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第37回 東北の花市場と橋本家の歴史~『山形生花商組合 五十年のあゆみ』から

公開日:2019.10.25

『山形生花商組合 五十年のあゆみ』

[編集発行]山形生花商組合
[刊行年月]2006年6月
[入手の難易度]難(非売品)

記念誌、回顧録、評伝の重要性

『五十年のあゆみ』は、2006(平成18)年、山形県の生花商組合の創立五十周年を記念して制作発行された貴重な一冊だ。総ページ数は口絵を含めて127ページ。外箱つきで、緑色の布張りの表紙に金の文字で表題が書かれており、厚くてしっかりとした装丁になっている。創立50周年を前に、制作が決まり、二年をかけて完成させたという。

本組合は1956(昭和31)年の創立だが、冒頭には「思い出のアルバム」として、昭和20年代から平成にいたる加盟花店の歴史や創立後の花のイベント、産地見学、慰安旅行の一コマなどが写真で紹介されている。本文の中心は組合員生花店、地元生産者それぞれの回顧録、自叙伝と花市場、仲卸の歴史、となっていて、そのほかに山形県花き事業協同組合の活動、青年部の活動などがデータや年表とともに集められている。

日本の花卉産業は、アジア・太平洋戦争における日本の敗戦からいち早く立ち上がり、復興にむけて歩み始めた。東北、山形も同じで、昭和31年には生花商組合がつくられたということだ。高度経済成長期があり、バブルの崩壊後の低迷の時期も抜けてきた。記念誌の発行からすでに13年がすぎ、現在は組合創設から63年目ということで、花店の店主も二代目、三代目となっている。

この本の特長は会員一人一人の半世紀を超える物語が記されていて、それぞれの実体験に基づくさまざまなエピソードが非常に興味深く、貴重な資料になっている。花屋さんは、山からの採取、生産から入った人、造園から入った人、造花からの人とさまざまだ。自転車やリヤカー、あるいは背に花を入れた籠を背負って行商した人たち、花環づくりをさかんにやったり、結婚式会場ができてウエディングの仕事を始めたり、戦後からの生活文化の変化がここにも見られる。自分たちの親や祖父母たちの時代の苦労や喜びを知ることは、現世代の勇気や希望につながって永遠に消えることはない。

このように、さまざまな団体の「記念誌」、重要な人物が亡くなったときの追悼文集や個人の回顧録、評伝といったものは、関係者だけに配布される非売品であることが多いため、後になってから入手したくてもなかなかそれができないものだ。園芸界でもこのような資料が数多く存在すると思う。しっかりと保存し、また様々な方法で、より多くの人にその内容が知られるようにすることが大切だと思う。また、自分が当事者として、歩んできたこと、経験を記録し、発表することも重要な活動なのだ。人はみな歴史の中にいて、歴史をつくる存在なのだ。

参考
紙で持っていたい資料(「カルチベブログ」だま編集長の記事から)
https://karuchibe.jp/read/6664/

 

「女性」が活躍する花しごと

これは、口絵に載っていた写真だ。

昭和40年代の花のセリの様子だと思う。もちろん手ゼリだが、注目すべきは、女性の姿がとても多いことだろう。現在の花市場はオークションルームに女性が増えたというものの、やはり圧倒的に男性の買参人が多い。ところが、この写真ではむしろ女性の姿のほうが多く見える。

昭和20~30年代の写真ということだが、自分で仕入れた花を荒い六つ目の竹籠に入れ、リヤカーや自転車の後ろの荷台に積んで売り歩く女性のようすが見て取れる。

※口絵の写真の1枚は、「農耕と園藝」の1968年10月号の巻頭特集の記事から採られたものだった。「東北のカーネ栽培を革新する山形市肴町の鹿野さん(隆治・隆一)父子」というタイトル。写真のキャプションは、「鹿野さんのカーネがせりにかかる すべて地元市場出荷で市場でも品質は最高と好評(山形中央生花市場で)」となっていた。写真の奥の方、競り場の後方から見つめている帽子と袖カバーの男性が鹿野隆一さんだと思われる。カーネション(コーラル・ピーター)は長さを揃えて20本一束にして、稲わらでくくられている。持ち上げると茎がわずかに垂れ下がる。鹿野さんの切り前は満開直前だという。水稲2haをメインに大型のガラス温室3棟での切り花生産を加えた。この当時使われ始めたばかりの除草剤や専用ネット(クレモナネット)、緩効性肥料などの新資材を活用し作業負担を軽減、稲作との複合経営を軌道に載せた。カーネの栽培は、東北一の温室カーネ産地である宮城県名取市高柳の丹野正氏に教えてもらったという。鹿野隆一さんは、この50年誌にも文章を寄せている。三代目和夫さんは後を継いで就農し、どういうご縁か、1986年に「農耕と園藝」8月号に取材記事が掲載された。さて、その後、四代目はどうなっただろう。

