農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第150回 「ステレオグラム」飛び出すいけばな写真教本~園芸家と写真術

公開日:2022.2.4

『投入盛花実体写真百瓶』

[著者]小林鷺洲
[発行]晋文館
[発行年月日]大正6(1917)年1月5日
[入手の難易度]難

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926617/1

 

明治期の園芸家と写真術

明治期の著名な植物学者、園芸家のなかには写真家、特に山岳写真の分野で草分け的な人々が数多く存在する。本連載でも紹介したように、幕末から明治初期にかけて欧米のプラントハンターや植物学者が数多く来日し、日本の植物の大半を採集し命名・分類してしまっていた。例えば1860年9月、霊峰、富士山に登った初めての外国人が英国初代駐日公使オールコックとプラントハンターのJ.G.ヴィーチであり、富士山の植生図(垂直分布図)を書き残している。日本人研究者は、残された自生種の研究に着手し、いまだ手つかずの高山植物を求めて全国各地の山を登った。

一方、園芸家は深山、高山に自生する植物の平地での栽培・増殖の方法を研究し、鉢植えやロックガーデンに植栽するための素材として注目していた。これらがいわゆる「山野草」として愛好者を増やし、時に高値となるようなブームの起点となっていった。

明治後期に活動したこれらの人々は大きなカメラや三脚をかついで山を登り、植物と山岳の写真を撮影している。日本写真史にもその名を残す河野齢蔵(こうのれいぞう)や志村烏嶺(しむらうれい)はどちらも登山家であり、高山植物の研究者だった。植物の研究には標本の採集が欠かせないが、それらが生育する環境や生態を記録するのに写真は大いに役立った。1枚の写真を得るためにたいへんな努力が必要だった時代において山岳で撮影される写真は、登山者にとっても有用な情報であり、写真史のなかの風景写真というジャンルの創出、民俗学の記録としても重要な資料となっている。

志村烏嶺は、園芸家・前田曙山主宰の園芸雑誌に記事と写真を寄せた。この園芸雑誌に掲載された写真がきっかけで小島烏水、城数馬ら日本山岳会(1905年に創立、当初はただ山岳会と称した)のメンバーと知り合い、その活動に加わった。創立メンバーのなかには英国大使アーネスト・サトウの息子、武田久吉もいる。武田久吉と親しく交わった園芸家に辻村伊助がいる。伊助は、日本最初期の本格的な園芸会社である小田原の辻村農園を経営した辻村兄弟の弟であり、日本を代表する登山家だった(名著『スウィス日記』1922の著者)。このように、明治初期の園芸、植物研究者と写真術、登山術、民俗学の源流には同じ人たちがいて互いに親交があったということは覚えておきたい。

図1 前田曙山の肖像(『明治園芸発達史』1915から)

 

前田曙山(図1、1871~1941)は、小説家だった。東京日本橋に生まれ、本名は次郎という。一時、文壇を離れ、園芸に没頭し『園芸文庫』という雑誌を出していた。この雑誌に志村烏嶺の写真記事が掲載されたということのようだ。曙山は明治44(1911)年『花卉応用装飾法』を著す。日本、西洋、中国の飾り方を比較し、様々な場面での装飾やブケー、帽子飾りなどの作り方を図解した日本フラワーデザイン史の記念碑的な著作となっている。

図2 おそらく山根翠堂本人と思われる人物が指を丸めて右眼に当て写真を見ている。この写真の見方は『新時代の挿花』1927の巻頭にあるが、昭和3年の『盛花投入講座』の巻頭にも同じものが掲載されている。

写真を立体的に見る方法

今日は、いけばな作品を写真撮影した本を紹介するのだが、その前に、華道界では作品写真をどのように見ていたのか。大正から昭和にかけて「自由花運動」の中心となった山根翠堂という人が書いた「写真の見方」という記事がある。このなかで翠堂は作品写真を見る時に実物を見るように写真に遠近感をつける方法を解説している。これは『新時代の挿花 「現代の生花」』(山根翠堂、みどり会出版部、昭和2(1927)年)の巻頭に掲載された解説だ(図2)。

(引用はじめ※読みやすく漢字をひらがなに直した部分あり)

