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傷ついたモモとネクタリンを、おいしく、そして美しく!~山梨にパティシエが集合~

公開日:2019.8.12

雹害で傷ついたモモをなんとかしたい

イベント当日届けられた、金子雄輝さんの「浅間白桃」。

7月24日、山梨市県笛吹川フルーツ公園で「キズ桃は美味しいフェスタinフルーツ公園」が開催されました。その発端は、ある農家の発信でした。

今年5月12日の15時30分頃、山梨市内で大粒の雹が、30分間にわたり降り続きました。中村地区でモモとブドウを栽培する金子雄輝さんのFacebookには、雹に叩かれ破れた葉、ダメージを受けて隙間なく傷を負った枝、ようやく膨らみ始めたところを雹に打たれ、傷ついた小さなモモが写っていました。

もう一人、大きな雹のダメージを受けたのは、金子さんの近くでネクタリンを栽培している、「フルーツ工房タンザワ」の丹沢隆さん。70年代にカリフォルニアを訪れ、現地から山梨県にネクタリンを導入。長年山梨県果樹試験場で研究と普及に従事され、古希を迎える現在もなお栽培を続けておられます。5月末に畑を訪ねた時、「50年栽培しているけれど、こんな被害を受けたのは初めて」と、落胆の色を隠せない様子でした。

それでもなんとか膨らみだしたモモを摘果し終えた6月20日、再び雹が襲います。

「摘果で実を落としたところに雹が当たってしまって、被害のひどいものをさらに落さないといけない。どうしようもない状態になってしまいました」(金子さん)

5月29日、被害状況を確認する(左から)古屋さん、金子シェフ、金子さん。

「これはなんとかしなければ」と、立ち上がったのは、甲府市㈱プロヴィンチアの古屋浩さん。山梨のブドウ農家からブドウを集め、レーズンサンドやジュースに加工して販売する「葡萄屋kofu」を経営しています。

その呼びかけに応えて動き出したのは、東京の老舗洋菓子店「銀座ウエスト」の金子博文シェフでした。日頃から洋菓子に欠かせないフルーツや農産物の産地を巡って交流を重ね、お菓子に活用。とくに山梨県との交流は深く、何度もモモやブドウの畑を訪ねては、お花見や房づくりも経験。現場を識り、生産者の思いを受け止めながら菓子を作る——その動きはパティシエ(=洋菓子職人)の仲間たちにも広がっています。

7月に入り、傷ついたモモは、破れた果皮を修復しながら肥大していきます。昔から産地の人たちの間では「傷桃はおいしいから選んで食べろ」といわれるほど。我が身を修復しながら生長するモモは味がよいことを、みんな知っているのです。問題は姿と形。例年より収穫量は少ないのに、そのままでは安値で取引されるか、無料で配られてしまいます。

「ちゃんと美味しいのだから、プレミアムフルーツとしてなんとかしたい!」

そんな古屋さんと金子シェフの呼びかけに応え、6店からパティシエが集まりました。

パティシエの技でチカラになれる 〜菊地賢一シェフ〜

杏仁と桃のブランマンジェ
専門学校の生徒さんを指導する、菊地シェフ。

「レザネフォール」は、東京の恵比寿と中野に2つのお店を構えるパティスリー。東京のホテルやパリの銘店で修業を積んだ菊地賢一シェフが、25人のお弟子さんと、パリの伝統的な技法を尊重しつつ、日本の素材で新しいお菓子も生み出しています。

この日は、山梨秀峰調理師専門学校の生徒さんが、シェフのお手伝い。まずモモをむくところから「勝負」が始まっています。できるだけ手早くむいて、モモのコンポートとフレッシュのモモを真っ白なブランマンジェにのせ、すばやく赤いゼリーをかけて封じ込める。生徒さんたちは、そんなシェフの技を、目の前で学んでいました。

「私たちは、多少傷があっても、ジャムにしたり、ピュレにしたり、カットして空気に触れさせないようにしたり。加工技術でうまく見せることができます。だから、今回のような雹害があっても、チカラになれる。実際、被害に遭われた方は、すごいショックだったと思います。産地の方から発信していただければ、私たち以外にも、チカラになれるパティシエは、まだまだいっぱいいるはずです」(菊地シェフ)

https://lesanneesfolles.jp/

これはなんとかしなければ! 〜成田博史シェフ〜

ヤマナシフルーツコンポジション
お菓子と料理、両方手がける成田シェフ。

「プティ・サパン」は、板橋区ときわ台にあるカフェ&ビストロ。シェフの成田博史さんは、お菓子と料理を両方学び、2年前にお店を開きました。今回は、お皿の上にモモのデザートが3種類。「ヤマナシフルーツコンポジョン」と名付けました。

成田シェフは、フレッシュなモモとネクタリンをスライスして扇状に重ねます。東京から持参したタッパーに入っていたのは、薄い膜のようなモモのゼリー。一枚ずつ取り出して、そーっとスライスの上にかぶせていきます。まるで“ゼリーのお布団”のよう。そんなきめ細やかな技が、デリケートなモモの鮮度を保ちます。

お店ではお菓子も料理も一人で担当している成田シェフ。営業から終わってから、深夜にイベントの準備を進め、山梨へ駆けつけました。なぜこんなに頑張れるのでしょう?

