農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

園藝探偵の本棚

第34回 新しい品目の導入と産地化の歴史

公開日:2019.10.4 更新日: 2019.9.30

『小山重 小伝 ~わが国チューリップ栽培の先覚者』

[著者]木村敬助
[発行]チューリップ文庫
[入手の難易度]易

「売れなかったのではない。あなたが、売らなかったのだ」
1992年頃、僕は、東京・青梅市でスーパーマーケットの花部門立ち上げの現場にいた。先に揚げた言葉は、額装されて事務所に掲示されていた。僕らは、花を他の野菜と同様に、生鮮産物として、どんどん売ることを目指していた。流通用語で「ダイチン」というのがある。「大量陳列販売」のことだ。今日は、これを売る、と決めたら箱を山積みにして売る。

当時、新潟県のチューリップの切り花は産地化が定着し始めていて、市場が主体となって新潟の切り花チューリップを押していた。鮮度よく、薄利で大量に売る。花売りは流通業だ。お客さんは喜んでくれるし、生産者も助かる。そのために流通業者があると今でも思う。

1〜2月は、毎週金曜日に50ケース以上の新潟のチューリップを箱で山積みして、10本束のまま売った。笑い話のようだけど、1週目で売れた箱を取っておいて、次の週はその「空箱」も山にして置くと「ダイチン」効果はバツグンだった。

僕は1日中、箱の前に立ってお客さんに声をかけて売っていた。当時は景気もよかったし、チューリップブームだった。ほんとによく売れた。「茎が伸びる」「花が開花してカタチが変わる」といったことこそがチューリップの「よいところ」であり、「ぜひ、暖かいリビングで飾ってね」と声をかけていた。

僕は日本のフラワーデコレーターの先駆者、永島四郎をずっと調べてきた。永島四郎の生家は、長野県の松代(長野市松代町)というところにあった。松代は、まわりを山々に囲まれた長野盆地の南に位置している。戦国時代の川中島の戦いの舞台になった土地で、千曲川と犀川が合流する三角地帯にある。江戸時代には、真田家ゆかりの松代藩の城下町であり、著名な人物に、藩政改革・「日暮硯」の恩田木工や蘭学者・佐久間象山(吉田松陰はじめ幕末の志士に影響を与えた)、硫黄島の戦いで有名な栗林忠道らがいる。幕末に黒船が来校した際には、横浜応接所警衛を命じられており、ペリーとの会談に関する絵図などが松代藩の絵師によって残されている。千曲川周辺では良質な桑が採れるため、明治期には製糸業が盛んになった。さらに、太平洋戦争末期には本土最終決戦に備えて「松代大本営」の地下坑道が造られている。戦後は5年にもおよぶ長期群発地震が話題になったり、アニメ映画「エヴァンゲリオン」やNHK大河ドラマの舞台にもなったりもしている。

僕は、2016年4月、長野市松代町の永島四郎さんの故郷を訪ねた。駅前でとても親切なおじさん、おばさんのいるレンタル店で自転車を借りてまわった。坂道がたいへんだったが、一日かけてちょうど回れるくらいの街だった。松代では1874(明治7)年に民間初の蒸気機関による器械製糸場「六工社」がつくられている。富岡製糸場の最初の伝習工女となり「富岡日記」を書いた和田英(旧姓横田英)は、郷里の松代で製糸場の創業に関わっており、永島家もこの製糸場の設立に協力していた。

永島四郎は、当時の日本で最高の園芸教育が行われていた千葉の県立高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)に進んだ。造園を学ぶための入学だったが、卒業後は花き装飾の分野に人生をかけていくことになる。

さて、もう1つ、松代西条(にしじょう)で訪ねたかったのは、新潟県のチューリップ栽培の恩人と言われる「小山重(こやましげ)」の墓所だ。小山と永島四郎は西条小学校で一緒に学んだ幼なじみだった。小山の墓所は、小学校と象山の中間地点にある法泉寺にあった墓石には「大透院覚苑重光居士」という戒名が彫られていた(木村さんの本では大透院學苑重光居士と記されているが、実際は「覚」)。それにしても、日本の花卉装飾のパイオニア、永島四郎(1895~1963)という人と、日本のチューリップ生産の礎をなした小山重(1894~1951)という2人の人物が同じ地域で生まれ育った幼なじみであるという、こんな不思議な巡り合わせがあるのだろうか。

新潟県チューリップの恩人、小山重

新潟県チューリップ球根の商業生産は今年、100周年を迎えている。1918(大正七)年、新潟県中蒲原郡小合村(現在の新津市)の小梅園園主、小田喜平太が球根を購入し、試験栽培を始めた。翌1919(大正八)年、この小田喜平太とともにチューリップの導入を図ったのが当時、中蒲原郡役所の技手として勤務した小山重だった。小山は小田氏のチューリップの生育が良好なことに感触を得て、千葉の園芸学校時代の恩師、林脩已(のぶみ)の協力をあおぎ、球根の大量生産と産地化を進めていった(一説には大正三年に少量を育てていたともいう。大正八年にはオランダから種球を輸入し、小山とともに生産を本格化する)。

