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園藝探偵の本棚

第9回 やっぱり、絵が読めると面白い

公開日:2019.4.12

江戸の園芸熱浮世絵に見る庶民の草花愛

[編集・発行]たばこと塩の博物館
[入手の難易度]易

「たばこと塩の博物館」で行われていた特別展「江戸の園芸熱浮世絵に見る庶民の草花愛」を見てきた。江戸の町に暮らす普通の人々が、草花を愛する様子を描いた200点以上の浮世絵や資料が集まる。園芸をテーマにした浮世絵展はひさしぶりだと思う。今回は展示の中心が「鉢植え」であることも面白い。以前、『鉢植えと人間』を読んだ。江戸時代の人々と鉢植えの関係は、果たしてどんなだったのか。

展示をどう読むか 

浮世絵を見るのに知識は必要か、と問われるなら、「好きに見ればいい」ということに尽きる。たとえば、浮世絵に描かれているのは、当時の美男・美女で、みな「着物を着てガーデニングを楽しんでいる」様子だと思うと、現在では望むべくもない情緒豊かな美しい世界だ。絵の中では構図がしっかりと練られ、背景も着物もポーズも指先の形までも、すべてがとても美しく、夢のようだ。展示を二度、三度と見て回って、どの絵が一番好きか選ぶのも楽しい。こうした経験は、スマホで簡単に情報を得られる時代だからこそ価値がある。

ただ、ちょっと待って。確かに、それはそうなのだ。そうなのだけれど、今回、僕は最初から、しっかり勉強してみようと考えて見に行くことにした。なぜなら、「あまりにもわからなすぎる」のも面白くないからだ。

浮世絵は版画だから、描かれているものに曖昧さがない。線を引きそれをノミで彫っていくのだから、適当にごまかすところがない。江戸の人たちはそこに描かれているものがたとえ小さく描かれていても、きっと理解できたはず。なのに、300年後の僕らには文字も読めないし、細かい所に何が描かれているのか分からない。残念でしかたない。しかし、世の中には、浮世絵の専門家がたくさんいて、それぞれの専門で隅々まで研究されている。勉強しようと思えばその知識につながっていけばいいだけなのだ。

思えば僕も過去に、江戸の園芸をテーマにした展示会をたくさん見てきた。主なものをあげると、太田記念美術館「江戸園芸花尽し」(2009)、さいたま市大宮盆栽美術館「ウキヨエ盆栽園」(2012)、フラワードリーム2013「浮世絵でめぐる江戸の花」(2013)、江戸東京博物館「花開く江戸の園芸」(2013)。あと、これは、行けなかったのだが、参考までに書くと、さいたま市大宮盆栽美術館「三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!? 千両役者は盆栽狂」(2017)。その都度、図録も購入しているのだが、恥ずかしながら、ほとんど読んでこなかった。図録は、展覧会体験を補足する資料だから、展示室の薄暗い照明では見にくかったところも見える。その暗さや絵のサイズ感こそが「見に行く」ことの価値なのだけど、そこに知識を加えて、展示の読み解きを一回一回積み重ねていけば、今ごろはそうとうな専門知識が自分のなかに蓄積して、新しい理解につながっていたのかもしれないと残念に思う。そんな後悔をしつつ、今回、勉強したことを含めて話をしていこう。

「たばしお」の入場料は100円だった

「たばしお」の愛称を持つ「たばこと塩の博物館」は東京スカイツリーの近くにあると聞いていたのだが、地下鉄の「本所吾妻橋」駅または「とうきょうスカイツリー」駅のどちらから行っても少し歩く。運河があちこちにあって気持ちがいい。入場料は100円で、特別展を見ても同じというのには少し驚いた。たばこと塩に関する常設展示のほかに、休憩所や図書室、多目的ホールのほかに、居心地のいい喫煙所があるのがさすがだ(ミュージアムショップではたばこも売っていた)。

キャプションを読む

特別展の展示室で4つのテーマ展示をぐるりと巡る。そのテーマとは、「花見から鉢植へ」「身の回りの園芸「見に行く花々(花のテーマパーク)」「役者と園芸」。

展示されているものには、キャプション(展示解説)がついていて、読むことによって「見る」ことの質を高めていけるはずだ。キャプションは、短い言葉で「視る」べきポイントを示し、別の知識や展示物と「比べる」こと、「気づき」をうながすようなことが書いてある。展示を企画した人たちと、僕ら見る側とのコミュニケーションができるようになっている。