「傷ついたモモとネクタリンを見たとき、作り手の一年の苦労を考えたら、このままにしておくなんて堪えられない。これはなんとかしなければ……そんな気持ちがふつふつと湧いてきて、参加しようと決めました」(成田シェフ)

https://www.petitsapin.net/

ものづくりに傾ける情熱は一緒です 〜石井英美シェフ〜

クープ サヴァイヨン アラ ペッシュ
金沢から参加した西川シェフも、石井シェフ(右)のサポートに。

「アディクト オ シュクル」は、目黒区の都立大駅近くの小さなパティスリー。店名はフランス語で「砂糖中毒」を意味していて、オーナーシェフの石井英美さんが、お菓子が大好きな女性であることを物語っています。この日は特別ゲストとして、金沢の「パティスリー オフク」の西川開人シェフもやってきました。

石井シェフの「クープ サヴァイヨン アラ ペッシュ」は、グラス仕立てになっていて、ライチとフランボワーズのジュレ、白ワインで煮たモモとネクタリン、アプリコットリキュールが加わります。さらにサヴァイヨンソースに、生クリームを合わせたクリームがたっぷり。洋酒のアクセントが効いていて、どんどん食べたくなる構成です。

「作物を作る方々と私たちは、ものづくりに情熱を傾ける点が似ていると、共感を感じています。私たちは、モモの大きさが揃うことや、形の美しさはそんなに必要としていません。今回はむしろ、傷ついたモモとネクタリンについて深く学び、積極的に使わせていただける、きっかけになりました」(石井シェフ)

http://addictausucre.com/

大好きな生産者が被災したら、助けたい 〜渡邉泰史シェフ〜

(上)ペッシュ (下)パンナコッタ ネクタリン
渡邉シェフは、ふだん埼玉の地粉を使う等、地産地消を実践。

「ポルトボヌール」は、北浦和駅近くのパティスリー。オーナーシェフの渡邉泰史さんは、シュークリームの有名なパティスリー出身。埼玉の素材を使った地産地消も実践していて、温かみのあるフランス菓子が人気です。

そんな渡邉シェフは、金子さんのモモと丹沢先生のネクタリンで、それぞれヴェリーヌ(=筒状のガラスの器)仕立てのデザートを作りました。赤い方が「ペッシュ」。フランス語でモモを意味しています。黄色い方が「パンナコッタ・ネクタリン」です。

「モモの傷はあまり気になりませんでした。皮をむいてみると、中はぜんぜんきれいで、普通に食べられる。大好きな生産者が被害を受けたら、助けなきゃ。これから自然災害はまだ起きると思うので、他の地域のパティシエの方にも、同じ思いでフルーツの加工に取り組んでもらえたら、うれしいですね」(渡邉シェフ)

https://m.facebook.com/profile.php?id=1450713568562350

大丈夫。これなら使える 〜眞砂翔平シェフ〜

パルフェ フルーリー ペッシェ
「パスカル ル ガック東京」から、野澤さん(左)と眞砂シェフが参加。

東京・赤坂の「パスカル ル ガック東京」は、パリで人気のショコラティエ(チョコレート専門店)の世界第2号店。31歳の眞砂(まなご)翔平さんが、シェフを務めています。

この店は、定番のチョコレートパフェに加え、季節のフルーツに、チョコレートの花をあしらったエレガントなパフェが人気。山梨のモモを使った「パルフェ フルーリー ペッシュ」は8月末まで味わえます。

スイーツマニアの憧れ。モモのパフェが、「傷モモフェスタ」に登場しました。ガラスの器の中に、紅茶のジュレ、クレームブリュレのアイス、ホワイトチョコレートとバニラのクリーム、青リンゴとアプリコットのジュレ、モモのソルベなど、いろんな素材が組み込まれています。「すべてはモモの引き立て役。最後にモモの存在感が残ります」と眞砂シェフ。

「最初に傷ついたモモの写真を見たとき、大丈夫。これなら使えると思いました。でも、雹害を自分の仕事に置き換えると、農家の方は、自分が作ったショートケーキに石をぶつけられたのと同じくらいのダメージを感じたと思います。だから僕たちが付加価値をつけられるようにしたい」(眞砂シェフ)

http://www.legac-chocolatier.jp/

苦しいときは支え合おう 〜興野 燈シェフ〜

丹沢ネクタリンとゆうき農園のモモのクレープ
自らクレープを焼き上げる「アカシエ」興野シェフ。

北浦和と浦和に2つのお店を構える、「アカシエ」では、興野燈(きょうの・あかし)シェフが、日本中の産地へ足を運び、心揺さぶられた食材で創り上げるドラマチックなスイーツが人気です。
会場に到着するなり、興野シェフは丸い鉄板に生地を流して薄く、丸く伸ばし始めました。焼きたてのクレープ生地で、カットしたてのモモとネクタリンを包み込み、グラスミントを添えた、焼きたての「丹沢ネクタリンとゆうき農園のモモのクレープ」ができあがります。

丹沢先生のネクタリンを5年前から愛用していた興野シェフ。産地に何度も通いながらお菓子を作り続ける中で、生産現場と都会のお店のスタッフやお客様との間に「温度差」を感じることもあるそうです。

「何度もアクションを起こして、情報交換をして、いつかお菓子の作り手も生産者を理解して、苦しいときはしっかり助け合えるようになりたい。生産者、パティシエ、お客様、すべてが支えあっていけるように」(興野シェフ)

https://acacier.co.jp

白いモモと黄色いモモのお話 〜丹沢隆先生〜

参加者を交えた意見交換会で、丹沢先生が山梨のネクタリンの歴史について教えてくださいました。

「突然変異で毛がなくなったモモ。それがネクタリンです」

ネクタリンを研究し、50年栽培し続けてきた丹沢先生。

モモの原産地は揚子江の源流で、そこには紀元前の時代から白いモモと黄色いモモ、両方存在していました。徐々に大きなモモが作られるようになり、明治期に日本に入ってきたのは白いモモでした。一方、黄色いモモはペルシャ、ヨーロッパを経由して、アメリカへ渡ります。だから日本では白、欧米では黄色いモモが主力。フランスで製菓を学んだシェフたちが、好んでネクタリンを使うのは、そのせいかもしれません。

 

1970年、丹沢先生はカリフォルニアへ渡り、アメリカには改良された品種がたくさんあることを知り、その資料を日本の果樹試験場に送ります。これをきっかけに、「フレーバートップ」「ファンタジア」「インデペンデンス」等の品種が、日本へ正式に導入されました。

「昭和55〜60年頃、みんなが一気に栽培するようになったのですが、ネクタリン=酸っぱくてまずい。そんなイメージが定着してしまって…。60年代には山梨県内から、完全といっていいくらいなくなりました」

ところが、ちょうどその頃山梨県の農業試験場で、白いモモから突然変異した「反田(そった)ネクタリン」が生まれます。これとアメリカ生まれの「インデペンデンス」を交配して誕生したのが、「黎明」と「黎王」。さらに「晶玉」と「晶光」も誕生。山梨県が生んだ、糖度の高いスイートタイプのネクタリンです。もう「酸っぱい」とはいわせません。

丹沢先生は、「黎明を4〜5万個、黎王を3万個」栽培し、根強いファンやパティシエ向けに販売し続けてきました。既存の品種だけでは、作業が集中してしまうので、

「7月初旬から9月中旬まで収穫できる品種を自分で作りました。今、種苗登録の準備を進めています。革命的なものができたので、ぜひこれを機会に覚えていただきたい」

雹害対策の切り札に

調理専門学校生、生産者、パティシエが集結。前列中央が発起人の金子シェフ。

それぞれのパティシエが30食ずつ用意した桃のデザートは、瞬く間に完売。雹害を受けて傷ついても、美味しく、美しく味わえることを実証しました。イベント開催にあたり、山梨との連絡はすべてSNSで行われていました。以下は、その中心でみんな声をかけていた、銀座ウエスト金子シェフの言葉です。

「私たちパティシエにとって、これまでは市場流通が主な農産物の入手手段でした、そのクオリティーに疑問を感じ、産地を訪れるにつれ、生産者、ユーザーがともに目指すことのできるやり甲斐が見えてきました。共に収穫を期待し、喜び、時には、傷害も受け留める。丹精込めて作り上げた農作物を有効利用する。今回双方が初めて取り組む試みが、やっとスタートラインにたどり着きました」

傷ついたモモを、大量に集めてジャムやジュースに加工する。そんな試みはこれまでもありましたが、それでは価値が下がってしまいます。1個のモモの傷ついた部分を丁寧に切り取り、使える部分を「生かす」技で、価値を高める人たちがいるのです。ものづくりの仲間として、傷みも喜びも分かち合う。そんな関係が生産者とお菓子屋さんの間に生まれています。

流通面等でまだまだ課題は残されていますが、産地と血の通った交流を続ける職人たちが、自ら雹害対策の切り札に――そんな新たな動きが始まっています。

 

文・写真/三好かやの
写真協力/青木美佐子
取材協力/㈱プロヴィンチア
https://www.budoya-kofu.com/

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