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第54回 日本のユリを見直す~「オリンピックの花にカノコユリを」

公開日:2020.2.21

『農耕と園芸』1960年(昭和35年)1月号
「オリンピックの花に カノコユリを」 清水基夫・著

[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]やや難

今日は、日本のユリの話をしようと思っている。その前に、まず、戦国時代の植物利用についての補足を記してから始めよう。

補足・「塡草(ウメクサ)」について

本連載、第51回の合戦における植物利用についての補足。「ウメクサ」についての話だ。「埋め草」という言葉は、新聞や雑誌などでレイアウトの余白を埋めるための記事のように、さしさわりのない内容の文章を言い表すのだが、その語源にあたるのが「ウメクサ」。城攻めの際に、堀を埋めるために土砂や石ではなく、「草の束」を用いる場合があったという。これを「塡草(ウメクサ)」と呼ぶ。少なくとも南北朝時代から行われていた方法らしい。堀を埋めるには土砂を用いるほうがいいように思われるが、土砂は重く、運搬もたいへんなので、軽くて運びやすい草が利用された。以下、『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広2020)による。

「塡草(ウメクサ)」は、資材を大量に必要とする。周辺の草地にある竹や低木、ススキやヨシ、ガマ、マコモなどをほとんど景観が一変するほど刈り取って利用したと考えられている。ところが、村落周辺の草地は、農耕や生活のために保護管理、共用される大切な場所だった(本連載第35回参照)。そのため、軍事用の草の採取が行われると人々の生活に大きな影響があった。戦の実態は、資源の争奪戦であり、山林や竹林、田畑だけでなく、草原や低湿地の環境も大規模に変えたのだ。

こうした資源・資材がどのように使われていたかがよく分かる絵図が「大阪冬の陣図屏風」だ。国立博物館のサイトや凸版印刷によって原図をもとに色彩豊かに復元されたものがある(2019年)ので参考にしたい。屏風絵を仔細に見ていくと、防御のための「尺木」の柵が張り巡らされている様子や攻め手側が鉄砲対策の「竹束」を最前面に並べて包囲網をつくっている様子がわかる。生野銀山や石見銀山の坑夫を使って堀の水を抜いてあり、浅くなったところに築山を築き、人が渡ろうとしている姿も見える。築山にはたくさんの藁で編まれた「土俵」が積まれていて、これも鉄砲の弾除けに有効だった。現在の「大相撲」の土俵にもその名の通り、土を入れた俵が使われているが、かつては、「土のう」として利用されたものだった。冬の陣の絵図のなかには、土俵をつくっているところや、クワを持った足軽も描かれている。

参考
竹束や尺木の柵の使われ方がよくわかる画像あり 凸版印刷による「大坂冬の陣図屏風」の復元 日刊工業新聞のサイトから
https://newswitch.jp/p/18585

国立博物館ウェブアーカイブス 「大坂冬の陣図屏風(摸本)」
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0096345

オリンピックの花に カノコユリを

本資料は、連載第53回と同じ『農耕と園藝』1960年1月号の特集記事に囲みで入れられたコラムだ。記事を書いた清水基夫は、日本のユリ研究の第一人者として知られる。千葉高等園芸学校(現在の千葉大学園芸学部)で学び、三井の戸越農園、第一園芸などで活躍し、神奈川県立フラワーセンター大船植物園の初代園長を務めた。植物全般に詳しく、名著『日本のユリ』(誠文堂新光社1971)をはじめ数多くの著作を残された。この記事では、ことし75周年を迎えた「園芸文化協会」理事という肩書になっている。清水基夫が園芸の神様に見いだされた人物だったことを示す、もうひとつのエピソードがある。戦前なので、まだ千葉高等園芸学校に在学中の1931(昭和6)年に、南アルプスにそびえる日本第二の高峰、北岳(標高3,193メートル)の山頂直下で、新種の植物を採取した。このキンポウゲ科ハクサンイチゲに似た植物は、後にキタダケソウと命名された。世界でここにしか生息しない固有種だった。

参考
南アルプスnetのサイト 山梨日日新聞の記事掲載
https://www.minamialps-net.jp/cat_news/4638

すでに述べたように、4年後に迫った東京オリンピックに向けて園芸業界はなにを準備すべきか、という議論の中で、花卉園芸の分野ではユリ、とくに「カノコユリ」を推す、という内容だ。

おもしろいのは、1960年1月(座談会は1959年の冬)の時点で、オリンピックの日程がまだ決まっておらず、第一案が「夏説」、第ニ案が「秋説」となっていた。当時はむしろ夏説が強かったので、それならば、日本を代表する夏の花、「カノコユリ」がいい、というのだ。

・七月から八月に咲くカノコユリは、花梗が長く横に拡がり、出荷のための荷造りが難しい。

・水揚げはよいのだが、切花にすると葉が黄化し落ちやすく、あまり流通していない。

・しかし、考え方を変え、使い方を工夫すれば、夏の花として魅力的なポテンシャルを秘めているではないか。

・花梗から切った蕾は、箱詰にすれば輸送はよくきくし、これを水揚げすればよく開花して、七、八月のもっとも暑い時でも一週間は花が保つ。

・ワイヤリングして花だけを束ねたものは、コサージに髪飾りに使えるし、白カノコは結婚式や葬式の花束、花環にと用途は広く開拓できる。

・欧米のフラワーデコレーションでは、花のみを使い、別なグリーンを合わせて花束にし、器にアレンジしていくことが普通に行われている(※現在の日本ではこれが普通になっている)。

・さらに、白カノコは染色液を吸わせることで、あらゆる色彩のものが得られる(※これも、現在では、いろいろな花に活用されている)。

・生産面からも可能性がある。現在、カノコユリは輸出用の球根栽培が行なわれており、花はすべて蕾のうちに摘み取っている。そのため輸出用の場合、一つの茎につく十数輪のうち3分の1の蕾を残す程度なら、球根の肥大にはあまり影響はないから、それを利用する。

・カノコユリは、促成、抑制栽培を行えば周年出荷も可能な花だから、期日に合わせて開花調整をすることもできる。

・もし七月末から八月上旬に開催されるなら、この頃が最盛期であるカノコユリを日本代表の花、オリンピック・フラワーとして、あらゆる人が集まる場所を、この花で埋めつくすことができたら、さぞ素晴らしいことでしょう。

・一回だけのオリンピックに限らず、フランスの「すずらんの日」(5月1日)は、街中がこの花の香で満ちるように、日本でも8月初めに「カノコユリの日」でも決めて、その日はカノコユリでいっぱいにするなど、新たなイベントの創出もおもしろい。

・カノコユリの別名に「土用ユリ」というのがある。「土用の花」として売り出すのもいい。

 

誠文堂新光社の雑誌『フローリスト』は1984年に創刊。そのころのユリを使った作品やユリ特集を見ると、現在のようないわゆる「オリエンタル・ハイブリッド」系のユリは少ない、というか、ほんとうにカノコユリのような姿をしている。小さなつぼみが横に張って出ており、いまなら規格外だろう。さらに、当時は、オリエンタルHBのほかに、「パシフィック・ハイブリッド」という用語が使われている。日本のユリをもとに、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなどでどんどん品種改良が行われ流通していたのだから、「パシフィック」という名称はとてもいいと思う。それが、欧州を中心としておおざっぱに東方という意味の「オリエンタル」という名称になってしまったのはなぜなのだろうか。

誠文堂新光社の雑誌「農耕と園芸」「ガーデンライフ」「フローリスト」の3誌を見ると以下のようなことがわかる。

・七十年代から八十年代のなかばまで、ユリは「白もの」と「色もの」の2つに大別できた。

・「白もの」はテッポウユリを指す。「色もの」はスカシユリの系統があった。このほかに、ヤマユリやササユリ、ヒメユリなどの原種系があった。

・80年代になると種間雑種(HB)の中から多様な品種が流通し始める。80年代の半ばの段階では、オリエンタルHBのほかに、「パシフィックHB」という呼び方があった。

・色ものに「アジアティックHB」、「オリエンタルHB」が導入。アジアティックでは「コネチカット・キング」、オリエンタルでは「スターゲイザー」といった品種が非常に高い人気を得た。