挿花の写真をご覧になるのには、右下角の図に示す如く左の眼を閉じ右の眼に右手で遠眼鏡のような筒をこしらえ、その細い穴から、前の枝がはっきり浮き出るまで、じっと長い間みつめて下さい。古はがきか何かを細く巻いて管としたものか、細い竹の筒を右眼にあて、その穴から見て下されば更にはっきりといたします。もし右眼で理想的に浮き出さなかったら、すぐ左の眼でその通りして下さい。必ず挿花の実物を見るように明瞭に遠近がついてまいります。それでまだ不明瞭でしたら一度両方の眼をかたく閉じ暫くしてから片方だけ開き右の方法で長い間静かに強く見つめて下さい。たびたび行る(※「行う」か?)ほどはっきり見ることができるようになります。

(※引用おわり)

工藤昌伸『日本いけばな文化史』に収められた山根有三氏(翠堂の子息で評論家)の話によると、『新時代の挿花』を著した昭和2年の段階ではまだ写真家に撮影してもらっていたと思われるが、著作の評判がよかったこともあり、写真の重要性に気づいたのだという。それで昭和6年から晩年、目が悪くなる昭和37年まで花をいけて作品を作ると同時に「蛇腹のついているすごい写真機」で自ら撮影も行った。当時のいけばな雑誌では、応募された「写真作品による批評」が始まっており、カメラのレンズを通して作品細部を見つめながら手直しをし、完成度をぎりぎりまで高める努力をしていたらしい。これは、過去の話ではなく、画像イメージの力がより大きくなっている現代にも通じる話だと思う。

小林鷺洲の立体写真帳

ここで、きょう、一番紹介したい本がある。山根(『新時代の挿花』)より10年早い1917(大正6)年に出版された『投入盛花実体写真百瓶』といういけばなの解説書だ。著者は小林鷺洲(こばやし・ろしゅう 図8)。この本は、いわゆる「ステレオグラム」という手法を用いたもので、すなわち撮影した写真を2枚ずつ並べ(図3)、メガネで焦点が合う位置で覗き込むと作品が立体的に見えるようになっている。非常にユニークな著作である。口絵2作品と解説90作品を掲載した手のひらに載るくらいの小さなブックが一冊。それとガラスが嵌め込まれた「木製のメガネ」(「実体鏡」と呼ぶ、図4)が付属されており、全体が布で装丁された帙(ちつ)でカバーしてある(図5)。価格は1円50銭とある(図5)。※大正65年の白米10㎏の値段が1円20銭というデータから類推すると現在の3,500円から4,000円くらいの感覚になるだろうか。

図3
図4 「実体鏡」 シンプルなつくりだが、目の部分に凸レンズ状のガラスがはめ込まれており、写真に近づけるとわずかに大きく見える。
図5 布で表装された帙にメガネと解説書本体が収められている。ブックに「シミ」のような汚れた感じの色が見られるが、これは国立国会図書館の画像にもあるので、装丁デザインとしてほどこされた生地の模様だと思われる。
図6 付属のメガネが壊れたりなくしたりした場合に手作りで道具を作れるように図入りで案内している。
図7 それぞれの作品に花材名といけ方が解説してある。花台やテーブル、床の間など飾る場所の周りの環境もわかるように撮影されている。

日本にダゲレオタイプの写真機が入ってきたのは幕末(1848年)ということだが、ヨーロッパでは1830年代にイギリスで発表された科学論文をきっかけに、ステレオ画像(ステレオグラム)=立体視に関する研究が盛んになっており、同じ時期に立体視に関する写真技術も発表されていたという。ゆえに、日本に写真技術が入る時期は欧州でステレオ写真が盛んに撮影され、さらには商品化されるようにもなった時期(1850年代)と重なっている。鷺洲の「実体写真」はそれからさらに60年近く経過した時代である(ステレオ・カメラ購入は明治45年=1912年)。

鷺洲は、「実体写真」でいけばな作品集を作るアイデアに関して『実体写真百瓶』の「自序」で次のように語っている。

○これまで花道において花形や花格の記録、保存については専ら絵図を用いていたが、近年は写真が広まりつつあり、喜ぶべき現象といえる。

○しかし、実際にいけたものと写真を見比べると、とかく枝振りが寂しく感じることがある。これはカメラが単眼であるがゆえの宿命的な問題で、むしろ作品に大きく手を入れることで写真写りをよくする、といった本末転倒のことが起きつつある。

○こうしたことを憂い、撮影上に就て腐心すること数年、ついに双眼写真機の存在に気づく。

鷺洲は次のように記している。

「ここにふと感ぜしは双眼写真機これなり(※ステレオ・カメラ)。時に明治四十五年、直ちにこの機械を購ひ試し観るに、従来写真の弊とせし彼の見苦しき欠点も、生け上げたる花形そのままの姿に前後瞭然と浮び現はれて見ゆる故に、全く実物を見ると異ることなし。されば普通に挿し終りたる花を、其のまま撮影することの出来る完全無缺の写真機と云ひ得べし。」

○この事は大正五年二月、流派を超えたいけばな雜誌「国風」第五巻第二号の誌上に寄稿して「実体写真」の効用を説いた。『西暦一千八百三十八年イギリス人ホイートストン(Wheatstone)の初めて発明せしは、二つの平面鏡を直角に置きたるものより成る。(中略)後一千八百四十九年イギリス人ブルースター(Brewster)、レンズを用ふる実体鏡を発明せり。これ現今行わるるものにして第二図に示すものこれなり。(下略)(日本百科大辞典)』

 

小林鷺洲は、大正4(1915)年12月に発表した『投入と盛花』の好評を受けて新たに作例を数多く載せ「花形写真百瓶なるもの」を企画した。かくして約1ヵ年間を費し、「前述の双眼写真機により四季草木の自然を主とし、その性質風情を損ぜざるを程度として様々なる形をそれぞれ瓶器にあてはめ、写真と成した」のが本冊子である、と述べている。「草木の性質風情をいかす」ことを第一とするという主張は鷺洲の目指した「新花道」の理念であった。近代いけばな史の道標である「自由花運動」は先述の中根翠堂が代表的な人物であるが、鷺洲もまたその大きなうねりに身を投じた先覚者だった。

図8 小林鷺洲の肖像 (『正花插法の極意』から)。

小林鷺洲(図8)という人物について、『いけばな総合大事典』の項目では以下のように解説している。

「こばやしろしゅう。1878(明治11)~?大阪に生まれ、明治26(1893)年遠山流松岡里遙斎の門にはいり研究をはじめ、のち真成流家元万力谷雅舟の技量に感じて指導をうける。明治30年代より40年代にかけて和合会、十日会、青翠会などに属して研究していたが、大正10(1921)年にそれまでの研究にもとづき、新しいいけばなとしての「新花道」を創流する。同年1月の東京の『花道』誌および大阪の『国風』誌上において発表したイブキの森林式の盛花で、その名をたかめた。新花道とは挿者自身の意識にもとづいて植物の形態を観照し、いけるものであって、花型は初めから存在するものではなく、いけあがったものがはじめて形であると説く。自由花の研究の初期的な段階ではあるが彼の所論には当時賛同する人々も多かった。著書の『挿花水揚法』『盛花と投入』『いけばな古今書籍一覧』などは、流派の意識をこえた活動であって、日本新花道を標榜した彼の抱負をよく物語っている。」

※国立国会図書館のデータベースでは小林鷺洲の記事は昭和10年頃までは雑誌などに名前が出ている。

※『花道』誌は明治43年創刊、日本初の流派を超えたいけばなジャーナル。『国風』誌は関西の大日本華道協会により明治45年に創刊された諸流総合誌で、のちに池坊の機関誌となってから名前を変えて現在の『華道』誌につながっている。

 

この項目を書いたのは、先述の『日本いけばな文化史』の著者、工藤昌伸である。「小林鷺洲」については『文化史』のほうでも触れている。昭和の初めに過去のいけばな(生花、格花、流儀花など)と一線を画し、近代いけばなへの転換点となる「自由花(じゆうばな)」の理念を提唱した山根翠堂らの前段階となる大正年間に「雅整体」という新しいいけばなの研究がなされていた。この雅整体研究のメンバーに遠山流の家元藤井氏、真成流の万力谷(まんりきや)氏、小林氏らが参加する「青翠会」があり、その他にも関西の未生流を中心とした人々が研究を進めていたという。山根翠堂は、雅整体は「植物」を第一、「型」を第二とする考えであり、花材の持っている雰囲気を活かすことに主眼を置いた新しい内容を持っていた。しかし、生花(せいか)の伝統的な天地人の「花形(かぎょう)」を温存しながら文人投入的表現を取り入れようとする試みは未消化のまま、やがてより新しいものへ転化していった。花形や寸法などの規格を一切否定した山根翠堂以外の多くは素材の性情を生かすように用いながらも、最終的には新しい「花型(かけい:近代花型)」の完成を目指した。いずれにしても大正期の関西花道家の動きから昭和の全国的な自由花運動へと大きく変化していき、戦後の前衛いけばなに連なっていく。

※「花型(かけい)」は近代になって成立した直角不等辺三角形を基準としたもの。以前の伝統的「花形(かぎょう)」は直角二等辺三角形を基準としていた。安達潮花の考案した花型図が有名だが、「新花道」の小林鷺洲や「安田式」の安田不識庵なども独自のものを考案していた。

工藤昌伸は、小林鷺洲の作品のなかで水盤にイブキをマッスで扱い、森林のような姿に構成した作品を採りあげている(図9、10)。新花道家元、鷺洲の代表的な作品だったようだ。鷺洲はいけばな界に新しい風を吹き込むために意欲的に取り組んだ作家だった。飾り方の工夫の他に「花留め」も考案しており、剣山が普及する以前の「七宝」のような花留めからより草木を留めやすい「はちす型」を推した(図11)。大正6年時点の『実体写真百瓶』では確かに剣山という記述が出てこないので、過渡期であったと思われる。海外では「flower frogs」(花+カエル)という名称で様々な素材でつくられたアンティークの「はちす型」花留めがネット検索できる。実際にカエルの形をしたものもあるが、由来は不明。ただ19世紀半ば以後のものだというので、日本のいけばなの影響が十分に想定できそうだ。

図9 水盤にいけたキンシャイブキと手前にヤグルマソウという配置。
図10 奥のキンシャイブキの森のような作品と、右には下垂した枝を見せるソナレ、手前はオモトという配置。図9、10ともに『華道三十六家選』(朝日新聞社1934)から。
図11 はちす型の花留めを紹介している(『実体写真百瓶』)。

 

「ステレオグラム」の手法は第二次世界大戦の連合国軍勝利への転機となった「D-Day」(ノルマンディ上陸作戦)で使われた。イギリス軍はメドメナム空軍基地に写真解析班を置き、偵察機を低空で飛ばして海岸線一帯の地域をくまなくステレオ・カメラで撮影する極秘の作戦を実施した。これを大きなプリントに引き伸ばした上、ステレオスコープ(立体鏡)という「メガネ」で写真解析しながら攻撃目標を確定していた。これまでわかりにくかった地上の物体を立体視することで、どんな施設で、何がそこにあり、何をどのくらい作っているのかといったことまでわかったという。現在のグーグル・マップなどで建物を立体的に見るのと同じ作業を綿密に繰り返していた。これにより、作戦は高度に緻密なものとなり、作戦成功に大きく寄与したという(英国BBC制作の優れたドキュメンタリー作品「D-Day 壮絶なる戦い」がある)。

昨年、ネットオークションに丸善で戦前に企画制作したベルリンオリンピックの記録集が出ており、これもブックと金属製の立派なメガネが付属していて、欲しかったが2万円以上の価格で誰かに競り落とされてしまった。

 

 

※参考

○『日本いけばな文化史』第3巻「近代いけばなの確立」 工藤昌伸 1993

○『いけばな人物史』北條明直 1997 (北條明直著作集2)

○『新時代の挿花:現代の生花』 山根翠堂 みどり会出版部 1927

○『正花插法の極意』 小林鷺洲 花同会 1920(大正9)年 (国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918658/1

○『投入花と盛花 : 出生本位』 小林鷺洲 花同会 1922(大正11)年 (国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/927398/1

○『華道三十六家選』朝日新聞社 1934

○動画「D-Day 壮絶なる戦い」(原題:Last Heroes of D-Day)制作:BBC  イギリス 2013年

http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=140602

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア