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第42回 甘柿の奇跡

公開日:2019.11.29

『品種改良の日本史 作物と日本人の歴史物語』

[著者]鵜飼保雄
[編集]大澤良
[発行]悠書館
[入手の難易度]易

『NHK趣味の園芸 よくわかる栽培12か月 カキ』

[著者]出町誠
[発行]NHK出版
[入手の難易度]易

『柿づくし 渋柿、干し柿、柿酢、柿ジャム、紅葉保存』

[著者]濱崎貞弘
[発行]農文協
[入手の難易度]易

『岐阜県のカキ―生活樹としての屋敷柿とかかわった暮らしの歴史-』

[著者]石垣和義
[発行]樹林舎
[入手の難易度]易

前回に引き続き、柿の話をしてみたい。というのも「富有柿」のことを調べるより前に、「柿」について知らないことがいっぱいあったからだ。書き残した感じがあるので、今回それを少しほかの本を参照しながらメモしておこうと思う。

「富有」の育種親について

『品種改良の日本史』に収められている「カキ」の項は、農研機構果樹研究所の山田正彦博士が担当された。著者は1988年に岐阜県本巣郡南部の品種調査をおこない、「富有」の育種親についての仮説を見立てている。このことは、『富有柿発祥の地 瑞穂市~福嶌才治さんありがとう』の中でも記述がある。「富有」のふるさと、本巣郡南部には、非常に狭い範囲にも関わらず、「富有」「天神御所」「裂御所(はぜ)」「蓆田御所(むしろだ)」「晩御所(おく)」などの先が尖っていない「完全甘ガキ」品種が分布しており、扁平なものはなかった。ところが、「富有」は「種子脱渋力遺伝子」(種子の脱渋力については後述)があるため、この祖先には、「不完全甘ガキ」か「不完全渋ガキ」があるはずなのだという。このような推察をもとに、この地域のカキを調べると、晩生の不完全甘ガキ「妙丹」(新妙)があった。この品種は東海地方に分布しており、場所によっては「天竜坊」とも呼ばれているという。この「妙丹」「天竜坊」こそが「富有」の祖先で、福嶌才治が交配に使った品種なのかもしれない。山田は、「今後の研究が期待される」と結んでいる。

甘ガキと渋ガキ

カキが面白いのは、「甘ガキ」と「渋ガキ」があることだろう。平安時代、10世紀ごろには、宮中祭礼の菓子として「熟柿」と「干柿」が使われていたという。「熟柿」とは渋ガキを完熟させたもので、「押すとすぐつぶれる(=渋が抜けた)」状態。干柿は同じく渋ガキを用いるが、やや硬い時期に収穫し、皮をむいて干したものだった。

カキの品種は、「甘渋性(あましぶせい)」によって4つに分類される。全体の6割が渋ガキで4割が甘ガキ。この甘ガキのうち完全甘ガキは1割に満たないくらいしか存在しない。全体的に見ると、不完全甘ガキと完全渋ガキが多い。不完全渋ガキはかなり少なく、完全甘ガキはごくわずかしかない、ということである。

①完全甘ガキ PCNA 種子の有無に関係なく脱渋・・・種子の有無に関わらず、甘ガキとなる。樹の上で自然に脱渋。もともとタンニンの量が少ない。断面を見ると少量の「ゴマ」=褐斑(タンニン細胞)が見られる。「富有」「次郎」「伊豆「太秋」「御所柿」など

②不完全甘ガキ PVNA 種子ができると脱渋(褐斑出る)・・・樹の上で脱渋して甘くなるが、脱渋には種子が必要。果実に種子ができると、「果実全体」に黒褐色のゴマが生じる。種子ができなければ、渋いままとなる。種子が少なくても甘くなるもの、種子の数が多く必要なものなど品種によって差がある。「筆柿」「西村早生」「禅寺丸」「栃原柿」など

③不完全渋ガキ PVA 種子の周辺のみ渋が抜ける(褐斑出る)・・・種子ができても全体的に渋みが残る。種子の周辺だけゴマが生じる。「平核無(ひらたねなし)」「富士」「会津身不知(あいづみしらず)」「刀根早生」「甲州百目」「太天」など

④完全渋ガキ PCA 種子の有無に関係なく渋い(褐斑なし)……樹の上で脱渋しない。種子の有無に関わらず、渋ガキとなる。断面にゴマ(褐斑)は生じない。「愛宕」「西条」「三社」「市田柿」「法連坊」など

分類から分かるように、「種子」にはカキの実を甘くする何かがあるようだ。カキの実に種子ができると種子から脱渋物質であるアセトアルデヒドやエチルアルコールといった揮発性物質が生じて果肉に影響を与え、果肉には褐斑が生じさせる。褐斑は、水溶性のタンニン物質がアセトアルデヒドによって凝固してできる。種子のもつ脱渋力(種子脱渋力)の強い品種が不完全甘ガキ、弱い品種が不完全渋ガキ、能力のない品種が完全渋ガキ、というふうに言えるのだという。

「さるかに合戦」の争いの原因

日本の昔話、「さるかに合戦」では、さるがどこかで拾った柿のタネをかにが持っていたおむすびと交換するところから物語が始まる。かには柿のタネをまき、大事に育て、やがて実をならせる(「さるかに合戦」もまた園芸的な話なのだった)。かには木に登れないので、さるに採ってくれと頼むのだが、さるは、自分だけ樹の上で熟した実をうまそうに食べ、下にいるかににむかっては、まだ青い硬い実を投げつけ、殺してしまう。この事件をきっかけに、子ガニたちによる復讐劇になっていくわけだ。さて、ここに登場するカキの実は、どんなカキだったのか。『カキ』の著者、出町によると、タネから育てたカキの実が完全甘ガキになる確率は非常に小さいから、おそらくは、不完全甘ガキであっただろう。先に述べたように、不完全甘ガキの場合は種子の周りが甘くなるので、さるは種子が多く入った甘い実を食べた。また種子が少ないもの(渋果)は色づきが遅い性質があるため、さるがかにに投げつけた硬い実は渋い果実だっただろうと推察している。

完全甘ガキ「富有」の奇跡

「さるかに合戦」の柿は、素性のわからないタネから甘ガキが得られたということで、これは、非常に幸運だったというのは、『柿づくし』の著者、濵崎貞弘だ。甘ガキになる遺伝子が劣勢のため、甘ガキの花粉親が渋ガキや不完全甘ガキだった場合には、まず確実に渋ガキが出てくる。それゆえ、かには強運に恵まれていたといえる、そんなふうに書いている。

こうして見てくると、「富有」のような完全甘ガキを世に出すことがいかに貴重なことだったのか、あらためてその奇跡を思う。完全甘ガキ性は遺伝的に完全劣勢。カキは六倍体であるため、「完全甘ガキか非完全甘ガキ(渋ガキ、不完全甘ガキ)かを決める遺伝子は、六つの染色体に一つずつ存在する遺伝子座にある。この六つがすべて完全甘ガキ性の遺伝子となったときにだけ完全甘ガキとなる」。(山田『品種改良の日本史』)このような奇跡的な組み合わせでできる完全甘ガキには、「種子脱渋力をもち、種子からセトアルデヒドが生じる完全甘ガキ」(「富有」のような)と「種子脱渋力の無い完全甘ガキ」(「次郎」「花御所「御所」など」が存在する。

繰り返しになるが、種子の有無にかかわらず、甘ガキとして食べられる品種を甘ガキという。「富有」「次郎」「太秋(たいしゅう)」「早秋」「伊豆」などの品種がある。完全甘ガキにもタンニンが含まれているが、果実発育の途中でそれ以上の蓄積がなくなり発育とともに薄まっていくこと、また、果実が発育するとともに少しずつ不溶性となっていくため、秋の成熟期には渋みを感じなくなるのだという。

完全甘ガキは、日本では暖地でだけ完全な甘ガキとなる。寒冷地で育てると渋みが残る。そのため、完全甘ガキの主産地は東海、近畿、瀬戸内、九州といった温暖な地方に偏っている。

一方、渋ガキは、江戸時代から栽培の主役だった。大蔵永常の『広益国産考』には、次のような説明がある(現代語訳)。「甘柿は、熟してから食べる期間はわずか三十日にも及ばない。農家で庭に五本とか七本とか植えて収穫しているが、わずかな量にすぎず、その地方の特産物になるほどのこともない。たくさん作って利益を得、その地方の特産物とすることができるのは、渋柿である」。保存や流通技術の乏しかった時代、カキは商品作物としてというよりも自家消費を中心としていて、諸国に品種は数多くあったが、いずれも庭に植えて口や腹を満足させているところが多かった。『岐阜県のカキ―生活樹としての屋敷柿とかかわった暮らしの歴史―』は、人々の暮らしに身近にあった地域の屋敷柿を詳しく紹介している。美濃(岐阜県)では古くから柿を大事にし、多数の品種があった。保存樹として大切にされる古木も多い。栽培や加工についての歴史や文化についても記されている。柿はおいしいスイーツやデザートでもあり、木陰をもたらし風よけに、といった日常生活のためでもあり、飢饉に備える保存食としての価値も重視されていたという。この本では「富有」の「母木」についても触れている。以下、その部分の抄録。

