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第3回 「産地」はどのように形成されるのか

公開日:2019.3.4 更新日: 2021.4.14

日本の植木生産地域

1984年4月2日第一刷
[著者]緑化研究会
[発行]古今書院
[入手の難易度]易

「産地」というのは、いろいろな生産物が製造あるいは、栽培・生産される土地や地域のことを指す言葉だ。青森県のリンゴや愛媛県のミカンのように、その土地に生まれ育った人々の暮らしや歴史と関わり、地域の文化や伝統と切っても切れない特産品となっているものもたくさんある。ふるさとの自慢や誇りとなって、その土地の出身者と地域を結ぶ、懐かしく親しみ深い大切なものになっているかもしれない。

こんなふうに人間は、モノとそれを生み出す場所を手がかりに様々な物語を紡ぎ続けている。物語の背景となる土地、地域に着目すると、新しい発見があったり、より理解を深められたりするのではないかと思う。

例えば、日本の「いけばな」やフラワーデザインに決定的な影響を与えた「盛花(もりばな)」というスタイルの生け方がある。
大阪で始まった「いけばな小原流」の創始者である小原雲心が、明治の末年に考案した。大正時代には大きく発展し、他の流派にも広がりながら現在まで続いている。
剣山などの花留めを用いて水盤に花を盛るように生ける「盛花」のアイデアはどこから出てきたのか、いくつかの説があるという(『花に生きる 小原豊雲伝』2010)。大阪の富商、松本重太郎の邸宅で見た洋花の飾り方からヒントを得たという説や、盆栽の産地である兵庫県の宝塚市およびその周辺の中山や山本といった地域での活動からという説である。

宝塚周辺は小原雲心の活動地域であり、その地に住む友人である彫刻家、中西雪亭との交流や、近郊の自然に表現のインスピレーションを受けたことが大きいというのだ。
宝塚周辺に雲心が通ったのは、いけばな用の素材を得るだけでなく、生徒を連れて野山を散策し自然に触れさせるためだった(「野外研究会」と呼んでいた)。四季おりおりの自然に接し、観察して得られた印象を水盤に写すように生ける、小原流独自の芸術的表現の基礎をつくるためには、この産地との関わりが必要だったのだ。

また、二代光雲の時代は「阪神電車」が開通し、芦屋、西宮へと郊外へ広がっていくころで、小原流のいけばなは阪神間のモダニズム文化の発展とともにあったといえる。「盛花」は新しい生活空間に合っていた。
僕は関東圏に住んでいるため、どうしても東京を中心とした地域が興味の中心になりがちで、それ以外の地域については感覚として理解することができないから、その土地をよく知る人に出会う機会があれば、教えてもらうように心がけている。大正時代、鉄道が郊外に路線を伸ばし、富裕層を中心に新しいライフスタイルが生まれていく阪神間の文化史にはとても興味がある。

さて、今日は、植木の産地の話だ。『日本の植木生産地域』(1984)は、全国各地に存在する植木の産地をリストアップし、植木の生産・流通・消費の過程や構造を体系化しようという目的でまとめられた本だ。
構成としては、まず、日本の植木の生産地の分布を調べ、その生成の時期や事業の担い手の種類(農家・林家、法人、組合・団体など)、取扱い品目などで類型化する。次に伝統的な植木産地(四大産地)と新興産地に分けてそれぞれの実態や性格を調べる。さらに、それぞれの産地の特徴を分析している。

植木の産地は全国にちらばっているが、個々の生産規模には差が大きく、大規模な産地は3大都市の周辺(13地域)に集中している。地域全体で100haを超える「主要植木生産地域」は全国に27地域あって、全国の総生産面積の半分を占めている。本書ではこのなかの18の地域を解説している。

