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第149回 浪速少年院の温室~温かい部屋がある意味

公開日:2022.1.28 更新日: 2022.1.29

『実際園芸』第18巻第1号 1935年1月号

[発行]誠文堂新光社
[発行年月]昭和10(1935)年1月
[入手の難易度]難

クリスマスやお正月、バレンタインのような時期になると、街や店頭がいっせいに装いを替え、華やかな雰囲気になる。人によっては、それをとても楽しみに思うだろうし、逆に、とても寂しく孤独を感じる時期にもなる。足掛け2年におよぶコロナ禍の生活で、暮らしには「居る」と「行く」という行為があるんだとしみじみ理解した。コロナ禍はこれまであったルーティンを大きく変えてしまった。家に居るばかりだと心身ともに不調になる。規則正しい生活も重要だし、そのなかに、仕事場に出かけるということも含まれている。人間にはどこかに「行く」ということと「通う」ということの両方が必要なのだろう。自分も意識して、スーパーマーケットに通う、とか本屋に通う、といったことをやってみようと思った。

10月の始めころからは神保町の古書会館で開催される月例の展示即売会に通い始めたが、これは早々に断念することになった。面白いものがありすぎて財布が続かない。それで、今度は、定額で動画が見られるサービスを利用して、一人の監督のもとに通う=同じ監督の作品を端から観るようにしてみた。それで、クリント・イーストウッドの『運び屋』という映画に出会った。主人公の老人(クリント・イーストウッド自身)は、デイリリー(ヘメロカリス)という花の育種家で、しかも幾度も賞を獲るほどのたいへん優秀な人物として描かれていた。

ヘメロカリスの仲間は、以前はユリ科に分類されていたが、今はススキノキ科ワスレグサ属というふうにまったく別人のような分類になっている。日本にはノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ユウスゲ、ニッコウキスゲなどが自生している。ヘメロカリスの仲間はユリのような花型で豪華な雰囲気の園芸品種がいくつもあって、古くから人気があるが、デイ・リリーと呼ばれる通り、一日花であるため、切り花としては流通しておらずもっぱらガーデン用となる(ガーデンでは長期にわたって次々と咲くので見事)。映画のなかで老人は自らの農場を構えて種苗を販売していたが、商売は下り坂で最後は農場を売って新しい仕事を探すことになった。これは老人の持っている品種が人気を失ったのか、インターネット通販の時代に乗りそこねたのか、よくわからないが、家族から見放された老人が「園芸家」である、ということと、「一日しか輝かない花」を愛した、なかなか粋で魅力的な人として描くことによって重要な伏線が敷かれていた。あと、この映画では、アメリカの刑務所のなかで園芸活動が行われていることも描かれていて、とても興味深かった。本連載でも病院付属の温室や畑などを紹介してきた。第136回では、19世紀のイギリスで、園芸活動が地域の治安と生活改善のきっかけとなった様子を取り上げている。今回は、戦前の『実際園芸』誌上で、少年院に設置された温室に関する写真(図1)を見つけたので紹介したい。

図1 『実際園芸』昭和10(1935)年1月号に掲載された浪花少年院の温室に関する記事ページ。

 

戦前につくられた国立の矯正院=少年院

記事は、誠文堂新光社の雑誌『実際園芸』昭和10年1月号(第18巻1号)にあった。この1ページ、写真が2枚だけの写真レポートである(寄稿)。タイトルは「大阪に於ける国立浪速少年院の温室」とあり、写真のキャプションは次のようになっている。

 

「これは東宮殿下(※現・上皇陛下)お誕生記念に設けられたよしで、上は外観、下図はその内部でいろいろの温室花卉が見事にできております。(同校 松岡眞太郎氏寄稿)」

 

たったこれだけの記事である。それでもなお、このような社会的な施設で行われている園芸活動を見守る編集主幹、石井勇義の視線を感じられる。地方の大病院につくられた温室、陸軍病院の温室やリハビリテーションと職業訓練を兼ねた圃場・花壇、隔離政策で閉じ込められたハンセン病患者の生活改善のための園芸、日光のリゾートホテルに付属した温室など『実際園芸』誌上で折々に紹介された事例は、園芸の社会的な意義と可能性を広げること確かな足がかりとなっていたのではなかったか。石井は海外の事例をよく学んで知っていた。たとえば過去の経済恐慌に対して欧米で行われた失業者対策で、数多くの失業者を公設の植物園や公園で雇用し、清掃や植物の手入れという名目で危機を救うといった政策を日本でもやるべきだというようなことを自身のコラムで述べている。「園芸療法」という言葉はなかった時代に、戦争で身体不自由になった傷病兵にも園芸作業で社会復帰をめざすというような事例はよくわかっていたのではないかと思う。実際、石井もよく知っている千葉高等園芸学校の講師をつとめた林脩已は、自らが設計したて千葉県農事試験場内に昭和14年に開設された千葉県傷痍軍人再教育所に園芸指導者として関わっていた(小泉力「林脩已先生のこと」『花葉』第332014)。

