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窒素+燐酸+加里

公開日:2019.7.26 更新日: 2019.7.31

みなさま、こんにちは!

お久しぶりです。づみたんです!

 

関東地方は連日雨空が続く毎日でしたが、全国的に概ね梅雨明けを迎え、ようやく夏本番。

農家さん自慢の立派でつやつやした夏野菜がいつにも増して輝いて見える時期ですね。

夏野菜といえばトマトやナスもいいですが、私はウリ科の野菜がすきです。

絶賛校了前に農耕と園藝編集部へ配属された私。入社したその日に書いた編集後記を読み返すと、7月を待たずして早々と梅雨明けした昨年の記憶がよみがえります。

 

さて、そんな夏の匂いがする本日は「窒素+燐酸+加里」のお話でも。

 

農業を営む上で欠かせないのが、みなさまご存じの通り、肥料の三大栄養素と呼ばれる窒素・リン酸・カリウム。

窒素は作物の生長に必須のタンパク質に含まれる元素。リン酸は、植物の開花・結実期、大量に必要とされるDNAに含まれる元素です。そして、最後のカリウムは根の生育に使われ、細胞内への物質の出入りに必須です。この3つ以外にも必要な元素はありますが、この他は上記の3つほど優先順位が高くなく、土中にある量で補えます。

肥料を与えることは、野菜をより美味しくするためでもあり、たくさんの野菜を収穫するためでもあります。土壌環境を整えるのは基本中の基本ですが、化成肥料や有機質肥料など、育てている作物に適した肥料を選択することも醍醐味ですよね。

 

さて、そんな肥料の肝ともいえる三大栄養素を供給するための化学肥料を日本ではじめて製造した人物、あなたは誰だか知っていますか?

 

そう、あの消化酵素「タカジアスターゼ」や「アドレナリン」の発見で知られる化学博士「高峰譲吉」です…!

高峰譲吉は、さまざまな特許ビジネスで成功を収めた実業家としても有名ですが、実は日本ではじめて化学肥料製造を手がけました。彼は、幕末の1854(嘉永7)年、越中国高岡(現在の富山県高岡市)に生まれ、工部大学校(現在の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業したあと、英国グラスゴー大学に留学し、応用化学を学びます。当時の日本は明治維新を遂げたばかり。なんとか先進国の仲間入りをしようと、産業の近代化をおし進めていました。

帰国後、譲吉は農商務省に入省。翌年の1884(明治17)年、アメリカ・ニューオーリンズ万国博に事務官として訪れた先で、運命の出会いが待ち受けていました。まず生涯の伴侶となるキャロラインと巡り合ったこと。そして、人造肥料(化学肥料)のもとになる良質のリン鉱石と出合ったのです。

当時、日本の農業生産力はまだ低く、肥料は人糞や油かす、骨粉などが主。そこで譲吉は、アメリカで過リン酸石灰6トンとリン鉱石4トンを買い付けて日本に持ち帰り、三井物産社長の益田孝を訪ねます。「日本は国土が狭く、アメリカのような大規模農業は成り立たない。わが国の農業技術の発展は人造肥料なしには考えられません」。そう主張して、製造会社の設立を説いたのです。

もし化学的に肥料をつくることができれば、農業生産は飛躍的に向上するだろう。そう考えた増田は、財界のリーダー渋沢栄一に人造肥料の事業化を進言。すると、渋沢は「農業の盛衰は国家の盛衰にかかわる。国家ために実に有益な事業だ」と賛同したと伝えられています。

こうして1887(明治20)年、渋沢らの支援を得て、東京・深川釜屋堀(今の江東区大島一丁目)に「東京人造肥料会社」が発足。譲吉は自ら社長兼技師長となり、開発の指揮をとりました。これが国産の化学肥料(過リン酸石灰)の先駆けです。

 

そして、そんな日本とアメリカを股にかけ、明治という新時代を駆け抜けた若き起業家を称えた記念碑が、東京都・墨田区にあります。

都営新宿線・東京メトロ半蔵門線 住吉駅から徒歩15分ほど歩き、大きな橋を渡ると……
そこには、夏の木漏れ日があふれる、こじんまりした素敵な公園、「釜谷堀公園」が…!
釜屋堀公園は、東京人造肥料会社の跡地。「化学肥料創業記念碑」の碑文には日本初の化学肥料工場を設立した背景と意義が記載されています。
解読には時間がかかりそうです……。
大切なのは、やはり「窒素+燐酸+加里」ですね!
こちらは「尊農の碑」。
農作物がいっぱい彫られていますね…!

農業の祖と呼ばれる歴史的な人物はたくさんいますが、たまには化学肥料にまつわる偉人の所業について考えてみるのも大切ですね!

 

高峰譲吉の偉業や、窒素+燐酸+加里についてもっと詳しく知りたいという方は来月、8月23日発売の「農耕と園藝 秋号」の「農耕偉人伝」(P112-113 文/戸村悦子 イラスト/ほりみき)にてさらに掘り下げ解説いたします!

こちらもぜひチェックしてみてくださいね♪

 

 

記念碑の側には手遊び唄を掘った石が。“おちゃらか”は私が子どもの頃も遊んだなぁ…と思いながら童心にかえりそうになるのを抑えつつ、まっすぐ会社にかえったのでした。

 

 

それでは、みなさま次回もお楽しみに!

編集部のづみたんでした。

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