農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第35回 日本人の情緒を育んだ「草地」が消えていく

公開日:2019.10.11

増補版『草地と日本人』

[著者]須賀丈 岡本透 丑丸敦史
[発行]築地書館
[入手の難易度]易

日本の草地と「秋の七草」

国立国会図書館のデジタルコレクションに安藤(歌川)広重の「富士三十六景」がある(図1)。曲がりくねった川べりにススキの穂が秋風に揺れて、オミナエシやキキョウ、野菊のような花々が咲いている。
こんな秋の草花の群生するようすが遠近法で描かれて、その先には、早くも雪が降ったのか、富士山が白く、いつもより大きく見えている。そのとき、富士をかすめるように雁の群れが遠くに飛んでいった。もう秋も終わろうとしているのだ。

俳人、石田波郷に「雁(かりがね)や残るものみな美しき」という秋の句がある。雁は北から飛んできた。これから春まで日本で過ごすのだろう。
それに対して、「赤紙」をもらった自分は、これから出征し南方に行かなければならない。そんな背景のある句だそうだ。

図1 「冨士三十六景 甲斐大月の原」 広重 1858(安政5)年 (国立国会図書館デジタルコレクションから)

参考 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303418

それは、さておき、秋の七草といえば、「お好きな服は?」という言葉が思い浮かぶ。これは、「秋の七草」を覚えるための有名な語呂合わせだ。
「お」オミナエシ、「す」ススキ、「き」キキョウ、「な」ナデシコ、「ふ」フジバカマ、「く」クズ、「は」ハギ。

これが、「万葉集」の時代から続く「秋の七草」だが、時代を下って、昭和10(1935)年、ある新聞社が当時の著名な俳人らに募って「新・秋の七草」を提案している。それは、こんな草花たちだ。
コスモス、オシロイバナ、シュウカイドウ、ハゲイトウ、キク、ヒガンバナ、アカマンマ(イヌタデ)、その後も、同じような企画が持ち上がり、ホトトギス、ノギク、カルカヤ、マツムシソウ、ワレモコウ、リンドウなどが提案された。
確かに、どれを取っても捨てがたい風情のある花たちばかりだ。

参考 新・秋の七草
http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201409260.htm

春の七草が「七草粥」にも入れられる、食用や薬用効果のある植物であるのに対して、秋の七草は風に揺れる姿や花の色、香りといったところに魅力がある季節の花が集められており、着物の柄などにたくさん使われ、身近な花として親しまれてきた。
ところが、こうした草花をいま、野外で見ることができるだろうか。そうだな。新・旧合わせてみても、ススキやクズ、コスモス(栽培品)やヒガンバナなどは難しくないかもしれないが、それ以外は自生地を訪ねることも難しいかもしれない。こうした草地の植物が存在できる環境がなくなってしまったからだ。レッドデータブックで絶滅の危機にあるとされるものも多い。

野原や草地の開発で面積が激減したこと、人が長い年月をかけて手を入れてきた里山と同じく、管理されずに放置されることで自然遷移(林や森になる)してしまったことなどが大きな要因になっている。
実際20世紀初頭、日本には「原野」が約500万ha(国土の約13%)以上を占めていたのに対して、近年の草地面積は約43万ha(国土の約1%)にまで減少した。

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

万葉集に歌われたムラサキのように、歴史の記憶と深く結びついた生物が失われようとしている。
草花だけでなく、草地を好む多くの生き物たちもまた、同じような運命をたどっていくだろう。

ムラサキの栽培品 初夏に白い花が咲く

今回、紹介する『草地と日本人』では、日本各地で草地が大切に維持管理され、利用されてきたことが詳しく紹介されている。こうした人の手によって管理された環境に適応した動植物が草地の生態系のなかで命を循環させている。
「秋の七草」だけではなく、開発によって失われたものは、生活の仕方やものの考え方にも影響を与えているのではないか、そんなことに気づかせてくれる。2002年に初版が出され、その後に新しく分かったことなどを加えた増補版が今年の2月に発売されている。

黒色土と草原

いにしえの人々が愛した日本列島の野の草花。それらが好んで生育できた草地の多くは、人間の活動によって維持されていた。「火入れ」のような人間活動の介入があって保たれる草原「半自然草原」という。人間活動の関与の度合いの違いによって、「自然草原」「人工草地」と対比して使われることばだという。

「半自然草原」の多くが姿を消したなかで、現在でもまとまった半自然草原が残っているのは、スキー場、河川堤防、防火帯などだが、ほかにも、放牧や牧草の刈り取り、景観の維持などの目的で、全国各地に維持される草地がある。多くは、歴史的な地域の環境を未来へ引き継ごうとする人たちによって守られている。
主だった場所を挙げてみる。
北上山地の平庭高原、早坂高原、種山高原など、長野県霧ヶ峰高原から車山高原一帯、木曽の開田高原(木曽馬の保存)、岡山県韮山高原、島根県三瓶山麓(和牛放牧地)、広島県雲月山、山口県の秋吉台、九州の阿蘇から「くじゅう高原」、宮崎県の霧島山麓(自衛隊演習地)などだ。
こうした地域では、おもに「火入れ」「放牧」「刈り取り」といった維持管理の活動が行われている。

軽井沢を例に取ると、ここには、氷河期が終わり、数万年から数千年をかけてできあがった草原があったという。堀辰雄の『風立ちぬ』が書かれた昭和のはじめころまで、軽井沢は浅間山麓にできた草原で、人間が火入れ、放牧、草刈りなどの手を入れながら、長い間、維持されてきた。平安時代には、馬の放牧地があり、「長倉牧」と呼ばれていた。

