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第26回 園芸を通じた出会いとビジネス~尾崎哲之助『朝顔抄』その2

公開日:2019.8.8 更新日: 2021.5.20

『朝顔抄 花とともに六十年』

[著者]尾崎哲之助
[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]易

晩年の尾崎哲之助(「朝顔抄」口絵から)。

第25回からの続きです。

戦地で野菜を育てた園芸家の話

尾崎哲之助は、60歳で南洋の戦地に出かけて、野菜を生産する農場経営を成功させた(第25回参照)
それまでの園芸人生では、無数の成功と失敗を繰り返し、大規模に種苗を生産する技術を体得していた。その経験が存分に生かされたのだと思う。

若い頃に命に関わる結核という病によって、名家の執事から園芸家に転身した。病を得なければ海外に留学し、実業家になっていたかもしれない。そうした挫折をバネに園芸家として大成した。

尾崎哲之助は、晩年には朝顔の専門家として知られるようになったが、昭和初年に書いた最初の著書は様々な草花の育て方を解説した本だった。それほど草花の栽培には精通していた。

のちに渡米し世界的に有名なルーサー・バーバンクと面会し、カリフォルニアでは、日本人移民による園芸産業の隆盛を見ている。和歌山県移民で有名な堂本兄弟にも会った。
この頃から、種苗の大規模生産という事業の面白さに気づいていたのだろう。草花ばかりでなく、さまざまな野菜の採種にも取り組んだ。

こうした実力が生かされたのが、セレベス島で迎えた終戦間際のダイコンとハクサイのタネ取りだった。「量」を取る方法(生産・収穫・保存のしかた・人や資材の使い方)を知っていたのだ。
敵の上陸が迫るなか、多少の未熟果はあっても、収穫を急ぎ、種子を手に入れることを優先した。収穫から乾燥、採種作業は大勢の人の手が要る。無理をしても成し遂げなければならないタイミングを尾崎は見逃さなかった。
そこには、朝顔作りを楽しむ好々爺のイメージはない。このときに収穫した大量の種子は、敗戦後、捕虜収容所で栽培され、貴重な野菜となり、尾崎たちの努力は報われた。

尾崎の南洋行きは、最初から危険に満ちていたが、文章からは緊張した感じを全く受けない。むしろ、生き生きとしている。セレベス島が、海軍の管轄だったことや、終戦まで敵が上陸してこなかったこともあるのかもしれない。

早い段階から野菜の種子の供給は滞るようになっていたというが、近隣の他の島々で起きた食糧難による飢餓や病気、地下壕での生活、敗走、一般人を巻き込んでの玉砕といったことが最後までなかった。
オランダ婦人の収容地で草花談義をし、種子を分けてもらったりもしている。戦時中、尾崎が育てた草花は料亭にも飾られ、敗戦濃厚な戦況を知る兵士の心をわずかでも慰めたに違いない。

南方占領地での軍政(民政)と敗戦

日本がハワイ真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まるきっかけは、アメリカの石油禁輸措置やABCD包囲網(米英中蘭)、ABDA(米英蘭豪)連合軍との衝突などがあった。

南方への進出は、戦争遂行と経済を守るための資源確保が大きな目的だった。日本陸海軍は、フィリピンやシンガポール、オランダ領インドネシア、ニューギニアを次々と制覇し軍政を敷いた。

日本軍政には、治安の回復、資源の獲得、作戦軍の現地自活という3つの方針があった。この方針にしたがって、南洋諸島の占領後、陸軍と海軍で管轄を分けて統治を進めた(日本軍伝統のセクショナリズムの影響があったという)。
オランダ領インドネシアの場合、ジャワ島が陸軍の第16軍、スマトラ島が陸軍第25軍、その他のオランダ領であるボルネオ、セレベス、小スンダ列島、西部ニューギニアなどは海軍が担当することになった。

セレベスは、その後、終戦近くになって、陸軍の軍事拠点も配備された。尾崎哲之助が、野菜の栽培指導に向かった南洋の戦地セレベス島は、東ハルマヘラ、北フィリピン、西ボルネオ島といった周囲の島々がすべて連合軍に上陸され、戦場となったのに、不思議なほど無傷で残された。
すぐ隣のニューギニア西部では餓死やマラリアによる病気で多くの兵士が亡くなった。生き残った人々は多くを語らなかったという。

尾崎哲之助がセレベスにやってきた当時、島内各地に日本軍の自活のための農場が各地にあって、「農耕隊」というような民間人と現地で徴発された多くの労働者が働いていたそうだ。
「朝顔抄」によると、尾崎が要請されたロカ村の大川隊の農場からさらに高地に拓かれたランニンがそれで、海軍民政部直営農場だった。
ここには、東京で訓練を受けた農業学校を出たてホヤホヤの若者5人、中年の邦人数人、現地の農学生数名が見習い生として駐在しており、そのほかに、3人のマンドル(仕事頭)以下百名内外のクーリー(労働者)がいた。

