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アセローラの産地を訪ねて〜沖縄県本部町〜

公開日:2019.7.8 更新日: 2021.5.12

「アセロラ」ではなく「アセローラ」な訳

5月から収穫が始まる本部町のアセローラ。一粒ずつ手摘みの作業は11月まで続く。

みなさんは、アセローラをご存知ですか?

「ビタミンCが豊富な赤い果実」であることは、誰もが知っていると思います。

では、アセローラの生の実を食べたことは、ありますか?
「えっ? そういえばないなあ」

という人が大多数ではないでしょうか? それはなぜでしょう?
日本でアセローラを露地栽培できるのは、沖縄だけ。しかも生のままでは3日しかもたないのです」

沖縄県本部町でその栽培と加工を手がける農業生産法人㈱アセローラフレッシュ社長、並里康次郎さん(31歳)が教えてくれました。

アセローラは直径2㎝ほどの果実ですが、100gあたりのビタミンC含有量は、レモンの約34倍。ビタミンE、βカロチン、ポリフェノールも豊富で、抗酸化力の高い機能性食品でもあります。

気温の高い熱帯地域でしか育たず、すぐ傷んでしまうので、長期輸送に適さない……生果がなかなか出回らないのはそのためです。

両親の志を受け継ぎ、アセローラの栽培と普及を進める並里さん。

日本では、80年代に売り出された「アセロラドリンク」が有名なので、一般的に「アセロラ」と呼ぶ人が多いのですが、並里さんは、必ず「アセローラ」。「ロ」にアクセントをつけ、長く伸ばして発音しています。

「原産地はカリブ海周辺の西インド諸島。生産量、消費量ともにブラジルがNo.1で、中南米の人たちは、みんなAcerola(アセローラ)と呼んでいます。
だから当社も、原産地の呼び名を尊重して、ずっとアセローラなのです」

本部町の基幹産業をめざして

並里さんによれば、沖縄に初めてアセローラがもたらされたのは、1958年。「沖縄熱帯果樹の父」と呼ばれたヘンリー仲宗根氏が、ハワイ大学から6種の果樹をもたらしたのが始まりでした。
他の果実はすぐ根付いたのですが、なぜかアセローラだけは広まらず、いつしか忘れ去られていました。

70年代、改めてアセローラに着目した青年が現れました。並里康文さん。康次郎さんのお父さんです。康文さんは、琉球大学在学中「アセローラは現存する果物の中で、最もビタミンCが多い(当時)」ことを知ります。
アメリカでサプリメントブームが起きていた当時、「10年後、きっと日本でも流行るはず」と確信。「いつか故郷の本部町の基幹産業にしたい」と、名護市の農業試験場に残されていたアセローラを増殖し、沖縄に適した栽培方法の研究を始めました。当時の成果は、今もアセローラの樹に見ることができます。

環状剥皮を行って、果実の生長を促す。

1.5mほどの高さに仕立てられたアセローラの樹の枝をよく見ると、リング状に樹皮を剥いだ部分があります。
「これは環状剥皮。部分的に樹皮を剥いで、根から吸い上げる栄養や水分を遮断する、沖縄県の気候に合った方法で、私の父が見出しました。いわばアセローラのスパルタ教育です」

雨の多い沖縄で、樹を植えただけでは、根から水と養分をどんどん吸収して繁茂するばかり。なかなか花も咲かず、実も結びません。そこで一部の吸収経路を遮断することで、アセローラに危機感を感じさせ、子孫を残そうと花を咲かせ、実をつけるように仕向ける。環状剥皮には、そんな効果があるのです。

アセローラは、小さなピンクの花を咲かせる。
直径2㎝の果実がたくさん結実。毎年5月12日頃から収穫が始まる。

鮮やかな赤い色に、こだわりが凝縮

康文さんは学生時代の後輩だった哲子さんと結婚。2人は1982年から本部町でアセローラの栽培を始め、さらに地元で一緒に栽培する農家を探します。

「当時20代後半の若夫婦が『一緒にアセローラをやりましょう』といっても、門前払い。2人で200軒以上回ったそうです」

それでもある農家が、並里夫妻を見込んで、それまで栽培していたサトウキビをやめてアセローラの苗木を植えることに。
合わせて8軒の農家が協力を得ることができました。

こうして1989年「アセローラフレッシュ」が誕生します。他のフルーツと違い、収穫したらすぐ加工しなければ、販売できない。それがアセローラの宿命です。

アセローラの実は、完熟すると鮮やかな赤色になりますが、時間の経過に伴い、退色し褐変していきます。せっかくの赤い色をなんとか生かしたい。
まず、収穫した実を追熟させ、色合いのよいものだけを選別。小さなヘタと種子を手作業で取り除いて、ピュレを作ります。

ジュースの鮮やかな赤い色は、研究成果の賜物。

さらに常温で流通させるには、熱殺菌が必要ですが、アセローラは熱にも弱く、色が変わってしまいます。
そこで、真空状態にして、沸点を下げ、果皮や果実の成分を壊さずに低温殺菌する方法を見出しました。こうして生まれたピュレやジュースは、見事な赤い色をしています。

「栽培、収穫、選別、追熟、そして加工。この赤い色は、いくつもの技術を積み重ねて、初めて生まれるもの。単に果実を絞っただけでは、出せません」

こうして加工したピュレが、地元ホテルのシェフの目に止まります。最初は「着色したのでは?」と疑うシェフに、並里夫妻が説明すると、「我々にはこの色は出せない!」と絶賛。以来、ホテルの料理にも積極的に取り入れられるようになりました。

