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第33回 「園芸読み」でタケノコ栽培や雨乞いを知る

公開日:2019.9.27 更新日: 2021.5.21

『オオカミの護符』

[著者]小倉美恵子
[発行]新潮社
[入手の難易度]易

花や緑が好きな人は、どこにいても、まず植物の気配を感知する。道を歩きながら街路樹や垣根、植え込みはもとより、知らない人の家の花壇や鉢植えになにが植わっているのか、状態はどうか、などなどつい見てしまう。
知らないものがあると、その場でスマホを取り出して写真に記録して調べようとする。

「園芸読み」もそれと同じだ。どんな本でも記事でも、そこからなにかしかの園芸知識を取り出そうと試みる。
今回は、「オオカミの護符」というとても謎めいて魅力的なタイトルの本を読んでみよう。

「山岳信仰」とニホンオオカミ

著者、小倉美惠子は、昭和36年に神奈川県川崎市宮前区土橋に生まれ育った。僕とほぼ同世代。
高度経済成長期の日本では全国各地が同じように、どんどんと開発され工場や新興住宅地に変わっていった。子どもにとって田舎は暗く、不便で、いやな臭いがして、怖いところがあった。

ところが大人になってみると、今さらながら、貴重なもの、長い地域の歴史のなかで大事に伝えられた文化が失われてしまったことに気づく。失われたものは大きい。もはや取り戻すことはできないかもしれないが、著者は今の地域に住む子どもたちに向けて故郷の歴史や人々(とくに「百姓」として)の暮らしを伝えようと映画作りに動き出す。

着目したのは黒い獣が描かれた護符だった。実家の土蔵に貼られたこの護符は「オイヌさま」と呼ばれていた。まわりの家々にも戸口や台所、土蔵の扉や畑などいたるところに「オイヌさま」が掲げられ暮らしに溶け込んでいたという。

この護符の正体をつきとめるために、調査を始めていくのだが、多摩川水系の源流をはぐくむ関東周辺の一都三県に広がる「オイヌさま」と山岳信仰、そして今は絶滅してしまったニホンオオカミと人間の関係というように、文字通り、長い旅になっていく。
人々(百姓)は、「講」を組んで農作物の豊作を祈り、水の恵みを祈り、火難除けや害獣除け、盗難除けの祈りを込めて護符を貼った。読者は著者の旅の伴走者として小さな札の秘密を知る。

人口減少→里山の荒廃→鳥獣害の増加といった現代の課題と絶滅したニホンオオカミが担っていた生態系における役割について深く考えさせられる読み応えのある内容だった。

「大山」と雨乞い

さて、「園芸読み」だ。護符にかかわる謎を解き明かす旅は本を読んでもらうとして、僕が興味を持ったのは、雨乞いの実際が書かれているところ。
とにかく、昔の人はよく歩いたものだと感心する。土橋の百姓が雨乞いのために向かったのは、神奈川県伊勢原市、厚木市、秦野市にまたがる信仰の山、「大山」だ。
著者の祖父はよく西の山塊に向けて「お山の向こうには神様がいる」と言いながら手を合わせていた。雨乞いのために自転車で大山に向かうこともあったという。

土橋に伝わる雨乞いの儀式は、以下の通り。

日照りが続き、作物の実りが危ぶまれると見るや、村の若い男衆はすぐさまリレー方式で大山に走り、山頂の滝から「お水」をいただいてくる。
土橋から大山までは片道40kmはゆうにある。しかも標高1252mの大山登山をこなし、日没までには「お水」を無事に携えて村に着かねばならないのだ。
戦後は自転車を使ったようだが、それでも早暁に出発し、昼過ぎには土橋に戻って雨乞いをしたというから、とてつもない健脚ぶりだ。

さらに驚くのは、このときに運ぶ「お水」は道中、一滴たりともこぼしてはならず、立ち止まることも許されないのだという。こぼすと効力(「験」)がなくなり、立ち止まったところに雨が降るのだという。

土橋で最後の雨乞いが行われた記録は1952(昭和27)年だったそうだ。
土橋では、「オイヌさま」のお札のほかに榛名山の札もあり、こちらは「雹害」から作物を守るためにあった。夏の日照りに慈雨をもたらす大山と春に雹や嵐の害を防いでくれる榛名山という信仰があった。

「目黒式」まぼろしのタケノコ栽培

土橋は、優良なタケノコの産地だった。これは、かつて大産地だった東京の目黒(戸越や碑文谷が大産地だった)から伝わった栽培法に則ったもので、「根埋け(ねいけ)」という、そうとうな手間をかけて育てている。

この「根埋け」したタケノコは、「一度でも口にしたら他のは食えやしねえ」という古老のことばがあり、これは、実際に食べてみたくなるようなことが書かれている。
その「目黒式栽培法」というのはこんなふうだ。

作物とはひたすら肥やし、実らせるのが常道だが、タケノコ栽培では、肥やしつつも、無造作に広がる繁殖力を削ぐことが重要だ。地中を縦横無尽に生え広がる地下茎と根気強く向き合うのが土橋のタケノコづくりなのだ。

目黒からもたらされた「根埋け」は「根切り」という作業を伴う。春にタケノコを堀ったのち、縦横無尽に生え回る地下茎を間引き、整理する作業だ。
地下茎の節々には、翌年にタケノコとなる芽がついているので、できるだけ深く均等に埋め直す。芽を深く埋めればその分、太く長いタケノコが採れるのだ。

「根切り」が終わると、いよいよ「根埋け」が始まる。地表に伸び出した根を掘り起こし、その根を埋め直すための深い溝を掘る。これがまた大変な重労働だ。

深く掘った溝に竹の根を這わせ、肥料を与える。ただでさえ繁殖力旺盛な竹に肥料を与えるのだから、間引きが欠かせない。

水田耕作に向かない土地の多い土橋のタケノコ生産は、畑の一等地で作られるほど盛んで、高品質で知られていた。
栽培は幕末期に始まり、大正から昭和30年代にピークを迎え、現在はほどんど見られないという。

小倉が取材した生産者は、当時すでに80歳。「根埋け」で栽培するのは、家族や親戚に届け喜んでもらうためだと話していた。

参考

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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