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第12回 時代を切り開いたひとの経験と言葉

公開日:2019.5.3 更新日: 2021.4.23

「九十歳 野菜技術士の軌跡と残照」

[著者]板木利隆
[発行]創森社
[入手の難易度]易

この本はすごい。まさに戦後から現在に至る日本の園芸史を、一人の人間の経験を通して感じ取れる貴重な一冊だ。しかも著者はただの語り部というのではなく、現場に立って、時代を画する大きな実績を残してきた実務者、技術者でもある。

現在90歳。1929(昭和4)年生まれの著者が、米寿を迎える記念の私家版としてまとめた本をもとにしている。
戦時中に子ども時代を過ごし、激動の戦後を千葉の農業専門学校(千葉大学園芸学部)から神奈川県園芸試験場に勤務、その後、神奈川県農業総合研究所長として57歳としい若さで定年を迎えると、JA全農農業技術センターでも大きな成果をあげた。

板木さんの開発した生食用赤タマネギ「湘南レッド」は育成から60年以上経過するも、いまだにトップシェアを誇る優良品種だ。また味のよい根深ネギ「あじぱわー」は島根の「神在ネギ」として現在も地域の特産になっている。

園芸書も多数執筆され、専門書から一般向けのものまで幅広く執筆された。著作は36冊あり、総発行部数は83万部にもなるという。誠文堂新光社の技術解説「蔬菜生産技術」シリーズの最初の一冊「キュウリ」も板木さんが3年をかけて恩師の藤井健雄先生と共著で書いている。

板木さんの業績のうちでも特筆すべきは、JA全農農業技術センター時代の研究成果である。「幼苗斜め接ぎ木システム(全農式接ぎ木)」だ。
非常に簡単な作業で、最少の資材を用い、プラグ苗のサイズで接ぎ木を行う画期的な方法を考案、日本発明家協会が選んだ戦後日本のイノベーション100選のひとつに「接ぎ木(野菜)」として選ばれた。
農業関連で選ばれたのはわずか4つで、リンゴ「ふじ」、お米の「コシヒカリ」、自脱型コンバイン・田植機がある(ほかに関連として「道の駅」も)。
この挿し木の技術は、作業効率や生産性の向上を飛躍的に改善するもので、JA全農によって公開され国内はもとより、世界中で利用されているという。

それでは、僕が興味を持ったところをいくつか書いてみよう。

①戦時中の教育と戦後の大転換、大混乱

板木さんは1929(昭和4)年、以前ここで紹介した小松左京が1931(昭和6)年生まれで、戦争中に学生(現在の中学、高校生)だった世代だ。ほぼ例外なく、壮絶な戦争体験がある世代ということになる。
僕の義父が1930年生まれなので、子どもの頃の話は何度も聞いている。もう少し早く生まれていたら、もう少し戦争が長引いたら、戦地に行くことになっただろう。男子は軍事教課が行われ、学徒動員で機械工場で働くようになる。

小松左京の通った学校もそうだが、板木さんの農学校も県下の模範校であったようで、満蒙開拓青少年義勇軍や陸軍幼年学校、予科練などを受験し進むことが「人数割当」されていたようで、実質的に強制されるようにして行った人たちが生涯不満をもっていたと書いている。

板木さんは農学校だったので、食糧生産をしていたのかと思ったが、鉱山の採掘作業や災害復旧、土砂の運搬作業などをやらされていた。あまりにもきついので生徒代表をしていた著者は、校長に改善を要求すると、全校生徒が講堂に集められた場で名指しの上、弱音を言うのはけしからん、非国民だと非難されたという。

そんな教師たちが終戦を境に平和主義者となり、民主主義を叫ぶようになるのを見ている。そんな教師たちを相手にストライキもやった。若い頃からリーダーシップを持った人物だったのだことがわかる。

②千葉大園芸学部へ進む

終戦の翌年に千葉農専(千葉大園芸学部)へ進む。
終戦直後は、軍関係の学校に通っていた優秀な生徒が新制の学校に再入学してくる数が多く、受験は厳しかったそうだ。それが、2年目には、制限されたため、新卒の入学枠が広がったために合格できたと書いている。

島根から満員の列車を乗り継いて2日がかりで上京した。東京から農専のある千葉県松戸市に列車で向かうのだが、都心は見渡す限りの焼け野原。南千住から江戸川を過ぎると松戸が不思議なくらい無傷のままで緑が多くほっとしたという。

2年時の1947年、9月、カスリーン台風による大水害が起きた。このとき、栗橋付近で利根川の堤防が決壊し、江戸川の対岸はすべて水浸しになっていたという。
そこで学生たちはボートを出して救助に向かい、のちに表彰もされている。水はしばらく引かず、GHQが江戸川の堤防をダイナマイトで爆破し、市街地の水を誘引し排水した。

有名な千葉大の「浩気寮」で生活するようすも面白く書かれている。3年生になると出る決まりだが、19号室と20号室は貧乏な先輩学生が占拠していたとか、「ストーム」と呼ばれる無礼講。
当時はまだ食糧難で、配給が続いていたが、量は少なく、それも来るか来ないかわからない。そのため、農場からこっそりと盗んでくることを「アップ」と呼んでいた。学生のなかには、大切な試験区の材料に手をつけて大問題になったものもあったとか。

3年になって専攻は「蔬菜園芸学(現在は蔬菜ではなく野菜になった)」と決める。
千葉の農専には蔬菜園芸学の泰斗、藤井健雄教授がいて、厳しい人物だったが、テキストや授業内容も論理的・明快でレベルが高く、非常に人気があったという。全国から種苗店の指定が集まってきていた。
僕も以前、岩手県のリンドウ産地形成に大きな貢献をされた吉池貞蔵さん(昭和30年頃に千葉大園芸学部卒)にインタビューしたときに、藤井先生は人気だった(花きはまだそれほどでもなかった)と話されていた。

③戦後すぐの千葉大園芸学部生のアルバイト事情

貧乏学生だった著者は、学生時代にいろいろなアルバイトをしている。およそ20種類ほどやったという。
いちばん実入りがよかったのは、中山競馬場の馬券売り場の業務だった。
このほかに、松戸近くの牧場の搾乳、進駐軍宿舎への鶏卵運搬。我孫子から自由が丘まで運ぶと、帰りにおいしい「残飯」をもらえた。(進駐軍宿舎の残飯には肉や野菜、果物がたくさん入っていてそれを煮込むと非常においしくなったという「浮浪児1945—戦争が生んだ子供たち」石井光太 新潮文庫)、
お盆の八柱霊園の通路の草取り、京浜川崎にある東芝工場に行き、空襲跡のコンクリート破片の片付けなど。

たいへんだったのは、仮設住宅の大工仕事。農家の果樹の剪定、家庭教師などで、食事が出るととても嬉しかったという。
そのほかに、藤井教授の新聞連載記事の下書きや通信講座生のテストの添削、石橋助教授(同郷・畜産科)の家畜の世話、米軍払い下げのララ物資の輸入ヤギを横浜検疫所で飼育、農林省畜産試験場への牛の精液の受け取りなどはとても勉強になった。畜産農家の分娩牛の初乳搾り(農家に住み込んでの夜間作業)はとくにお手当がよかったそうだ。

④千葉農業専門学校を卒業後に研究室に残り助手になる

先程、吉池貞蔵さんから話を聞いたなかでも助手(園芸研究所のちの園芸植物育種研究所)の給料は安く、できたばかりで、遅配があったという話題があったが、著者もそれを恐れて各部研究室の正規助手になった。
東北大や北大との共同研究のプロジェクトにも関わったが、100km以上の遠隔地の旅行には、切符の入手がたいへんで、東京駅まで朝早くでかけて長い行列に並び、ときには一日で買えず翌日もまた並ぶ、ということもあったという。

1951年、農業用ビニル(ビニール)が開発され、利用法の研究。とくに育苗用の資材やトンネル、ハウスの研究も当時の新しいテーマだった。
当時の藤井先生は、学生をともなって、よく松戸や秋葉原(神田市場)の早朝の野菜市場に連れていき、商品としての野菜と流通事情を勉強させた。

⑤神奈川県技術吏員として神奈川県農業試験場園芸部(のちに園芸試験場)勤務へ

当時、千葉大学の研究室は、在籍年数が4〜5年たつと実社会へ送り出される慣例があった。それで、著者は1954年に神奈川県の職員選考試験を受け、農業試験場園芸部に勤務するようになる。
当時の園芸界は、果樹が全盛期で、とくにミカン類がよく売れており人気が高かったという。

著者が所属した蔬菜係は県内特産物である、キュウリ、ナス、イチゴ、タマネギなどの品種改良、栽培技術の研究、生産農家対応などを行っていた。
当時、米国にならって制定された農業改良助長法(1948年)に基づき、農作業や生活改善に関する技術・知識を普及・指導するために設置された「農業改良普及員」の第一期生が活動を始めたころで、「緑の自転車」で現地指導に回っていたという。

試験場での上司は下川三男氏で、のちに恵泉女学園の教授になった。このころの野菜係の主な仕事は、「採種」だった。
県が育成したキュウリ相模半白、タマネギ湘南極早生などの主要品種は需要がきわめて多かったにもかかわらず、当時の種苗会社では県が育成した品種の種子を扱う仕組みがなかったという。それですべて試験場で生産、配布をしていた。
ところがタマネギの採種は開花期と降雨の関係で無理があるため、長野県の農家に委託採種をするなど工夫をしていた。採種農家の作業管理や貯蔵、委託農家と生産組合との合意を得ながら種子価格の決定までを取り仕切る必要があったそうだ。

著者がこの時代に開発した「生食用のたまねぎ」は、カナダに行った上司から、向こうでは生のたまねぎを「スライスオニオン」にして食べているという話を聞いて興味を持ち、料理に色を添える魅力的な赤たまねぎ「湘南レッド」を開発。世界へと広がり、育成から60年以上経過するも、いまだにトップシェアを誇る優良品種だという。

1960年代の前半、天候に左右される露地栽培からビニルフィルムを利用した大型単棟ハウスの研究が始まる(異常降雪で損壊したこともある)。「神園式大型単棟ハウス」(1965)の開発。

養液栽培の研究、「礫耕栽培」から礫を使わない「養液栽培装置」の開発へ。

1955年 白灯油焚きの簡易加温機、LPG用加温機、横浜の熱ポンプ工業による工場用加温機を温室用に改良したものが普及(現在のネポン社へ繋がる)。

1969年に農業試験場が農業総合研究所に機構改革、水田作から野菜重視へと転換していく。

⑥神奈川園試、「花の三銃士」と「大化物」指揮官

花きの利用が飛躍的に増えていく時代に、神奈川園試には花の三銃士と呼ばれる研究者がいた。
その3人は、バラの林勇、シクラメンの三浦泰昌、ユリとバラを研究した大川清の3氏であり、それぞれ、現在までの花き園芸界をリードする業績を残された。
3人共に語学が非常に達者で、林氏はとくにNHKラジオの英語講師を務めるほどだったという。花では、多くの生産者が海外視察・調査がが多いのだが、早くからコーディネーターをかって出て海外に出向き数多くの情報を得、研究に役立てていた。
大川氏の開発したバラの接ぎ木法は非常にユニークで、オランダの試験場から招聘され半年間の出張、その間に得たアルストメリアやガーベラなどの世界の品種情報を集め、その後の日本の生産振興に大きく貢献した。

3人はいろいろな研究機関からねらわれ、のちに所長になった著者は困ったという。
やがて三浦氏は東京農業大学短期大学の教授、大川氏は静岡大学教授となった。林氏は神奈川県の園芸試験場から農業総合研究所へと機構が変わる中で組織の中枢として活躍された。

こうしたツワモノたちをまとめていた指揮官が三河治氏で、京都大学大学院出身で京大山岳部時代には川喜田二郎教授のネパール探検隊に植物の専門家として参画した(1958年)きわめてスケールの大きな園芸研究者だった。周りの人からは、「大化け物」と呼ばれているという(並河氏も著者を「大化け物」と呼んでいるという)。
人心を掌握し、目標に向かってそれぞれの力を引き出せる、優れたリーダーシップを発揮できる人だった。

1970年頃、施設園芸の廃プラ対策にガラス温室への転換が取上げられ、研究が始まる。
オランダ式の鉄骨の多棟型、いわゆる「フェンロー型ガラス温室」を初めて国内で設置し、これをモデルとして研究が進められた。

⑦1973年と79年の石油ショックと省エネ対策

1973(昭和48)年と79(54)年の2度にわたる石油ショックにより、施設園芸用nA重油価格は、1リットルあたり16〜17円から38〜40円になり、さらに88〜98円にと5〜6倍に跳ね上がる。
直接的に暖房経費のコストアップをせまるのと同時に、間接的には関連資材の異常な値上がりをもたらし、二重の意味で生産者を苦しめることになった。
これを機に施設園芸は省エネ対策をせまられるようになった。そこで、国や自治体も予算を組んで、省エネと自然エネルギーの活用に関する研究を進めることになっていく。

ところが、一定の成果が得られた部分もあったが、オイルショックが沈静化し、石油価格がもとに戻ると、新しい技術への需要が急速にしぼんでしまった。しかし、この時点で蓄積された省エネ技術が2000年代以降の技術開発にしっかりと生かされている。

⑧そのほか

1980年代後半には、バイオ・テクノロジーがブームとなり、無菌のガラス容器で組織培養、増殖、大量の苗を生産できるようになる。
その一方で、海外で育成された「ハイブリッドライス(F1種子)」が日本の在来のコメを駆逐するのではないかという危機感から「シーズ・ウォー(種子戦争)」などという言葉が人々の口に上るようになっていた。

1990年ころからは「プラグ苗」の技術が日本でも普及し始める。この小さな苗を利用してトマトの「接ぎ木苗」を簡単・正確に量産できる「幼苗斜め接ぎ木システム」を完成させる。
接いたところをとめるチューブの素材をあれこれ探したときに、見つけたのは網戸のネットを枠に固定する表面にギャザのついた長いプラスチックチューブだった。ちょうど奥さんと買い物に行ったときのことだったという。

板木さんが90年代のはじめにトマトの「接ぎ木」について着眼している。この連載では、先に1960年の「農耕と園芸」を紹介した。そこに、キュウリの「接ぎ木苗」が新しい技術として紹介されていた。
この本にも

「(90年ころから見て)スイカ、ナスについては、およそ90年前から、キュウリは25年前から(P97)」

とあるので、あのころに始まった技術だったのだと思う。
90年代に、病気に強いトマト苗の大量生産が求められている中で、その答えは「接ぎ木」にある、とピタリと解答できるのは、自らがその歴史を歩んできた人の経験ゆえになせることなのではないのか。

思えば、日本の接ぎ木の技術は江戸時代から連綿とつながっている。長い歴史の先に板木さんも、そして僕らもつながっているのだ。
下記に参考資料として国会図書館のデジタルコレクションのアドレスを示しておいたので参照してみてほしい。

最後に、板木さんが神奈川県の園芸試験場を退職したのは、57歳の時だという。早期退職だったのだが、それもたったの一年繰り上げただけで、当時の定年の多くは58歳だったのだ。それから30年過ぎて、今は、なんだか65歳とか70歳まで定年延長などと言われていて隔世の感がある。

しかし、板木さんが歩んできた人生そのままに、いまの時代はまさに「人生100年時代」で、57歳で違う道に進み、歴史に残る「幼苗斜め接ぎ木システム」を開発したことに、僕らの希望もあるし、また仕事、仕事できた前半生から家族や趣味を大切にする人生にシフトチェンジしていく姿に憧れる。「大化け物」をめざしてみようか。

参考

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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