※このあと、新庄市のハナヤ花店、軽部望さんに聞くと、鹿野(しかの)隆一さんはご健在で、農業は和夫さんから四代目の真隆さんへと引き継がれているそうだ。

東北の花市場と橋本家の歴史

仙台や山形の花市場がどちらも橋本家の人々(「橋本兄弟」と呼ぶ人が少なくない)が創設したという。その起源に関する記述があるので、ここに抜粋する。福島で父親が最初に市場を始め、その子どもたちが仙台、盛岡、福島、山形という順で花市場、仲卸を兄弟で経営していくという歴史がわかる。山形に花市場がない時代、花店は、福島の市場から送ってもらっていたという。

※橋本家が創設したのは山形生花地方卸売市場。現在、山形県内には山形生花市場(代表は橋本彼路士氏)のほかに、庄内生花市場(元の山形生花市場・庄内分場 代表者も同じ橋本氏)の2市場がある。

https://www.nmai.org/shijyou/shijyou05.html

 

私達八人兄弟
株式会社山形生花地方卸売市場 代表取締役社長 橋本彼路士

私達八人兄弟は、橋本与四郎・ハルを親に福島市笹木野で生まれ、家業は花の生産から徐々に販売することと成りました。親父が東北で一番最初に福島で市場を始め、その後子供達に市場を東北各地でやらせたいとの夢が有り、その夢を通す為、親父が始めた福島の市場を一旦閉鎖して、長男に仙台で市場を始めさせ、その後次男盛岡、三男福島、私四男は山形で市場を始め、五男弟は丁度、仙台で全国初の中央卸売市場花卉部の第一号として開場することと成り、そこで仲卸を始めました。

私は二十歳で昭和四十二(※1967)年に山形生花市場として、元共同生花市場跡(旅籠町)で開場し、一年後緑町へ移転し、更に昭和五十年、現在の和合町へ十倍の所に移転し、もうこれだけ広い所へ移ったので充分だなあと思っておりましたが、車社会と成り、それでも狭隘と成って隣地を次々に求め、県の方からの指導も有り、仲卸二社を入場させて、平成七(※1995)年現在のドーム型の市場と成り、今年の十二月で満三十九歳と成りました。(以下省略)

 

※戦後になって花市場が幾度もつくられ、あるいは組織替えされた理由は、マーケットの拡大にともなう流通の整備・拡充が生産者、小売店の両方にとって必要があったからで、市場の創立時には、生産者と花店がそれぞれに株主として名前を連ねている。山形生花地方卸売市場の前には、山形共同生花市場が存在していた。山形共同生花市場が解散するときに、山形県内の市場がひとつではなく、2つ残してほしいという希望が株主からあって、福島の橋本氏にお願いする形で山形生花市場が誕生した(稲毛氏)。

※トラック輸送が盛んになる前の花の輸送は、「国鉄の駅止め」がほとんどで、市場が駅まで引き取りに行っていた。花屋さんも遠くの店は汽車で、近くなら自転車で仕入れに通った(いなげ花店、稲毛氏による)。もうひとつの花市場、山形中央園芸地方卸売市場は昭和39年開設。サトウ花店のもととなった生花市場(山形で二番目の花市場だった)とムスメヤ花店が共同で開設した市場がもとになったそうだが(山形園芸市場+山形中央生花市場、通称:地蔵町市場)、10年ほど前に残念ながら閉鎖となっている。

