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第146回 枝ものを梱包する技術「シオリ」と「クゴ」の謎

公開日:2021.11.26

花 花塚建立記念誌

[編著者]三田鶴吉
[発行年月日]1933(昭和53)年11月1日
[発行]私家版 限定出版700部

[入手の難易度]難

東京都、立川市を代表する創業70年の花店、三田花店の創業者、三田鶴吉氏(1924-2019)は、JFTDの初期からの会員であり、多摩地域のリーダー的な存在として知られた。日本民俗学会会員であり、立川市の文化財審議会委員も務めておられたそうで、数多くの著述を残された。意外なことだが、花の仕事に関して出版社から単著として出されたものがみつからない。そのため、今回紹介する本『花 花塚建立記念誌』や『花の日本史』1989年の記事や緑色の表紙の『花店の歴史』2000年などが重要な著作だと思う。特に、古い時代の花屋の現場であるとか、植物に関係する民俗風習といったことに深い関心と知識を持っておられた稀有な方であった。『花 花塚建立記念誌』にも数多くの民俗に関する事項が記録されている。僕は同じ立川の花屋で仕事を始めたので三田花店はよく知っているが、鶴吉氏には一度もお目にかかる機会がなかったのが残念だ。

※参考 三田鶴吉氏のプロフィール 立川倶楽部「立川人物事典」のサイトから
http://tachikawaclub.com/encyciopedia/person/

【三田鶴吉 -市井の郷土史研究家として多方面で活躍-】 立川飛行機株式会社に見習工として入社し、後に志願し22歳で特攻隊員として中国で終戦を迎え昭和 21(1946)年に復員。立川生花市場に勤めていたが昭和26(1951)年7月、立川市で三田花店を創業した、とある。花店の経営の傍ら、多摩地域の歴史、自然、民俗の研究を続けた。

さて今回、取り上げるのは、『花 花塚建立記念誌』という「限定700部」の書誌のなかにある枝物の「シオリ」に関する記事だ。西洋の花文化が草花中心に発展したのに対して、日本では「いけばな」とともに発達した枝もの、花木を扱う文化があり、その材料を集め、運ぶために高度に工夫、洗練されたパッキングの技術が「シオリ」と呼ばれている。

この本において著者、三田鶴吉は、「枝を小さくまとめ、活けやすく運び良く、蕾や花が落ちないように、そして室(ムロ)に数多く入れやすくするのが【シオリ】という特殊な技術」だと述べている。生産地から消費地へ輸送するだけでなく、花の開化促進のために「ムロ」に入れるためにコンパクトに梱包する必要があった、と指摘しているのだ。重要な指摘だと思う。

※ムロについては、本連載第89回(https://karuchibe.jp/read/11551/)でも紹介している。地下に縦に掘ってつくる麹室転用から山の斜面を利用した専用の横穴式の「土室(つちむろ)」へと進化していった。

以下の画像1~8で誌面の概要を示す。

図1~8 「桃ジオリ」と「梅ジオリ」の詳細を写真で図解したページ。『花 花塚建立記念誌』から。


図9 「梅ジオリ」。尖端から枝をまとめながらヒネリを入れてシオっていく。

図10 桃の「一丸(※まる、まるき)」の寸法事例(『花 花塚建立記念誌』)。※本には何束で1丸にするのかは書かれていないが通常、48シオリで一丸となす。

三田鶴吉による「シオリ」の説明を以下、引用、再録してみたい。この文章で、注目したいのは、「シオリ」の作業には、「花桃」タイプと「花梅」タイプがあった、ということ。時代を経て、「シオリ」は簡略化され、「ソクリ(解説はないが、単純に束ねるという意味か)」へと変わってきたこと。また「シオリ」の束ね作業に使っている材料が、ワラ(イネのワラを選りすぐった「ミゴ」)ではなく、「クゴ」という植物繊維であった、というところである。ここに注目して、以下考察を進めたい。

シオリについて

このシオリも江戸しおりと敢えて申上げるべきかも知れませんが、桃や連翹やサンシュユなど、枝を小さくまとめ、活けやすく運び良く、蕾や花が落ちないように、そして室(ムロ)に数多く入れやすくするのが「シオリ」という特殊な技術です。