 

さて、この記事にでてきた「浪速少年院」とはどんな施設だったのか。温室はどのように活用されていたのだろうか。昭和12(1937)年発行の『浪速少年院十五年史』に当時の全景写真がある。白くなってよく見えないが、同書の建物配置図によると、正面の建物から右奥の、温床(フレーム)や鶏小屋などと同じ区画に建てられていたようだ(図2の黄色い丸で囲んだあたりだと思われる)。

図2 浪速少年院全景。黄色い丸で囲んだあたりが温室の位置。(『浪速少年院十五年史』から)

 

浪速少年院は多摩少年院とともに日本で最初につくられた2つの矯正院のうちのひとつで、1923(大正12)年1月に大阪府茨木市の現在地に設立され今日に至る。現在は戦後に改正された新少年法、少年院法に基づき「第一種少年院」として、主として近畿地方の家庭裁判所で少年院送致の決定を受けた少年を対象にしているという。

少年院はその設立時(大正時代)から刑罰を与える場ではなく、保護・矯正・教育・育成の場としてスタートした。その教育のなかに「園芸」が取り入れられていたということである。記事にあるように温室は昭和9年、皇太子の御誕生記念として建設された。皇太子(現上皇)の生年月日は1933(昭和8)年12月23日であった。

浪速少年院では、温室以外にも野菜畑や果樹、花き園、フレームなどでいろいろなものを生産していたようだ。後述するように、温室では、特に変わったものというのではない、一般的なものを育てるようにしていたようだが、図4を見るといろいろな種類のものを扱っていた様子がうかがえる。ちょうどアマリリスやランが開花しているのがはっきりとわかるが、多数の鉢が並んでいるのはシクラメンではないだろうか。花鉢を数多く育てて、院内各所に飾ったり、外で販売したり、といった活動をしていたようだ。

 

詳細不明の「移動式温室」

『浪速少年院十五年史』には温室について、次のような説明が記されている。「移動式温室」であった、というのだ。

図3 温室(「移動式温室」)の外観。入り口の装飾付きの門石の上に立派なリュウゼツランとトウジュロ?の鉢が載せられ、奥には和シュロが2本と耐寒性のドラセナ類が地植えされている。なにか日よけのようなものが高い位置に巻き上げられているようにも見える。温室の後ろ側がよく見えないが、瓦屋根の別な施設のようでもある。
図4 温室内部の様子。植物の種類が多い。ヤシ類、洋ラン、アマリリス(右手)、サイネリア?と数多くのシクラメンだろうか。

東宮殿下御誕生記念事業の一つとして、昭和9年2月23日9坪にわたる記念移動式温室の建築完成し、落成式を挙行した。冬枯の寂れた農園に此処のみは各種の草花が馥郁たる香りを放ち、絢爛たる美を競うに至る。この温室並びに附属庭園の竣工によって本院の園芸科事務所前は面目を一新し意義深い記念場となった。温室完成を機会に禽舎や肥料舎が改造され、フレーム等もその数を殖やした。同年8月には、付近に鉄筋6坪余の水禽舎完成し、岩組せる池泉、噴水等ありて小動物園の観を呈す。尚同年12月温室内に暖房設備が出来上がったのである。

「移動式温室」というのは、パーツを移動させ冬場だけ全体を囲うような「簡易温室」という理解をしているのだが、以前、淡路島の宇田明先生に教えてもらった「簡易温室」というのは、「ガラス障子の組み立て温室」。移動というより、鉄骨の合掌式屋根、木材の枠にガラス障子をのせるような形態のものだったという。淡路島はもともと花きの生産地として長い歴史がある土地だが、特に戦後、同島で開発された簡易温室が普及し、これによって花の生産が大きく伸びたという話だった。

この説明をもとに再度、図3を眺めると、手前の合掌屋根や奥のほうはガラス障子がはめられているが、手前のサイド部分は開放になっているようでもある。今後も「移動式温室(移動温室とも)」については引き続き調べてみたいと思う。

 

浪速少年院の実科教育

『浪速少年院十五年史』によると、浪速少年院の実科教育は、大正期に定まった「木工、縫工、印刷、園芸」の4科に加えて、昭和に入ってから籐工科ができた(※生徒の制作品展には製陶という部門も見られる)という。

園芸科については、大正14年6月中旬から果樹園完備、10月中旬にフレーム2種、肥料溜が築造された。園芸科といいながら、「従来は土木作業がほとんどだった」と記されている。少年院の拡張期にもあたっており、各所の排水、道路の改修、建物周囲の地ならし等に従事し、努力の大半を運動場の埋め立て拡張に傾注した、とある。

