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第13回 「祭りの十年」を追跡(トレース)する 『農耕と園藝』1960年〜伊勢湾台風の影響・自由貿易政策の影

公開日:2019.5.10 更新日: 2021.4.26

『農耕と園藝』1960年1月号 第15巻1号(増大号)

[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]難

誠文堂新光社内の書庫にならぶ「農耕と園藝」バックナンバー(合本)。

東京オリンピック(1964)から大阪万博(1970)まで「農耕と園藝」を読みながら、当時の社会状況と園芸との関係を紐解いていこうとする長距離マラソンみたいな企画。

今回は、1960年の1月号から6月号までを読んでみた。テニスの大坂なおみ選手ではないけれど、正直、「チョットツカレタ」。
記事の量もそうだが、技術革新もめざましく、新しい資材や技術、栽培方法など多岐にわたり、ページをめくる手をなかなか動かせなかった。みなさんにどのように話していくのがいいのか、わからないが、まず、おおまかに時代状況を見た上で、誌面から気になった記事をピックアップしていくことにしよう。

時代を振り返るときに参考にしたのは、毎日新聞社の『戦後50年』(1995)という写真を中心としたムック本だ。教科書のような資料よりも時代背景をイメージしやすいと思う。

1960(昭和35)年上期のできごと

「戦後は、月面のような廃墟から始まった」(『戦後50年』)。
1950年代後半には、ようやく危機的な食糧難を抜けて公営住宅の建設が始まり、駅前にあった闇市が取り壊され再開発が進む。
58年には、中国大陸からの引き揚げ事業も終わる(500万人以上が帰国した)。
国産自動車「スバル360」、暮れに東京タワー完成。

59年4月皇太子ご成婚。
週刊マンガ誌創刊。
9月に伊勢湾台風があり大きな被害をもたらした。
プロレスで力道山が人気。
日本のエネルギーを支えた炭鉱では長年の過度の利用で大事故が頻発、大きな労働争議が繰り返されていた。
翌年に安保改定を控え、大規模な反対デモが幾度も行われ政府との対立がヒートアップしていた。

1960年の前半は安保闘争にあけくれた(デモのさなかに東大生、樺美智子さんが死亡)。
労働争議、ストライキなどが多発(三池闘争など)。
ダッコちゃん人形が大流行。
自動三輪車ダイハツ「ミゼット」。

「農耕と園藝」1960年1月号(増大号・創刊三十五年記念号)

経済は好調で、「天の岩戸景気」などという言葉が59年末ころから言われ始めている。
農業法人(法人化)への関心やアメリカ型のスーパーマーケットの国内展開といった新しい需要が話題になりつつある。

表紙は「良質で人気のあるリンゴの品種/原色口絵「ネリネの園芸品種」

農園芸技術写真図解:キュウリの接ぎ木のやり方

特集のタイトルは、「量から質への前進」

座談会「オリンピックと日本の蔬菜」/「オリンピックの花にカノコユリを」

ジベレリンでブドウの種ナシ・早出・増収/蔬菜・花にもジベレリンを」

・特集「量から質への前進」/花にも量より質の時代きたる

すすむ農園芸の共同化・法人化

転機に立つこれからのイネづくり

「趣味の園芸」/ネリネの園芸品種と作り方(六角安文)/会長の横顔・島津忠重/趣味の園芸界展望

青年クラブの現実と問題点/太平青年の家

お庭拝見/東西南北/みどりの広場/市況

東西南北 注目の新聞記事など各地の話題から

果物にもダンボール 全販連の試験輸送で好評(産経新聞(大阪)十月三十日)

リンゴなど果物のダンボール箱による試験輸送がこのほど行われた。全販連ではこの結果を検討し、将来は完全に木箱を追放し、輸送効率のよいダンボールに切りかえることになった。

また果物の選果については、日本園芸農協連が中心になり、五段階に分けた全国規格を検討しているときだけに、果物市場に大きい革命をもたらすものと注目されている。
全販連と青森経済連はさる10月22日(昭和34年)積込み分からリンゴ240tをダンボール箱詰にし、東京、大阪市場へ試験輸送した。大阪市場では10月30日入荷の2貨車分で、計8貨車20tもが売りさばかれるが、業者の評判は上々である。

  1. いままで木箱が18kgだったので、15kg詰にし、荷扱いが便利になったこと
  2. モミガラ詰だと香気が失われたが、モクメンに代わるのでその心配はなくなった。
  3. 小売店でもそのまま陳列できるなど、近代的商法にかなっているという。

