29

『園芸植物図譜』

[発行]横浜植木株式会社
[発行年]1913、14(大正2~3)年
[入手の難易度]難

参考
『実際園芸』各号 誠文堂新光社 1926~1941
『横浜植木物語』近藤三雄他 誠文堂新光社 2021年

『実際園芸』の表紙に登場したダリア

切り花の大輪ダリアはとても人気の花だ。30年程前、僕が花の仕事を始めた当時の切り花ダリアは、夏場のお墓参り用の花(仏花)に入れる花材で、「切り前(採花するタイミング)」がとても固く、つぼみから少し開いたくらいのものを束ねていた。水揚げが良く、日持ちする品種ばかりが流通していた。これが大きく変わったのは、2000年代に入ってからだ。山形の産地と東京の市場による新規開拓で、ガーデン用の大輪品種を切り花向けに提案、改良する動きが出てきた。僕は当時仲卸で働いていたので、そのプロジェクトの最前線で試行錯誤していた。庭で見ればそれだけで圧倒される美しい花だが、それを花屋の店先やご家庭で飾って楽しんでもらうためには解決しなければならない課題がいろいろあった。それでもなお、ダリアは美しく、なんとかして流通させるべきだし、価値のあることだと信じていた。

ダリア熱は、西よりも東、特に東北で人気があったようだ。現在でも秋田県や山形県に有名なダリア園がある。品評会も盛んだったようだ。宮沢賢治もダリアを愛し、自ら栽培し、また作品に取り上げている。「くだものの畑の丘のいただきに、ひまはりぐらゐせいの高い、黄色なダァリヤの花が二本と、まだたけ高く、赤い大きな花をつけた一本のダァリヤの花がありました。この赤いダァリヤは花の女王にならうと思ってゐました」(「まなづるとダァリヤ」)。「そは何色と名づけるべきか 赤、黄、白、黒、紫 褐のあらゆるものをとかしつつ ひとり黎明のごとくゆるやかにかなしく思索する この花にもしそが望む大なる爆発を許すとすれば 或ひは新たな巨きな科学のしばらく許す水銀いろか 或ひは新たな巨大な信仰のその未知な情熱の色か 容易に予期を許さぬのであります」「これは何たるつゝましく やさしい支那の歌妓であらう それは焦るゝ葡萄紅なる情熱を 各カクタスの瓣の基部にひそめて よぢれた花の尖端は 伝統による奇怪な歌詞を叙べるのであります」(「ダリヤ品評会席上」)というふうだ。

現代芸術家、草間彌生は、長野県松本市の大きな種苗商に生まれているが、巨大輪のダリアをかかえた子供時代の有名な写真がある。戦前のブームもあって、あのようなものすごい品種があったことを思うとタイムマシンに乗って見に行ってみたくなる。

図1~8は、『実際園芸』の表紙に描かれたダリアだ。記念すべき創刊号から登場している。当時は切り花ではなく庭植えや鉢植えで楽しまれていた。ダリアは種類が多く、盛夏の頃にはしっかりした花を咲かせ長く楽しめるが、一般的には、秋の花という印象があって「実際園芸」でも9月号、10月号が多い。現在の切り花も、気温が涼しくなるにつれて色鮮やかになり、日持ちもぐんと良くなっていく。

図1~8
1(上段左)大正15年10月号、2(上段左から2番目)昭和4年8月号、3(上段左から3番目)昭和5年9月号、4(上段右)昭和6年9月号、5(下段左)昭和9年8月号、6(下段左から2番目)昭和10年10月号(10周年記念号)、7(下段左から3番目)昭和11年9月号、8(下段右)昭和14年9月号

