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第51回 いざ合戦!クワ持って集合!~戦国時代の軍需物資と園芸技

公開日:2020.1.31

『軍需物資から見た戦国合戦』

[著者]盛本昌広
[発行]吉川弘文館(2008年泉洋社版の改訂版)
[入手の難易度]易

『戦国合戦の舞台裏 兵士たちの出陣から退陣まで』

[著者]盛本昌広
[発行]洋泉社(2010年版の増補新版)
[入手の難易度]易

『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか―家康のあっぱれな植物知識』

[著者]稲垣栄洋
[発行]東洋経済新報社
[入手の難易度]易

前回、江戸周辺地域のレンコン栽培について話をしたが、経済作物としてはリスクもあったようだ。『江戸東京野菜物語編』(大竹道茂・著 農文協 2009)によると、足立区では(足立の語源=葦立という説あり、低湿地だった)、洪水になると蓮田に泥が入り込みレンコンの収穫ができなくなることが度々あったという。収穫を見込んで借金をして肥料を買って栽培する農家も多く、水害=破産というリスクがあった。それでもうまく行けば高い収益を得られたため、投機的な性格の強い作物だった。

もうひとつ、レンコンについて。お城の堀にハスが植えられているのはなぜか、という話が『レンコンの絵本』に載っている。最初は深い堀でも、年が経つにつれて土が溜まって浅くなったところに誰かが植えて広がったところが多いのだが、青森県の弘前城(津軽氏)のように城ができたときから植えられている場合もある。

これは籠城に備えて食糧にするために植えられたものだ。言い換えると、あのハスは「軍需物資」だったのだ。辛子レンコンで有名な肥後の熊本城もさまざまな工夫で「食べられる城」だったという。また、上杉家の軍記『北越軍談』には、「城中にかねて植え置くべき草木のこと」という項目があり、「まつ、くり、えのき、うめ、渋柿、あおき、くわ、茶、ところ、山いも、かぶら、しょうが、だいこん」など、多くの植物が記されていて、さらに、「気づきしだい食用になる草木を植えよ」と書かれているという。 (『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』稲垣栄洋2015)

文明は食料生産と戦争による技術革新で進化してきた。平時の産業から軍需物資が作られ、軍事技術の応用で平時の生活が革新する。例えば、農業の生産性を高めるために作られる化学肥料や農薬が戦時には爆薬や化学兵器となり、荒れ地を耕すために発明されたトラクターが戦時には戦車に姿を変えた(『戦争と農業』藤原辰史2017)。軍事技術として開発されたインターネットやロケットは、宇宙開発につながり、人々の暮らしを変えた。そこで今日は、日本の戦国時代の園芸技術と軍需物資としての植物生産・管理がどんなふうに行われていたのか見てみよう。

合戦を柵と陣から見る

先述の『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』は、家紋に表れる個々の植物や、戦時、特に籠城に備えて城郭内や配下の町や村に植えられた作物を詳しく解説している。

一方、歴史家の盛本昌広は、植物を軸に日本の歴史を語る『草と木が語る日本の中世』という著作があり、これもいつか紹介したいのだが、今回は戦国時代の軍需物資=植物資源に関する本を2冊取り出した。こちらは個々の植物というより、村や町、道路交通、環境への関与といった大きなとらえかたをしている。話の裏付けとなる典拠も具体的に示されていてわかりやすい。ここでは、合戦を柵(『軍需物資から見た戦国合戦』)と陣(『戦国合戦の舞台裏 兵士たちの出陣から退陣まで』)に注目し、人やモノの動きを分析する。

柵は、「尺木(しゃくぎ)」とも呼ばれる。柱になるのはクリやコナラで、太さは外周1尺(約30cm)の材だったようで、尺木の語源になったと考えられている。土に柱を立て並べ、それらを竹で結び横をつないである。合戦で陣を構えるときに、兵士総出で堀を掘り、塀・築地(土塁)を築き、尺木で防御を固めていた(竹のみで作る場合、これを竹矢来と呼んだ)。鉄砲を避けるためにたくさんの竹を束ねた「竹束」という防御盾もあった。また、「モガリ(虎落)」というのは先を尖らせた竹を筋違いに組み合わせ縄で結んだ柵で、簡単に作れるために盛んに使われた。このように、合戦には大量に木材や竹が要る。作業をする人足も必要だ。本格的な城郭を作るならスギやヒノキなど真っ直ぐで強い材木や板が要る。戦闘に必要な武器も、まず槍なら4〜6mほどの竹や木、弓で引くための矢、旗指物を立てる柄、かがり火を焚くための大量の木材、薪炭……。合戦は資源の争奪戦でもあったのだ。

こうした資材や労働力は、大名の支配する村が用意した(ほぼ強制的に徴発された)。それゆえ村落内の山林や竹林、草地から採れる植物資源が勝敗に大きく関わっていた。大名は、普段からこのような資源の管理をし、村人の伐採・採取といった利用を規制していた。と同時に、植林など増やす努力も始めていた。林の語源となった「生やす」「生やし」「生やしたてる」という言葉は、植物を生えるようにする、生長させるという意味で、戦国時代にも、森林の保護育成近代の植林、移植、栽培するという自然への働きかけが行われていたという。それは現代の自然保護の感覚とは異なり、山野の荒廃は山崩れや洪水、食料危機に直結することが多かったからだ。

