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第25回 戦場の大輪朝顔~尾崎哲之助『朝顔抄』 その1

公開日:2019.7.31 更新日: 2021.5.20

『朝顔抄 花とともに六十年』

[著者]尾崎哲之助
[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]易

戦地で日本の野菜を育てた園芸家の話

偉大な園芸家、尾崎哲之助の生涯は波乱万丈を絵に描いたような一生だ。「禍福はあざなえる縄のごとし」と言うように、人生、なかなか思うようにはいかないものだと痛感させられる。と同時に、ドラマや映画を見ているような、語り口の面白さにどんどん引き込まれてしまった。

1883(明治16)年に愛媛県宇和島で生まれた尾崎哲之助がこの本を書いたのは、1971年、87歳だ。その後94歳で園芸文化協会による園芸文化賞の第一回目の栄えある受賞を果たしている。没年は確認できなかったが、ほんとうに健康で長生きされた。

渋沢秀雄(渋沢栄一の四男、東急電鉄取締役)や当時のアサガオ研究の第一人者である萩原時雄博士による序文にもあるように、晩年は能面の「翁」のように温和な好々爺然とした風貌そのままに、富士山麓の静岡県富士宮市で朝顔を栽培して過ごされていたという。
この本を書いたときにすでに60年の園芸生活だった。略歴を記してみたい。

1883(明治16)年
愛媛県南宇和郡御荘町(お遍路さんの巡る県境の霊場町。すぐ隣町が高知県宿毛市)に生まれる。

1909(明治42)年
上京、私立中学を出ると伯父のつてで穂積陳重博士邸の玄関書生となる。
専修大学経済科(夜学)に学び卒業。学生ながら穂積家の執事代理となる。

1910(明治43)年
病を得て故郷へ戻り療養。
その後、回復を待って、静岡県岩淵町にあった田中光顕伯爵邸の園丁となる。プロとしての技術を一から学び、ここから本格的な園芸人生が始まった。

1912(大正元)年
独立し、大林組初代社長の支援などを受け、兵庫県西宮町で種苗商「大正園」を始める。
この頃、六寸の巨大輪朝顔「紫宸殿」を咲かせた名人、花井善吉翁に師事し、その後の生涯をかけて朝顔と取り組むきっかけとなった。

1914(大正3)年
セメント王、浅野総一郎翁に随行してアメリカに渡航。
サンタローザまで出かけ、植物の品種改良で世界を変えたルーサー・バーバンクと面会、生涯忘れ得ぬ感激を味わう。
この時、カリフォルニアで日系人による現地での花や野菜の生産と流通の様子を詳しく視察し、後の種苗園経営に役立つ具体的なビジョンを得た。

西宮の「大正園」はよい業績を上げたが、社会の経済不況の影響もあって、経営に失敗。事業を畳んで、1919(大正8年)北海道藻岩農場へと拠点を移す。
ここでの事業も1933(昭和8)年に整理し東京に戻ることになった。
この間、草花や朝顔の栽培に関する本を出版し、NHK札幌放送局でのラジオ出演を経験している。

1933(昭和8)年の秋
小金井に朝顔専門の新園「小金井朝顔園」を設立。アサガオの他にキクも手がけた。
この頃、アンドン型の支柱を改良した、「ラセン支柱」「ラセン作り」を考案。

日本は昭和16年の暮れに太平洋戦争に突入し、アサガオやキクどころではなくなった。
17年春、キクを全廃、アサガオは品種を維持できる最小限度まで減らし、畑にトマト、ナス、キュウリを作って食糧増産に一役を買うようになった。

1943(昭和18)年
インドネシアのセレベスの首都マカッサルに海軍の料亭が新設されることになり、そこに野菜を供給する仕事を依頼される。
日本国内では思うように仕事ができなかった日々が続いており、決意の上、南方行きのためにすべてを整理して単身、セレベスへと向かった。
ここで、終戦を迎え、捕虜となって収容所生活を送る。

日本に帰れたのは1946(昭和21)年の4月。2年と7ヵ月が経っていた。

戦後は東京小金井から再スタートを切り、杉並区で「永福町朝顔園」、世田谷区烏山に移転して「東京朝顔園」などを経営し、最終的には京王百花苑に事業を譲渡し、最初に述べたように富士山のふもとに転居し終の棲家とされた。

このように、起業家、事業家でもあった尾崎は、静岡、兵庫、北海道、東京というふうに場所を移しながら、自らの仕事を創造していった。

そんな人生のなかで、最も危険で変化に富んだ転機は、やはり戦地に出かけたことだろう。60歳だった。
草花園芸のプロとして、国内では、その実力を発揮できない閉塞感はあっただろうが、妻と、まだ8歳の女の子を残して、なぜ危険を冒してまで南洋の島へ渡らなければならないのか。
尾崎を主人公にした映画をプロデュースするなら、この戦地での園芸シーンは欠かせない。尾崎という人物の園芸力と人間的な魅力が最大限に発揮された日々だったのではなかったか。

セレベス島での生活

セレベス島(スラウェシ島)は、インドネシア四大島の一つ。現在はスラウェシ島という呼び名が使われることが多いが、英語ではセレベス島 Celebesという。
アルファベットの「K」のような形の細長い半島がつながった変わった姿をしている(図1の④、赤く塗られた島)。
火山性の土地が隆起してできたこの島には3000m級の山や大きな湖があり、赤道直下にありながら、しのぎやすく、朝夕はむしろ冷涼な地域も存在している。

