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カルチべ取材班 現場参上

ネパール生まれの花粉が驚異の秀品率を実現!稲城市の日本ナシ

公開日:2019.4.8 更新日: 2019.10.2

東京都西部、多摩川の西岸に位置する稲城市は、歴史ある日本ナシの産地で、現在も94名の生産者が栽培を続けている。都市化が進み年々農地が減少傾向にある東京で、単一の作物を100人近い生産者が栽培して「産地」を形成するケースは珍しい。

収穫を迎えた「川清園」の川島實さんと幹雄さんの圃場を訪ねた。

稲城市で50年以上ナシを栽培している川島實さん(右)、と長男の幹雄さん。

12aに9000玉!直売ですべて売り切る

大人の頭の高さに、黄金色に輝くナシの果実が、鈴なりになっている。

「新高です」と幹雄さん。その数12aに9000個。しかもどれもみな、まん丸で形がよく、大きい。驚異的な秀品率を誇っている。

「うちは花粉が違うから。父がネパールから持ってきた、ナシの受粉樹があるんです」

晩生の「新高」を、有袋で栽培。収穫前に袋の下半分を破り取る。

園地の一角にひときわ大きなナシの樹が植えられている。それはかつてネパールを訪ねた實さんが、現地で見つけたヤマナシの樹。ここから花粉を採取して、毎年人工受粉に活用している。

「花粉がいいからきっちり受粉して、種子がきっちり10個入る。限られた農地で秀品率を上げるには、春先の交配が大事です」

8月下旬から9月末にかけて、通りに面した直売所には、ナシを求めて続々とお客がやってくる。8月末の「稲城」に始まり、「みのり」「秀玉」「新生」「清玉」、晩生の「新高」と品種リレーが続く。ナシの栽培面積は47a。収穫したナシのほぼ全量を予約注文による宅配と直売所で販売できるのは、都市農業の強み。さらに「高尾」などのブドウ10a、ウメ10a、野菜等13aを栽培している。

収穫前の新高。
17年前、實さんがネパールから持ち帰ったヤマナシの穂木から育てた受粉樹。場所を取らないようにナシ園の側面に左右に枝を広げて仕立てている。
ナシ園は、収穫や摘果がしやすいように、枝を高さ160cmに仕立てている。

「稲城」の突然変異から青ナシ「みのり」を発見

稲城におけるナシ栽培の歴史は古く、17世紀末の元禄年間に、京都から持ち帰った苗木を元に栽培が始まり、江戸末期には十数戸で「淡雪」や「奥六」などのナシが栽培されていた。1884(明治17)年、13名の生産者が「共盟社」を結成し、それが後の生産組合に発展。130年を超える歴史がある。

實さんは、1941(昭和16)年生まれ。ナシの栽培技術を身につけようと世田谷区の都立園芸高校へ進学。果樹を選択した生徒は、實さん一人だったため、後に東大農学部教授となる佐藤幹夫氏から、ほぼマンツーマンで栽培技術を学ぶことに。

「先生と生徒というより、まるで教授と助手のよう。中身の濃い3年間でした」

この時の経験を元に、實さんは就農してからも、自家受粉可能なウメの品種を見出し、日本では珍しかったボイセンベリーの栽培方法をいち早く確立。国産ラズベリーの品種改良に挑戦するなど、独自の目線と手法で新品種や新技術を生み出してきた。