まず、生産すること、そして販路をつくっていくこと、この2つの大事業を前に、困難に負けず、なかば強引に牽引する行動力が小山にはあった。1925(大正一四)年には、富山県の水野豊造が新潟を訪れ、小山や小田喜平太園主から指導を受けており、栽培球根の品種選択や栽培法を教えている。小山は富山県の本格的なチューリップ栽培のスタートにも深く関わっていた(水野豊造が初めて10球を植えたのは大正六年頃とされている)。

花の人、永島四郎は、アララギ派の中堅歌人でもあり、故郷の埴科郡(はにしな)松代からであろう埴科史郎を名乗っていた。1952年(昭和27年)には、次のような歌を残している。

「新潟縣のチューリップを今日に導きし友も死にたり病む一日もなく」(『北風南風』)

この歌について『園芸手帖』1953年(昭和28年)2月号の「フラワーデコレーション随想」では「小山君の想出」という題で、その死を感慨深く書いている。

《小山君と私は小学校は教室は異っていたが同じで中学は別々だった。そうして又松戸で一緒になった。私は長い病気をしておそくなったのに、彼はすらすらと卒業して新潟県に赴任し、私は松戸を出でアメリカでどっかりと落着いてデコレーションを学んでいた頃、彼は新潟であおの大仕事をしてのけていた。》

(アメリカ時代の)《ある日、前ぶれなしに海の上から「◯◯日ツクムカヘニデロ」という電報が来た。(略)当時歯の治療に私はオークランドのある日本人歯科医院に通っていた。そこで私はふと主婦の友をみた、それに新潟県チューリップ栽培の創始者という題名で訪問記事が載っており、彼夫妻の写真が載っていた。その夜私達の食卓の話題は彼でもちきりだったのは当然である。このことがあって七、八日経ってこの電報である。この電報もいかにも彼らしい仕草だ。「ムカヘニデロ」はふるっている。「ムカエタノム」とは彼は僕にはいわないのだ。私達はオークランド七十三街の粗末なパイオニアカテージで妻の手料理で語り合って以来、離なればなれに忙しく、ゆっくり語り合う時も遂になかった。それでもたまに会うと少年時代の如く親しい名を呼び合って何の距もない幼な友達だった。》

《私達が松戸で学んだ頃、観賞植物の講義は林(※林脩已 はやしのぶみ)先生からきいた。ある日の講義で先生はオランダのチューリップ栽培について先生の見聞をのべられた後で、日本での将来のチューリップとヒヤシンスの栽培の適地発見についての諸条件を詳しくのべられた。それを小山もきいたのだ。真面目にきいたのだ。そして四、五年経って農家の庭先に咲くチューリップを見た小山の頭にこの日の林先生の講義がよみがえったのだ。これは大切なことだと私は思う。後の世に新潟県チューリップ栽培史を書く人あらばこのことを必ず、忘れずに記載していただきたい。》

《新潟チューリップとオランダチューリップの比較栽培を私は彼れからの依頼でカリフォルニアのリッチモンドで今も温室を経営している友人N君(※おそらく鍋田氏と思われる)に無理に頼んでやってもらった。これはよほどの親切がなければこの様な海のものとも山のものともいわれぬ仕事など、ひきうけてはあるものではない。幸なことにこの比較栽培で、サンフランシスコの花市場において、米国著名の園芸家の前に新潟チウリップの優良を証明することができた。ところがあとがいけない彼はこのことで僕をうらぎった結果となり、私はN君に対してひどい不義理をしなければならなかった。しかしこれも彼の本意ではなく、そうさせられてしまったのだと思う。気の弱い彼は正しいと知りながらも日本商業道の理不尽な主張の前にはどうにもならなかったのだろう。全て 全て 遠い過去となった。そして今この文を綴る私の眼に浮かぶのは、きれいな歯をだして笑う無邪気な彼のあどけなき顔だ。》

永島四郎はアメリカ時代に小山の求めに応じて試験栽培を手伝ったが、小山は本格的な輸出に際しては別な業者に発注したため、ギクシャクした関係になったことがわかる。ここで再び木村敬助の資料に戻って見てみよう。

小山技師は1932年(昭和7年)6月30日、横浜港から日本郵船の大洋丸でサンフランシスコに向け出発し、7月15日に到着(ここに永島四郎が迎えにきた)。7月19日にはロサンゼルスへ移動、シカゴ、ニューヨークをめぐり各地で球根の受給事情を調査し、日本から球根を輸出するため商社と見本品の試作の約束などを取り付けながら歩いた。その後英国ロンドン、オランダ、フランス、ドイツなどを視察し、種苗を買い付けして帰国している。