 

実際の園芸作業はどのようであったか。昭和10年の様子が記されている。

【蔬菜】はエンドウ、ソラマメ、ジャガイモ、春ダイコン、イチゴ、ナス、トマト、キュウリ、スイカ、ニンジン、ネギ、ダイコン、タイサイ(体菜)、ハクサイ、京菜、壬生菜、フダンソウ(恭菜)、ホウレンソウ、パセリ、ゴボウ、キャベツ、マスクメロン、サツマイモ、サトイモ、レンコン、クワイ等を作付け、囲蔵(フレーム?)や圃場を活用して庶務課とも連絡を取りながら院生が食べる献立の大部分をここから供給できるように取り組んだ。

【果樹】はナシ、ウメ、ブドウ、イチジク、カンキツ等を栽培していた。

【花卉園】には、和洋の花卉一般を栽培し、温室には一般的な熱帯植物および温室植物を栽培した。温室の生産品は外部に販売し、あるいは院内各所に展示し情操の陶冶(とうや)に資するようにした。花卉のなかでも昭和11年度の菊は特に出来映えがよく、約1,000鉢を各所に陳列して鑑賞に供することができた。造園に関しても実習があり、昭和11年4月6日には義宮殿下御誕生記念庭園の岩組および植樹を完成させた(※常陸宮正仁親王、現上皇の弟)。

このほか、下水の幹線故障復旧作業や河原での砂礫の採集運搬作業、施設敷地の河川に接している部分の護岸工事、池の浚渫といった土木作業も園芸の一環というくくりになっていた。室町や戦国時代の「庭ノ者」も驚くだろう。

 

戦争と子供たち

 

論文「大正期の不良少年少女」(五十崎史歩、2019)では、明治期の「感化法」から大正11年の「旧少年法」「矯正院法」制定にかけての経過を以下のように説明している。ターニングポイントは日清戦争だった。以下要約する。

「不良少年」という言葉が用いられ始めたのは明治27~28年の日清戦争前後とされている。それは戦後の不況により孤児、捨て子が増加し、ひとつの社会問題として注目を集めたことに由来するという。生まれや環境から犯罪に手を染めなければ生きていけないような子供たちに対して採られた対処法は、「懲治場(ちょうじじょう、こらしめるために収容する場所)」への留置や私設の感化院に入院させることだった。

こうした処置は未成年者、児童の保護・矯正には不十分であったため、明治33(1900)年に「感化法」が制定され、各都道府県に8歳以上16歳未満の幼年囚を収容する感化院が設立されるようになった。その後、明治40(1907)年に刑法が改正され、「14歳未満の行為は罰せられない」ように規定された。こうした未成年者保護育成の思想から翌明治41年には感化法の対象も16歳未満から18歳未満に引き上げられた(8歳以上18歳未満へ)。このような前史と司法省内の長い議論を重ねた上で、1922(大正11)年に「少年法」(旧少年法)が制定された。また、旧少年法の改正と同時に「矯正院法」も制定され「矯正院」が設立される。

旧少年法には6つの特徴があった。(1)刑の教育化(2)保護主義の原則化(3)虞犯少年の保護(4)審判機関の設置(5)新しい保護形態の設定(6)人格調査である。未成年犯罪者に対して、刑罰を与えるより保護し改善を図ることを重視する改革だった。(以上要約終わり)

少年院という名前だが、法律的には「矯正院」である浪速少年院はこのような経過のもとに多摩少年院とともに1923(大正12)年に設置された。多摩の様子については今回、まったく手をつけていないが、院内での給食材料の生産にも関係するので、園芸はなにかしら取り入れられていたのではないかと思われる。こうした施設で園芸活動を行うには、適切な指導者が必要だ。これは、学校園芸(「作業科」等も含めて)でもいえるが、単に植物を育てるというだけでなく、教育者としての園芸家が求められていたのである。

※虞犯少年=ぐはんしょうねん:少年法で規定される非行少年の一種で犯罪を起こす虞(おそれ)のある少年

 

※参考

○ 『浪速少年院十五年史』 浪花少年院編 1937年 (国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1441655

○ 論文「大正期の不良少年少女―雑誌『変態心理』を通して―」 五十崎史歩 2019年 (政治学研究61号)

○ 現在の浪速少年院レポート(2017年)  「ビッグ・イシュー・オンライン」のサイトから

https://bigissue-online.jp/archives/1069068101.html

○ やまぐちオリジナルユリ振興協議会  受刑者が製作のフラワーアレンジメントを小学生へ贈呈 2021年9月

https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/press/202109/050127.html

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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