【類型化】「伝統的植木生産地域」「新興植木生産地域」

戦後日本の高度経済成長期には、植木の需要がまさに「爆発的に」増えたという。1950年代の後半から動きが出て60年代には未曾有の緑化ブームが来た。この時代、「公共」と「私的利用」の両方の需要が同時に増えたのだ。
主にどんなニーズがあったのかというと、まず幹線道路の整備、工業団地・住宅団地の造成、都市開発など大規模な公共土木事業の全国的な展開にともなって、大量の「環境緑化用樹木」の需要。それと同時期に膨大な都市住宅の建設、また個人住宅(夢の「庭付き一戸建て」)の建築ブームがあった。こちらは私的な庭園のための樹木が求められた。
こうした爆発的な需要に対して、以前からある植木の産地だけでは供給が追いつかず、全国各地に新しい植木の生産地が次々とできていった。こんなふうにして1960年代の後半にできた新しい産地を「新興植木生産地域」という。

一方、江戸時代後半から明治にかけての藩政時代から戦前にルーツを持つ古い産地が「伝統的植木生産地域」で、いわゆる「日本四大植木生産地(埼玉・愛知・大阪・福岡)」も含まれる。
東京、大阪、名古屋の3大都市に隣接する埼玉県川口市安行、大阪府池田市細河(および兵庫県宝塚市山本)、愛知県稲沢市稲沢。それに、大正末期以降クルメツツジと山林苗木・果樹苗木で発展した福岡県久留米市田主丸など。
近世の城下町の近郊でお城や大名屋敷、武家屋敷、富裕町人層の庭園用樹木の生産から始まって、明治以降の近代都市の拡大に合わせて、都市緑化などの役割を担ってきた。また鉄道網の発達によって広域な市場を獲得し農業の主要な一部門としての植木生産を確立していった。
この本では、伝統的産地と新興産地のほか、盆栽の産地(香川県・埼玉県)および果樹苗の産地(茨城県)について取り上げている。

出版されたのは1984(昭和59)年で、35年が経過し、ここに掲載された産地も現在は環境も大きく変わっていると想像できる。掲載されていない新しい産地もあるだろう。市町村合併によって地域の名称も変わった。
本書で紹介されている千葉県北東部の産地、旧八日市場市は2006年に「匝瑳(そうさ)市」となり、現在は植木の輸出事業に力を入れている。中国向けのイヌマキの造形樹や欧州で「Macro Bonsai」と呼ばれ人気のツゲやキャラなどの小・中型樹などを育てている。

植木の需要は1973年の第一次オイルショックによる公共事業の減少によって供給過多となり、打撃を受けたという。
それでも、歴史を重ねた産地には、「園芸遺伝子」とでも呼ぶような何かがあるのではないか、と思う。それは、素材としての植物であるかもしれないし、知識と経験を有する名人の存在かもしれないし、流通のネットワークであるかもしれない。
例えば、明治22(1889)年に設立された日本園芸会(会報『日本園芸会雑誌』)(第104回参照)の立上げから維持の中心を担った吉田進第69回参照)は、埼玉県川口市安行における植木業の開祖、吉田権之丞の子孫なのではないかという説がある(『明治の園芸と緑化』2017)。

産地があるということは、需要があるということ。カキやモモ、リンゴという果物の産地があるというとき、そこには苗木を生産する産地もある(あった)に違いない。庭園樹が盛んな地域の近くには庭園があるはずだ(その逆の見方もできる)。
新興産地では、植木の生産以前にはなにをつくっていたのか、というのも調べてみると面白い。また伝統的な産地の場合、現在のような輸送手段が使えないわけで、植物を運ぶための技術や手段があったはず。それはどのようなものだったのか。どんな仕事があって人々はどのようにその仕事に取り組んでいたのか想像していくと興味は尽きない。

参考

『花に生きる 小原豊雲伝』海野弘 2010年
『緑化樹木の生産と流通』松田藤四郎 明文書房 1971年
『絵図と写真でたどる 明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017年

論文

「バブル経済崩壊後の市場縮小時代における造園業の実態と課題」
田中 史郎, 齋藤 雪彦, 藤井 英二郎, 鳥井 幸恵, 近江屋 一朗

「ランドスケープ研究」2009 年 72 巻 5 号 p. 479-484
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/72/5/72_5_479/_article/-char/ja/

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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