【昭和9年】秋の「実際園芸」球根特集号

昭和9(1934)年秋の増刊号に「球根の種類と栽培」というタイトルの号(第17巻第6号)がある。巻頭に石井勇義が企画の意図について長めの挨拶文を記している。昭和初めの不況を乗り越えて間もない頃だが、球根植物の輸出の可能性とそのための取り組み強化を訴えている。日本からの園芸輸出品目で国際競争力を持っているのは、球根植物だということだ。特にテッポウユリを第一とするユリ根は大きな輸出額を誇っていた。これに、当時盛んになりはじめたチューリップの球根に商機があると見ている。国はこれらの輸出を増やすために予算措置を行い、品種改良や栽培技術向上のための支援をすべきだ、と指摘する。この一文は、石井勇義が園芸を志し辻村農園でがんばっていた頃の様子がうかがえるエピソードも含まれており興味深い。

図9 昭和9年『実際園芸』第17巻第6号 増刊号の表紙。

球根栽培の発達と普及  主幹 石井勇義

筆者が花卉園芸の実務に従ったのは大正2年からであったが、当時小田原なる辻村農園の圃場にオランダから輸入の多くの球根草花類を取り扱って、その色と香とに陶酔したものであった。それらの球根は当時に於ては未だ今日よりも珍らしきものであり、その頃辻村農園はオランダから球根を輸入する量に於ても1、2番であったが、今日に比すれば微々たる数であったに違いない。その後間もなく、欧州大戦乱が起こり、球根の輸入も年と共に減ずるに至り、大正6、7年頃からは全く途絶するに至った。

筆者は欧州開戦については一つの懐古がある。園芸の労働に従事して間もなかった筆者は、殆んど12時間の労働なのに、園芸について全く無知識であった為めに毎夜たいてい12時から2時頃まで園芸書を読みふけったものであった。その時には現代のベーレーの園芸辞典(※本連載第119回参照https://karuchibe.jp/read/14784/)はなく、辻村農園の図書からその前版である米国園芸辞典を借りて来て辞書と首引で勉強したものであったが、過労が原因で腸チフスに侵される事になり、夏中病臥し安静を続けている間に欧州戦乱が勃発したので、新聞を読むことを全く禁じられていた筆者はよほど遅れてそれを知ったのであった。この事は球根栽培とは少しも関係はないが、はじめて園芸に従った当時の思い出の一つであった。

かくして欧州戦乱が年と共に拡大し世界の経済界、海運界に非常なる影響を来すようになって来るに従って、球根の輸入は殆ど絶望に陥り、内地の貧弱な球根で僅かに需要を満たしていたに過ぎなかった。大正十年前後から、その球根の輸入も復活し、内地に於ける栽培も本格的に進んで来たように記憶している。林脩已(はやし・のぶみ※千葉高等園芸学校講師)氏が千葉県下に球根試験場を起し、爾来輸出の目的にて多大のチューリップをオランダから輸入して栽培を始められたのもその頃であった。一方新潟県に於ても球根の生産に着眼されて、ここでは一つの産業としての栽培が起り、今日の端緒が開かれたように記憶している。

一方関東大震災直後から一般花卉園芸が急速なる発達を見るに至って、球根栽培も一つの産業として、堅実なる地歩を歩み出すようになって来た。その当時より新潟県下は他に先んじて一つの産業として発達せしむべく、栽培の奨励、品評会の開催等に、県当局と民間営業者とが協力して行われた結果今日の基礎をなすに至り、全く立派なる一つの花卉産業としての地歩を確立するに至った。県当局の多くは花卉園芸を以て道楽視しているものが多く、営業者のかかる企てに対して特別の補助をなすがごときは未だ例を見ぬところであるが、その事あってか今日ではとにかく内地の需要を充す外に、海外に輸出するの域にまで発達したのである。園芸生産品は現在5億に達し、蔬菜が3億、果実1億、加工品及花卉で1億という統計になっているというが、農林省には園芸課というものがなく、副業課の一部に属している有様で、農林省の上司に於いてすらも園芸を一つの道楽業視しているのが多いとは、関係専門家の嘆声である国立園芸試験場の予算が一県の試験場の予算より著しく少額であったり、県農事試験場で花卉を栽培するが故に県会に於て農事試験場予算の減額が提出されているという様な滑稽さえある。我国は趣味としての花卉園芸の発達は世界に類例を見ないところであるが、最近はまた帝大に花卉の講座が開かれ、高等園芸学校は勿論、高等農林学校等に於いても順次に花卉の研究に関心を持つ様になって来ている事は欣ぶべき趨勢である。

