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第24回 世界戦略としての植物「移植」~川島昭夫「重商主義帝国と植物園」

公開日:2019.7.30 更新日: 2019.7.31

『生活の技術 生産の技術 (シリーズ世界史への問い2)』

[編者]柴田三千雄 他
[発行]岩波書店
[入手の難易度]易

植物相の南北格差と欧州の世界進出

17世紀。イギリスは他に先駆けて市民革命、そして産業革命を成し遂げ、海軍力で世界の海を制覇し、新大陸からアジアにかけて世界各地に植民地をつくり、帝国の地図を広げ「太陽の沈まない国」を実現した。京都大学教授、川島昭夫の「重商主義帝国と植物園」は、『生活の技術 生産の技術』という一冊に収められた論文だ。ここでは、キュー植物園を中心に植民地に設置された各地の植物園や研究者、プラントハンターを擁して世界的な植物の移動と移植を実現することが帝国経済を支える大きな力になっていたことが説明されている。

イギリスの重商主義とは、工場でたくさんの製品を生産し、貿易などを通じて金銀や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称だ。蓄積された資本を用いて、世界市場の拡大を目指し、戦争という方法も辞さない荒っぽいやり方が帝国主義、世界大戦へと進んでいく。

この当時の輸出製品の原材料となるものは、石油化学製品ではなく、植物資源がほとんどで、しかも、綿花や茶のように、本国では栽培が難しいものばかりだったことから、ヨーロッパの重商主義の基底には、熱帯植物への欲望があった。

最初は熱帯アジアの胡椒・香料植物の存在が進出の動機となった。また、進出した先で発見された新しい植物資源がさらなる熱帯への支配欲を高めていった。こうしたことから川島は、重商主義について次のようにまとめている。

「重商主義とは、そのさまざまな制度的・政治的側面をはぎとってしまえば、最終的には、ヨーロッパ全体で消費される熱帯植物と、そこで生産される工業製品(とりわけ動物産品である毛織物や金属加工物)とが、熱帯地域でとヨーロッパとの間で交換され、その不足を補う対価として、新大陸からヨーロッパに流入した金銀地金が、再流出するという物流にほかならない。こうした交換のなかで、より多くの配分を獲得することを目的として、重商主義国家間の競争が行われるならば、国家は、ヨーロッパにおける中核に従属して、植物資源と、製品への市場を独占的に提供する熱帯地域を周縁にもつ植民地帝国へと再編されざるをえない」。

有用植物栽培のために必要な土地、栽培法、労働力

こうして、重商主義帝国は、植物資源を思いのままに手に入れ独占したいわけだが、植物には制約がある。すなわち、生育に適した環境(土地)と、生育にかかる期間を必要とする。自生する場所から取り出すのではなく、効率的に資源を得るために、栽培に適した土地、栽培方法の開発、栽培から収穫、輸送に必要な労働力がなければならないわけだ。

海外進出の最初は、現地の人々とやり取りをして、交易をしていた段階から、相手の国を外交で、あるいは、力でねじ伏せて植民地とし、継続的に支配し、「人と資本を送り、有用植物を栽培し、本国へ輸送して市場に供給し、あるいは外国市場をもとめて再輸出するという重商主義帝国形成への展開は、まさに植物というもののもつ特殊な条件に規定されて、その目的に合致するように行なわれたものである」。

ヨーロッパで用いられる有用植物の単一大規模栽培の形式「プランテーション」は、まさにその目的に合った方法として開発された。「在来の熱帯農業は破壊され、不自由な労働力が投入された」。奴隷である。こうして「植物の帝国」が形成されていった。

植物園は帝国経済を支える戦略的機関だった

有用植物資源をめぐってヨーロッパ各国では「独占」と「独占の打破」という2つの相反する動き(植物政策)が始まった。独占のためには、ある島だけに植物を集めて移出禁止とし、さらに他の島で見つかったものは、すべて伐採してしまう、といった乱暴なことが普通に行われていたという。これに対して、独占の打破を目指し、植物の調査や本国への生品の輸送、保存、増殖、研究が行われ、また、別な海外の適地へ「移植」が試みられた。プラントハンターが活躍する時代だ。

18世紀半ばのイギリスの場合、コーヒー・ハウスから始まる民間団体「技術、製造業、商業の奨励のための協会(勧業協会)」がイギリス経済が必要とする技術上の革新に対して、その成果に報奨金を出すといった奨励策を打ち出し、そこでは、顔料や染料の原料であるコバルトや茜の国内での自給といったことが早くから議論されていたという。実際に報奨金提供リストのなかには、染料や油脂用植物、海藻(アルカリ)、繊維植物、香料、医薬用植物(ケシ、キナノキなど)が含まれていた。

こうした植民地・貿易政策の一環として「植民地植物園」の設置が挙げられていた。イギリス本国では供給不能な有用植物の栽培実験を行う庭園あるいは種苗園をつくる。当初は北米の植民地を想定していたようだ。

この当時、大きな問題になっていたのは、熱いインド洋や南極に近い極寒のアフリカ南端を回る船旅を無事に乗り越えてアメリカ大陸やイギリス本国にどうやって移動できるか。タネや苗木の保存方法はどうすればいいのか。こうした問題を解決するために、ロンドンのキュー植物園や各植民地のつくられた植物園のネットワークが大活躍した。

とくに、「バウンティ号の反乱事件」として知られる英領西インド諸島への「パンノキ」の移植事業は有名だ。英領西インド諸島ジャマイカへ南太平洋タヒチ産のパンノキを持ち込む。これは、香料や染料植物を栽培するための労働力として連れてきた奴隷の食料とするための事業だった。失敗はあったが、この事業の完遂によって、パンノキは西インドへ広まったが、黒人奴隷はそれを食べることを拒否し、代替食物にはならなかったという。

「バウンティ号」に設けられたパンノキの鉢を収納、管理するための設備図 (ウィリアム・ブライが1792年に著した『南海の旅』より)。 Wikipedia「バウンティ(帆船)」から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3_(%E5%B8%86%E8%88%B9)

世界中から有用植物を集め、研究し各地の植民地植物園を通じて普及させようとした「植物園―植物移植」の事業は、保守的な現地のプランター(栽培事業者)になかなか受け入れられず、当初に目的とした多大な成果を出すことはできなかった。しかし、イギリスの帝国主義の拡大に、ゴムやキニーネが果たした戦略的な役割と残した利益は計り知れない。18世紀イギリスの科学・技術一般についていえるように、政治が専門ではなかったキュー植物園のジョセフ・バンクスが事実上の科学政策の立案者となっていたというのは当時のイギリス社会の民間のレベルの高さ、地力を示しているという。

最後に著者はこのようにまとめている。「植物の移植と植物園の設置は、採集者、植物画家、園丁、植物園管理者といった植物の技術者を誕生させた。はば広い階層のアマチュアと、植物の職業的技術者との協力で、明確な政策の不在にもかかわらず、植物政策は実行された。それはちょうど、植物園が、植物の実験・教育の機関であるとともに、目を楽しませ、心を和ませる庭園でもある「植物学―庭園」であるのと対応していたのである」。

参考
『植物と市民の文化』 川島昭夫 山川出版社 1999年
『プラントハンター』(講談社学術文庫) 白幡洋三郎 講談社 2005(初出1994)年

 

検索ワード

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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