ここでは、「絵のタイトル(または内容)」「絵師(アーティスト)の名前」「版元(出版社)」「出版年」が主な内容だ。展示を見ながら、「これいいなあ」と思う絵の作者は誰かを知るのは面白い。何か所にも展示された同じ絵師の絵を気に入るとしたら、絵によって自分を知ることにつながると思う。僕は、初代歌川豊国(図版番号149)や歌川国貞(三代歌川豊国、図版32)が好みで、女性のアデな感じがいいと思う。ちなみに豊国の一派の多くは「年玉(ねんぎょく)」という丸い輪のマークを使っているからそこを見てもわかる。

それはさておき、江戸時代は260年も続いたので、前期、中期、後期のどのあたりの絵なのかということを押さえると変化がわかりやすい。(享保期は江戸時代中期・18世紀前半、文化・文政期は、江戸後期・19世紀初め)

予備知識として学んだこと

①日本は大陸の端に位置する島国で、歴史的に大陸の影響を受けてきた。さまざまな文物が大陸から半島を経由して移入され、その後、日本独自の発展・展開をするパターンがある。「鉢植え」にされた植物、「植木鉢」も同様の展開があった。国産の商用植木鉢(陶磁器)の流通が一般化するのは江戸中期以降。それまでは需要が少なく輸入品や木製、代用植木鉢が主なもの。

②園芸文化は支配階級、富裕層に始まって、時代を下るにしたがって庶民に広まった。また、初期は「庭植え」「花壇」が鑑賞の中心であり、対象は樹木、植木が目立つ。これが江戸時代の中期に草花の需要が増え、「鉢植え」が流通するようになって、園芸は一気に大衆化していく。植木は植木屋の敷地のほかに、縁日、「棒手振り」(行商)などで売られた。

③草花の楽しみ方は、育てるだけではなく、見ることにもある。享保時代以降、サクラの名所が各地に作られ「花見」が流行し、季節の行楽として定着する。何種類ものガイドブックが出版され、人々の関心を高めた。

④「菊細工」(現在の「菊人形」)「百種接分菊」のように植物をテーマにした催し物や展覧会が開かれ人気を博した。両国で人気になった菊細工は植木の産地、駒込・巣鴨地域でも行われるようになる。植木屋も休憩所を設け行楽の目的地になった。向島「百花園」のようにそこに行けば、四季の花が見られるテーマパークも各地につくられた。植木屋が花屋へと性格を変えていく。

⑤錦絵や「花暦」、おもちゃ絵、また栽培法の解説書など、さまざまな「出版物」は、それを求める人々に情報を提供し続けた。とくに日本独特の価値観を示す「奇品」の鉢植えや「変化朝顔」の流行は、特定の植物が高値で取引される社会現象を引き起こし、当時の身分を超えた好事家のグループから一般の人々へと園芸熱を広げる熱源となった。

江戸の初期から中期まで、園芸の中心は「地植え」ないし、木製のコンテナに植える「石台植え」だった。その後、庶民にまで草花の栽培熱が広がっていくのには、「鉢植え」の普及が欠かせない。瀬戸など大生産地で焼かれた磁器の鉢がたくさん流通するようになるのは、18世紀前半、享保の頃からだという。その起点に「奇品」愛好家がいる。また、「享保の改革」で知られる8代将軍吉宗の時代で、ちょうど花見が流行り出す頃とリンクしているのも面白い。

鉢植えは縁日や棒手振りから買う

植木屋の多くは四谷(今の新大久保あたり)や駒込・巣鴨など郊外にあったため、鉢植えの植物は、あちこちで行われていた縁日や人通りがあるにぎやかな場所に棚を広げ、露天で販売された。路上で売り歩く「振り売り」「棒手振り」もあった。「植木売りと役者」(歌川国房)、江戸後期の文化(1804~18)頃(図録番号7)。たばこと塩の博物館が所蔵する落ち着いた感じの美しい作品。展示されているほとんどすべての絵に鉢植えが載っているが、いずれも決まったように一点ずつ置かれ、隣り合うものの姿かたちが互いを引き立てるように描かれている。売る側としては、足を止めさせ、一つ一つをよく注意して見させるようにしているのかもしれない。鉢植えを買ったお客さんの絵もたくさんあるが、みなさん、肩に載せたり、手のひらに載せて運んでいる。売る方も一点売りで、買う方も一点買いだよね。だいたい値札がない! おそらく、売り手と買い手がかけ引きをしながら、買っていたのではなかったか。定価売りをするようになるのは、この50年ほどのことではないかと思う。

