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第147回 ひらがなで表記する「いけばな」について

公開日:2022.1.14 更新日: 2022.1.17

『生花早満奈飛(いけばなはやまなび)』(復刻版)

[編著者] 伝・南里亭喜楽(第1編)、雞鳴舎・暁鐘成(第2~10編)
[復刻版注釈解説] 北條明直
[発行] 復刻版 楡書房
[発行年月日] 1977(昭和52)年1月1日
[入手の難易度] やや難

※第7編のみ国立国会図書館デジタルコレクションで読める
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536947

 

明治以前の花屋さん

江戸時代の花屋さんがどんな様子をしていたのか、調べてみると意外と絵が見つからない。切り花ではなく「植木」を扱う人たちは浮世絵などによく描かれているが、切り花を扱う人々、とくに、店舗を構えている様子がよくわからない。テレビ時代劇「必殺仕事人」に「花屋の政」(村上弘明)という殺し屋がいて、庭の枝を折り取ってそれを相手の延髄に突き刺すという技を持っていた。この人は店を持っていたと思うのだが、シリーズの途中で鍛冶屋に転職して武器も手槍になってしまいます。

とはいうものの、いろいろ検索して以下、いくつか見つけたものを紹介する。まず、江戸後期に書かれた『守貞漫稿』からひとつ。『守貞漫稿』は、江戸末期に喜田川守貞によって書かれたイラストつきの風俗誌。守貞は江戸に14年、大坂に30年間居住したというのだが、その間に見聞きした京坂、江戸の庶民の生活を詳細に書き残した。図1はその中の「花売り」の様子。いわゆる「ぼてふり」で、天秤棒にかごをつけて売り歩いた。解説文には、当時の三都(江戸・大坂・京都)の花売りがどのような商売をしていたか、短い説明がついている。残念ながら、どんな花が売られていたのかはよくわからないが、以下にまとめる。なお、『守貞漫稿』には植木売り、荒神松売り、菜蔬売り(蔬菜ではなく菜蔬)、黒木売り(大原女)、つつじ売り、苗売り、朝顔売り、稗まき売りなど、植物関係の多くの商売が路上にあった。

 

花売り(『守貞漫稿』から)

○【花売りは男の仕事】三都ともに花売りには男子多く、また稀に老姥もあり。
○【仏花が中心】仏に供する花を専らとし、活花(いけばな)に用ふる花は少なし。
○【花の価格・京阪】京坂では仏供の花価三文以上を売る。三文あるい五文もあり。それより十、二十文を供するもあり。
○【花の価格・江戸】江戸は花価八文以上を売る。江戸では下で四文八文、高いところでは四十八文、六十四文。
○【四文銭を専用する】江戸の花価は、すべて四の倍数。これは、四文銭(しもんせん/四当銭)を専用する故なり。
○【浄土真宗の家は花を重視】親鸞宗は貴価の花を供すること、三都相似し。
※同書によると当時のそば(かけ・もり)の値段が「十六文(四文銭が四枚)」とある。現在の300円くらい。

図1 『守貞漫稿』から 花売り (国立国会図書館デジタルコレクションから)

余談になるが、本連載第146回で採り上げた「クゴ」に関連して、『守貞漫稿』に「くご縄売り」が掲載されている。「くご、正字を知らず。水辺に生ゆる草名なり。もって極細の縄を製す」「くご縄は燈心殻をもって製するなり。すなわち藺縄(いなわ)なり」などの解説がある。クゴ縄はさまざまな紙包みの品物をくくり、他郷に送る際に日常的に使われた。折り詰めの容器(曲物)の蓋を止めるのにも使われた。クゴを用いて「銭ござ」というものも作られ足軽や中間(ちゅうげん)など下級武士の私業になっていた。

店舗をかまえた花屋の様子

図2と3は、店舗らしきものを構えた花屋の姿が描かれた事例。
まず図2は、『宝船桂帆柱』(1827)から。この本は、江戸時代後期に戯作者、十返舎一九の作、浮世絵師、歌川広重の画で出版された「職人尽(しょくにんづくし)」。この本には、38の職業や、職人の姿、商人の姿などが描かれている。
さて、絵を見てみよう。暗い色の小袖の上に舟の絵柄の袖なし羽織を着た花屋、腰に小さな何か道具を入れるケースのようなものを下げ、手拭を頭に被り下駄を履いている。見えないが、前掛けもしているのではないか。花屋というのは、水を扱う商売なので、下駄を履く必要があったと思われる。今ちょうど束ねた花を切ろうとしているところのようだ。木桶に入った花が棚の上下に置かれ、「薄端(うすばた)」のような金属製の花器(下蕪型、薄端)が2つある。束ねた花をこの器にいけるところかもしれない。繁盛しているのだろう、添文には「花屋 見る目にも くきりと菊の花屋とて さかりひさしき 見世(店)のにぎわい」と書かれている。心地よいハサミの音が聞こえてきそうだ。

図2 江戸時代後期の花屋のようす (『宝船桂帆柱』十遍舎一九〈1827〉 国立国会図書館デジタルコレクションから)