図1 インドネシア・セレベス島(スラウェシ島)と周辺の島々(作図:マツヤマ)
①スマトラ島 ②ジャワ島 ③ボルネオ島(カリマンタン島 マレーシア/インドネシア) ④セレベス島(スラウェシ島) ⑤ニューギニア島(インドネシア/パプアニューギニア) ⑥ミンダナオ島(フィリピン) ⑦ルソン島(フィリピン) a インドシナ半島 bマレー半島 cフィリピン dオーストラリア

香料貿易で栄えたインドネシアの島々は、17世紀の半ばから約300年間、オランダの植民地として統治されていた(連載第24回参照)。
第二次世界大戦中は日本軍が占領、戦後にインドネシアとして独立を果たした。

中心都市は、南部のマカッサルで、戦前から各国の領事館が置かれる国際都市だった。
古くから島に住む先住民のほかに中国系の華僑も多く、日本人も大正時代から昭和にかけて移り住み、貿易などの業務で活躍していた。
ココヤシやコーヒーなどの産物があり、コーヒーは「トラジャ」として知られる。

「スラウェシ島情報マガジン」の記事によると、戦前のマカッサルには日本人による自転車の輸入販売関係の企業が11社も進出していて、その大半が和歌山県の出身者だったという。日本の自転車は人気があったのだ。自転車の前にリヤカーをつけた「ティガ・ローダ(ベチャ)」は、日本人の発明によるものだそうだ。
南方移民に和歌山県人が多かったのは、オーストラリアの木曜島で真珠の採取を請け負っていた和歌山県人の一部が、ジャワ島やセレベス島に転進した人々がその始まりだという。

参考 「スラウェシ島情報マガジン」
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/index.html

農場作りから採種までできるプロの実力

先述のように、尾崎がセレベス島に向かったのは、セレベスに駐留する大日本帝国海軍の料亭で使われる蔬菜(野菜)を生産する責任者として推薦されたからだった。
高冷地での野菜づくりと南洋の穏やかな気候のもとで好きな朝顔づくりも思い通りにできる。救われた思いでその危険な任務を引き受けた。

この事業を取り仕切るのは、「大川はな」という大柄な女性で、現地に料亭のほか日本酒の酒蔵を新設する(大川隊と呼ばれた)。そのため大工や日本酒の杜氏、給仕など全体では50名以上が海を渡った。

国民には知らされていなかったが、この当時、すでに戦局は悪化の一途で、海路も空路も危険な状況だった。危ない場面もあったが、かろうじて、人も資材も無事に到着している。
尾崎は木更津の海軍飛行場から軍用機で立ち、マニラ経由でセレベス、ケンダリ飛行場で給油しマカッサル飛行場に降り立った。
その夜に敵機の夜襲に遭うが日本側からは一機の反撃も、高射砲の一撃もなく淋しかったと書いている。

図2 セレベス島(スラウェシ島)における尾崎哲之助の足跡(作図:マツヤマ)
①ケンダリKendari フィリピン(マニラ)から最初に降り立った空港 ②マッカサールMakasar セレベス島(スラウェシ島)の中心都市 ③バンタイン(ボンテイン)Bantaeng(Bonthain) 農場から最寄りの町(トラジャコーヒ―の輸出港) ▲ ロンポーバタン山(2,874m)Lompobatang ④ロカLoka ロンボーバタン山の麓の高原に農場があった。標高は1,200メートル。ここからさらに高地(標高1,500~1,600メートル)にあるランニンという高原でも野菜を栽培する。 ⑤マリンプンMalimpun 敗戦後に集められた日本人収容所のあった土地 ⑥ベンテンBenteng マリンプンと同じく日本人収容所の合った場所 サダンSadang川のほとり ⑦パレパレPare pare 捕虜から解放され日本に向けて出港した港町

尾崎農場長の最初の畑は、南部の高峰ロンポーバタン山(2,874m)の山麓にあるロカ村の開墾地に建設された。面積は十町歩余りの広さがあった。
ここの気候は一年中、温暖で気温の変化が少なく、朝夕は初秋を思わせるような涼しさだった。日本から持ってきた種子を次々に播くと、驚くほど早く成長した。

「時無しダイコン」「美濃早生ダイコン」は二ヵ月で立派なものが収穫できた。葉菜類(山東菜、小松菜)のほか、トマト、ナス、キュウリ、カボチャ、スイカなど日本の夏作に属するものは一年中いつでもよく育った。
難しかったのは、カンラン(キャベツ)、レタス、ホウレンソウで、ロカよりもさらに高地のランニン村で栽培に成功した。
トマトの大型品種、ポンデロザ種もみごとにできて、料亭で大いに喜ばれた。さらに司令官・大杉守一中将からボルネオの司令官宛てに飛行便で送られることもあったという。

尾崎は、草花園芸からプロの道を歩んだが、北海道での採種事業では、需要の中心となる野菜の種子の生産を大規模に手掛けた経験があり、南方での農場経営にも十分にその経験が生かされた。

セレベス島には各地に農場があり、海軍民政部直営のほか、各商社の農場もあった。
しかし、開園早々に、このような実績を上げたのは大川隊農場だけで、司令官、民政部長官等の来訪視察を受けるなど面目を施した。

(つづく)

参考
「植物交流と園芸文化」 椎野昌宏 尾崎哲之助の項
http://engei.main.jp/2016/06/01/post-494/
『日本園芸界のパイオニアたち』 椎野昌宏 淡交社 2017年

検索ワード

#朝顔 #大輪 #らせん作り#ルーサー・バーバンク#セレベス島 #移民 #和歌山県 #インドネシア #南方 #海軍民政部

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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