こうして本部町のアセローラのジュースやピュレは、地元を中心に徐々に広がっていきました。

5月12日は「アセローラの日」

「最初の10年は、補助金を頼らず、自力で頑張ろう」

それが康文さんの方針でした。地元の栽培農家から果実を買い上げ、加工、販売する。これを地道にコツコツ続け、10年が過ぎた1999年。
当時の町長が、それまでの実績を評価して、毎年収穫が始まる時期の5月12日を「アセローラの日」に制定しました。以来、町を代表する農産物として、積極的にPRを進めています。

「当日は畑に集まってアセローラの樹に感謝するセレモニーを開きます。さらに毎年学校給食に1500食のゼリーを無償で提供しています。本部町が誇る特産品であることを子どもたちに知ってほしいと、21年間続けてきました」

本部町では、毎年町の魅力を内外に伝える「本部ミス桜」が選ばれます。
以前は、並里夫妻がアセローラについてミス桜にレクチャーしてから、PR活動を行っていたのですが、最近の「ミス桜」は説明しなくても、自分から「アセローラはビタミンCの王様で…」とその魅力を語り出します。

「子どもの頃からアセローラを知っている。その姿を見た時、母は、『ああ、ゼリーの提供を続けてきて、よかった』と話していました」

2008年、本部町はアセローラの「拠点産地」として認定されました。これは沖縄県が戦略的農産物として認めるもの。マンゴー、パパイヤ、シークワーサー等、さまざまな農産物が複数の自治体で認定を受けていますが、アセローラの拠点産地として認定を受けているのは、本部町だけです。
これが追い風となり、ドリンク、ジャム、コンポート等、加工品の数も徐々に増えていきました。

カフェに併設された直売所では、多彩な加工品を販売中。

2018年度「もとぶ産業クラスター形成事業」の支援を受け、フルーツ酢、コンポート、果皮を使ったジャム、県産のカラシナの種子を使ったマスタード等、6つの新商品が誕生。那覇市のフランス料理店「ラトリエ」の島袋司シェフの協力も得ています。

おやつランキング日本一に!

2012年、本部町のアセローラは、イオンが推進する「フードアルチザン(食の匠)」に選出されます。これを機に、「本部町アセローラ果実販売研究会」が発足。ビールや乳業メーカーとも連携して、加工原料としてアセローラを提供し、全国のイオンで販売する一連の流れが生まれます。

おやつランキング日本一。「アラローラフローズン」は、カフェで販売中。

そして2015年、15万人が選ぶ「ニッポン全国ご当地おやつランキング」で、同社の「アセローラフローズン」が、見事1位に輝いたのです。アセローラは、爽やかな酸味と甘味が持ち味ですが、フローズンは凍らせることによって、その味わいや香りがギュッと濃縮される。そんな印象を受けます。
こうして「本部町のアセローラ」は、全国にその名が知れ渡るようになりました。

「アセローラを本部町の基幹産業に」

そう願って栽培と加工技術を磨いてきた康文さんは、残念ながら10年前に急逝されました。その遺志を継いで、哲子さんが中心となって事業を展開。そして今年4月、康次郎さんが社長に就任しました。

近年は、加工用原料としてのアセローラの出荷量が伸びていて、国産アセローラを使った商品が徐々に増えています。
以前は家畜の飼料となっていた果皮と種子もフル活用。特に食物繊維が豊富な種子は、サプリメントの原材料として活用されています。
以前は販売先の9割が沖縄県内でしたが、現在は4割を県外へ出荷するようになりました。

「本部町のアセローラを、原料供給メーカーとして、県内外、国内外にどんどん出荷していきたい。
また、栽培から手がける原料メーカーだからできる商品開発があると思うんです。ハイクオリティ、ハイブランドなアセローラのイメージアップに努めていきたい」

そう話す康次郎さんは、新たに「美ら実(ちゅらみ)」という、新ブランドを立ち上げました。

若手生産者の育成を

創業から31年。康次郎さんの人生と同じ時間をかけて、少しずつブランド力を上げてきた本部町のアセローラですが、現在町内の栽培農家は30戸。高齢化が進んでいて、一時期20tに達していた生産量が、10t前後に落ち込んでいます。

私たちが本部町を訪れた5月半ば、生産者の仲地啓子さんの畑では、収穫作業が始まっていました。

アセローラの栽培を手がける仲地啓子さん。

啓子さんの肩ほどの高さで、葉面全体に日光が当たるように仕立てられたアセローラの樹が90本植えられています。収穫にハシゴや脚立は必要なく、果実も軽いのですが、一粒ずつ傷つけないように摘み取っていくのは、とても根気のいる作業です。

康次郎さんの両親が人生を賭けて築き上げたアセローラの産地に、いかに若手を増やし、栽培と加工の技術を広げていくかが、これからの課題です。

「両親が築いてきたストーリーは唯一無二で、どこにも負けないと自負しています。まだまだ発展途上ですが、アセローラの可能性を信じてやっていきたい」

日本のアセローラの歴史はここから始まりました。沖縄へ行くことがあったらぜひ、本部町の「アセローラフレッシュ」を訪ねてみてください。

沖縄の豊富な日光を浴びて、高い機能性を備えた果実に。

 

取材協力/農業生産法人㈱アセローラフレッシュ
http://acerola-fresh.jp/
文・写真/三好かやの

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