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第30回 江戸の「空き地」と植木溜(うえきだめ) ~江戸時代以来の「火除地」の歴史に関する論文を読む

公開日:2019.9.6

『世広場の成立・展開II火除地広場の成立と展開 (1)』
『世広場の成立・展開II火除地広場の成立と展開 (2)』
『「御府内沿革図書」に見る江戸火除地の空間動態』
『江戸の火除地における設置前後の空間利用実態とその変容』

[入手の難易度]易(PDFファイルをダウンロード)

①『近世広場の成立・展開II火除地広場の成立と展開 (1)』
[著者]渡辺達三
造園雑誌 1972 年 36 巻 1 号 p. 13-22
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/36/1/36_1_13/_article/-char/ja/

②『近世広場の成立・展開II火除地広場の成立と展開 (2)』
[著者]渡辺達三
造園雑誌 1972 年 36 巻 2 号 p. 27-34
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/36/2/36_2_27/_article/-char/ja/

③『「御府内沿革図書」に見る江戸火除地の空間動態』
[著者]千葉正樹
東北大学国際文化研究科論集 2001年 第9巻 p. 212-195(※ページ逆進)
http://hdl.handle.net/10097/00119126

④『江戸の火除地における設置前後の空間利用実態とその変容』
[著者]田附遼 西成典久 斎藤潮
都市計画論文集 2009 年 44.1 巻 p. 62-68
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/44.1/0/44.1_62/_article/-char/ja/

今回の資料は、学術論文。さっそく、グーグルの論文専門の検索サイト「Google Scholar グーグル・スカラー」を使い、「火除地」というワードを入れて検索してみよう。Google Scholarでは、学術専門誌、論文、書籍、要約など、さまざまな分野の学術資料を検索でき、そのなかには、ウェブ上で閲覧可能な学術資料も含まれている。今回の資料はすべてPDFファイルでダウンロードできる。

この検索サイトのトップページには、Stand on the shoulders of giants.(巨人の肩の上に立つ)というスローガンが書かれていて、先人の知恵を借りてさらに遠くを見るためのツールだということがわかる。「巨人の肩の上に立つ」……僕は、すてきな言葉だと思う。東京・永田町にある国立国会図書館東京本館のカウンター上に掲げられた「真理がわれらを自由にする」という言葉と同じくらい勇気をもらえる気がする。「園藝探偵」もまた、巨人の肩の上にどんどん乗っていきたい。

Google Scholar のトップページ
https://scholar.google.co.jp/

「空き地」は、近代という花を活ける「器」になった

幕末の騒乱は戊辰戦争(1968~69)と呼ばれ、京都を中心に西から東日本・北海道へと舞台を移動するが、江戸城の無血開城、官軍と彰義隊が激突した上野戦争で大勢を決した。東北や北海道へと戦地が移る前に重要拠点は抑えられていたわけで、驚くべき短期間で江戸から明治にかけての変革が進められた。「勝てば官軍」というように、長く続いた徳川幕府が支配する社会体制はひっくり返る。人々の日常の価値観も大きく揺らいでいくことになった。

江戸から明治にかけての日本の近代化は、新たに天皇を迎えた江戸(東京)がひとつの舞台となる。このとき、江戸という街には、新政府が自由にできる場所がたくさんあり、その土地を活用しながら新しい時代の施設がどんどん作られていった。会社で例えるなら、(何も悪いことしていないのに)ある日を境に「賊軍派」と呼ばれ、リストラされた人たちがものすごくたくさんいて、テレビドラマのタイトルの「集団左遷」のようになった。その人達がいたデスクやオフィスはきれいさっぱり片付けられ、地方からやってきた「官軍」の人たちに取って代わられたわけだ。いきなり「賊軍」になった人たちは江戸市中の屋敷から荷物をまとめてそれぞれの出身地に帰る。残された屋敷や庭園は、荒れ果てた無人の「空き家」となっていった。こうした「空き家」や「空き地」が新しい時代の受け皿になっていった。

僕らに関心があるのは、まず、大名庭園がある。小石川後楽園や六義園、芝離宮庭園、清澄庭園など現在も伝えられている名園もあるが、つぶされて、工場や他の施設に代わった場所もたくさんある。先だって豊洲に引っ越した「築地市場」は、もともと松平定信の「浴恩園」があった場所で、明治になると外国人居留地や海軍の施設がつくられた場所だったし、本所・吾妻橋のたもとにあるフィリップ・スタルクによる「金の泡」のモニュメントが有名なアサヒビールの建物がある場所は、もともと庭園で、旧佐倉藩堀田家の名園があったという。老中水野忠成(家斉時代)の別邸でもあった場所で、そこに工場、ビアホールが作られている。

浅草から見たアサヒビールのオブジェ

神崎宣武は、『物見遊山と日本人』(講談社・1991年)のなかで、地方大名の屋敷や寺社所有地のほかに、江戸には広大な「空き地」があって、それらが明治以降の近代化を進める要地になっていったと書かれている。現在の東京駅や丸の内、皇居の周辺は赤トンボが飛ぶような湿った草原だったというし、誠文堂新光社が創業した神田の周辺も、「護持院ヶ原」と呼ばれていた。こうした「空き地」の多くは、火災の際の延焼を防ぐための「火除地(ひよけち)」だったという。論文では、これらの「火除地」がどのようにつくられ、利用されていったかが時代を追って解説されている。

「火除地」には、防災・防火以外の多様な利用があった

高校の歴史の参考書などでは、江戸時代250年を15人の将軍で4つの区分に分けることを勧めている。1武断政治期(家康・秀忠・家光)、2文治政治期(家綱・綱吉・家宣・家継)、3改革期(吉宗・家重・家治・家斉・家慶)、4衰退期(家定・家茂・慶喜)。たとえば、江戸文化については、初期の文化(寛永文化)、中期(元禄文化)、後期(化政文化)というような項目があるが、寛永文化は17世紀前半、将軍家光の頃、桃山文化を引き継いだ絢爛豪華な様式美(日光東照宮)。上方が中心となった元禄文化は18世紀初め、綱吉の時代、江戸の多様な町人文化が花開いた化政文化は100年後の19世紀初めで徳川家斉の頃。たとえば、江戸の三大改革(享保・寛政・天保)は、元禄→徳川吉宗による享保の改革(吉宗)→田沼時代→松平定信による寛政の改革(家斉)→水野忠邦による天保の改革(家慶)というような具合だ。

「火除地」の始まりははっきりしないというが、江戸時代全期間を通じて、元禄期(綱吉の時代)、享保期(吉宗の時代)、寛政期(家斉・松平定信の改革期)に火除地が増加する3つのピークがあるという。

まず、4代将軍家綱の時代、1657(明暦3)年に江戸城の本丸・天守が焼け落ちた「明暦の大火(振袖火事)」で、江戸市中は焼け野原となり、多くの人々が死傷したことをきっかけに、元禄期(綱吉の時代)にかけて市中に数多くつくられることになった。面積が最も大きくなるのは享保期(吉宗)で、江戸の中心部に少なくとも五万人を収容できる空間が広がっていたという。百万人都市の貴重なオープンスペースとして維持された場所が少なくない。武家屋敷や住民の移動を伴う火除地設置のインパクトは強力で、都市再編、武家屋敷や江戸文化の郊外への拡大(スプロール化)というような大きな変化となった。

火除地は、「明地(あけち)」や「広小路(ひろこうじ)」と呼ばれ、江戸の各所に大小設置された。まとまった面積を持つ「広小路」は、明暦の大火後につくられた両国橋の両岸にもうけられた「両国広小路」のほか、現在の上野広小路につながる「湯島広小路」などがあるが、こうしたオープンスペースに「床見世(とこみせ=屋台)」や芝居小屋、見世物小屋、髪結い床、相撲などの興行を見せる仮設の商業施設が次々と建てられ、さらに棒手振りなどが加わり、町人のエネルギーが渦巻く繁華街へと発展していった。数千人が集まる大規模な広小路や明地もあり、現在のカフェや劇場、飲食店が集まる「盛り場」の原点のような状況で、浮世絵や名所絵図などに数多く描かれている。

露店(小屋掛け)がたくさん出ている両国広小路の様子。葛飾北斎の「浮世両国橋夕涼花火見物之図」1780(ウキペディアパブリックドメイン)

「植木溜」とはどんなところか

本来の防火の目的を離れ、時代が下るに従ってレクレーションの性格が強まった火除地に対して幕府は、折々に規制を設けて店舗の撤去などを行ったが、しばらくすると元のように戻り、あるいは、武家屋敷や町家へと転換し減っていった。江戸の人口増加や「町火消制」の整備(いわゆる「いろは組」。享保5年頃)・瓦屋根の推奨などによる防火対策が進んだことなどがその要因だという。

こうして、レクレーション化する火除地の多目的利用のうちで、「最も消極的な利用法(渡辺論文)」のひとつが、「植木溜(うえきだめ)」「植溜(うえだめ)」だ。人が立ち入らないように竹矢来で火除地を囲んで、庭園で利用するための植木や竹などの資材を仮置きし、養生する。あるいは、薬草園(「菜園」とも呼ばれた)として管理する。これは、無用な人が多く集まって喧嘩や騒動になるのを防ぎ、裸地のままだと風で舞う土埃を抑えるための空き地利用だというが、僕らからすると、とても興味深い。江戸の各地に設置された空き地に緑が溢れていたのだ。季節によっては花も咲いていただろう。この連載の第9回でも江戸の園芸を紹介しているが、江戸の園芸は大名や武家の屋敷や庭園、寺社の敷地に植えられる樹木や草花の需要が先行し、江戸中期以降は、「鉢植え」によって庶民の間にも広がっていく(https://karuchibe.jp/read/3066/)。造園作業は、作業適期があり、また雨が降ると作業できないので、江戸市中に植木の輸送中継所兼見本園のような場所があると植木屋にとっては、非常に便利だったと想像できる。

ところで、その「植木溜」というのは、どんな感じだったろうか。現在でも、植木の産地に行けば、根回しされた植木が集められた場所を見ることができるが、昔はもっと違ったかもしれない。どなたか詳しい方に教えていただきたい。

最後に、作家、そして園芸家・花道家でもあった室生犀星の短編「生涯の垣根」という作品を紹介する。庭を所有する人と実際に木を植え、仕立てる職人との心通う付き合い方が見どころだ。このなかに植木溜でのシーンが出ている。

室生犀星「生涯の垣根」(青空文庫)初出1953年
https://www.aozora.gr.jp/cards/001579/files/59235_67356.html

参考
『物見遊山と日本人』神崎宣武 講談社 1991年
『上野繁盛史』 上野繁盛史編纂委員会編纂 上野観光連盟1963年
『カリスマ講師の日本一成績が上がる魔法の日本史ノート』 松本恵介 KADOKAWA/中経出版 2014年
『改訂版 全国の高校生に贈る 最強 プレミアム「美しい日本史ノート」』上田肇 牧歌舎 2012年
『図説 日本史通覧』 黒田日出男監修 帝国書院 2017年

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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