農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第7回 足元に人の歴史がある

公開日:2019.3.29 更新日: 2021.4.14

「アースダイバー」

[著者]中沢新一
[発行]講談社
[入手の難易度]易

花屋になるずっと前の話だ。
僕の自然へのアプローチは一番はじめに「野鳥観察」がある。バードウォッチングは、自分たちの暮らす場所にある「野生」を感じさせてくれる知的な遊びで、望遠鏡のレンズの向こうにある世界にいつも驚いていた。
植物への関心は、野鳥の暮らしの背景にあるものとして、だんだんと自分のなかに意識されるようにできていった。

植物好きが決定的になったのは、尾瀬の山小屋で1シーズン働いたことがきっかけだった(鳩待小屋です)。その後、縁あって国立科学博物館でニュースの編集の手伝いをするようになった。
当時、教育普及部の部長だった手塚映男先生には、とてもかわいがってもらった。先生はコケ類の「蘚類」、のちに植物生態学を専門とされていて、一つひとつの植物の生態や生き物の関係を面白く教えてくれた。

先生がよく話していたのは、「東京は崖のような場所に珍しい植物が見られるから観察してみるといい」、斜面が東西南北のどちらを向いているかも記録する。平地はどんどん開発利用されていくが、急な斜面や崖地は自然のままに置かれている場所がたくさんあるということだった。
実際に、日本に古くからある野草の固有種を見つけることができた。バブル期の再開発で開発しつくされた感のある東京だが、よく探してみるといろいろな植物が見つけられるかもしれない。

今日、お話する中沢新一の「アースダイバー」は東京、大阪、都心編の3冊があって、どれも面白い。今、自分が立っている場所が、文字通り地続きになって縄文時代の人々と直につながっている、という発想に心打たれた。縄文人は1万6千年も前に暮らしていて、こんなに高度に開発された大都市でも、地中に「ダイブすれば」彼らの生活の跡を見ることができるという不思議な感じ。

著者は、縄文人の遺跡がある場所を東京の地図に印をつけて実際に歩いてみた。
東京の地形は、海に向かって「手のひらを開いたような」台地(武蔵野台地東部の舌状台地群)がある、とよく言われる。縄文人の時代は、海(古東京湾)が今よりずっと内陸まで入り込んでいたので、この入り組んだ地形の台地の先は岬のようになっていた。
その構造は、上野台地、本郷台地、小石川・目白台地、牛込台地、四谷・麹町台地、赤坂・麻布台地、芝・白金台地の7台地として東京の骨組みをつくっている。
縄文人は、おもに狩猟採集生活をしていた人たちなので、水辺からそう遠くない日当たりのいい丘の上で暮らしていた。なので、現在でも、このあたりは気持ちがいいなあ、住んでみたいなあと思うところに縄文遺跡の看板があったり、記念公園になっていたりする。

また縄文人は岬の突端を聖地と考えて大切にしたという。そのような場所は、現在では崖のような地形になっていて、急な坂道があるような場所だ。
「坂が面白い」「高低差があるところになにかがある」「曲がりくねった道路には理由がある」とよく言われるが、想像以上に人の暮らしの歴史が重なっているのだろうと思う。縄文人が聖地と考えた場所には、現在も寺社があったり、墓地がある場合が多いのだという。

僕は、2008年ころから17年まで、品川駅からすぐそばにあるグランドプリンスホテル高輪内の花屋さんで週に4日、仕事をさせてもらった。館内の装飾室に常駐するフローリストとして、新高輪、さくらタワー合わせた全体の装飾を担当している会社だった。
その関係で、迎賓館赤坂離宮の装飾にも参加させてもらったことは生涯の宝物だ。グランドプリンスホテル高輪には、旧竹田宮家のゲストハウスだった「貴賓館」がある。ここは公開されていて、いまも婚礼や宴会などに実際に使われている。
この洋館は、迎賓館を設計した片山東熊が迎賓館の仕事のすぐあとに手掛けたもので、どちらもとてもよく似たディテールがある。そんな歴史的な場所で働いていることが、僕らの背筋を伸ばす力であり、誇りだった。