図3は、江戸時代末期の『生花早満奈飛(いけばなはやまなび)』から。こちらは、前掛けも慣れた姿でやはり下駄を履いている。月代をきれいに剃って清潔感があり、好感が持てる。このものごし柔らかそうな店主が仕事をしているところへ、お得意さんがちょうどやってきたところか。女性は左手に花器を持っている。ここでいけてもらって持ち帰るのか、あるいは、後で届けてもらうのだろうか。大きな木桶が2つあり枝ものや花木がたっぷりと在庫してあるから、いい花がいけられそうだ。棚の下段に桶があり花材が立ててストックされているため図2の花屋さんよりも台の位置がかなり高めにセットされている。いま制作しているアレジメントは仏壇に供える花だろうか、マツやヒバのような真の枝ものを真っ直ぐに立てるスタイル。それにしても、お客さんが器を自分で持ってくるというのは、現代ではほとんどないことなので、面白い。ボウルを手にお豆腐を買いに行った昭和のようであり、SDGs的光景ではないか。

図3 『生花早満奈飛』〈1835-1851〉第5編から

流派を超えたいけばな指導書

『生花早満奈飛(いけばな・はやまなび)』という本は、文字通り「早学び」のための本、「いけばな」を短期で習得するための「速習マスター参考書」だ。『いけばな総合大事典』によると、「10編。天保6年(1835)から嘉永4年(1851)までの間に刊行された」。編者は初編のみ南里亭喜楽(楠里亭淇楽)と伝えられ、のこりの9編は、大阪の戯作者、雞鳴舎暁鐘成(あかつきかねなり)とされている。

この時代、いけばなに限らず多くの入門書が出され、なかには「早学」と題するものもたくさん出回っていた。この本もそうした参考書のひとつであったという。内容は各流派の伝書や刊行物からの抜き出しが多く、これといった特色はないが、いけばな一般の心得や技法などたくさんのイラストを用いてわかりやすくまとめられ、一通りの知識を得るのにはたいへん便利だった。僕が持っているのは、楡書房により昭和50年代に復刻されたものだ。和綴じの10冊と解説書、索引がそれぞれ1冊ずつついて、立派な帙(ちつ)に入って外箱に収められている。一冊のサイズはちょうど手に乗るくらいの大きさで、まさにハンドブックといえる。52年版と54年版を持っているのだが、54年版は帙がわずかに小さくなっている。とくに、いけばな文化史の研究者であった北條明直による翻刻、注釈が別冊としてついているのが重要で、これによって書かれている内容がわかる。

解説文によると、図3の花屋さんのイラストがあるページ(第5編)には次のようなことが書かれていた。

 

○いけばなでよく使われる文字に「生」、「活」、「挿」の3字がある。「生」は、「いきる」の文字ゆえ草木を生かして器に入れるという意味がある。しかれば少しでもしおれていては「生花(いけばな)」とは言えない。また出生(植物の自然な生成の状態)をいけるという意にもかなうゆえに古人はこの字を用いてきた。

 

このように、図3のイラストのなかで重要だったのは花屋さんの様子ではなく、店の壁に貼られた広告?の文字のほうだった(図4)。同じ壁のなかに「活花」「挿花」「生花」という3つの文字があって、いずれも「いけばな」と読む。

図4 図3の部分 壁に「活花」「挿花」「生花会」という3種類の文字

『生花早満奈飛』では、まず、「生花」を説明したあと、次の2つの文字についても解説している。

 

○「活」の字は生きるなり、死ざるなりと字書にある。たとえば、根を切ることは植物を殺すことに似ているが、その後の養い方や生けかたによって、たちまち生き返るという意味もある。そのため、「活」という字を使う流派がある。

○「挿」という字は、もともと「いける」という訓(よみ)はない。あえて言うなら「さしいれ花」と言うべきだろう。この「さしいれ花」から2字を省略し、「いれ花」と称えたものが変化して「いけ花」と唱えるようになったのではないかと思う。(当時広く知られていた中国のいけばな指導書である)袁宏道の『瓶史』にも「花を挿しはさむ」という言葉があるからこれに基づいているということも考えられる。

 

なぜ「いけばな」はひらがなで書かれるのか

この注釈書で解説をしている北條明直氏は、最初のページにいけばなの歴史を簡潔に示している。


いけばなには、およそ二つの流れがある。その一つは、「たてる」はなで、「たてはな」あるいは「立花(りっか)」といって、草木や草花を一瓶の器に、厳正に格調をもつ直立した形に据えるもので、室町期にはじまり、安土、桃山時代をへて、江戸初期に様式的完成をみる。
 いま一つは、「いれる」はなであり、それは「たてる」はなに対して自由な作意をもって、身近な草木を手軽な花器に挿すもので、かたくるしい約束がなく、立花の格式に対応する閑静なはなとして江戸初期に急速な発展をとげるのである。

