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第151回 室町文化をリードした「同朋衆」の画像を探す

公開日:2022.2.18

『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』

[著者]村井康彦・下坂 守

[発行]国際日本文化研究センター

[発行年月日]1995(平成7)年3月31日

[入手の難易度]易

※画像、論文、すべて下記、国際日本文化研究センターのHPで公開されています(PDF版、DL可能)

https://nichibun.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5538&item_no=1&page_id=41&block_id=63

○絵巻の画像は「洛中六條八幡宮将軍御社参之躰」というタイトルの項目です。

いけばなの原型を創った「同朋衆」

日本の「いけばな」は、供花(神仏に捧げるための花)から鑑賞花へと移り変わり、書院造の会所における座敷飾りからその姿・かたちを現わし始めたといわれている。時代は中世、鎌倉末期から室町時代にかけてであり、猿楽、茶の湯、連歌など様々な芸能、生活文化の原型がこの時期に生まれた。足利将軍家に仕えた「同朋衆(どうぼうしゅう)」という職能集団は、この室町時代に活躍し、戦国時代から江戸初期には消えてしまった(徳川幕府以降は内容が異なる)。

この「同朋衆」と呼ばれた人たちは、武家社会の発展と結びつき、室町文化の担い手、リーダーとして大きな役割を果たしたのだが、その実態は現在でもまだわからないことが多いのだという。例えば、わび茶の創始者、千利休の祖先は千阿弥という同朋衆だったという説があるという(千という名字の由来)し、「たて花」の名手といわれた同朋衆、立阿弥(りゅうあみ)は、いわば日本のフラワーデザイナーの始祖ともいえる。しかし、彼らがいったいどのような人物であったのか詳細は不明のままだ。こうした同朋衆に関する謎を解明する手がかりが今回紹介する論文である。

 

描かれた幻の「同朋衆」を発見

『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』は、同朋衆の姿が絵図として描かれている数少ない史料である、というより、長い間「唯一の事例」とされてきた。著者の村井康彦氏は、昭和45(1970)年の夏に京都府文化財保護基金による社寺の什物調査に関わり、若宮八幡宮を訪ねた。ここで出された一巻の巻物を展げて見るうちに、「将軍に扈従(こしょう)する三人の法体者が目に飛び込んできた――それが、求めて久しかった同朋衆との出会いの一瞬であった」と、探し求めていた「幻の同朋衆」を発見した時の感激を記している。

絵巻には2ヵ所の場面で合計5人の同朋衆の姿が描かれていた。村井氏によると、この歴史的な発見の後も新たな同朋衆の絵は見つからず、長い間、これが唯一の画証とされることとなったという。現在、本史料は様々な資料、ネット情報で閲覧できる(現在では唯一ではなくなったそうだが詳細はわからない)。

『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』は、将軍の他、将軍に付き従う多数の武士、従者の姿が正確に、かつ一巻にまとめて描かれており、室町幕府の武士を描いた絵画史料としてきわめて高い価値があるという。第4代将軍「足利義持公」の若宮八幡宮への社参を描いたとされていたが、共著者の下坂守氏らの調査・考察によると、実は義持よりももっとずっと時代が下がり、16世紀半ば頃ではないか、つまり第12代「義晴」、13代「義輝」の時代につくられた可能性が高いとされている。そうであるならば、本史料は応仁の乱後の再興が本格化した頃で、参詣者の勧誘を目的に製作された可能性が出てくるという。絵巻の内容も寺社の案内図としても役立ちそうな構成となっており、特定の将軍というより、「将軍が参詣するほどの寺社である」ことを示すことが重要だったと指摘されている。

描かれた人物の姿はみな同様にデフォルメされ、顔立ちやしぐさがやわらかい(かわいらしく見える)。一方で、人物の装束や建物はかなり細かく正確に描かれており、例えば第9紙の「公文所」には有名な御神木が描き込まれている他、屋根の上を駆ける猫を追う稚児らしき人物などユーモラスなシーンを潜ませているのも面白い。

 

同朋衆は僧侶の姿をしていた

絵巻のなかで発見された同朋衆には「法体姿(僧侶のような姿)」という特徴がある。全体で15紙からなるこの絵巻には第5紙(図1)と第13紙の2ヵ所に合計5名の同朋衆が登場していた。

図1 同朋衆(右図の剃髪、白い袴の3人)が描かれた「足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻」のページ。

図1に見える光景は、将軍一行が八幡宮の門前から鳥居をくぐって四足門に向かって徒歩で進む様子で、大勢の取り巻きが細かく描き込まれている。専門家が見ると、それぞれの衣服や履物、髪型、持ち物、姿勢・しぐさなどでどのような身分であったかがわかるという。

当時、将軍の外出に同行した人々としては、御相伴衆、御供衆、同朋衆、御走衆、御小者などがいた。御相伴衆、御供衆は騎馬で将軍に付き従い、それ以外は徒歩で扈従(※つきしたがう)した。当時はこのような外出についても細かい規定があったらしい。それによると、将軍の御供衆にもさらにまた中間・小者・厩者・房などと呼ばれる多数の従者が扈従することになっていた。したがって将軍の周りには大勢の人がぞろぞろついていくことになるわけである。同朋衆はこのような従者の編成のなかにいた。

 