元来シオリとは手折りから来た言葉で、柴折戸(しおりど)などにも見られるように柴折りではないかと思われますが、いつ頃からか、誰が始めたものか、多くの方々にお聞き致しましたが、そのこともよく解りません。随分古くからのものであることはたしかで、「オセイカ」といわれる「ソナレ」「柾木」「イブキ」や「キャラ」「若松」「ヒバ」などの、お茶会や来客のための床の間に花を立てた伝統と共に考え出されたものであろうことは間違いがありません。

天文の頃(1550)の「花ふ」に既に3月3日は桃、5月5日のあやめ、8月1日のはぎ、9月9日の菊など、その節句に活ける花の様々が画かれており「舟に宝を積む心で花を盛り」とその精神を説いておりますので、「心の花」を大事にすべきであるとの花の大事さがこのシオリの技術を生んだものであろうと思われます。華道の「タメ」は親指による特殊技術ですが、花売りの特殊技術が「シオリ」であったのです。世に名高い享保の改革は経済のことだけではなく、倫理社会の問題も多くふくまれておりました。こうした社会的背景のもとに、格をもって活ける花としての出現があり、この頃からこの江戸を中心としたシオリは始められたものではないでしょうか。

ワラのハカマを取り去ったものがミゴであり、クゴと呼ばれるものがシオリにはなくてはならぬものとなっています。クゴはそう古くから使われていたものではなく、フェルト草履などの流行と共にこれを取り扱う業者、製造に携る人々から分けて貰って使い始めたもののようです。こうした業者は川崎辺に多いので、馬絹(まぎぬ)の生産者などが使い始めた事は容易に納得がゆけますが、牧野植物図鑑にもこのクゴの事はありません。編集子(※三田鶴吉氏)などの遠い記憶から、クゴは塩気がある事に気付き「ヒチトウ」と呼ばれる、海辺の近いところに生えるイ草の一種である事が解り、これが通称「クク」と呼ばれており、「クク」のすぐられたものが「クゴ」である事が判明したのでした。既に利根川河口附近の土地を借りてこの「クゴ」の自給をはかっている川崎市の吉田金蔵氏からもお聞き致しました。

シオリについては写真の順を追ってゆけば、その大凡はお解り戴けるものと思いますが、梅や木爪など厳寒の頃と硬いもの「ウメジオリ」といって「桃ジオリ」とは違った高度の技術を必要とします。また枝先からシオって来るという事と枝を「ヒネリ」ながらシオるのです。

花室(はなむろ)はその家々によって違いますが、一番簡単な方法は推肥の山の中に円筒型の空間を作り、その中に咲かせたい花枝を入れるという方法です。落葉が醗酵する熱のかげんさえ気をつければ良いのですが、一般には40丸(※48シオリを1丸とする大束)位いは入れるだけの規模をもたないと、商売としてはなりたたないのが実情ですので、山の裾に堀られる(※横穴式)のが普通です。

醗酵材料には麦糠が最高ですが麦糠の代りに米糠に藁を混ぜたものが多く使用されました。

(※米糠発酵ではエチレンガスなど花によくないガスが出るため、麦を中心に利用していたという…大田花き「産地ウンチク探検隊」)

 

しかし水の取り替えの不便や暗さ、などもろもろの悪条件が多く、室は温室へと可及的に切り換えられてゆくのは必須のようです。「シオリ」も「ソクリ(※束り?解説なし)」へと簡略されてきましたが、この伝統的シオリ技術が亡びる事はありえませんが、より簡略される事が、ある一種の進歩なのでしょうか。(引用終わり)

三田鶴吉は、枝ものをシオるのに最適な「クゴ」の発見があった、と述べている。「フェルト草履などの流行と共にこれを取り扱う業者、製造に携る人々から分けて貰った」という。とても興味深い一文だと感じた。「クゴ」は「結ぶ」のではなく、稲ワラでやるように、とじるところをクルクルと絞って差し込むような動きで留められ、しかも稲ワラよりはるかに細く強いため、枝先の繊細な部分にも適していた。

三田は「クゴ」を「なめると塩気が感じられる」ということを手がかりに調べてゆき、「シチトウ」という汽水域に生育する植物であるということをつきとめた。また、それらはすでに川崎、馬絹(まぎぬ)地域の枝もの生産者によって千葉の利根川河口付近(千葉県だと銚子市)で栽培されていた。

さて、ここへきて、この「シチトウ」が植物学的にはなんなのかがわからない。手がかりは、記事に掲載された写真(図11、12)だけである。


図11 「クゴ(正体不明)」の束。これに熱湯をかけて柔らかくしてから使う。(『花 花塚建立記念誌』から)

図12 「クゴ」をつかったシオリかた。(『花 花塚建立記念誌』から)

 

方言辞典に掲載された「クゴ」「シチトウ」

ここで一度、「クゴ」あるいは「シチトウ」が方言辞典(『日本植物方言集成』八坂書房2001)ではどのようなものとして示されているかを調べてみよう。

◎方言名から調べる

【くこ】はクグ、

【くご】はクグ、スゲ、ネズミノオ、ハマスゲ、

【くぐ】はクヌギ、ハマスゲ、ヒカゲスゲ

【しちとー】【しっとー】【しちとくさ】はシチトウ

【しっとーくさ】【しっとぐさ】は「カヤツリグサ」と記されている。

 

◎植物(標準和名)から調べる

【クグ(カヤツリグサ科/草本)】Cyperus sp.は青森(上北)で【くこ】、仙台、青森(三戸)、山形(東置賜、東田川)では【くご】、鹿児島(川辺、国分市)では【はなこぼし】

【シチトウ、シチトウイ(カヤツリグサ科草本)】Cyperus malaccensisは鹿児島(川辺、薩摩、大島)で「い」、新潟で「おかい」、宮崎で「かくい」、山形・千葉「さんかく」、群馬・新潟・山梨・岐阜・静岡・愛知・三重・和歌山・岡山・山口・徳島・香川・愛媛・福岡・熊本・大分・宮崎・鹿児島(奄美大島・中之島・悪石島)は「さんかくい」、福島「さんかくくだ」、栃木「さんかくただみぐさ」、宮崎「さんかくび」、広島・宮崎「さんかくゆ」、鹿児島(薩摩)「しちとー」、秋田「しちとくさ」、大分・熊本(玉名)「しっとー」、山形「しらとり」、高知「とーい」、山形(東田川・飽海)「としべ」、島根(美濃)「ひちとー」、和歌山(新宮市)「ふくい」、和歌山(東牟婁、西牟婁)「ふくいぐさ」、鹿児島「ふくり」、鹿児島(出水・熊毛・種子島)「みちしば」、愛知「みつかど」、山形「ゆーきゅ」、宮城・福島「りーき」、宮崎「りきゅー」、宮城「りゅーき」福島・茨城「りゅーきぐさ」、福島「りゅーぎゅ」、栃木・群馬・埼玉・千葉・新潟・長野・静岡・三重・和歌山(日高)・鳥取・高知・福岡「りゅーきゅー」、宮城・新潟・山梨・静岡「きゅーきゅーい」。


このように、書いてみてわかるのは、「現物を検討しない限り正確なことはわからない」ということである。本州から南アジアにかけて広く分布する(栽培可能な)湿地の植物で、大雑把に見ると、「カヤツリグサ科シペラス属」の【くご】【しちとう】、これに後で触れる「イグサ科」の「イ」Juncus decipiens があり、もしかしたら、場所によっては「カヤツリグサ科カレックス属」のいわゆる【すげ】の仲間も「クゴ」と呼んでいる場合がある。

◎【くご】と呼ばれる植物は「シペラス」「カレックス」「ジュンクス」の3属等が混ざっている。

◎【くぐ】漢字では「沙草」でカヤツリグサを指す。旅をしながら辻で小さな人形を使った芝居で喜捨を得る「傀儡子(くぐつし)」とも関連がある言葉だという。

さて、もとの枝もの生産者の「シオリ」に戻る。

ここでは、「大型のカヤツリグサ科の植物の茎を乾燥したもの」を利用していた。これは、三田鶴吉の記述から「シチトウイCyperus malaccensis」(カヤツリグサ科)と思われるが、現物がないことと、僕の不勉強のため、確証はない。