さらに貨車の荷積み効率は、木箱が一本平均520箱、ダンボールは一車平均830箱で3割増、3t以上よけいに輸送できる。
ただ欠点はトラック輸送などでロープがかけられないこと、無ガイ貨車が使えないことなどあるが、市場関係者の話では、今後の研究で十分に解決できそうだ。

すでにダンボール輸送は、奈良県のカキ、広島果実連のミカンなど本格的な切りかえが行なわれたものもあり、一部ではジャガイモの輸送でも使っている。

そのほか

「ホウレンソウを食べると、腎臓結石になりやすい」と大手の新聞が報道したために、1959年の11月上、中旬にホウレンソウが暴落し関東の農家をあわてさせた。これにより、新聞の不買運動や生産者団体が抗議を申し入れるなど騒ぎとなった。
しかし、相場下落の原因は別にあり、供給過剰になったせいではないかという。その後相場は持ち直した。

冷凍ミカンの輸出(アメリカ・イギリス向け)が意外と人気で、4万箱から30万箱へ拡大。
品質低下への不安。

「燃え上がる麻袋問題」
長期保管に向かないなどの問題で農作物の流通・保管に麻袋が禁止されているが、それを解禁できないかという農家の希望が多いという話題。
まだ木箱が中心で、ダンボールの利用は普及していない。

「市場でうけるカーネーション作り」
浜村好男(広島・みどり園)昭和12年に広島市主催の鮮満方面消費宣のために大陸に赴き、大連、奉天、新京、京城、青島と各地で取引を開始、終戦近くまで輸出をしていた。
長距離輸送に耐える品質が求められたが、国内よりも高値で売れた。

終戦直後は花であればなんでもよいという時期があり、米国からの輸入品種、国内改良品種ともに花が付けば出荷するという状態が消費者から嫌われていった。
みどり園は頭の重い大輪品種の良品を出荷し高い評価を得た。当時はまだ占領下にあった沖縄に大半を「輸出」する。

《今年の沖縄よりの注文は、夏中ダークレッド・シムが大半でした。
白人は本当に花を愛する人種だけに、沖縄の花の注文には必ず品種名を指定してくるのには感心しました》。

以下、データ、記録的なこと

この時代、まだ野菜ではなく「蔬菜」という言葉を使っている。

蔬菜栽培における接ぎ木の利用は、スイカで実用化(つる割れ病対策・耐低温性・樹勢)しているが、他ではまだほどんど利用されていない。

座談会「オリンピックと日本の蔬菜」/「オリンピックの花にカノコユリを」

オリンピックを目前にして、「清浄野菜」の供給を増やすことが課題。

オリンピックまで4年あるが、来日外国人はすでに増え続けている(昭和26年に年間5万6000人→昭和33年15万人と3倍に。「昭和34年度はおそらく17万人を超えているでしょう」)。
こうしたことから、たくさんの外国人を迎えるためには食の問題を解決する必要があると語っている。
オリンピックの際に来日する外国人は約3万人と予測していた。

このとき、まだ、夏か秋か開催日が決まっていなかった。
対談参加者は夏だと思うと語っている。

外国人がいちばん気にしているのは野菜類、とくに生で食べるために清潔なものが求められた。
「進駐軍が大津とか調布で水耕栽培をやったのも、その一つの現われだと思う」

清浄野菜を増やすために、下肥をやめて化学肥料だけにするのは簡単だが、土に有機質をどう加えていくかが課題。
それを解決し、東京のゴミ問題もふくめて、ゴミと下肥をあわせつくる「速成堆肥」に力を入れるべきだ。

イチゴについては、日本は世界に誇れる。アメリカでのイチゴ栽培も日系人が開いたといえる。
戦時中、アメリカ国内で日本人を排斥したためにイチゴが食べられなくなったという。

オリンピックは「量より質」へと向かうよいきっかけになる。
すでに、トマト、キュウリ、キャベツその他、非常によくなっている。日本人の器用さで「一代雑種」を作り上げていることが要因だ。

特集「量より質への前進」

ビニール園芸の振興は暖地も寒地も大差をなくした。最近では生産の過剰の声も聞かれるようになってきている。
「量より質」という言葉は、時代遅れにも感じられるが、課題がより高度化しているという意味だ。

昭和25〜28年頃に「量より質」と言っていたのは、食糧難時代(ものがあれば質は問わないという時代)からの脱却を意味したが、現在は質がよくなければ売れなくなったということ。より高度になったということ。

流通時の傷みを減らし、鮮度を保つ工夫(梱包を変える、氷を入れるなど)