《小山技師はアメリカへの出張で苦労しながらも各都市のチューリップ消費の動向と日本産球根の輸入の動機付けとなる見本品の受け取りを主要都市の種苗会社に確約させることに成功している。この見本品の送付は、早速翌年には実施され、その後の日本産球根輸出の先導的な役割を果たすことになった。特にサンフランシスコの調査では、オークランド在住の花卉生産者で千葉高等園芸学校時代の学友・永島四郎の情報で、サンフランシスコでは、信頼できる球根取扱業者が少なく注意する必要があるということであった。また、アメリカでは、品種については都市によって好みが異なり、小山技師の言葉を借りれば「聞いたと見たとでは、甚しい相違がある」と述べている。》

当時、カリフォルニアでは、オランダから球根を輸入してそれを栽培していた。小山の調査で新潟産の球根は十分に競争力できる可能性があることがわかった。重要なのは、都市によって品種や色に好みの違いがあるということだ。また取引先は多くあるようだが、邦人の花卉栽培業者・花卉市場関係者に信頼できる相手が見つけにくい。こうした情報を永島さんから詳しく聞いたようだ。

その後、昭和七年度、ロサンゼルスに見本品を送りオランダ産との比較結果によると、新潟のものは一週間ほど開花が遅れるが、花は美しく、大きく、茎葉も強く数段優れていることが立証された。昭和九年には、サンフランシスコの邦人『鍋田』氏に見本品を送り、試作結果がすこぶる良好であるという情報を受け取っている。このような取り組みを契機に、日本の国産チューリップの海外輸出は本格的になる。主体となったのは、小山が農場長をつとめた新潟農園だった。この農園の球根を中心に昭和十年には約35万球(アメリカ約25万球)、昭和十一年には約66万球(アメリカ約37万球)、昭和12年には約159万球(アメリカ約122万球)と輸出は順調に伸びたという。

しかし、運命はここから暗転する。昭和16年から17年にかけて戦争の影響をまともにかぶったのだ。正確には、まだ開戦前の7月の段階で米国が日本の資産を凍結したからだが、アメリカに輸出するはずの球根が販売できなくなり、結果、処分された。1940年にドイツがオランダを占領したために、日本は、この年、米国に680万球を輸出した(急増した)。この勢いで41年の輸出は、新潟420万、富山300万、京都30万、すべて合わせて750万球を予定していた。これらの多くは大阪へ送られデンプンに加工処分されたという。その後日米開戦、作物作付統制令(1943年)により花は姿を消した。新潟農園も整理、解散となった。(「園藝探偵」1を参照)。戦後の小山は、生産の復活と輸出拡大にむけ活躍が期待されたが、昭和26年7月15日に急逝された。

小山は多芸で知られ、洋行で磨きをかけた社交ダンスも得意だった。そうした華やかな一面とは別に、「琵琶」の奏者としても優秀な腕前を持っていて、朗々たる古典の語りとともに、力強い音色を響かせていたという。

小山重 略歴 (木村敬助の本から)

1894年/明治27年 長野県埴科郡西条村に生まれる。
1914年/大正3年 千葉県立高等園芸学校に入学、同6年卒業。
1918年/大正7年 新潟県中蒲原郡農業技手となる。
1919年/大正8年 小合村出戸の小田喜平太氏と出会い、同氏の圃場に咲くチューリップを見る。その良好な生育から新潟におけるチューリップ生産への確信を得る。
小田喜平太氏とともに、チューリップの初期の導入に取り組み、さまざまな困難を乗り越え、栽培を成功、拡大させた。
1922年/大正11年 チューリップ生産を普及するため中蒲原郡花卉球根組合の創立を指導。
1925年/大正15年 球根界の恩人として新潟県園芸会と中蒲原郡球根組合から表彰される。
1929年/昭和4年 地方農林技師に昇進
1932年/昭和7年 農林省から依頼を受け欧米視察。輸出への足がかりをつける。
1933年/昭和8年 新潟農園農場
1934年/昭和9年 アメリカなどへ新潟農園産球根を初輸出
1941年/昭和16年 新潟農園解散
1943年/昭和18年 タキイ種苗株式会社理事となり新潟で指導
1951年/昭和26年 死去

参考
『チューリップ・鬱金香-歩みと育てた人たち』 木村敬助 チューリップ文庫2002
『園芸手帖』 第一園芸株式会社 1951~61
『北風南風』 埴科史郎(永島四郎) 白玉書房 1962
『富岡日記』 和田英 中央公論社 1978

園藝探偵的 検索ワード

#チューリップ #小山重 #永島四郎 #松代 #林脩已 #小田喜平太 #新潟 #富山 #水野豊造 #輸出 #作物作付統制令

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア