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第41回 「富有柿」の生みの親 福蔦才治

公開日:2019.11.22

『富有柿発祥の地 瑞穂市~福嶌才治さんありがとう』

[発行]瑞穂市柿振興会
[連絡先]ぎふ農業協同組合巣南支店「瑞穂市柿振興会」
[入手の難易度]やや難

甘柿の王様「富有」

令和元年11月15日の日本農業新聞に、安倍晋三首相が柿を食べたという記事が載った。14日、地元で採れたばかりの柿を携え、永田町の官邸を表敬訪問したのは、奈良県農産物生産・流通部会果樹部会の方々だった。「奈良の柿」PRレディらとともに、旬を迎えた県産カキ「富有」を寄贈し、輸出拡大も含めて奈良の柿の事業拡大をPRした。この日は、総理主催の「桜を見る会」に関連してマスコミが首相の動向に注目しており、表敬訪問の様子はテレビなどでも取り上げられている。産地の関係者によると、今年は残暑が続き例年より着色が遅れたが、全体的には天候に恵まれ大玉で糖度も高くよいできだという。安倍首相はその場で試食し、「立派な柿だ」「ジュージーかつコクのある甘さ」と語り味わった。また、毎年恒例となっている俳句も披露した。首相は、新元号の時代にかけて「柿食えば令和輝く奈良の町」と詠んだという。

※参考
https://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/191114/plt19111417480024-n1.html

今年は、甘柿の王様、「富有」という品種が命名されて120年目になるという。今回紹介する本は『富有柿発祥の地 瑞穂市~福嶌才治さんありがとう』。富有柿発祥の地、瑞穂市の生産者グループが企画・制作した本だ。10月25日の日本農業新聞に、この本についての記事が載っていたので、欲しいなあとSNSでつぶやいたら、友人が僕あてに送ってくれた。感謝。

それは、さておき、タイトルにもあるように、富有柿が誕生した場所は、「岐阜県瑞穂市」だ。明治31(1898)年のことだという。なのに、なぜ話の冒頭に奈良県の富有柿の話題を持ってきたかというと、理由がある。そもそも、富有柿の育種親になったのは、「御所柿」という甘柿の系統で、これは奈良地方に出てきた古い品種で、江戸時代には、すでに広く全国で栽培されていたものだからだ。柿は、もともと大陸原産(中国中南部地方)の果樹だというが、弥生時代の遺跡からも建材や炭化したタネが出てくるほど古い時代に日本列島に定着し、以来、日本固有の果樹、世界でも「KAKI」として流通するほど広く知られる果物になった。品種数は甘柿、渋柿合わせて800品種(千種類とも)を超えるという。日本に移入され実際に広く栽培されるようになるのは奈良時代以降らしいが、当時の都があった奈良や大和地方で柿の栽培が盛んになるのは必然だろう。なかでも甘柿の「御所(ごしょ)」のルーツは江戸時代初期にさかのぼり、旧・奈良県南葛飾郡御所(ごせ)村を原産とし、同県五瀬村が特産地として知られた(現在の奈良県御所市)。砂糖などない時代に希少な極上の甘柿として宮中への献上品や幕府の御用に用いられた。茶菓としての需要も大きかっただろう。

正岡子規と柿

大和地方の柿といえば、正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な句がある。子規は、病のために晩年は寝たきりになってしまうが、果物が大好物でひんぱんに、また大量に食べた。果物好きは子ども時代からだったそうだが、特に柿は大好物だったようだ。「くだもの」という小文によると、〈二ヶ月の学費が手に入って牛肉を食いに行たあとでは、いつでも菓物を買うて来て食うのが例であった。大きな梨ならば六つか七つ、樽柿たるがきならば七つか八つ、蜜柑ならば十五か二十位食うのが常習で〉、旅先でも酒は飲まないのに梨や柿をたくさん食べるためにずいぶんお金がかかったという。子規は、ほかにも、果物は一般に芯よりも皮に近いほうが旨いものだが、柿は逆で、〈柿の半熟のものは、心の方が先ず熟して居って、皮に近い部分は渋味を残して居る。また尖の方は熟して居っても軸の方は熟して居らぬ〉などと詳しく述べている。病が進んでからは、ついに、毎日、欠かさず果物を食べるようになった。毎日だから、珍しいものがなくなるほどいろいろと味わう。そのなかでも、柿はいつまでも飽きずに食べられた。〈柿は非常に甘いのと、汁はないけれど林檎のようには乾いて居らぬので、厭かずに食える。しかしだんだん気候が寒くなって後にくうと、すぐに腹を傷いためるので、前年も胃痙をやって懲懲した事がある〉などと書いている。

「御所柿を食いし事」と題した小文では、「鐘が鳴るなり法隆寺」という句をつくる前日に、東大寺のすぐそばで、御所柿を食べながら東大寺の鐘が鳴るのを聞いた、という話が出てくる。「法隆寺ではなく東大寺だった説」の元になった文章だ。ときは明治28年、10月末のことだった。宿で御所柿を求めると、驚くほど大量に盛ってきて、どんどん皮をむいて出してくれている。産地の、こういう雰囲気がとてもいい。〈この時は柿が盛んになっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったか其処らの荒れたる木立の上を淋さびしそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。〉

図1 昭和4年頃に撮影された「富有」の原木 この木は1940年頃に枯死したという。(『柿の栽培技術』)
図2「富有」の特徴 果形は扁円、横断面は方形に近い(『柿の栽培技術』)
図3 富有柿の荷造り 詰め物に使う大量の木くず=木毛(もくもう)が見える(『柿の栽培技術』)

「富有」命名から120年

奈良時代の都周辺から広がっていった柿は、各地で栽培され土地にあった品種が特産化していく。「御所」も本家の奈良より岐阜をはじめとする他地域での生産のほうが多くなっていった。「御所」収量が少ないことが欠点だった。明治になって「富有」「次郎」といった甘柿の品種が出ると徐々に作られなくなっていく。「富有」のふるさと、岐阜(美濃地方)での柿の歴史は古く、奈良時代には特産物として有名だった。江戸時代中頃の全国『産物帳』には、美濃国で49品種と最多の品種数がみられるという。そして明治30年代になると、現在の甘柿の代表的品種「富有」が登場する。柿には渋柿と甘柿があるが、樽柿、干柿などに加工できる渋柿に比べ、甘柿は保存性が悪いため、江戸時代までは、岐阜における渋柿と甘柿の生産量は同じくらいだったそうだが、交通の便が発達する明治以降は、甘柿が数多く生産・出荷されるようになった。産業としての柿栽培が盛んになるのは明治以降の果樹振興策も後押しになっていて、「富有」は、こうした時代に生まれたスター品種だった。他の園芸品と同じく、戦争が激しくなるとその多くが伐採され、畑にされたというが、戦後は再び栽培面積を広げていった。現在の主な柿の生産地は、和歌山、福岡、奈良、岐阜、山形各県となっている。

「富有」はもともと瑞穂市居倉の小倉長蔵宅地内の「居倉御所」と呼ばれていたものを母とし、同地の福嶌才治(ふくしまさいじ)がこれを接ぎ木し、個体選抜と系統選抜を繰り返しながら試作を重ね、各地の品評会や共進会、博覧会などに出品した。品評会では、直ちにその優秀性が認められ、その名が知られるようになる。福嶌才治は、骨董商の家に長男として生まれ、医師を目指した人だった。しかし、健康を害したために医師を断念し帰郷、父の隠居とともに二十歳で家督を相続するが結局は、隣家、小倉長蔵方にあり形状風味に優れていることで知られた柿(1820年に長蔵の祖母、小倉ノブが植えたとされる)を素材に品種改良の道に進路を変えていった。明治25(1892)年秋に岐阜で開催された品評会に初めて出品(当時は「居倉御所」として)すると、いきなり一等賞に輝いた。医師になるために研修中に学んだ生物学や遺伝といった勉強が役立ったのだ。その後、才治は静岡県興津町(現・清水市)にあった国の農事試験場の園芸部長、恩田鐵彌博士の指導を受け、穂木の採取や接ぎ木による苗木の育成、新品種の改良などに努力を重ねた。「富有」の栽培面積は、穂木の生産にともなって、隣村の席田村郡府(現・本巣市郡府)から少しずつ広がっていった。福嶌才治は残念ながら、1919(大正8)年、病により55歳という若さで亡くなった。才治のあとは、郡府の松尾松太郎らが本格的な苗木生産に取り組み、急速に広まっていく。

自分の育てた新しい品種を世に出すためには、新しい名前をつけ、それで品評会に出していく必要があると考えた才治は、かねてから親交のあった川崎尋常小学校(現・瑞穂市西小学校)の校長、久世亀吉に相談した。そのとき才治は「富有」と「福寿」の2案を考えていたという。「福寿」は観音経にある言葉から、「富有」は、中国の古典『礼記』大学編十七章にある「富有四海之内・・・」によっている。徳があればその富は四海の内を有(たも)つほどに豊かという意味があるという。久世は、「優れた素質のあるものは世の中すべて、すなわち四海に広まる」と解説し「富有」を推した。こうして名付けられた「富有」は、久世の予言した通りになり、昭和初期から令和の現在まで、柿の王様として君臨し続けている。

図4 岐阜市場にて競売(セリ売り)開始前のようす (『柿の栽培技術』)
図5 荷造り各種(『柿の栽培技術』)
図6 各種のレッテル(ラベル)(『柿の栽培技術』)

接ぎ木技術のこと

富有柿の苗木をたくさん作るためには、「接ぎ木」が欠かせない。丈夫な柿の実生台木に殖やしたい柿の芽2つ付けた穂木を接ぎ木する。福嶌才治も、「居倉御所」と呼ばれる原木から採った枝を接ぎ木して苗木を作っていった。かつて、どのような接ぎ木技術があったのか、大蔵永常による『広益国産考』第4巻の図から以下に示す(国立国会図書館デジタルコレクションから)。

※参考 『広益国産考』(国立国会図書館デジタルコレクション)コマ番号29~39
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802209

図7 台木を用意する。タネを蒔いて、その秋には50~60cmほどに伸びる。これを抜いて寒さよけをしながら冬越し、春に間隔を開けて植え直し秋まで大事に育てると、キセルほどの太さで120~150cmの高さまで生長する。この根本にワラをおいて越冬させれば、翌春には接ぎ木用の台木となる。
図8 穂木はしっかりと吸水させておく。ワラを柔らかく打ってしっかりと巻き結ぶ。
図9 継ぐ時期は2月の末、芽が膨らもうとする頃がいい。冷たい風がはいらないようにする。継いですぐに雨が降りそうな場合は、腐らないように、竹の皮をかぶせて保護しておく。10日ぐらい経ったら皮を取る。

参考
『柿の栽培技術』 石原三一 賢文館 1940年
『大日本農会報』第343、344、354号   ※大日本農会のHPからDL可能
『品種改良の日本史』 鵜飼保雄/大澤良・編集 悠書館 2013年
『広益国産考』大蔵永常著 土屋喬雄校訂 岩波書店 1946年
『くだもの』正岡子規 青空文庫から
https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/50383_40116.html

 

検索ワード

#柿#品種改良#岐阜県#奈良県#恩田鐵彌#正岡子規#接ぎ木#大蔵永常

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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