接ぎ木や挿し木などの園芸技術

江戸時代には園芸書がたくさん出版されていたという。江戸の中期、後期(17世紀から18世紀)にそれらが出版され、またそれを書き写した「写本」もたくさん出回っていた。園芸に関するさまざまな種類の出版物がたくさん出回るということは、それを必要とする人たちがいた、ということだ。わかりやすい図が添えられた園芸書は今見ても面白い。当時の接ぎ木の技術のレベルの高さを示すのが「百種接分菊」だろう。こうした園芸家のDNAなのか、ながく農業技術士として日本の農業に貢献した板木利隆氏が発明した「幼苗斜め接ぎ生産システム」は、「Japanese method」あるいは「tube method」と呼ばれ、世界中で使われるようになっているそうだ。図録にも様々な技術が描かれている。

・茶店で鉢植えの委託販売「桜川お仙」(図録番号6)。
・現在のベランダ園芸のような二階の植物置き場(図録番号43)
・朝顔の支柱のデザインいろいろ(図録のP28、29、42、45など)
・鉢植えに「わら囲い」をする(図録番号67)
・鉢植えにひしゃくで水やりをする(図録番号68)
・植物ラベル、名前付け(図録番号70、71)
・糸を使うマツの枝作り(図録番号88)
・植木屋はガラが悪い(図録のP148~153、159)
・スイセンの促成栽培(図録番号75、199)
・運搬用の四つ手の台を組んで棚をつくる(図録番号194、195)

もともと湿地帯だった江戸と園芸地域の東進のわけ

僕が、この展覧会で一番勉強になったのは、向島の「百花園」や浅草の「はなやしき」のようなテーマパークの展示だった。当時の絵地図も興味深い。現在の「たばしお」があるのも隅田川の東、「墨東」地域で縁がある。以前、正岡子規について勉強したときに、若いときに、隅田川のほとりで夏を過ごし、小説や歌を詠んでいたことを思い出した。明治の前半だ、たしか「坂の上の雲」だったか。のどかで雰囲気のいい田舎として描かれていた。

百花園は、最初は梅屋敷として始まったが、創始者の佐原鞠塢翁の隠居の地(梅の隠居)でもあったという。この百花園に隣接して、園芸好きで知られた三代尾上菊五郎の隠居所(松の隠居)があった。近隣には植木屋の隠居(菊の隠居)もあり、向島の三隠居と呼ばれていたらしい。こんなふうに、隅田川中流域の東側は堰堤にサクラの名所がある田園地帯、お米もつくるが、大都市江戸に隣接した野菜や花の産地になっていた。というのも、この周辺は低湿地帯で大雨が降ると洪水になることが多かったのだそうだ。米作りだけに頼るにはリスクがありすぎた。実際に、明治40年と43年、とくに43年の水害は隅田川下流域全体を水浸しにし、多摩川の河口部とともに、東京全域に大きな被害をもたらした。水が引くのに3、4ヵ月もかかったそうだ。浅草花やしきや向島百花園も大きな被害を受けて、長い間閉鎖されたままになる。

この大災害をきっかけに、隅田川に流れ込む水を上流でつけかえる荒川放水路の大工事が行われた。こうした治水工事のおかげもあって水運の発達した江東区や墨田区には工場が立ち並ぶようになり、人口増加、都市化が急速に進んだ。明治から大正にかけて、都市化に押されるように、東京の園芸産地は北へ、東へと移動するのだが、江東区・墨田区・葛飾区から荒川、中川、江戸川を超えて東へ東へと動き、鹿骨地区が発展していった。こんなふうに産地の移動の全体像が理解できた。このへんのところは、もっと勉強していきたいと思う。

 

参考
『樹盆』埼玉県立博物館 1989年
『江戸園芸花尽し』太田記念美術館 2009年
『ウキヨエ盆栽園』さいたま市大宮盆栽美術館 2012年
『浮世絵でめぐる江戸の花』 誠文堂新光社 2013年
『花開く江戸の園芸』江戸東京博物館 2013年
『三代目尾上菊五郎改メ、植木屋松五郎!?千両役者は盆栽狂』さいたま市大宮盆栽美術館 2017年
『江戸奇品解題』浜崎大 幻冬舎ルネッサンス 2012年
『江戸名所花暦』岡山鳥・著/長谷川雪旦・画 今井金吾・校注 1994年
『園芸の達人 本草学者・岩崎灌園』平野恵 平凡社 2017年
『温室』平野恵 法政大学出版局 2010年
『鉢植えと人間』田嶋リサ 法政大学出版局 2018年
『九十歳 野菜技術士の軌跡と残照』創森社 2019年

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