88年、稲城市生まれの赤ナシ「稲城」から青い実を発見。「豊水」に接ぎ木したところ、1個500g以上の果実が、安定して取れるようになり、「みのり」と名付けた。

以来赤ナシの「稲城」と青梨の「みのり」は、8月下旬〜9月上旬に、色違いで同時に販売できる、川清園の目玉商品になっている。

左がネパールナシ。葉の色が濃く、肉厚。右は「稲城」の葉。
左は地元かで生まれた「稲城」。右はその突然変異から實さんが見出した「みのり」(写真提供/川清園)。

煮干しを粉砕して自家配合肥料を製造

住宅街に囲まれた、ナシ畑の一角にある作業場で、川島さん親子と近隣農家の人たちが、作業場で大量の煮干しを剪定枝用のチョッパーで粉砕していた。

カタクチイワシの煮干しは、ナシの味に欠かせない要素で、大きすぎたり、形が崩れた規格外品を、千葉県の漁港から大量に購入。昨年は4t取り寄せて一気に粉砕した。

翌日は、實さんが考案したレシピに従い、煮干しの粉を山積みにして、その上から、魚粉、骨粉、ナタネ粕、大豆粕、硫安、硫カリの袋を開け、中身を次々と重ねていく。

煮干しの粉末が全体の約50%、魚粉、骨粉、ナタネ粕、大豆粕などの有機質が40%、硫安などの化成肥料が10%を占める。

「どんな魚のどの部位が入っているかわからない魚粉よりも、頭、骨、尻尾、全部揃っている小魚を使うのが大事」と實さん。

トラクタを何度も前後させながら、ショベルを巧みに操って、全体をかき混ぜる。ブレンドが終わったら30㎏入りの紙袋に詰めて、各自農園へ持ち帰る。稲城では30年ほど前まで、こうした肥料の自家配合がさかんに行われていた。手軽な配合肥料の登場により、利用者は徐々に減ってきたが、購入するより、材料を集め自分たちで混ぜた方が、コストが安い。そして育てたナシの食味が高くなる。

自家配合の肥料の良し悪しを、ナシ園で比較するのは難しいので、實さんはトマトやキュウリなど、果菜類を栽培しながら比較試験を実施。果実を食べて「おいしい」と感じる配合比率を追究してきた。

年が開け、マニュアスプレッダで、堆肥を散布する實さんの姿があった。ナシの枝の高さは160㎝に統一されているので、頭をぶつけないように、体を斜めに傾けながら、トラクタを運転していく。

堆肥は、ナシの枝の剪定枝をチョッパーで粉砕したものに、稲ワラ、世田谷の馬事公苑から入手した馬糞とワラを積み上げて、切り返したものを、園地の表面に散布。さらに自家配合した肥料を、10aに500kgずつ散布する。冬の間の剪定作業と併行して、翌シーズンに向け、土づくりも着々と進めていた。

自家製肥料配合。千葉県の水産加工業者から、大量の煮干しを購入。
剪定枝を粉砕するチョッパーで、煮干しを粉砕し、粉末に。
翌日、粉砕した煮干しの上に、規定量の魚粉。骨粉を重ねる。
さらに、ナタネ粕、大豆粕を順番に重ねていく。
最後に全体量の1割ほどの硫安、硫加も加える。
何度もすくい上げて全体をブレンド。袋に詰める。
樹高160㎝のナシ園を、ギリギリの高さで走行。マニュアスプレッダで、馬糞や剪定枝を混ぜ熟成させた追肥を散布する。

ネパール山中で偶然ヤマナシに出会う

それは2000年のこと。實さんは、ネパールで農業指導に当たっている友人の誘いを受け、カカニ村の農場見学と観光旅行に出かけた。すると乗っていたバスが山の中でパンクして立ち往生。スペアタイアが届くまで、3時間待たされることに。仕方がないので周辺の山を散策していた。すると、山の中で野生のナシの木を見つけた。

「これはすごい。幹はきれいな肌をしていて、葉が厚くて色艶もいい。日本にはこんなナシの木にはない。生命力を感じました」

何気なくひと枝持ち帰り、冷蔵庫で保存。春になりナシの樹に継いでみた。すると、栽培しているナシよりも2週間ほど早く花が早く咲いた。

「これはナシの受粉樹として使えるんじゃないか」

ナシは基本的に自家不和合性で、同じ品種の花粉では結実せず、異品種でも系統の近いもの同士は結実しない。

それまで川島さんは、「馬次郎」や中国原産の「ヤーリー(鴨梨)」などの花粉を採取して交配させていたが、受粉樹と栽培種の開花時期が重なり、多くの人手が必要なのが難点だった。偶然出会ったナシの樹の枝を持ち帰ったため、受粉樹として使うには正式な手続きが必要と、その5年後に改めてネパールへ。同じ場所の樹を探して枝を持ち帰り、成田空港の植物防疫所で隔離検査を行った。