「連続出荷」
よい品を継続して出荷して、小売人をもうけさせることが大事

「ふえる果樹園・へる果樹園」

果実の生産量は、資材などの不足で昭和22年に最低を記録し、戦前の最高だった昭和17年の約4分の1になった。
その後果実の価格高騰を受けて増産し、昭和27年には戦前を遥かに超える生産量を取り戻した。

一方米・麦については世界的な食糧増産の波に押された。
国としては畜産や園芸作物などの換金部門の強化に力を入れることとなり、果実の生産量はその勢いに乗って伸び続けている。

栽培面積、生産量、経営的条件から見て重要なリンゴ、カンキツ、日本ナシ、モモ、ブドウ、カキ六大果樹という。
いずれも増産傾向にあるが、既存産地、振興導入産地など、取り組みの違いによって、この当時すでに伸びにばらつきが出ている。

「最近の花の動きと生産のねらい」
三好靱男(全種連花卉部会長・三好商会社長)

切花の末端消費を調べると、いけばなのお稽古材料が大半を占めている。
戦前、浜口雄幸、後藤新平の葬儀には千に近い花環が飾られ相場が上がった。それを見越した夏の白ダリアの大量生産、冬の白花ピースの栽培があった。

こうした「仕事花」の消費は、以前と比べてぜんぜんといっていいほどなくなった。花の消費の中心がいけばな材料であるとすれば、これを無視した花の生産は考えられない。
東京のある花店の話によると、戦前、月に千杯であった稽古花が今は10倍以上に増えた。
「五千杯以上が二流で、三流の花屋でも月に三千杯の客を持っている」という。

「カラゲもの」も変わる。夏のヒャクニチソウ、ニチニチソウ、冬場のキンセンカ、ヤグルマソウなどが売れなくなり、ストック、キンギョソウの作付が年々増加し、かつては高級品と呼ばれていたものがカラゲに使われている。カラゲの形も変化して部屋の装飾を兼ねるようになって来ている。

華道家元の力は大きく、市場にも各流派が定めた月々の稽古材料を書き出したビラが貼られている。

ここ二、三年、観葉植物もブームになっている。中京地域の生産がさかん。阪神方面は、戦前から東京よりも比較にならないほどの消費地で、中京方面の生産品は二対一で阪神に多く出ている。
逆に東京にはまだ開拓の余地がある。

神戸には温室を付属した花屋があるが、東京は切花だけで経営がなりたつため鉢物への感心が薄い。店員の鉢物への知識は皆無。客は吹きさらしに置かれた観葉植物を買う気になれない。
冬場の管理が消費の問題だが、種類や品種を選ぶことが大事。

「熱帯植物」と呼ばずに、「室内植物」「観葉植物」と呼ぶほうがいい。

シクラメンやプリムラ類は2〜3週間しかもたない。観葉植物も二、三ヶ月もてば十分満足するはず。素人の家庭で管理がしやすいもの、乾燥に耐えるものが一般向き。

そのほか

「市場で人気のチューリップ 促成切花 生産技術の要点」
尾島伊市(深谷市花卉栽培研究会・深谷園芸科学処理研究所長)

切花出荷期に合わせて生産するための球根の温度処理や取扱いを研究している。同じページに生産者の実際の様子も書かれている。
生産者は、深谷市花卉園芸組合と深谷園芸科学研究所と共同で、球根生産を新潟の浦浜農園球根栽培組合と予約契約を結び、球根の輸送や引き渡しにもルールをつくり農家ごとに荷口の混用を避ける、入荷した球根をまずしっかり選別してから冷蔵庫へ入れるなどのこまかい工夫で当時問題になっていた腐敗病を未然に防ぐ対策をしている。

世界園芸ニュース「黄花のシクラメン作出ついに成功」「青いバラの出現は夢だろうか」
〈シクラメン属の交配種〉と〈サクラソウ科の属間雑種の黄花種〉との属間雑種をもとに濃い黄色の品種を作出。
植物名はCypricatheon iocari var. perspiuns(注:ネット検索によるとperspicuusかも)。

種苗に関する名称登録について

《最近園芸種苗についての名称登録や登録商標について、(編集部への)照会や投書等が少なくない》
《現在、スイカの新都、ブドウの巨峰等が登録商標となっている》

種苗の増殖、販売・流通が今ほどはっきりとしていなかった?トラブルが起きることが少なくなかったのかもしれない。

「エリカの品種とその作り方」藤田朝雄。

《エリカは明治の始めの外来植物の輸入時に来たものと考えられるが、営利栽培植物としては、明治20年ごろ東京の耕農園(注:興農園?)が売り出したらしく、同園の伊豆西浦農場(沼津市西浦町)に70年以上の原木(メランセラ)がある》