戦前からつづく老舗花店

この本には、いろいろな花屋さんが自らの歴史を自分の言葉で綴っている。そのなかで、気になるのが、山形市の「ムスメヤ花店」に住み込んで丁稚をした、修行した、という人が何人もいることだ。詳細はわからないが、長い歴史のある花店のひとつだと思われる。平成16年に大内清介氏が山形市長から感謝状を受けたことが記されている。大内氏は山形中央園芸地方卸売市場(現在は閉場)の開設者であり、山形生花商組合の創立者の一人でもある。いなげ花店の稲毛隆位智氏の寄稿文によると、戦後、東根市の神町に進駐した米軍からクリスマスツリーの大量注文がムスメヤにあり、それが数年続いたそうだ。「フラワーちどり」の阿部好信氏によると、天童市のちどり花店にも米軍の将校がやってきて「オール、オール」と店の花をオケ何個分か、全部買っていったと母親の話を回想している。現在、神町には自衛隊の駐屯地がある。

生産者は野菜や花を街に運んで自ら売り歩いた。花屋にも持ち込み、逆に花屋が産地に足を運ぶこともあった。写真は、昭和16年にムスメヤ花店と取引を行った「通帳」だという。その都度、支払いをせず、通帳に記しておき、後日まとめて決済した。(生産者、広谷冨雄氏)

山形県内には古くから現在まで続く花店がいくつかあり、ムスメヤ花店のほかに、「花菊(明治時代~)」「青木生花店(大正12年頃~)」「花のマルハナ(大正後半~)」「ハナゾノ(大正5年~)」、「花省(昭和10年以前~)」「アライ花店(昭和初期~)」「花政(戦前~)」などがある。

「かいや花店」の海谷とみをさんのご主人は、戦前に東京の目黒区にあった造花製造所で勤務後に帰郷、出征し、帰国後に花づくりと行商から仕事を始めた。『園藝探偵3』で花の行商について書いたが、とみをさんの場合は、山形市内から新庄まで行商に出ている。戦後の混乱期だったこともあり、列車に荷物を乗せるのがたいへんだった。しかし、このとき、「ガンガラ部隊(魚の行商をする女性の集団、ブリキの魚函を担いでいた)」の人たちがとても親切に手伝ってくれ、大量の荷物を乗せることができたと書いている。

花省の鈴木輝夫氏の文章によると、先代は生け花の花材を取り扱っていて、市場のできる前、一部は静岡の仲卸を利用していたが、ほとんどは、地元で農家を回って花を切っていたという。朝暗いうちに出かけて、青野、青柳、中里、釈迦堂、二井田、飯塚等を回ったとある。ハナゾノの花園朋一氏は三代目。戦前はやはり、生け花の花材や供花が中心だった。二代目は出征、戦後は花市場もなく、流通経路もなかったため、産地や生産者を探すのに非常に苦労をしたという。近隣の農家に花づくりをお願いし、それを集めるのだが、自動車もなく人が担げるだけ担いで持ってくる、それを店頭に並べて売る。今では考えられないくらいのんびりとした、そして勤勉でなければできない時代だったと記されている。

東根市の「モモヤ花店」も古い。こちらは大正4年の創業。桃谷政博氏によると当初は、生鮮品・缶詰乾物等を扱う「モモヤ本店」というスーパーのような、当時では先端の業態だった。この店の一角で造花等を扱いはじめた昭和24年(※29年?)を初代創業としている。当時、生花の需要はまだまだ少なく、造花・盛籠が中心だった。材料が思うように入手できず、ムスメヤ花店の大内氏に分けてもらい、その荷物をバスで送ってもらい、近くのバス停で受け取り商売をしたと記されている。

精徳園花店の青山精徳氏は、農家の八人兄弟の長男として生まれ、戦後の食糧難が一段落したころ、花づくりから始めた。家には昭和17年頃に建てた野菜苗を育てるガラス温室があったが、昭和30年頃に新聞で農業用の「ビニール」ができたことを知る。さっそく千葉県から資材を汽車で送らせ、駅までリヤカーで取りに行った。こうしてつくったハウスは、県内でも最も早い時期のビニルハウスだった。人の背丈ほどしかないアーチ型のビニルハウスを2棟、ひとつはトマトと早出しのニラ用に、もうひとつのハウスでカーネーション(コーラル種と大輪種の2種)を育てた。しかし、大輪種は「ガク割れ」がひどくてやめてしまった。

※本稿は、山形県新庄市万場町のハナヤ花店、軽部望さんの協力で資料を手にし、記事にすることができました。あらためて感謝を申し上げます。

 

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プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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