大川隊の農場で1年半の経験を積み実績を出した尾崎は、この農場に農場長として迎えられた。
毎朝、国旗掲揚式を行い、場長に敬礼して仕事に取りかかる。
「私は(大勢から敬礼を受けて)いい気になったものだ」と記している。

1945年、戦争の末期には、敵方から毎日のように放送があって、周辺の海軍の全滅、沖縄の占領、東京への空爆、広島・長崎への新型爆弾投下といったメッセージが流された。
セレベス島への上陸も9月だと言われるなかで、尾崎は、農場のダイコンとハクサイの収穫と採種をなんとか終わらせた。

尾崎たちは全員玉砕覚悟のなか、8月15日の玉音放送で終戦を迎えた。連合軍の攻撃を受けることなく生き残ったのだ。
捕虜となった日本人はマリンプンをはじめとして、いくつかの収容所に集められた。

マリンプンは、不毛の地で、作物を育てるのが難しい。尾崎はやる仕事がなく、周辺に点在する農場を訪ねて歩いた。
島内唯一の陸軍部隊、古閑武夫中佐の農場では、尾崎が必死で確保したダイコンやハクサイのタネが喜ばれた。

マリンプンの収容所には慰問で訪れて帰れなくなった歌手の藤山一郎がいて、収容後半の集会では得意の歌を歌ってみんなを喜ばせたという。
南洋開発に携わった民間人には沖縄出身者も多く、彼らは自分たちの文化としての歌や踊りを大切にしていて、機会があると、踊ったり歌ったりしていたそうだ。

尾崎はその後、当時の最高責任者であった大杉守一海軍中将が収容されたベンテンに移され、周辺に置かれた農場を回って指導にあたったという。
大杉中将は、戦争責任を負って処刑されるのだが、碁の相手をするなど、最後まで親しくつきあっていた。大杉中将が収容所を去る最後の日、愛馬の白い馬に乗った姿を書き記している。

尾崎の戦後 朝顔園の再興

南方に渡る前に家族が一生困らないように残した財産だが、すべて指定銀行である台湾銀行に預けていた。
ところが、この敗戦ですべて消滅することになって、尾崎の戦後は無一文からスタートとなった。

それでも、園芸人生で培った様々な人の助けがあり、東京都の職員から種苗会社の東京支店の仕事を手始めに、朝顔園を再興することができた。

尾崎は、東京都内をいくつか移りながら、永福町、烏山(「東京朝顔園」)と、朝顔園の経営を手がけ、戦前の小金井時代以来の希望を実現させていった。

永福町朝顔園時代には、当時の皇太子殿下の訪問も受けた(平成天皇、現上皇)。その間に、サクラソウやキクを始め、日本の伝統園芸植物も名人級の腕を発揮する。

晩年は、京王電鉄とともに京王多摩川駅近くの「京王百花苑」発足に協力、その後、事業を譲渡し、富士山麓に転居、隠栖した。

経営者としての尾崎哲之助

「朝顔抄」には、尾崎の起業家、事業経営者としての非凡な才能を示す事例が数多く記されている。

趣味家、園芸家としての視点はもちろん、浅野セメントの創業者、浅野総一郎に誘われて出かけたアメリカ西海岸で、先進的な園芸ビジネスの有り様を視察した経験が非常に大きな影響を与えている。大正の初め頃のことだ。当時、成功を収めた日本人移民たちと数多く接触し、自分の目で見ている。

北米と同緯度の北海道で、大規模な種苗生産をすることに可能性を見出したのもこの視察がきっかけであるし、色彩豊かなアメリカの家庭に見られる花壇の写真を撮影し、絵葉書を持ち帰っている。
カラーで印刷された美しい種苗会社のカタログもそうだ。
尾崎は、こうした園芸ビジネスが日本でも同じように展開される未来のビジョンを持って事業に取り組んでいた。

浅野との出会いで実現した渡米によって、世界的な育種家、ルーサー・バーバンクとの面会の夢も現実となり、また、帰りに浅野と話すなかで、所有する東洋汽船の豪華客船「天洋丸」の船上にミニ温室を設置し、花や観葉植物を管理して艦内を飾る、というアイデアも帰国後すぐに実現させている(洋上ではシケで船が大揺れすることがしばしばあり、すべての鉢が全滅するなどして、事業は終了)。

大阪の目抜き通りに建設された4階建ての丸紅本社ビルの屋上に大阪初の「屋上庭園」も手がけた。アメリカ様式の美しい洋風庭園で話題となり、その後、大阪の三越百貨店のショウウインドウ装飾や、店内の装飾も依頼されるようになった。

戦後(昭和29年~)、烏山の東京朝顔園は、名所となって、皇太子や皇族方がたびたび訪れた。
これは世田谷区と隣の杉並区にとっての名誉ということで、園の周りの道路が舗装されきれいになる、というようなこともあったそうだ。

朝顔が見られるのは夏だけなので、秋のキク、早春のサクラソウ、晩春の伊勢撫子というように伝統園芸植物を増やしていった。


さらに尾崎のビジネスセンスが発揮されるのが、チューリップだ。12月になって安くなるチューリップの球根を大量に仕入れて朝顔畑の後作として植え付け、春に花が咲く頃、「チューリップの根引き会」と称して、球根ごと販売したのだ。
これは大ヒットとなり、週末は大勢の来園客でにぎわった。一人で
100本以上お買い上げのお客さんもいたという。

これに味をしめて、コギクの根引き会も行った。小菊の品種改良で出てくるさまざまな実生苗を丸く仕立てて(いわゆるボサギクのような仕立て)、秋に畑から根っ子ごと抜いてもらう。
実生の小菊というのは、下葉が枯れにくい性質があって、見栄えがいい。これも、たいへんに人気のイベントになった。

図1は、昭和5年頃、東京の三越本店園芸部で大輪朝顔のタネを販売することを持ちかけられ、絵袋入りのタネを販売。
その後、オリジナルの小鉢(青砥の業者に直径5cmの豆鉢を特注)に植えられた8個入りの苗を1円でセット販売し、季節の人気商品となった。

また、あんどん仕立てに工夫をこらした「ラセン型支柱」による新しい仕立てで大輪朝顔の楽しみ方を革新したのも現在まで続く大きな功績だ。

図1 三越本店園芸部で販売し「アサガオの苗セット」。8個入りで1円。
図2 尾崎が考案したラセン式支柱 朝顔を仕立てるの新しいスタンダードになった。
図3 尾崎の著作「新しい草花園芸」「大輪朝顔栽培秘法」どちらも1927年の発行。
図4 昭和2年の「大輪朝顔秘法」の口絵。実寸サイズの大輪朝顔の図をカラーで挟んでいる。こういうアイデアが尾崎の非凡なところ。

人とのつながりを大切にした偉大な園芸家

尾崎哲之助は不思議なほど幸せな人とのめぐり合わせがある。持って生まれた資質もあるだろう。
どの写真を見ても、背筋がピンと伸びて、穏やかな表情をした尾崎に人を呼び寄せるような魅力があったのかもしれない。

以下、主だった人物を挙げて締めくくりとしたい。

穂積陳重

一書生の尾崎が執事代理まで勤めた名家の主。
渋沢栄一の一家とも姻戚関係にあり、尾崎は上流階級の人物たちと数多く面識を持つことができ、のちの人生にまで大きな影響を与えた。

穂積博士は民法学者で、戦前の日本の民法をつくった一人「民法の父」とされる。
高齢者福祉をどのように進めるかを研究し、現在の超高齢化する日本を予見していたかのような著作「隠居論」などがある。

朝顔やバラなどを愛好する家庭園芸家でもあり、尾崎を「バラ新」とつないだ。
尾崎の独立時に起こした園芸会社の名前を「大正園」と名付ける。

駒込動坂「バラ新」主人

田中光顕伯の別邸(静岡県富士市岩淵)の園丁の仕事を尾崎に紹介する。
田中邸時代によき先輩にめぐりあい、職業としての園芸技術をすべて身につける。

岩下清周

北浜銀行頭取、自由党代議士 西宮で「大正園」の立ち上げに協力。

大林芳五郎

大林組初代社長、「大正園」の設立に協力。

花井善吉

大阪の朝顔名人。大輪系朝顔栽培の第一人者で、巨大輪の名花「紫宸殿」の作出者。尾崎の師匠。

浅野総一郎

浅野セメント創業者、東洋汽船社長。
渡米を支援。尾崎は、この旅から事業の発展に大きなヒントを得た。

大正初期から昭和にかけて阪神間に成長する別荘式住宅の発展とともに、尾崎の事業は広がっていく。

藤田嗣章

藤田嗣治の父。戦前の陸軍軍医総監をつとめた。
大の花好きで尾崎と出会ったころはすでに80歳と高齢だった。

尾崎が朝顔園をつくった小金井の土地を紹介した人物。
この頃、同じように花が大好きな木戸侯爵夫人にも紹介され、天皇への大輪朝顔献上へとつながっていく。

加藤光治

千葉高等園芸学校卒。三越百貨店の園芸部に所属。
昭和の初め、尾崎に朝顔の種子の販売を依頼。

加藤は、戦後、第一園芸に勤務し、その人脈を生かして会社の成長に貢献した。園芸文化協会でも活躍した。

加藤要

終戦当時、農林省技官。
セレベス島から帰国後、東京都の開発課に誘ってくれた。
その後、種苗会社に移る。

伊藤文学

永福町時代に尾崎の朝顔園で働いていた若者。学生時代の4年間、夏休みを利用して通っていた。
のちになって、男性同性愛者(LGBTG)向けの日本初の商業雑誌、「薔薇族」を1971年に創刊。(本連載第28回参照)

 

参考

検索ワード

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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