・白ものに、オリエンタルHBの「カサブランカ」が登場することでテッポウユリのシェアが徐々に少なくなり、利用場面が限定されるようになった。

月刊『フローリスト』1986年8月号「新しいユリ特集」では、花器に様々な種類のユリがいけられていて、出回り始めたばかりの「カサブランカ」はとても低いところに入っている。丈が短かったのか、それとも茎が柔らかく、長くいけると曲がってしまうからかもしれない。むしろ、高い位置にいけられたカノコユリ系の品種は、硬く細い茎に小さな蕾がたくさんついており、その伸びやかな姿は現在の僕たちの目には、とても新鮮に映る。ナチュラルブームのいま、カノコ系統の特徴が発現するユリは受け入れやすくなっているのかもしれない。

記事にある、真っ白なカノコユリ(白カノコユリ)のブーケの写真はフラワーデコレーターのパイオニア、永島四郎さんの作品で、まったく同じ写真が永島四郎の遺作『新しい日本の花卉装飾』(新樹社1963)に掲載されている。永島四郎のデザインは、同じ花材を繰り返し試しながら、理想的な「型」に仕上げていくスタイルだったようだ。花材が貴重だった時代ゆえに、必要な本数、輪数をしっかりと割り出し、「レシピ」をつくる、という印象がある。白カノコユリのブーケもそうやってつくられたのだ。リボン使いの名手と呼ばれた永島らしいデザインとなっている。永島四郎は、戦後、清水基夫(生産部門)も所属した第一園芸の切花部を統括した。永島は園芸文化協会でも活躍しており、清水にとって母校・千葉高等園芸学校の大先輩にあたる。この記事も永島と話をしながら書いたものではなかったか。

参考
『日本のユリ』清水基夫・著 誠文堂新光社 1971
『新しい日本の花卉装飾』永島四郎・著 新樹社 1963

検索キーワード

#清水基夫#キタダケソウ#永島四郎#戸越農園#第一園芸#オリンピック#ユリ#千葉高等園芸学校#土用#パシフィックHB

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※資料

「オリンピックの花に カノコユリを」 清水基夫(園芸文化協会常任理事)
(『農耕と園藝』1960年1月号 第15巻1号)

日本での切花は花とともに葉をやかましくいうので、栽培者は花を作るのか葉を作るのか分らぬほどです。もちろん、葉が出来てこそ立派な花が咲くわけではあるが、あまりに葉にとらわれることは生産者にとって苦労のたねであります。欧米では花さえ立派であれば、葉はあまり問題ではないそうであって、場合によっては、葉は全部むしり取って、花だけ用うることが多いそうです。わが国でも昔から洋ラン類やスイートピーは花だけ収穫するし、近頃はパンジー、ステファノチス等、花だけ出荷するものもかなりあります。

七月から八月に咲くカノコユリは、花梗が長く横に拡がり、出荷にやっかいな代物であり、また水揚げはよいのですが、どうしたことか切花にすると葉が落ちるので、今まで切花としてはあまり用いられておりませんでした。しかし花梗から切った蕾は、箱詰にすれば輸送はよくきくし、これを水揚げすればよく開花して、七、八月のもっとも暑い時でも一週間は花が保ちます。花だけを束ねたものは、コサージに髪飾りに、或は白カノコは結婚式や葬式の花束、花環にと需要の途は広いものです或はこれは一寸と邪道かも知れませんが、白カノコは色素を吸わせればあらゆる色彩のものが出来ます。

カノコユリは輸出用球根栽培が行なわれており、この場合花は不要ですから、全部蕾のうちにつみ取って棄ててしまいます。輸出用の場合、一茎に十数輪をつけますが、三分の一ぐらいの蕾を残す程度ならば、球根の肥大にはあまり影響はありません。また促成、抑制栽培を行えば、周年出荷も可能であります。

もし七月末から八月上旬に、来るべきオリンピックが開催されるならば、この頃が最盛期であるカノコユリを日本代表の花、オリンピック・フラワーとして、会場を、街頭を、あらゆる人の集まる場所を、この花で埋めつくすことが出来たら、さぞ、素晴らしいことでしょう。

或は一回だけのオリンピックに限らず、ちょうどパリーのメーフラワーがスズランで、五月一日は街中がこの花の香で満ちるように、日本でも八月の初めにカノコユリの日でも決めて、その日はカノコユリで一パイにすることなども如何でしょうか。そういえば、カノコユリの別名に土用ユリというのがありますから、土用の花とでもしてよいでしょう。(園芸文化協会常任理事)

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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