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第59回 人、病を得て園芸家となる~鈴木省三の「バラ色の人生」

公開日:2020.3.27 更新日: 2021.4.22

『ファイナンス』より「バラ色の人生」

[著者]鈴木省三
[発行]大蔵省広報
[入手の難易度]やや難

バラのレジェンド、鈴木省三

世界的なバラの育種家、「ミスター・ローズ」鈴木省三が、86歳で亡くなる5年ほど前に書いた「バラ色の人生」というエッセイを紹介する。この小文は、つい最近、先輩から教えていただいた。父親の思い出、自分の園芸家への歩みが味わい深く書かれている。
戦前に生まれ、活躍したたくさんの園芸家の人生を見ていくと、「人、病を得て園芸家になる」というパターンに何度も遭遇する。ミスターの文章を読んでも、戦前の園芸家の一例が見て取れる。比較的裕福な家庭であること、長子ではなく次男、三男、四男であることが多い。

幼い頃は天文少年だったことも興味深い。現在は三鷹にある国立天文台は、戦前は麻布(飯倉交差点のすぐ近く)にあった。牛込区の新小川町(現在の新宿区新小川町2-10)にあった横浜植木の東京売店の様子にも触れられている。

実は、フリーペーパー『園藝探偵』3号に、この店の所在地を間違えて書いていた。訂正しなくてはいけない。そこでは白鳥橋と伝通院の間にある安藤坂の大曲と書いたが、正しくは、新小川町の市電江戸川線、「大曲(おおまがり)」電停の目の前に所在していた。この路線は九段下から飯田橋、江戸川橋などを経由して早稲田を結ぶルートだった(1968年廃止)。

同じく『園藝探偵』の1号「Say it With Flowers」について触れている。この言葉は、アメリカで1917年につくられたキャッチコピーで、FTD(花店の電報通信配達組織)の宣伝に用いられた。

こんなふうに、いろいろなことが見えてくる本資料だが、現在では、なかなか実物を手にすることができないものだと思う。全文を抄録してこの稿を終える。

「バラ色の人生」 鈴木省三(すずきせいぞう1913~2000)
『ファイナンス』1995年10月号 大蔵省広報 1995 Vol.21 No.7

澄んだ秋空に咲き誇る色彩り彩りのバラの数々。かぐわしい香りがあたり一面漂うこのバラ園で、バラの新品種の作出、ブリーダーの仕事に取り組んで早や半世紀以上たってしまった。

私は旧制中学三年生の春から、肺門淋巴腺炎に罹って、いつも咳をしていた。五年を終えても、上級に上がれるかどうか、自分でも体に自信がなかった。「軍事教練や体操などは休むように」と医者に言われ、見学することが多かった。

その頃、結核で長く病床にあった次兄が、大量喀血して逝ってしまった。私も同じ運命をたどるとは考えたくなかったが、心の中では厭世的な気分が重くのしかかっていた。
夜空の星の美しさに感動し、母にねだって天体望遠鏡を買ってもらい、将来は天文学者になろうと考えたこともあった。しかし天文台の天文愛好会に入れてもらい天文学者のすることを見ているうちに、観測のあとの微分積分の計算が毎日大変なことが分かり、数学の苦手な私は諦めざるをえなかった。

幸い私には他に好きな道があった。幼い頃から父の趣味で付き合わされていた植物の世界である。
健康が良くなればまた学校を選び直してもいいではないかという母の意見もあったが、進学に際しては園芸学校を選び、バラの魅力に取り付かれ、そのまま夢中で一生を過すことになってしまった。

父は明治維新後物理学校(今の東京理科大学)で、数学、物理、化学を修めた理科系の人間である。小石川の砲兵工廠内の陸軍技術本部で計算工を使って、毎日大砲や小銃の弾道の微積分の計算をやっていた。
理詰めの意見が多く、かなりガンコ者だった。

陸軍を一度辞めて、和歌山県の広村(現広川町)に新設された耐久社中学で教鞭をとったことがあった。
その時植物を教えたので、フランス語の植物学の本を繙いたり、三好学先生の植物学の本に大いに学んだりで、園芸植物はもちろん、路傍の雑草に至るまで、実に植物の名前をよく知っていた。