ここに、もう一つのエピソードがある。

東京、大田市場花き部の卸売会社、大田花きのHPにある「産地ウンチク探検隊」の記事によると、川崎、馬絹の生産者は、「クグ」が手に入らなくなったために畳表に利用する熊本県産の「イグサJuncus decipiens」(イグサ科)に転換したと述べている。

 

○ 川崎市馬絹の「吉忠」吉田さん 大田花きのHP「産地ウンチク探検隊」から
https://www2015.otakaki.co.jp/blog/place/archives/2011/02/11.html

 

記事のなかで、生産者は「昔は【クゴ】を使っていたんだよ」と述べている。

「【クゴ】って草の名前。吉忠初代の吉田仲右衛門(ちゅうえもん)さんのときはクゴを使っていたんだ。海近辺の河口岸とかに生えている草でね、引き潮のときは淡水に浸されて、満ち潮のときは海水に浸されるんだ。これがちょうど九十九里浜辺りにあってね。採ってきて乾かして、使うときに濡らして使っていたんだよ。当時はこれが丈夫だとされていたんだ。この辺りの馬絹の生産者だけが使っていたんじゃないかな。それが今は「九十九里の川がきれいに整備されて、クゴが採れなくなった」

クゴが採れなくなって、どうしたか。さらにインタビューは続いている。

「そこで私が考えたのが【い草】なんだ。私が30代の頃だったかな。クゴが足りなくなったときに畳屋さんに畳の切れっ端をもらってやったら、ちょうど良かったんだよね。それで新しいものをもらって使ってみたら、編んでいないものの方がいいってことがわかってね。藁もやってみたけど、意外と使いにくかったんだよ。今でもワラを使っているところもあるよ。だけど、い草がいいと思って熊本から取り寄せたら、なんとクゴより安かったんだよ。い草だからさ~、高いものだと思うじゃない。でも畳を作るときに出る副産物だから、安く出してくれてね・・・」

 

本連載第72回(https://karuchibe.jp/read/10528/)で田畑に入れる緑肥、「刈敷」について述べておいた。私たちの祖先がこの列島で暮らし始めてからすでに数千年の歴史があって、その間に、身近な植物をさまざまな用途で利用してきたわけで、農耕に用いた「刈敷」のような植物利用は見落とされがちであるが、かなり広範囲に普通に行われてきたことのようだ。繊維植物の利用も生活に欠かせない重要かつ日常的なことであったろう。それらは、栽培と自然採取の中間的な関わり方(半栽培)で、いわゆる「里山」や「里海」というような人間の手が加えられることで長期に渡って持続可能な仕組みになっていたようだ。

今回の話で登場した「シオリ」に使う植物(シチトウイ、グゴ)は、いずれも浅い湿地帯に生える植物であった。とくに河口付近の汽水域に大群落をつくる。こうした地域は人間も漁労のために身近な環境だった。ヤナギやヨシ、スゲ、クグ、マコモ(水草)、藻というふうに陸から水中へ植物があって、それらを定期的に収穫し、さまざまに利用していた。ヨシは屋根材やノリの養殖などで使われていたという。スゲやクグや水に強い繊維として縄やかご、雨具などに編まれた。水中の植物や藻は、「刈敷」として利用された。琵琶湖の事例では、人間が利用することによって、湿地が守られ水質もきれいに維持されてきたのだという。

 

参考

地域メディア「えくてびあん」2020年2月号(No.419) 三田鶴吉氏の写真、プロフィールあり
https://tamatebakonet.fgarden-s.com/files/user/ecoutezbien/ecoutezbien2002.pdf

大分、国東の「七島藺」の歴史 大分の青表問屋、株式会社青木本店のHPから
https://www.oita-aoki.com/%E4%B8%83%E5%B3%B6%E8%97%BA%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1/

『日本植物方言集成』八坂書房・編 八坂書房 2001

『海に生きた百姓たち』渡辺尚志(たかし) 草思社 2019

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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