クワや鎌を手に戦場へ

戦争では、今も昔も情報集めが重要だ。兵を集め実際に動き出した、というような情報を素早くキャッチするのは当たり前で、それ以前に、武器や食料などの物資を集め始める様子を見逃さない、といった注意が欠かせなかった。「いざ、合戦!」となると、ほら貝や鐘を鳴らして合図された。信長以降、江戸時代にかけて「兵農分離」が進められるのだが、それ以前は、城下の町や村に侍が散在し、百姓(農民)も戦場に駆り出された。侍は武器を持っていく。まずは槍、鉄砲、弓矢、馬などが挙げられる。百姓の場合は、先の武器の他にクワ、まさかり、なた、つるはし、金棒(岩を砕く)、縄、もっこなどを持ってくるように命じられていた。この時代は農民も、作物を荒らす野生動物や野鳥の追い払いのために鉄砲や槍を所持していた。クワやまさかりなどは、陣や城を構えるための土木工事、物資の運搬に必要なものだった。

戦闘の規模が小さい時代には、兵士の食料(兵粮)は馬の背に乗せて運び(小荷駄隊)、また各自が自己負担し持って歩けるくらいで済んだ。しかし規模が大きくなると、重荷を負った馬や兵士が進軍や撤退の足手まといになるため、戦国大名が用意し支給するようになる。兵粮の調達は、現地で村人や商人から購入した。商人は大きな船で遠くから大量に物資を運ぶこともあった。購入にあたっては、当時、流通し始めた金を使った。その一方で、敵地では情け容赦なく徴発、略奪することも多かった。これは、相手にダメージを与えるためでもあり、田畑の作物をすべて刈り取り(苅田)、生育中の苗をなぎ倒す。さらに、百姓や町人の家にある食料や物品を略奪した。ときには、放火もともない、「くろつち(黒土)にする」「七尺返す」といった乱暴をはたらいた。言葉の通り、作物を剥ぎ取り、土を掘り返して痛めつけたのだ。こうした行為は恨みを買うのは当然で農民から反撃を受けることも多かったという。大名も、戦況によって、兵士の略奪を許さない触を出し、違反者を厳しく取り締まった。

軍道を整備し並木を植える

合戦では、軍隊が通る道の整備も行われた。たくさんの兵士や物資を動かすため、経路にある難所を前もって整備し、効率よく移動できるようにする。戦闘の規模が大きくなると、土木工事のようになっていく。信長の軍道では、険しい道を平らにし、石を取り除き、道幅は6m(槍をを横にした長さと同じ)、道にはチリひとつないように、大きな川には「舟橋(たくさんの舟を横に並べてつなぎ、板をわたす)」を架けること、などを命じた。このとき、道の両脇に沿って左右にマツとヤナギを並木として植えさせている。近世の街道などにマツを植える並木の始まりとされている(もっと古い時代からヤナギを植える伝統があった)。こうした並木は軍道に日陰をつくると同時に、有事の際には伐り倒して敵の進軍を止める役目も持たされていたという(『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』)。信長の道づくりは、秀吉から家康へと引き継がれた。きれいで広く立派な道の整備は、実用に加えて権力を示すモニュメントでもあった。

籠城に備える園芸技術

稲垣栄洋の『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』には、戦国時代の城郭には敵に包囲され、水や食料の供給が断たれても、籠城し抵抗できるようにさまざまな植物が植えられ、備えていたことが書かれている。

・マツが植えられているのは、マツの皮(外皮の内側にある薄皮)を粉にして松皮餅にするため。燃料にもなり、脂を止血にも用いた。

・福岡城の黒田長政は、ヤグラの壁を作るとき、壁材の竹を干しワラビで編み、窮地の際の食料とした。

・熊本城の加藤清正は、畳の芯にわらではなく、サトイモの茎(ズイキ)を用いた。壁にはかんぴょうを土と一緒に練り込んでいた。レンコンについては、先にのべた。

・家康は、レンコンをすってヤマイモと混ぜ、ネバネバにして食べた。駿河の在来レンコンである麻機レンコンは、明治に広まる中国由来の大きなものではないが、在来の「長れんこん」は粘りが強く切ると納豆のように糸を引く品種。

・クスノキやタラヨウ(葉を引っ掻いて文字が書ける樹)は、防火のために植えられた。杉は目隠し、建材に。ヤダケは槍や矢に。

・茨城県水戸の偕楽園で有名な梅は、疲れたからだを回復させ、食中毒防止の薬として。

・干し柿にできる渋柿も植えられた。干し柿は携帯できる戦時の代表的な兵糧食だった。

このほか、調べてみるとまだまだいろんなものがあるようだ。

・彦根城の茶、イチョウ、ケンポナシ、ビワ、ザクロ、イチジク。

・駿府城のミカン。保存がきき、携帯して水分補給に用いられた。

このほか、クリ、ワラビ、フキ、モモなどがある。乾燥させるなどして保存の効くもの、果樹が多い。また薬効も重要。四季を通じていつも何かがある状態にしていた。

戦乱の世から平和な時代へ

戦国時代の堀、土塁(築地)、柵、道の整備や橋を架ける技術は、その後の土木・建築技術、また造園、農耕と園芸の発展につながっている。例えば、石垣に反りをつけて高く積み上げる技術は棚田の開発に生かされ、未利用地の開拓を進める基礎をつくった(『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』)。日本庭園の多くは広い池を備えるが、池を掘った際に出る土で築山をつくり石を配して、水路から水を引いた。趣向を凝らした竹の垣根は現代の庭園でも欠かせない要素になっている。戦や城作り、また燃料にするために木を伐り、道を整備したあとに並木を植える、このような取り組みのために、樹木や草花の苗づくりが必要で、そのために挿し木や取り木の技術が革新していった。戦乱の世には切実な技術であった農耕と園芸の価値が、いつの間にか忘れられていく。

参考
『草と木が語る日本の中世』 盛本昌広・著 岩波書店 2012年
『戦争と農業』 藤原辰史・著 集英社インターナショナル 2017年
『軍事の日本史』 本郷和人・著 朝日新聞出版 2018年

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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