私が生まれた小石川の家は小さな借家であったが、父の趣味で庭一面あらゆる草花が植えられていた。
大正初期のことであるから、キク、シュウカイドウ、キンシバイ、レンギョウ、カイドウ、リンショウバイ、ウメ、ハナズオウ、宿根デージー、ハマギク、オダマキ、オイランソウ、ヒマワリ、コスモス、マツバボタン等が四季をそれぞれ彩っていた。
霜が降りる頃のヤツデの風情は子供心にも関心があったし、手水鉢のまわりのトクサやツワブキは厠の出入りに嫌でも目に入った。
手水鉢の上にはミセバエソウが大きなアワビの貝殻に植えられ、針金で宙吊りになっていて、父が手水鉢の水を時々やっていた。季節になるとそれが可愛いピンク色の花をよく咲かせていたのは今でも不思議である。

日曜日には父のお供で、小石川植物園、上野公園など、そこかしこと花を見に、遠くまで出かけていた。
中でも印象に残っているのが、飯田橋の先にあった、当時としては珍しい店で、全体がガラス温室という花屋さんである。それは「横浜植木」という大きな種苗会社が、経営していた店で、看板には “Say it With Flowers” と書いてあり、大変ハイカラな雰囲気であった。
この店に来るたびに父は「これは花で申し上げましょう、花で心を伝えましょう、という意味だ」といつも説明してくれていたので、多分私が最初に覚えた英語は、この言葉であったろうと思う。

父は毎日弾道を計算し、いかにして多くの敵を殺傷するかを考える一方、仏教的慈愛精神からか、古風なガンコ者に似合わず、植物を愛し、花を愛しむ気持ちが人一倍強い人だった。
そのため、封建的な家庭であったにもかかわらず、花だけは別で、ずいぶんハイカラなものが身近にあった。チューリップ、ヒヤシンス、アマリリスなどは小学校に上る前から知っていたし、バラも一株だけ庭にあった。真紅のビロードの花びらの輝きは、子供心にもその美しさに感動したものだった。

園芸学校を卒業し、見習生活の後「とどろきばらえん」を開き独立した。昭和十二年のことである。
その後戦中戦後と苦しい時代が続いたが、諸先生、諸先輩のお陰でどうやらバラの新品種作出の目的にも近づくことができた。世に送り出したバラの新品種は国の内外で認められるようになり、最近では「聖火」「乾杯」の国際コンクール優勝に続き、この度「希望」はオランダ、イタリアで金メダル、ベルギーで銀メダルをいただいた。
日本のバラも本場のヨーロッパで評価されるようになってきたわけである。

世界のブリーダー仲間(といっても本格的な人はせいぜい二十人ぐらい。)の仕事ぶりは Say it With Flowers ではないが、コンクールに出された花を見ると言葉は交わさなくてもよく分かる。ブリーダーは学者でもなく技術系でもないという特殊な仕事で、その仕事は息が長い。一つの品種を世に送り出すまでに十四、五年はかかる。それだけに、ガンコな変わり者が多い。
しかし心は純情素朴で、ニュージーランドのマックレディーという、世界に格たるブリーダーなどは、身長が二メートルもある大男だが、会議が終って別れるときなど、私の肩をだきおいおい泣くので驚いてしまう。

立派な業績を残した海外の仲間の何人かは、すでに引退し第二の人生を楽しんでいる。私もこの仕事を通して、いろいろと広がりを持ってきた興味の数々、たとえば各国の美しい風土、美術、建築、音楽などゆっくり見直してみたいし、本も読んでみたいと考えるようになってきた。
又死ぬまでには、ゆっくりと聖書も読んでみたいし、お釈迦様の言葉にもじっくり耳を傾けてみたいと、充実した引退生活を今から楽しみに夢みている。

全く皆様のお陰の賜だが、執拗に仕事をすれば、私のような鈍才で病弱の人間でも何とかなって、立派な後継者も育ってきているし、経済的にはとにかく、私としては、申し分ないバラ色の人生である。

今、窓外に名花「乾杯」が一輪、秋雨にめげず、濃紅色にピンと咲いている。

京成バラ園芸(株)研究所所長 *当時)

参考

  • 『ばらに贈る本』
    鈴木省三・著 婦人之友社 1989年
  • 『Mr.Rose 鈴木省三―僕のバラが咲いている』
    野村和子・著 成星出版 2000年
  • 『バラのアルバム 増補改訂版』
    「農耕と園芸」編集部・編 誠文堂新光社 1960年

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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