検査に2年半を要し、2007年12月に合格。晴れてネパール生まれのヤマナシの穂木6本を受け取り挿し木で増やし、受粉樹として活用するようになった。

2週間早く開花、花粉を自家採取

川島さんのナシ園を訪れた。ナシ園の側面で、左右に大きく枝を広げたナシの樹だけが、真っ白な花を咲かせ、満開を迎えていた。

「これがネパールナシの花。これだけ2週間早く花が咲きます」と幹雄さん。

「稲城」や「新高」はまだ蕾が固く閉ざされている。その横で、幹雄さんは脚立に乗り、どんどん花を摘んでいく。中を見ると雄しべの先のピンク色の葯がふくらんでいる。これが黒ずむ前に摘み取り、花粉を取り出すのだ。

発泡スチロールの容器いっぱいに摘み取った花を、採約器にかけて花びらや萼、雄しべの花糸を取り除く。さらにふるいかけて、花粉の詰まったピンク色の葯だけを丁寧に取り出す。

続いてこれを、黒紙を敷いたバットの上に薄く均一に並べて開葯機へ。ピンクの葯の中から花粉が飛び出す。取り出した花粉は、袋に入れ、乾燥剤とともに冷蔵庫で保存する。

稲城市では、前年の春採取した花粉に加え、「雪花梨」など、中国産の輸入花粉を使う農家が増えている。稲城市全体で250万円分の輸入花粉が導入されているほど。少量でも高価な資材となっている。

冷凍ではなく、2週間前に同じ稲城で咲いたネパールナシの花の花粉。しかも日本ナシとは品種も系統も異なるため、いずれ品種に交配しても受粉できる。

家族や親戚、近隣の女性たちが集まり、一斉に受粉作業を行う。
梵天の先にネパールナシの花粉をつけて、雄しべに付着させ交配。
同じ頃、ネパールナシは芽吹いて葉が広がっていた。

ネパールナシの苗譲ります

4月、ナシの花が咲き、受粉作業が行われた。真っ白な梵天の先に2週間前に採取した花粉をつけ、各品種2〜3回、白い花にひとつずつ付けていく。

地元で生まれた「稲城」の花。
實さんが「稲城」から見出した「みのり」の花。

「日本のナシは遺伝的に自分の父親の花粉を受け入れない宿命を持っています。かたやネパールナシは、遺伝的に日本ナシから遠い。だから受粉しやすいんです」と實さん。

ネパールナシは、挿し木で50%の割合で発根し、苗木が作れる。川島さん親子は、第三者に転売譲渡しないよう誓約書を書くことを条件に、希望者にこの苗木を分けている。

譲渡に際し、苗木代の以外の代金は必要ないが、譲渡者から「志」として預かった分は、ネパールへの感謝を込めて、現地で農業指導と小学校の運営に当たっている公益財団法人日本農業研修場協力財団(JAITI)に寄付している。

特許を取らず、無料で配布するのは「交配がちゃんとできれば、日本のナシのレベルまだまだは上がる。他の生産者にも役立ててほしい」と考えるから。

稲城でナシを育てて半世紀以上、さまざまな品種や技術を見出してきた實さんが、今、楽しみにしていることがある。一昨年、鳥取の農業試験場を訪れた時、圃場である品種が目に止まった。それは「淡雪」。江戸時代、稲城で栽培されていたと伝えられる品種だ。ずって探し求めていたが、ようやく巡り会えた。試験場の許可を得て穂木を持ち帰り、ナシの木に接いである。

「あと3年ぐらいで『淡雪』が食べられるよ」

幕末から150年以上の時を経て、江戸の昔のナシが稲城へ里帰り。今から楽しみだ。

 

「農耕と園藝」2017年7月号より転載・一部修正
取材・文/三好かやの
撮影/岡本譲治、三好かやの

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