そのころの僕は休憩時間に高輪からあちこちに歩くのが習慣だった。坂のすぐ下には公園があり、その隣には幕末に英国公使館となった東禅寺があった。
このお寺は水戸藩士に二度も襲撃され、幕府が外国から外交的に追い詰められるきっかけになった場所のひとつで、まさに歴史的な場所だ。裏手には江戸時代から続く墓地がひっそりと隠れるように存在している。

品川駅は、日本の鉄道の歴史の1ページめに出てくる駅(明治5年、まず品川ー桜木町で開業)だが、開業当時の品川駅のすぐ脇には波が打ち寄せる海岸が見えるような場所だった。先程の貴賓館からは、品川沖に帆をかけた小舟がたくさん見えたという。線路はこの海岸線に沿ってつくられたのだ。

今は、なんの面影もない。品川駅の西口(高輪口)を出て坂を登った台地の上には天皇の御用邸があった。それがのちに、皇族、宮家に分けられていく。
高輪における皇室の所有地はほんとうに広かったようだ。西洋館がいくつかあったが、現在まで残るのは貴賓館だけではないかと思う。

高輪の台地を上から見ると、五反田側の御殿山近くには三菱、岩崎家が建てた開東閣(ジョサイア・コンドルの建築として現存)、戦後に旧高松宮邸を改装した結婚式・宴会場「光輪閣」、東の三田の方には平成天皇皇后陛下の住まいになる旧高松宮家のお屋敷がある。さらに三田側には三井倶楽部(ジョサイア・コンドル建築)がある。
「光輪閣」は、すでになくなったが、本連載第5回目で書いた小松左京たちの「大阪万博テーマ作成委員会」の最初の会合の場所として使われている。

ここからは、話はさらに脱線するが、光輪閣の支配人をしていた川添浩史はのちに六本木に「キャンティ」というイタリアンレストランを開く。
ここは、文化人やアーティストの集まる店で、若き日のユーミンがよく訪ねていたことで知られる。また、ナイキやユニクロ、青山フラワーマーケットなどのブランドデザイン創出に深く関わった有名なコンサルタント、シー・ユー・チェンもそうした人脈のなかにいたという。

足元の土地について歴史的な変遷を調べ、実際に歩いてみると気づくことがたくさんある。こうしたディテールを「環境ノイズ」(宮本佳明)、「パターン・ランゲージ」(クリストファー・アレグザンダー)などという。道が少しだけ曲がった坂道、小さな石段、ここちよい生け垣の連なり、T字路の正面にあるかわいいお店、そういうちょっとした場所が、街の雰囲気を作り出している。
だから、逆にそうした「心地よいもの」を意識的に作り出すことによって、街はより住みやすく愛着の持てる場所になっていく(三浦展)。

高松宮邸のある土地は、江戸時代、熊本の細川家のお屋敷で、現在の高輪アパートの一角に赤穂義士が切腹した「大石良雄外十六人忠烈の跡」がある。旧高松宮邸から伊皿子坂を品川方面に降りると泉岳寺だ。
面白いのは、伊皿子坂の坂上を三田の方に歩いてすぐのところにある三田台公園だ。ここは、華頂宮邸の旧庭園があった場所で、遊具がほとんどなく、住宅の中にとつぜん広場が出てきて不思議な感じがする。
なぜ面白いかというと、ここには、大きな竪穴式住居の形をした縄文時代の遺跡を紹介する展示館(伊皿子貝塚の展示)があるのだ。小さな暗い入り口を入ると、縄文人の家族が中央のかまどを囲んで魚を焼いている。

参考

  • 『大阪アースダイバー』
    中沢新一 講談社 2012年
  • 『アースダイバー 東京の聖地』
    中沢新一 講談社 2017年
  • 『環境ノイズを読み、風景をつくる。』
    宮本佳明 彰国社 2007年
  • 『吉祥寺スタイル楽しい街の50の秘密』
    三浦展・渡和由研究室  文藝春秋 2007
  • 『パタン・ランゲージ環境設計の手引』
    クリストファー・アレグザンダー 訳: 平田 翰那 1984
  • 『インプレサリオ』
    シー・ユー・チェン ダイヤモンド社 2005年

園藝探偵的 検索キーワード

#御用邸 #迎賓館 #貴賓館 #光輪閣 #シー・ユー・チェン #環境ノイズ #パターン・ランゲージ

この記事をシェア