 ところで、「たてる」と「いれる」の二つのはなの止揚されたところに、「いける」はなが生まれている。いれるはなのもつ技巧を弄さず手軽く挿す姿勢が切りとった草木に、多少の手を加えることにより、自然をいきいき表現しようとする心ばせを継承しながらも、一方挿し方に一定の法則をもち、その法則に従うことによって、たてるはなのもつ格調をとり込み、とくにその水際を細くすっきりみせることによって、たてるはなの、直立な容姿に通わせたのが「いけはな」である。江戸中期以降、いけはなは江戸の生活美学である「粋(いき)」に通ずるはなとして、非常な流行を見、かつ多くの流派を生んだ。それぞれの流儀によって、「活花」、「生花」、「瓶花」、「挿花」等の字をあてているが、ひとしくこれを「いけはな」と名のらせている。「いけはな」は「いけばな」ともいい、また「生花」を音読みにして「せいか」あるいは「しようか」とも呼ばせている。比の書でも、「生花」の字に、「いけばな」、「せいか」「しようか」といった。ちがったふりがなが付けられているゆえんである。

こんなふうに、歴史をたどると、現在の「いけばな」にいたるまで、さまざまな形式とそれを指し表す漢字表記があったことがわかる。そのため、漢字で表記した場合、全体をあらわすものか、一つの時代の形式を示す言葉なのか、いちいち説明が必要になるため、現在では、花を花器に入れて、形を整えるような行為の全体を指す場合は、「いけばな」というふうにひらがなで表記することが多い。

 

いけばなの歴史を学術的に研究する小林善帆(立命館大学・衣笠総合研究機構客員研究員 国際いけ花学会参与)は、『「花」の成立と展開』(2007)のなかで、次のように表記して「花」を論じている。

 

1、【「花」】「」(カッコ)つきの「花」…いけばな・花道…「花を瓶もしくはこれに類する容器に入れて、形を整えるような行為の全て」

2、【たて花】 「しん(心・真)」と「下草」から構成される。その後さまざまな様式に展開される「花」の原型。そのなかでも「立花(りっか)」の様式に取り込まれて消滅した。※読みは「たてはな」。「立花(りっか)」様式と区別するためにたて花の豪壮なタイプのものが立花となったのとは別に簡素な姿のものは、神仏への供花や茶の湯の花、なげいれ花、文人花などへと展開した(「たて花」はのちに出てくる数多くの形式を内包していた)。

続けて、工藤昌伸による『いけばなの道』(1985)から、「たて花」以後の「花」の解説を記す。(工藤昌伸は花道家の家に生まれ、京都大学文学部で史学を学び、実作者としても評論家としても活躍、多数の著作を残した。)

3、【なげいれ花】 たて花のようにしんを立てる形式とは異なる花形で、日用雑器を花器として用い、ごく自然に花をさし入れたような形の花。時代が下るにつれ、その形式にも異なりのあるところから、発生時から元禄時代前、貞享までを「なげいれ(花)」、その後元禄から近代まで(江戸時代)のものを「抛入(花)」、明治以降のものを「投入(花)」と使い分けることも多い。「抛入花」は室町時代後期に茶の湯の花として受け継がれ元禄時代に様式化した。江戸期の「抛入花」から、花を生かすことに重点を置く「いけはな」の言葉が生まれた。

4、【生花(せいか)】江戸時代中後期に成立。当初は「いけばな」と呼ばれていたが、明治以降の「花」と区別するように「せいか」と呼ばれるようになる。池坊では「しょうか」と呼ぶ。ほかに、格式のある花として「格花」、流派によってことなるため「流儀花」ともいう。

以上、明治以前の「いけばな」の形式を言葉によってたどってみた。江戸末期の『生花早満奈飛』には、「いける」ことが「いかす」ことであり、それは、一度殺したものを蘇らせるというような復活の意味も含むというようなことが書かれていたことにハッとさせられた。大野晋『古典基礎語辞典』(角川学芸出版2011)の【いく(生く)】という言葉を引いてみると、イキ(息)と同根の言葉であり、生命を保つ、生存するの意。シヌ(死ぬ)の対義語であるほかに、「生きかえる」「よみがえる」の意を示す場合もある、と記されていた。古い言葉の意味は現在と異なっていたり、ニュアンスがずれていたりする場合もあるのかもしれない。昔の人たちがどのような思いを込めて花をいけたのか。「立花(りっか)」以前の花「たて花」がいま、ふたたび注目されるようになってきた。ただ、スタイルを真似ることはできるかもしれないが、「たてる」「いれる」「さす」「なげいる」といった言葉を私たちは正確にとらえているのだろうか。「まなぶ」「ならう」「たしなむ」「おぼえる」とはどういう姿勢であるべきか。

 

新しい年になりました。今年もよろしくお願いいたします。

 

参考

○ 『近世風俗志(守貞謾稿)』 喜田川守貞 江戸後期 岩波書店(文庫) 2002

○ 『宝船桂帆柱』 作・十遍舎一九/画・一遊斎広重 文政10(1827) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9893157

○ 『「花」の成立と展開』 小林善帆 和泉書院 2007

○ 『古典基礎語辞典』 大野晋 角川学芸出版 2011

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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