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第39回 宮沢賢治の草のリース

公開日:2019.11.8

『教師 宮沢賢治のしごと』

[著者]畑山博
[発行]小学館
[入手の難易度]易

教師、宮沢賢治

『教師、宮沢賢治のしごと』。著者の畑山博は、放送作家をへて小説家となり、1972年には芥川賞を受賞している。後年は文学研究、とくに宮沢賢治研究に力を入れた。この本では、資料や教え子への取材を通して、賢治の教師としての姿や「個性とルールの調和」を特長とするユニークな授業の様子を再現する。

宮沢賢治(1896~1933)は、その人生で約5年弱、教師として子どもたちと触れ合った。大正10(1921)~15(1926)年頃である。妹トシは、賢治より一年早く花巻高等女学校の教師となるが、病気悪化のために退職、療養生活に入った。賢治は妹と交代するように岩手県稗貫郡立稗貫農学校の教諭となった。学校は、その後県立花巻農学校と改称する。トシは、闘病もむなしく、翌22年に逝去した。この間、童話や詩など膨大な量の作品を書いている。「春と修羅」(自費出版)、と「注文の多い料理店」を刊行したのもこの時代だが、本は売れず専門家から評価されることもなかった。その後、農学校を自ら辞し、「羅須地人協会」の活動を始めた。実践者として農地を耕し、周囲の青年に肥料設計などを指導したほかレコード鑑賞会などを開いた。

大正の終わりから昭和のはじめにかけての日本は、天候不順の年が増え、とくに東北の農家は度重なる凶作に苦しめられた。賢治は農業指導者として人々と共に苦しい時代を生きた。教師、宮沢賢治はそんな厳しい環境にあってなお、子どもたちが強く生きていけるように、現実の問題へすぐに応用できるような知識や技術を教えると同時に、演劇や詩や音楽などを通じて暮らしの中に楽しみを創造することを教えた。

賢治はどんな先生だったのか

賢治先生は、生徒に対してけっして威圧的ではなく、わかりやすく、ユーモアにあふれた授業をした。著者は、賢治の教師としての姿勢や生徒の関係を「演奏者と楽器」にたとえている。教師としての実経験が、「イギリス海岸」「台川」「イーハトーボ農学校の春」といった作品のなかにも反映されている。賢治は、どんなふうに生徒たちを慣らしたのか。

教え子のひとりは、授業を受けるに当たって守るべき3つのルールについて語る。「先生の話を一生懸命聞いてくれ」「教科書は開かなくていい」「頭で覚えるのではなく、身体全体で覚えること。そのかわり大事なことは身体に染み込むまで何回でも教えるから」というものだった。賢治先生自身も教科書は閉じたままで生徒に向き合い、板書した。そういうスタイルでできるほどに十分に準備をして授業に臨んでいたのだ。

担当していた科目は、英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、それに実習などだった。応用に基礎を置き、それから公式というふうで、覚えることよりも考えることを重視した。まず具体的な事例を取り上げて質問し、解説。理解が得られてから、抽象的な方程式を教える(具体→抽象)。図を多用してビジュアルでわかりやすく、早く覚えられるように工夫した。「きみらは東京へ行って百姓をやるのではない」と言い、自分の地域の風土についてしっかり学ぶよう求めた。英語の時間には、ゲーム形式でスペリング競争をさせた。2チーム対抗で相手の出した単語のあとに続けて単語を発表し合う。辞書を引いてもよく、単語を覚えながら辞書の扱いにも慣れていく。詩や俳句を作り、歌を歌う。遠足(実習)にもよく出かけた。教科書を読ませ、暗記させるだけの教え方しかできない教師とは大きく違っていた。

肥料学の授業

賢治は、土壌学や肥料学でもわかりやすい説明ができた。難しい用語を使わず、ストーリーとして物事を説明していく。たとえば、「酸性土壌」を教える場合はこんなふうだ。「酸性土壌かどうかは、まず見れば、スギナ、ジシバリが多く生えるのですぐわかる。見つけたら、硝石灰をやって、土をなだめなければいけない」。目で見えるように教える。目に見えるものほど実地に役立った。

このころ、ちょうど化学肥料が広く使われ始めた時代で、最新の知識と古くから農村に伝わってきた施肥の知恵とをどう調和させるかが問題になっていた。人糞や家畜由来の肥料と化学肥料の組み合わせといったことだが、賢治は、教科書にかかれている成分ではなく、実際に用いられる材料の名をあげて原理原則を説明し、覚えさせる工夫をしていた。それゆえ、実習を大事にした。「肥料設計をするときは、田んぼの畦に立って、暗算できるようでなければしようがない」と話した。主な自給肥料であるチッソ、リンサン、カリの三要素含有量と金肥(人糞)の三要素成分などについては、徹底的に暗記させられたという。「硫酸アンモニアを追肥するとき、5%のアンモニア液をつくるには、このくらいの肥桶(こえおけ)一杯分の水に、このくらいの硫安をいれたらいい」というふうに具体的に教えている。教え子たちは、飼っている家畜を馬から牛に切り替えるというときは、それぞれの糞尿に含まれる成分が違うから、計算も変える、そういうことができるような応用力を身に着けていった。

ほかにも、以下のような記述がある。

・賢治は「東北地方の稲作は冷害を度外視しては絶対に間違う」と常に言い、肥料設計は10a当たり、N=7.5kg、K=7.5kgを目安にするが、寒いときは特にN(窒素)を控えるようにと教えていた。

・生涯に数千枚という肥料設計を見知らぬ農家の人たちにしてあげていた賢治が、教え子の卒業生にはしてくれなかった。「きみたちには、肥料設計の仕方を、きちんと教えてあるのだから、きみたち自身でやりなさい」というのだった。教え子たちは、前年の収穫量、土地の地質、今年の気候などをしっかり読んで作物と綱引きするようにして追肥を施していくコツをつかんでいった。

・(羅須地人協会時代)自活のため、花を育てて切り花として売りに行く賢治のことを教え子がこんなふうに伝えている。「籠のせたリヤカー引いて『花コいいすか?』と行くのです。すると皆、金持の息子さんがやっていることだからと思って、つい金を払うことを思いつかないのですね。『みつき歩いたけど、金コ集まらぬ。それで、今度は種にしてみた。そしたら売れた。』と先生は言っていたのです。(根子吉盛)

最後に、賢治と生徒とのふれあいと秋の日の「草のリース」について書かれた教え子の証言を掲載する。フラワーデザインや植物装飾を考えるときに、この話がひとつ、透明なスクリーンに映し出される古い映画のように暖かく、また親しみを持って記憶される材料になればいいと思う。

ススキの花輪 (『証言教師宮沢賢治先生』p312)

一年の秋、先生と寄宿舎の生徒と私とで鉛温泉に行ったことがある。全部で七、八人。夕方から出かけて行ったのだが、夜の散策か何かだったと思う。月の良い夜でススキが盛りだった。鉛温泉には外来者用ぶろがあり、私たちは深夜、長い階段を降りて行って湯に入った。その帰り、先生がみんなを見回してこんなことを言う。オレを入れて全部で何人いる? そうか、これだけか、じゃあみんなの入浴料を払って行こう。先生はいつも胸ポケットに手帳を持っていたが、見ていると、その一枚を破り取って、無断で何人か入らせてもらいましたと書いている。そうして引き上げる時、その紙切れと料金をそこへ置いた。

その夜はどこで泊ったか覚えていない。その翌日だったに違いない。みんなで歩いて農学校へ帰った。その途中、志戸平温泉のちょっと手前のあたりに、広大なススキの平原があった。今の労災病院の辺りだったか。そこへさしかった時、先生が、よし花輪を作ろうと言う。私にはピンと来ない。作り方も皆目わからない。ところが、先生が作ったのはススキの花輪だった。ススキを束ねて直径七十~八十センチの輪にし、つる草を巻いてそこにキキョウとかオミナエシといった野の花をさす。文字通り花輪だった。先生はそれを首にかけてホーホーホーと踊りながらススキの中へ入って行った。私たちも続いた。みんな花輪を首にかけてホーホーホー、手をあげ、ススキをかけわけてホーホーホー、ホーホーホー。秋の午後、こうやって踊りながら学校へ帰って来た。(「啄木・賢治・光太郎」柳原昌悦 昭・三卒)

※柳原は、1933(昭和8)年9月11日に、宮沢賢治が死の10日前に書いた最後の手紙を受け取ったひと。
参考 https://note.mu/hys2go/n/n583eba6f8ea8

参考文献
『証言宮沢賢治先生 : イーハトーブ農学校の1580日』 佐藤成 農文協 1992
『宮沢賢治年譜』 堀尾青史/編 筑摩書房 1991
学校劇『植物医師』宮沢賢治(青空文庫のサイトから)

※実際を知らない「植物医師」のようになってはならないこと、自分で考えない農民になってはならないことを喜劇の形で教えようとしていた?
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/42346_15979.html

『或る農学生の日誌』宮沢賢治(青空文庫のサイトから)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45471_36075.html

『農民芸術概論要綱』宮沢賢治(青空文庫のサイトから
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

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#ススキ#草地#農学校#土壌#肥料#農民芸術

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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