ここで同朋衆の被り物、衣類、履物といった装束に注目して見てみると、「剃髪、素襖袴(すおうばかま)、脚半、足半(あしなか)」である。頭は丸坊主でなにもかぶっていない。素襖は当時、あまり身分の高くないものが着る衣服。足半は小さな草履で土踏まずの部分ほどしかなく、足の指と「かかと」が外に出るのでグリップが効くランニングに向いていた。絵巻では、従者の多くが足半を履いている。絵巻に描かれた人物の配置を見ると、同朋衆はその低い身分にもかかわらず、将軍のすぐ近くに付き従っていたことがよくわかる。

歴史学において、文献や発掘資料などの重要性は第一であるが、絵図や絵巻に描かれた当時の風俗を表す画像の価値も見落とすことができない。現在はインターネットで多くの画像を共有できるようになっており、研究者でさえなかなか実物に触れられない貴重な史料を画像から調べることが可能になってきた。日本史と美術史という異なる学問分野で蓄積された研究成果が、それぞれの枠を超えて新しい発見につながってきているそうだ。本資料もそうした画像研究の成果が反映されている。

 

室町将軍家に仕えた芸術の目利き集団

村井氏は「同朋衆は法体であるとともに必ず阿弥号を名乗った。この2つについては例外がない」と述べている。絵巻に描かれた同朋衆もみな阿弥号を持っていたはずだ。僧侶のような姿をし、将軍に近侍した同朋衆という職能集団は、どんな仕事をしていたのだろう。

村井氏は「使い走り、掃除、配膳、酒奉行、御湯取り、取次、代参といった仕事から、唐物唐絵の目利き、表装、保管、あるいは立て花や香、茶垸(※ちゃわん・喫茶用の上質な舶来陶磁器)などの扱い、それらを以てする座敷飾に当る者、将軍主催の連歌会に宗匠もしくは連衆として臨む者」というふうに多種多様な職掌を挙げている。

将軍周辺の雑事役から高い知識教養と専門性を身につけた私設秘書、お宝鑑定人、キュレーター(学芸員)、アートディレクター、芸能者、デコレーターというような高度な職能を発揮する人たちでもあった。しかし、掃除や雑用とアートディレクターまでの開きはあまりにも大きい。これは時代が下るにしたがって高度な職掌へと変化していった、という歴史的な経過があるということだが、実際にすべての同朋衆が同列、横並びということではなく、立場や地位の違う2つのグループが存在した。しかもこれら、日々の雑用をこなす人々と高度な文化的活動を担った人々は、どちらもともに「会所」という場を中心に働いていた。

「会所」は、「精選版 日本国語大辞典(「コトバンク」)」によると、「公家、武家、寺社の住宅に設けられた施設の一つ。室町初期に特に発達し、歌会、闘茶、月見等の遊戯娯楽のための会合に用いられ、唐物、唐絵などを多数陳列する座敷飾りがなされた」と解説されている。「会所(会所文化)」は詩歌や連歌(のちの俳諧)、芸能といった現在のいわゆる「日本文化」が発生する初期の「文化装置」として重要な場所であった。会所に付属した庭園や座敷飾りの花など園芸分野の発展にも深く関わっている。

 

同朋衆の終焉(武士の専門職、池坊への吸収)

同朋衆が数多く活躍した義政の時代、すでに「終わり」は始まっていた、という。先に述べたように、同朋衆が活躍した「場」がその基盤を失いかけていた。応仁の乱に見られるように室町将軍の権威失墜、収集品の散逸といったことだが、こうした地盤沈下は15世紀末あたりから始まっていた。同朋衆の出番がなくなっていく。

村井氏は、この頃から書院造の「会所の大型化と小型化(極小化)」が始まったことが大きな影響を与えたと指摘する。「大型化」のほうでは、広間の巨大化が進み、大きく立体的で豪華絢爛な空間の出現に対して、同朋衆の手法が対応できなくなっていった。大空間を装飾するのは大きな障壁画が中心となり、それを実行するのは工房的な取り組みを得意とする専門の画工集団であった。一方、「小型化」については、その空間サイズが小書院化し、特に極小の「四畳半」にまで縮小する。そこには禅的な「脱俗の空間」の意味があり、唐物を取り並べるような装飾の出番はなかった。

こうしてみると「たて花」が抛入花(茶花のスタイル)へと変化し、池坊を中心とする「町なかの芸術」として吸収、展開されていくのも同朋衆がつくりあげてきた「場」の変化の事例として見ることができそうだ。池坊の花は天皇家や寺社に愛護され江戸時代の町人文化へと受け継がれる。

同朋衆は信長や秀吉らの時代に大名に仕えて働いたが徳川の時代にはその職掌も変質した。室町時代の武家文化を支えた実体としての同朋衆はまさにこの時代に生まれ、この時代に消滅したのである。(終わり)

 

 

 

初回のご挨拶のあと、第2回からこの第151回まで150のテーマで様々な本や資料を紹介させていただきました。これで最後になります。本連載で参照した書籍や論文を書かれた先学、また連載中にいろいろとご教示いただいた皆様、そして編集部の方々にあらためて感謝を申し上げます。ありがとうございました。 (松山 誠)

 

※参考

○ 『武家文化と同朋衆:生活文化史論』 村井康彦 筑摩書房 2020

○ 『生活からみた いけばなの歴史』 大井ミノブ 主婦の友社 1964

○ 『いけばなの道』 工藤昌伸 主婦の友社 1985

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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