このあたりの土は黒い色をしている(黒色土、黒ボク土)。黒色土は、草原が長く続いた場所にできる土壌だ(森の場合は、「森林褐色土」になる。黒色土の生成期間は数千年にもおよぶ場所が多い)。
さらに、黒色土は火山灰が積もった土地に多く、野火が生成に関わっていると考えられるのだが、雨の多い日本列島では、野火だけでなく、人間活動との関連が指摘される。

そこで、この黒色土の生成が始まった年代を調べると、いまから約1万年前の縄文時代早期にさかのぼることがわかった(このころから土中の微粒炭量が急増)。人口の少ない縄文時代、広い草原の維持には、人間の刈り取りだけでは間に合わない。火入れはより少ない労力で広い面積を処理できたはずだ。

一例として、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡の調査では、縄文時代を通して、野焼き・山焼きの跡に残る物質と大量のゼンマイの胞子が出てきたという。
ここから推測されるのは、当時の人々が春先に野焼きをしてゼンマイがたくさん出るようにし、それを保存食として利用していたのではないか、ということだ。
縄文人は、草原と森がモザイク状に入り混じった地域に暮らしていたことが分かっている。森ではイノシシやシカを追い、草原ではノウサギを捕らえる。弓矢を使う狩猟には開けた草原が適していた。火をかけて獲物を追い込むこともあっただろう。
そのうえで、草原的な環境を維持することで毎年春にゼンマイのような山菜類を豊富に得ることができることを知っていたのかもしれない(縄文人の「農耕」については、「園藝探偵の本棚」第32回を参照)。

先述の軽井沢だけでなく、日本列島には全国各地に草原があり、黒色土が見られる土地が存在する。
関東平野の台地や丘陵にはかつて広大な草原があったということがわかっている。「武蔵野」は美しい草原だったのだ。国木田独歩が見出した武蔵の美は雑木林の美しさだったが、『武蔵野』は、もともと広大な「萱原(かやはら)」から「林(雑木林)」に移り変わってできた風景だった。
関東では筑波山の周辺や千葉県の大部分が草原だったという。

先人たちは、集落ごとに協力して草原を手入れし、いったいどのように利用していたのだろうか。

まず、田畑の土壌改良や肥料(緑肥・刈敷)、次に牛馬の餌(まぐさ)、屋根をふくためのカヤ(主にススキやヨシ、カリヤス、カルカヤ、シマガヤ、チガヤといったイネ科の多年草)などを利用するためといった用途があった。
牛や馬は農耕や物資の運搬に欠かせない家畜として身近な生き物だった。とくに冬場の餌を確保するための広い草地は重要だった。
また、民家の屋根は数十年ごとに「ふき替え」が必要になるため、集落で共同の「カヤ場」を維持する必要がある。冒頭に述べたように、「秋の七草」のような草花は、こうした草地の生態系のなかでライフサイクルを完結させていた。

ところが、時代が進み、人間の生活が変わると不要になり、やがて開発される。「使いながら守る」ということの重要性を指摘している。

「里草地(さとくさち)」 畦の上の草原

最後の、「里草地」という半自然草原の役割について。田畑が多くの生き物たちを育んできたことは知られるが、田畑の周りの草地もまた、特異な環境をつくってきたのだという。
この本では、「草原」と「草地」を使い分けている。「草原」は森林、砂漠、河川、湖沼などとの対比で用いられ、生態系の一部分や自然景観としての側面を示す。
これに対して、「草地」は林地、耕作地、宅地などとの対比で使われるように、土地利用としての側面に注目したことばだ。

「里草地」は、田畑の畦のまわりの草地だけでなく、ため池や小川の堰堤、里山林との林縁に成立する草地が含まれる。放牧地などよりもはるかに草刈りの回数も多く人間活動の影響を受けるが、水辺や湿地など多様な環境を含んでいて、畦畔草地に特徴的な動植物が生息する生態系を維持してきた。
最近は、国を上げて「棚田」の保護に力を入れ始めているが、棚田の周辺もまた「里草地」としての長い歴史がある。ただ、こうした場所もまた維持にたいへんな苦労があり、耕作放棄地になるなど急速に変化している。

歴史を通じて日本列島に生きる人々の情緒を豊かに育んできた草花、お盆やお彼岸に先祖にお供えする花(「盆花」本連載第16回参照)など、もともとは田畑や身の回りの草原にあって身近に利用してきたものだった。先人の暮らしの知恵と自然からの大切な贈り物を僕らはいま失おうとしている。

アメリカには「円形農場」という耕地がある(図2)。乾燥地帯で大規模な作物生産を行う。そのために、中央を軸に回転する潅水用のスプリンクラー(センターピボット Center pivot irrigation)があり、その設備の効率的な稼働のために耕地が丸くなっている。地下水を組み上げて利用する潅水装置の平均は半径400m、大きいものは半径1kmにもおよぶという。
その機械を使ってコンパスを回すように水をまく。まるで横に回転する観覧車のようだ。農業の工業化の極北、生産性を上げるために追求された究極の形だろう。もしも、万葉の歌人たちをツアーで御同行いただけるなら、この円形農場から、どんな歌をつくってくれるだろうか。

図2 アメリカ、カンザス州の円形農場。

Wikipedia「円形農場」「センターピボット (Center pivot irrigation)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88

参考

 

検索キーワード

#秋の七草#広重#石田波郷#盆花#里山#里草地#縄文人#農耕#円形農場#センターピボット

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア