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園藝探偵の本棚

第47回 植物の生命力をいただく~春の七草と

公開日:2020.1.3 更新日: 2020.1.17

『江戸年中行事と際物』都市の儀礼文化と近郊農村Ⅰ

[発行]東京都葛飾区郷土と天文の博物館(葛飾区民俗資料調査報告)
[入手の難易度]易

新年あけましておめでとうございます。今年も「園藝探偵の本棚」をよろしくおねがいします。うちの本棚は、昨年も結構な数で本が積み重なりました。とくに江戸時代と薬草関連が増えました。今年もこの傾向は変わらないと思います。2020年の第一冊目は、「春の七草」、「七草かご」について話をしてみようと思います。

「際物(きわもの)」

きょう紹介したいと思っているのは、東京都葛飾区の郷土と天文の博物館で出されている一連のリーフレットだ。「園藝探偵1~3」でも参考にさせてもらった。博物館で売っているので入手は簡単なのだが、京成電鉄の「お花茶屋」というステキな名前の駅から7~8分歩く。ミュージアムショップには、過去のものも含めて興味深い調査報告が並んでいるので十分に時間を取っていくといい(※常設展示は現在改装中)。

葛飾区郷土と天文の博物館
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/

現在の足立・葛飾・江戸川区、あるいは荒川・墨田・江東区は、都市の近郊にあって江戸時代から、さまざまなものを住民に供給してきた。近郊の農家が住む地域は、隅田川・中川・江戸川に挟まれた低湿地だった。洪水も多かったため、年一作の水田以外に短期収穫がねらえる葉もの野菜など畑作にも力を入れ、あるいは身近な自然から採取したものを加工する「副業」で、暮らしに役立つものを作って売った。まさに「生物文化多様性(※第46回参照)」を示す事例の宝庫だと思う。商品作物としての花の栽培も、こうした営みから始まり産業へと発達した。

「際物(キワモノ)」は、「年中行事に関連した商品、またはそれに類する芸能、季節感を演出する商品、そして寺社の祭礼で売られる縁起物」などを言う。江戸・東京でいえば、年末の酉の市で売られる「熊手」や「押絵羽子板」、菖蒲湯に入れるショウブの葉、朝顔、ほうずき、吊シノブ、お盆のさまざまな用品や飾り、正月のしめ縄・しめ飾り、門松。金魚や鳴く虫といった生き物もある(考えてみると、花屋というのは、こうした「際物」を扱うライフスタイルショップでもあるのだ)。際物の作り手は農家が多く、農閑期の仕事、副業として伝統に則って、都市で暮らす人々に受け入れられる商品を開発・製造・流通・販売に関わった。春の七草を味わう「七草かご」もまた、こうした人たちが担ってきた。

正月七日に粥を食べる行事

正月七日に「粥」を食べるのは、「人日(じんじつ)」という中国由来の節句に起源がある。明治6年に新暦を使うようになって五節句、すなわち人日(正月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(しちせき)(7月7日)・重陽(9月9日)の祝祭行事は廃された。詳細は省略するが、人日の節句とは、正月七日に若菜を入れた粥を食べて一年の無病息災を願う行事だ。江戸時代後期、江戸・大阪・京都の風俗について書かれた「近世風俗志(守貞謾稿)」の「正月七日」という項には、次のように書かれている。

・歌に詠まれた「芹、なづな、ごげう、はこべら、ほとけのざ、すゞな、すゞしろ」を七草というのだが、近頃は、1、2種を入れるだけになっている。

・三都ともに六日に困民・小農らが市中に出て売り言葉をかけながら七草を売り歩く。

・三都ともに六日に人々はこれを買い求め、同日夜と七日の早暁にこれを「はやす」。「はやす」とは、まな板にナズナを置き、その傍らに薪・包丁・火箸・すりこぎ・杓子・銅杓子・菜箸など七具を添え、歳徳神の方に向かい、包丁でまな板を打ちながら「はやす」。そのときの言葉は、「唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに、なづな七草、はやしてほとゝ」といい、江戸では「唐土云々渡らぬさきに、七草なづな」という。これを繰り返し唱えながら他の六具で順に叩く。かなり、にぎやかだ。

・ある書物には、7回1セットを7回刻むの49回叩くのがいいという。※はやし歌も7音でできている。

・京阪では、なづなのほかにかぶらなを加え粥に煮る。江戸でも「小松という村より出る菜」を加え煮る。※小松菜のことと思われる。

・江戸の七草爪。なづなを茶碗に入れ、水を注ぐ。その茶碗に男女が爪を浸して「斬初(きりぞめ)」すること。菜爪とも。

東京では同じで七草粥を食べるまでは粥をたいてはならず、七草までは人に物をあげてはいけないといった戒めが伝わっている(『生活の知恵』)。民俗学者、宮本常一は、日本の正月行事で、東京では七草なければシャミセン草(ナズナ)のみを入れる。代わりにホウレンソウの場合もあった。正月飾りは七日で取り去る。お供えの餅を入れることもあった。宮本の郷里の山口県では、ナズナとダイコンの葉を刻んで入れた味噌味の雑炊(粥)があったと書いている。この日を雑炊初めとよび、それまでは雑炊をたいても吸い物と呼ぶ。広島(備後山中・内海地方)でもナヌカビ・七日正月として休日とし味噌味の雑炊を食べるという。「とんとの鳥と・・・」という例のはやし言葉を唱えながら包丁の背で七草を叩くのは、「鳥追い」の行事と重ねて説明していて、日本の農村に広く鳥獣害をはじめとする邪悪なものを避けるための祈願をする日になっていた。

図1 武家の台所掛り。6日夜、紋付袴に麻上下で正座し、恵方に向かって七草を叩く。
※『江戸府内絵本風俗往来』中編 国立国会図書館デジタルコレクションから
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857
菊池貴一郎著 明治38 コマ番号11

牧野富太郎の「春の七草」

日本植物学のレジェンド、牧野富太郎博士は長命だった。「春の七草」が掲載された『植物記』は1943年の出版なので、81歳の頃だ。牧野先生は、本論とは関係のない余計なことをちょいちょい入れてくるのが味である。この七草の話でもこんな書き出しになっている。〈春の七草を書けと言う、ハイかしこまりましたとは請合うたものの時間さえあれば如何様にも書けぬ事はないが、実白状しますと頃日どう言う訳か用事輻輳(ふくそう)、一つ済めば直ぐ次の一つ、また次の一つと一向に際限がない。チットモ心を落ち付けて筆を執る暇がない。〉その暇がないところを工面して駆け足で書いた、面白くなかったらごめんなさい、という。そう言いながら、7種の植物の事について単刀直入に書いている(スズナとスズシロはともに1行ずつ)。

『植物記』から「春の七草」 国立国会図書館デジタルコレクションから(コマ番号97)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1064158

・セリは、水辺の野草。多数の白いヒゲ根を持つため、古来、ネジログサと呼ばれた。栽培品は、葉柄が長い。野生種の葉柄は「カジケて短いけれど、香はズット高い」。これを田ゼリと呼ぶ。西洋にはオランダミツバ(キヨマサニンジン)がある。現在のセロリ。

・ナズナを食するには〈煠(ゆ)でて浸しものにしてもよく、あるいは胡麻和にしても佳い。また油でイタメても結構ダ〉。

・オギョウであってゴギョウではない。古くからホウコグサと呼ばれた(現在の標準和名はハハコグサ)。ホウコの意味は不明だが、3月3日のひな祭りには、ホウコグサの葉を刻んで入れた草餅をついた。ヨモギ以前の文化で、香りも味もいいという。※草餅に利用する植物にヤマゴボウ・ゴンボッパと呼ばれるオヤマボクチがある。若葉や葉裏の白い毛を利用する。草餅に関してヨモギ以外の植物利用は興味深い。

・コオニタビラコ(キク科)=タビラコ=カワラケナ=ホトケノザ(古名)。標準和名ホトケノザ(シソ科)やキュウリグサ(ムラサキ科・別名タビラコ)は七草には用いない。

七草かごの作り手たち

『江戸年中行事と際物』のなかに「釣りしのぶ・七草のかご作り」(加藤友子)という論文がある。七草のかごは、江戸川区鹿骨(ししぼね)の地で多く作られていた。平和な時代が長く続いた江戸時代に発展した植木や花卉園芸の産地が大正期の工業化や関東大震災の影響で、花卉栽培は足立・葛飾・江戸川の地域に本場を移し、植木は埼玉県川口市安行周辺に移った。

七草かごの技術には、古くからの「寄植え」がある。正月の松竹梅の寄植えのほかに季節に合わせていろいろなものがあったという。鹿骨で最初に(昭和30年頃から)七草かごをつくり始めた「村勝園」の村山さんの事例が載っている。

・材料は地元で育てられたものを使う。

・すずな(金町こかぶ・自家生産)、すずしろ(亀戸大根・自家・10月始めから栽培開始

)、せり・なずな・ごぎょう・はこべら(自家・草物は彼岸前頃から栽培を開始)、コオニタビラコ(田んぼの畦から得る→これだけは栽培できないので千葉県の農家に依頼、11月下旬に収穫に出向く)。

・かごに入れるようになったのは、昭和30年代、向島百花園からの要望がきっかけ。それ以前は、土鉢に植えただけの姿で、深大寺では、かごなしで売っていた。古い時代は、なずなを掘って洗い、根つきのものをかごに山盛りにして八百屋で売っていたので、その風流なイメージに合わせたアイデアだったのではないか(なずな売り、なずな籠)。

・村山さんが使っている竹籠は、山梨県のブドウ園に特別に注文したもの。寄植えに使うポットを土鉢から楕円のプラポットに変えたときからブドウ園に頼んでいる。ブドウを入れる竹籠が七草の鉢にあっていたから頼むようになったのだという。他の生産者では、台湾や中国製の竹籠が多い。

・鹿骨地域で七草かごをつくっている園芸店は五店。鹿骨の村勝園、川手農園と植重(貸植木屋)、村勝園から独立した大黒屋園芸場(松島)と小池園芸(新堀)。

・七草には植物ひとつひとつに名札をつける。輸入のベビーヒノキを薄く裁断した札に自社で名前の印鑑を押して完成させる。出荷数1万個にもなる寄植えの名札差しはパートさんの主な仕事になる。

・若菜はもともと神様への供物であって、正月の供え物をみんなで分けて食べる「直会」が起源であり、それに室町以来の節句の公式行事が重なっていったものではないか(『年中行事図説』(柳田國男)による)。

・七草かごは、こうした年中行事を背景にしたものだが、比較的新しい際物だと思われる。(江戸川区のかご作りは昭和30年代から)。

ルーツは向島百花園を始めた佐原鞠塢(きくう)だと言われている。彼の著作『春野七種考』をもとに、江戸庶民になじみ深い「なづな売り」「なづな籠」などから考案したものか。百花園は秋の七草でも有名。

『春野七種考』北野秋芳(北野鞠塢=佐原)国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536507

図2 村勝園の七草かごの植え方 向島百花園で作られる「献上かご」と同じ配置(図は、『江戸年中行事と際物』からマツヤマ作図)

見えない植物の根

園芸は、生きた植物を生きたまま扱う生物学だと思う。園芸家は、博物学や本草学の流れを継ぐものたちだ。一方、民俗学は、文献によらず伝承を材料に「類推」という方法で地域の生活文化の変遷を明らかにする歴史学。文字を書けなかった人々の営み、名もなき人々の暮らしの記憶を「文献が残ってないから」、なかったことにはできない。民俗学の役割はまさにそこにある。さまざまな伝承や道具だけでなく植物とその利用のしかたも民俗学の材料になっている。人間と植物との原初の関わりには、不思議で危険な感覚や驚きがあっただろう。長い時間をかけて、人間はいろんなことを理解していった。薬になる植物には強い毒もある。古い時代、薬草が非常に貴重だったころには、それを収穫する人たちはどこにあるかを隠し、万が一にも近づかないように恐ろしい魔物の物語をわざと広めたという。

図3(左)マンドレイク(マンドラゴラ) イスラム圏で画かれたもの
13世紀のペルシャ人学者 ザカリーヤー・アル=カズウィーニー『イスラームの地の不思議と驚異』から(17世紀後半)
図4(右)ドイツでは「アルラウネ(アラウネ)」と呼ばれる。古いハーブ書『Pseudo-Apuleius』カッセル写本から(9世紀)

トウキというセリ科の薬草を掘り出すと、いかにも薬草らしい、例えていうとセロリのような臭いがしてくる。根洗いするとますます香る。トウキの根に含まれる薬用成分は水溶性なので、収穫後は土を落とすだけにして乾燥させ、しばらくしてから湯通しして干し、完成品とする。このような工程を経ることで成分が安定した形になるのだそうだ。科学的な分析もままならない時代に人間はこのような製薬の方法を見つけている。根がどうなっているのか、外からは見えない。見えないから想像がはたらく。実際に掘り出して、調理し食べることで、もっと理解が深まる。サトイモの皮を剥くときキッチンペーパーでよくふいてからやるとネバネバしにくい(粘るのは水溶性があるから)とか、仙台の郷土料理で有名な「せり鍋」は根っこがあるから旨い、とか、根つきのパクチーにやみつきになるとか、、、外からは見えない根っこの魔力に引き込まれる。僕は想像する。新春のキラキラ光る小川の土手で若菜を摘みながら、人間の好奇心や食べること、健康への欲求とか、そういう原初的な根源的な欲望と園芸の楽しみとが合わさって音を立てて流れ出す。

参考
『植物記』 牧野富太郎・著 筑摩書房 2008 (初出1943)
『近世風俗志(守貞謾稿)』(四) 喜多川守貞・著 宇佐美英機・校訂 岩波書店 2001
『絵本江戸風俗往来』 菊池貴一郎・著 鈴木棠三・編 平凡社 1965
『宮本常一 日本の年中行事』 宮本常一・著 八坂書房 2012(P22に懸鯛)
『農閑の副業 上』東京東郊農村の生産伝承Ⅰ 東京都葛飾区教育委員会 1991
『農閑の副業 下』東京東郊農村の生産伝承Ⅱ 東京都葛飾区郷土と天文の博物館 1992
『際物の市』 都市の儀礼文化と近郊農村Ⅱ 東京都葛飾区郷土と天文の博物館 1996
『際物作りの担い手』 都市の儀礼文化と近郊農村Ⅲ 東京都葛飾区郷土と天文の博物館 1998
『生活の知恵』 葛飾区の民俗Ⅶ 東京都葛飾区郷土と天文の博物館 2007

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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