花卉園芸の総合的の進歩に伴って球根栽培の科学的研究を要すべき事は極めて多い。球根の研究は内地の需要品にも無論必要であるが、まず第一に輸出品に向けられなければならない。我国に於ける球根の輸出品と言えば百合類である。これに対しては国家当局が早くより改良進歩の方策を講ずべきであった。たまたま輸出植物の改良事業が企てられたとすると、その結果は輸出当業者から見てはあまり見込みなき結果であった様に聞き及んでいるが、そうした花卉よりも真に国産の増加を計り、園芸をして輸出産業たらしめんには、現在輸出されている百合、チューリップ等の如き方面より着手すべきで、品種改良の如きも全く輸出向きという事に最初より目標を定めて進むべきであると考える。

そうした輸入品としての球根の進出を計るという事は急速には出来ぬとしても国家事業として決して等閑に付すべきではないと考える。我国からのすべての輸出品が世界の市場に大飛躍をやっている今日、園芸品の世界的進出も企てて然るべきであると考える。(以下略)

ダリアの最初の流行は明治35、36年頃

球根植物のなかで大きな位置を占める「ダリア」は、明治後期に本格的な導入が始まり、たちまち人気となった。花の大きさや華麗さに大きな魅力があるだけでなく、栽培のしやすさ、丈夫さが庶民への普及につながったようだ。『横浜植木株式会社100年史』によると、当社は、明治30年代にダリア、チューリップ、ヒヤシンス、スイセン、グラジオラスなどの洋種球根類の輸入に力を入れ始めた。「なかでもダリアについては華麗種を好んで輸入したこともあって、明治40年代に入ると国内で爆発的な売れ行きを呈した。これまで顧客といえばほとんど外国人だったが、明治37、8年ごろから年を経るにしたがって日本人向けの需要が伸びてきたためであった」。横浜植木の記録では明治42、43年のシーズンに30種、44、45年に同じく新品種を30種を導入し、力を入れていたことがわかる。このころ人気の花型は「カクタス咲き」の品種だった。

「いよいよブームとなったダリアの国内需要をみたすため、当社は人気のあるカクタス種を中心に、当時、新種の作出が最も進んでいたオランダから秋冬年2回にわたって輸入し、温室で培養したあと海外新種として販売、これが大ヒットとなってさらにダリアブームに火がついた」(『百年史』)。こうして熱狂的なブームとなったダリアからチューリップやヒヤシンス、スイセンといったその他の球根類へと人気が飛び火し、大正から昭和にかけての「球根ブーム」へと発展していった。

輸出に関しても、百合根がそうであるように、球根の増殖には手間と時間がかかるため、コストの安い日本は競争力があったようだ。当時の植物輸出にかかわる人々は海外の状況をよく調べている。スイセンが有望だというとスイセン、チューリップがアメリカ向けでオランダと競争できるとなるとチューリップの増産にチャレンジする、といった取組みに力を入れていった。

図10~13 大正2年発行の『園芸植物図譜』で紹介されたダリア。花型だけ記すと、左からデコラティブ、ピオニー、カクタス(2枚)(図は『横浜植木物語』から)。
図14~17 大正3年発行の『園芸植物図譜』から。この配本では、新種のカクタス咲だけをピックアップした。人気があったのだろう、とても繊細で美しい。(図は『横浜植木物語』から)。

参考
『横浜植木株式会社100年史』横浜植木株式会社 1993年
『原色園芸植物図譜』第2巻 石井勇義 誠文堂 1930年

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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