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第11回 洋風化のパンデミック(爆発的な進化)

公開日:2019.4.26 更新日: 2021.4.22

「犬たちの明治維新 ポチの誕生」

[著者]仁科邦男
[発行]草思社
[入手の難易度]易

今日は、「犬」の話だ。

幕末から昭和30年代にかけての花き装飾の歴史を知りたい、というのが僕の勉強の主題なのだが、ひとつの事実がわかっても時代背景がわからないと、その事実が表そうとしていることや重要性について、ほんとうに理解することにはならないということに気づく。それで、結果的に調べることも広範囲に広がって支離滅裂な状態になってしまう。
しかし、それでもまあ、野次馬的な興味で勉強するのが「園藝探偵」的なやり方だと思うので、あえてどんどん脇道にはみ出して行こうと思う。

ところでなぜ、「犬」と「明治維新」なのかというと、幕末に鎖国政策が終わり、たくさんの文物が人々の生活にどっと入ってきて洋風化し、社会が大きな変化に揺さぶられるなかで、犬たちの運命も翻弄された。そこで犬の目を通して社会の変化を見ることで、いままでとは違う角度から歴史を語れるかもしれないということなのだ。
この本は、みんなが知っている歴史の事実とともに、とても詳細に描いていて当時の日本人や外国人の日常、空気感がよく分かる。身近な動物のことなのに、知らなかったことがたくさんあることにも気づかせてくれる。

「洋食」「洋楽」「洋花」という言葉が21世紀になった今でも使われているというのは少し不思議な感じがするのだけれど、当時の日本人は、それまで見たこともない外国人の姿や言葉、持ち物、生活習慣、生活文化に目を見張った。あらゆるものがパンデミック(爆発的)に洋風化した。

日本人と外国人が接触する最初の舞台は、横浜、横浜・長崎・新潟・兵庫の開港地で、とくに横浜は歴史の重要な舞台になった。横浜で最初のうちは、狭い居留地に短期で居住して外交や貿易などの活動をしていた外国人たちは、幕府と交渉のすえに山手地区に住居をかまえて家族を呼び、定住し始める。
そうすると、外国の生活がまるまる移植されるようになるわけで、暮らしに必要なあらゆるものが国内外から横浜に集まってくることになった。

こんなふうにして、幕末期に横浜から始まったものはたくさんある。それらをひとつひとつ調べていくのも面白い。
たとえば、僕が最初に興味を持ったのは、「牛乳」だ。「東京牛乳物語」(黒田鐘信 1998)は、東京のとある牛乳屋さんの家族の物語だが、明治期に牧場をつくり牛乳屋を始めた高祖父、アメリカまででかけて乳牛を連れ帰ってきた曽祖父たちの歩んだ道を丁寧に探った労作だ。
明治時代、東京にはたくさんの牧場があった。正岡子規の門下でアララギ派の歌人、伊藤左千夫が牧場を経営し牛乳を売って生計を立てていたのは有名。
当時、牛乳を宅配で毎日飲んでいた人たちは、富裕層だけであって、庭を持ち、花を日常的に飾る家庭と重なっていることに注目したい。

また脱線したが、幕末から明治にかけての園芸を取り巻く環境を知るために、他の分野の物語を読むことがヒントになるということを考えている。洋花や洋食と同じように、日本人は、「洋犬」にも驚きの目を向けるようになる。

まず、最初に驚いたのは、江戸時代、《犬は無価値だった》ということだ。どういうことかというと、犬を個人が所有するという概念がなかった。売買や流通の仕組みもない。犬は、マチナカを自由に生きていたというのだ
。犬には特定の所有者がいないのに、生きていけるということは、自分たちで餌を漁るだけでなく、誰かが餌をあげていたということになる。

犬の愛護というと江戸時代、五代将軍綱吉の生類憐れみの令が思い浮かぶ。
「馬と人の江戸時代」(兼平賢治 2015)によると、動物から江戸時代を物語る研究が進んでいて、綱吉の政策も評価が見直されているという。暴君が庶民を苦しめる悪法というイメージではなく、

《捨子・捨病人禁令など人を含む生類の生命を大切にすることを民衆に求め、慈悲の志と仁心を涵養することを目的とした法令で、簡単に動物を斬り殺すような殺伐とした気風を払拭し、泰平の世にふさわしい秩序をもたらそうとするものであった》

と評価されるようになっているそうだ。現代のアニマルウエルフェアの思想に近い考えを綱吉は持っていた。

ところが、時代が下って幕末期の犬は、寝そべっているところをいきなり切りつけられたり、石を持って追われたりするようなことが日常だった。
その一方で、人々は彼らにえさを与えかわいがる人たちもいたが、そういう含みや多様性が江戸らしさというのかもしれない。

一方で、ヨーロッパでは、実に長い期間に渡る狩猟の歴史があり、人間は犬とともに暮らしてきた。狩猟は獲物によって方法が異なるが、よく訓練された狩猟犬が必要で競技会も盛んなのだ。
日本ではマタギと呼ばれるような人たちが伝統的な狩猟で犬を使うが、社会一般には仏教伝来以来長く獣肉から遠ざけられていたため、人々にとって「狩猟」あるいは「狩猟犬」は身近なものではなかった(誠文堂新光社の創業者である小川菊松は、狩猟や狩猟犬に詳しく、犬に関する書籍や雑誌も数多く出し、日本の狩猟犬飼育の一端を担ってきた)。

狩猟とスポーツと園芸の関係

江戸時代の日本の犬は特定の飼い主がいない。犬を食べる習慣もないので、町中に野良犬がごろごろしていたという。犬種、血統という考え方もないので、雑種がほとんどで、なかにはかなり大きなものもいたようだ。そして人をあまり恐れずなかった。大八車に敷かれるまで動かない。
こうした野良犬たちは、幕末に日本に来た外国人に対してはなぜか吠えかかる。それで居留地の人たちはとても困っていたようだ。

自分が居留地の外国人だとしたら、行動範囲は制限されているし、気晴らしがどうしても必要だったはずで、それは園芸を楽しむことはもちろん、馬に乗って許可を受けた街道を散策することやスポーツだっただろう。
日本と英国の場合も、条約を締結する時に、すでに一定規模の「公園」をつくることを確認していた。スポーツや散策を楽しむ場所を確保するためだ。
それが横浜公園や、山手公園として実現するのだが、残念なことに公園ができる前に「生麦事件(1862年)」が起きた。
これがもとで、英国と薩摩藩は戦争になり、その後、逆に英国と薩摩が強く結びつくきっかけにもなった。野良犬が吠えることが生麦事件とつながっていくという物語の運び方が実に面白い。

犬に吠えられる英国人たちも、自分の住まいでは犬を飼う人が少なくなかった。彼らは犬を「カムヒヤ」「カムイン」などと呼ぶので、当時の日本人は洋犬のことを「カメ」と呼んでいて、古い新聞や本の中でもそういうふうに出ている。
明治の新聞には「迷い犬を探してほしい」という広告がたくさん載っている。

洋犬は、立派な純血種が外国の国家元首から明治天皇への献上品として贈られることもあり、専門の飼育員がつけられるようになる。明治宮殿(皇居)や新宿御苑で、洋犬が飼われていた記録もあるという。
「狩猟」という文化は欧州の権力のシンボルでもあったわけで、天皇によい狩猟犬を贈られるのは当然のことだった。明治天皇はあまり狩猟を好まれなかったようだが、犬とともに兎狩りをされたこともある。公式の狩猟場が設けられ、皇族や華族のなかには熱心に狩猟を学び取ろうとする人たちもいた。
結局、明治天皇は鴨場での鴨の捕獲を好まれ、不平等条約改正のための天皇外交の一環で外国の賓客を招いて鴨猟を行うことも少なくなかった。

狐狩り、鹿狩り、兎狩りといった欧州の狩猟は、それで生計を立てる、生きていく、という生業とはまったく違う楽しみだった。これがやがてスポーツやゲームという言葉へと中身を変えて一般市民が楽しむものへと変わっていき、人々が生きていく上で欠かせないものになっていった。それで、ヴィクトリア時代につくられる都市公園には、たくさんの植物と散策できる街路などのほかに運動場がつくられた。
横浜公園の場合は、中央に大きな面積でクリケット用の芝生地を要求していて、クリケットをしない他国の反対を数の力で押し切って造成させている。計画が決定しないうちから芝生を植え付けはじめて、開園にはプレーができるようにするという豪腕だった(芝生の費用の半分は日本側に負担させた)。

王侯貴族の狐狩りでは狐を得ても得なくてもそれでプレーヤーは誰も困らない。そのゲームのために、広大な土地が囲い込まれ維持されることのほうが社会に対しての影響が大きい。
園芸にも同じようなところがあって、庭園は長い間、権力・財力の象徴だった。庭園にはさまざまな植物が植えられているが、そこで花が咲いても咲かなくても実がなってもならなくても困る人はほとんどいない。
ゲームとしての狩猟とそれで生きていく狩人の仕事は質が違うのと同じように、園芸と農業は違う。逆から見ると、スポーツと園芸は人間にとって似ているところがある。

最後に、明治の初めに「町の犬」としてのんびりと暮らしていた犬たちはやがて放し飼いが禁止となり、だんだんと外では見られなくなる。
昭和になって戦争が始まると、家庭で飼われていた犬は、軍用に徴用(強制収容)されたり、食糧難で飼えなくなったりした。空襲で逃げると危険ということで取締りにあい、ひどい目にあった犬もたくさんいる。全国にいた貴重な日本固有の犬もこのときにほぼ絶滅したものもあった。
花づくりができなくなったのと同じことが犬たちの歴史にもあるということを忘れないでいたい。

参考

  • 『東京牛乳物語 和田牧場の明治・大正・昭和』
    黒川鐘信(あつのぶ) 新潮社 1998
  • 『馬と人の江戸時代』
    兼平賢治 吉川弘文館 2015

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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