・農政トピックス「頭痛の種・次、三男問題」
農業経営で「必要でない」とされる次、三男のいる農家では、近郊に仕事がみつからず、不安定な職についているものが多くなっている。

日本生花市場協会の発足(1959)と発展。北海道から九州までの109市場(沖縄はまだ復帰前)。
協会の発足で、それぞれの取扱高などの数字がまとめられるようになっていく。これによって、生産側も合理的な栽培計画、出荷体制が整えやすくなった。
小売の組合はすでに(昭和30年前後)あり、販促活動、市場への支払い等がスムースに行われている。

・「青少年クラブの現状と課題」
戦後の農村の新しい技術普及の制度として、昭和23年に農業改良普及事業が発足、農村における農業の改良や生活の改善とともに次代の農村をになう若い青少年を育てるために農村青少年クラブ育成事業ができ、すでに10数年を数える。

農業の改良や生活改善に関するプロジェクトを持ち、自主的に参加することが条件の青少年クラブにはこの当時、「4Hクラブ」(20歳以下の年少者向け)、「青年農業改良クラブ」(20歳以上25歳くらいまでの年長者)があった。

アメリカの指導で始まった活動は、一時期、大きな組織に成長していくが、昭和29年ころからクラブ数が急激に減っていった。指導にあたっていた普及員の手がまわらなくなったり、活動がマンネリ化したり、参加者の減少といった問題が重なっていた。

「会長の横顔」

島津忠重(園芸文化協会、全日本蘭協会、日本牡丹協会)
薩摩藩最後の藩主、島津忠義の長男。戦前・戦後の園芸界を中心となって支えた偉人。P151に写真と経歴あり。

「産地の話題」

江見町(千葉県)で球根冷蔵庫を増設

近年安房郡での球根促成の増加は著しい。年々冷蔵する球根の量が増え、ほぼ一万箱に。

江見町ではエラブテッポウユリ、ラッパズイセン等の促成が急増、今後も増えることから面積40平方メートルの球根冷蔵庫を建設した。これに合わせて球根の共同購入も計画する。

当面は、グラジオラスの抑制栽培の希望が多く、約1000箱ほどを予定。またエラブテッポウユリも簡単な被覆で11月出荷が可能で価格もよいため、500箱ほど利用される見込み。

「ネリネの園芸品種と作り方」六角安文

戦前のネリネ栽培の第一人者、広瀬巨海が昭和6〜10年ころに「実際園芸」(第14巻1号など)にたびたびネリネの栽培法を書いており、まだ学生だった著者は横浜の広瀬宅を訪ね、花を見学し親しく話を聞いた。
広瀬はオランダで当時のネリネの全種類(原種・交配種)を購入し交配改良を加えた。その結果、幾百種類もの新品種がつくられ、当時の世界的銘品のコレクションになっていたと思われる。
しかし、太平洋戦争によって、その品種も広瀬の命とともに滅びたという。

著者は、この広瀬の改良品種の優良品種を何十鉢か分けてもらい保存しており、戦前戦後、欧州からの輸入および鈴木吉五郎からも得たもので交配をすすめ、すでに4代を重ね銘品となったと考えている。
オランダで改良された次代を含めると、この時点ですでに12、13世代、70〜80年を経過した育種の歴史だ。
著者はこれらの改良品種群は、洋ランや高級な花卉アマリリスと同じくらい世界第一級の花だと考えている。

《一度このネリネに接すれば、忘れることのできない魅力と、あこがれを感ずるものでありまして、口絵原色写真で御紹介することに致しました。
しかし、写真や言葉、筆ではご覧に入れることのできない特殊の光沢がネリネの花にはありまして、これは他の花では遠く見ることのできない美しいものであります。
これは花弁全体に鋭く金属光沢があることで、陽に当ってきらきらと輝く美しさは、宝石をちりばめたもののように思われます。》

《おそらく改良ネリネの交配貴品は日本にのみありまして、近い日、輸出植物に迄これが発展致しますようになりますならば、私は本稿を草するに当りまして、この上もない喜びであります。
そして秘蔵されている皆さんに、ネリネの真価をも一度見直していただき大いに改良と繁殖に骨折っていただきたいものであります。
そして将来、これが輸出植物として取上げられるようになりますならば、私は終生「ネリネ」狂として満足これに過ぎるものはありません。》

参考

  • 『戦後50年』(毎日ムック)
    毎日新聞社 1995年

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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