大正十年、「富有柿原木」が暴風により倒伏損傷、その後遺症大きく、昭和四年三月に小倉氏宅の家屋新築のため、原木が移植されるとその年萌芽せず、原木は枯死したと『柿の栽培技術』(石原三一著・昭和十五年刊)に記されている(※これが、前回の記事に添付した図1の写真と思われる)。現在の「富有柿の母木」はその後に、小倉氏宅の離れ南側に植えられたもので、幹が二本に分かれており、枯死した「富有柿原木」に樹姿がとてもよく似ている。

カキの接ぎ木のこと

前回、『広益国産考』から接ぎ木についての項を図示した。継ぐ時期は「2月末」と書いたが、これは、旧暦のことであるので、現代の暦では、3月末ころということだろう。実際には、「4月上旬が適期」(出町『カキ』)だという。この頃に、2月に採取しビニル袋に入れ冷蔵庫の野菜室などで貯蔵しておいた穂木を取り出して継ぐ。

もう一度、『広益国産考』の図を見てみよう。

現代語訳を詳しく読むと、次のようなことが書かれていた。

・接ぎ木に最も適した季節は二月の末ころ(旧暦)、芽がふくれてまさに芽吹こうとするときである。

・このやり方は遠州の貞七という接ぎ木の名人が用いる接ぎ方のひとつ

・接ぎ口から風が入らないように接いだところに泥を塗っておく。

・接いだ日の晩や翌日に雨が降るような場合は、竹の皮をかぶせて濡れないようにする。これは、10日ほどで取り去る。

・四月中旬(旧暦)、接ぎ木がついて木質部が生育し始めたら塗った泥を取り、巻いておいたわらもほどいて、新しい縄で一巻きする。それは接ぎ木が風に吹かれて引き裂かれないための用意である。

接ぎ木したときに「泥を塗る」ということが大事だと書いてある。試しに船越亮二の『さし木・つぎ木・取り木』を見てみると、接ぎ木用テープでしっかりと結んだあと、「つぎ穂が乾かないように土を両側から盛る」と書いてあり、全体がかくれる程度に土をかけた図が描かれている。一方現在の『カキ』では、この「乾燥防止」策として「つぎロウ、接ぎ木用テープなどでぐるぐると接ぎ穂のてっぺんまで巻いておくように勧めている。

『岐阜県のカキ』によると、300年くらい前までは、竹の皮で覆っていたものが、その後150年くらい前にはハランを使うようになったこと。そして近年はビニルフィルムを用いるようになったと変遷を記す。岐阜県各地を調査した著者は、各地の名木、古木の半分以上が接ぎ木されたものだと述べている。推定樹齢からしても300~400年くらい前から広く技術が行き渡っていた。「富有」を生み出した福嶌才治も時間をかけて花の授粉、交配、接ぎ木などを試しながら育種に努めたのだろう。その過程を想像する。「桃栗三年柿八年」と言われるが、接ぎ木によって、品種の交配から開花・結実させるまで3~4年ほどに短縮できるという。マメガキが台木として多く用いられるが、「富有」など完全甘ガキでは、数年で樹勢が衰えるため、利用せず蜂屋柿を使う(『岐阜県のカキ』)。

柿の紅葉と保存法

濵崎貞弘の『柿づくし』では、さまざまな柿の加工品、とその方法が紹介されている。渋抜きや干し柿にする方法、料理やジャムのほか、葉をお茶や柿の葉寿司に利用する方法、さらに柿渋の利用などについても書かれている。面白いのは、「紅葉の保存方法」だ。たしかに、柿の紅葉は美しい。表面に複雑な模様が入ったように面白い色で染まっていく。庭で拾ってテーブルに置いて眺めたりしたこともあるだろう。ところが、この紅葉は寿命が短い。ほんとうに一晩で変色してしまう。こうした残念な思いをなんとかできないか、と奈良県で開発されたのが、「柿紅葉の超長期保存技術」。ビタミンCと塩を溶かした保存液を調合し、紅葉した葉を漬けて冷蔵庫に保存する、といういたって簡単な方法だという。美しい紅葉をつかった「柿の葉寿司」は、奈良県、和歌山県、石川県の郷土料理で、和歌山と奈良では紀の川・吉野川水系沿いに伝わっている。福井県から京都まで日本海の魚介類を送るルートがあったが、紀伊半島では、熊野灘であがるサバを送る南の「鯖街道」があり、紀の川・吉野川筋ではサバを美味しく食べるために柿の葉を利用し始めたという。柿の葉の抗菌作用はポリフェノールの一種によるものであることが分かっているそうだが、昔の人々はそれを経験から知っていた。「いわゆる生活の知恵のなかで、それを体得して利用してきた」のだ。

参考
『広益国産考 大蔵永常』 飯沼二郎・校注執筆 農文協 1984年第8刷(初版1978年)
『さし木・つぎ木・取り木』 船越亮二 池田書店 1999年

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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