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第60回 1964年の東京オリンピックで市場が混乱しなかった理由~帝国ホテル、村上シェフの戦略

公開日:2020.4.3

『TOKYOオリンピック物語』

[著者]野地秩嘉
[発行]小学館
[入手の難易度]易

『帝国ホテル厨房物語』

[著者]村上信夫
[発行]日本経済新聞社
[入手の難易度]易

ドキュメンタリー作品を数多く手掛ける作家、野地秩嘉 (のじつねよし)の本はどれを取っても、面白い。たとえば、農業関連でいうと『イベリコ豚を買いに』(小学館2014)というタイトルの本が自分の経験を中心とした異色なものだが、ドングリだけを食べさせて育てるという特別な豚を求めて産地まで行ってしまう物語の展開が非常に面白く、一気に読んだ。表紙カバーもかわいい本だ。「野地本にハズレなし」だ。新型コロナウイルスの問題で時間ができた方は、「野地秩嘉」を目印に本を探すことをオススメする。

さて、今回はその「野地本」のなかから、『TOKYOオリンピック物語』を選んだ。56年前の東京オリンピックについて、大会を支えた裏方に関するドキュメンタリーだ。この本の一章に「一万人の腹を満たせ」という記事があり、選手村の食事について詳しく書かれている。50年前の東京オリンピックの周辺を探索するシリーズ?を今日で終えるにあたって、選手村を仕切った村上信夫という天才料理人を中心に据えようと思う。

オリンピック効果はあったのか?

このシリーズでは、『農耕と園藝』の記事を記録資料として詳しく紹介してきた。今回もいくつか紹介してみたい。まず、昭和39年(1964)9月号。東京オリンピック開催まであと少しという時期だが、「関東青果市況」という市況報告の欄を担当する中村勝治が気になることを書いている。中村は、この欄に毎回寄稿し市況の動きや諸問題について詳しく解説する。ベテランのせり人、仕入れ担当者なのか、名前のあとに東印東京青果KKという勤務先が記されている(現在は、大田市場内の東京青果、となっている。通称は「東一」)。彼は目前に迫った東京オリンピックについて、次のように述べた。

オリンピックブームは、全国各産地では、世紀の祭典として期待する点が大きい。青果物の価格もこのオリンピック需要で急上昇するのではないかとの見方が大方であるけれど、実際の数字を検討してみると余り期待はできない。外国からの選手団は約八千名、外国からの旅行者、プレス関係の来会者は約十三万人程度、したがって外国からのお客さんの数は十四万人足らず。オリンピックの開催期間は二週間、前後二週間ずつを加えて、通算六週間とみると、この延人員が六〇〇万人足らずで、東京都の消費人口にも足りない。つまり外国からのお客さんの需要量は、東京都民の一日分にも足りないということとなってくる訳であるので、これをあて込んで、清浄野菜の増産をするとか、特別のものを作る、ということは見当外れとなってくるとみられる。外国からのお客さんよりも、国内の観客動員をねらうのが本筋のようでもある。オリンピック下落相場と言う奇現象が出るかもしれない。」

続く、10月号は、以下の通り。

オリンピック開幕 いよいよ待望の東京オリンピックがはじまる。先月号でもふれたが、オリンピック相場はどの様なものとなるかの結果がはっきりとでてくる訳である。強気、弱気、関係ないと、それぞれの主張に対する理由はいずれも一理ある。しかし、余りにも大きな期待は、兎角外れる公算が大きいものである。全国的な一つの盛り上りで、大消費都市よりも、むしろ中小都市での新らしい消費需要をねらうのも、別な面からみて効果の上る方法ではなかろうか。」

中村の目はオリンピックを冷静に見ている印象が強い。文字に書かれていない情報があったのかもしれないが、世の中がオリンピックで盛り上がろうという世論のなかで、書かれた言葉としては非常にクールだ。ちなみに、この1964(昭和38)年という年の天候は、夏、関東から西日本にかけて83年ぶりの猛暑だったという。これに反して北海道は例年よりも涼しい夏だった。局地的な集中豪雨の被害や旱害も出ている。当時の週刊誌を見ると、東京では夏なのに、毎日のように「断水」が行われ、夜間に水が一滴も出ない、ということが連日のように繰り返されている。また会期が近づくと、オリンピックを見るために世界各地から大型の豪華なクルーザーが横浜港などに来航している。

夏の暑さでオリンピック競技場の植木が枯れ始め、貴重な水を使ったとかで話題になっていたようだ(「ガーデンライフ」秋号、編集後記)。誠文堂新光社では、この年の9月末、別冊「ガーデンライフ」として『日本の花』が出版された。タイミングとしては、国内の園芸家はもとより、来日する外国人が日本にきた記念に持ち帰れるお土産の美しい写真集となるだろう、そんなことが千葉大の小杉清教授による書評に書かれている(11月号)。

さて、結果はどうだったのだろうか。昭和39年の『農耕と園藝』12月号を見てみよう。まず、花はどうだったか。

「(十月の市況をふりかえって)オリンピックの思惑や埼玉、神奈川、静岡等のものがやはり例年より早く入荷して入荷量も多くなった。しかし、期待したオリンピックも花には影響なく、天候の悪かった等のこともあり、安値続きとなった。」

つぎに青果の中村勝治の弁だ。野菜については一切触れず、果物が評判になったと書いている。

昭和三十九年を終るにあたり 一番大きなことは、東京オリンピックの開催であったことは誰もが認めることであり、国を挙げての祭典として、大成功裡に終幕を告げた。選手村での各国選手の間で、日本の果物が好評であったことは大きな収穫といえる。なかでも、二十世紀が誰からも欲しがられ、デザートとして真先に売り切れてしまったとか。従来は、東南アジア地区の香港、シンガポールへ輸出されているのみであるが、欧米地区への売出しも考える必要があると思われる。外観の特別に美しい、大玉ものでないとよろこばれない国内の消費市場の悪弊を、改善していく上からも、日本の誇る二十世紀の海外市場開拓に、もっと積極的とならねばならぬ。」

特記すべきは、盆栽についてだ(12月号)。このオリンピックに合わせて「オリンピック記念 盆栽・水石展」が日比谷公園公会堂前の広場と公会堂内で開かれた(10月10日から25日まで)。出品物は、盆栽300点、水石100点で、全国各地の愛好家が心を込めて持ち寄った日本最高レベルの名品が一同に展示された。

また神代植物公園では10月20日に「オール関東園芸人大会」が催され、300名におよぶ園芸人が集まった。園芸界の前途を祝し、園芸産業と文化の向上、発展に寄与したいということで園芸会館の設立など3つのスローガンを採決しとどこおりなく終了したそうだ。

なぜ、相場は高騰しなかったのか?

ここまでいろいろな記事を紹介したが、まとめると、1964年の東京オリンピック大会は大成功に終わった。さらに、野菜や花の相場が高騰することはなかったし、大きく下落することもなかった。つまり、この年の秋は、大会で利用される材料にも、市場にも、過不足がなかった、ということになる。『農耕と園藝』の1959年の座談会では、「清浄野菜」やいくつかの「西洋野菜」の増産が議論されていた。その4年後の1963年の座談会では、かなり具体的な品目について話が及んでいる。この2回の座談会のどちらにも帝国ホテルの河西静夫常務取締役が参加している。注目したいのは、2回目の座談会には、東京日冷青果KK促成部の鈴木康司を連れてきたことだ。日冷青果は現在のニチレイの関連会社と思われ、野菜の冷蔵・冷凍技術のエキスパートとして座談会に呼ばれたのだと推察される。ニチレイは、1964年の東京オリンピックで選手村に冷凍食品を供給し、業務用冷凍食品の先駆けとなった。「なぜ、相場に影響がなかったのか」という問いの答えがここにある。つまり、選手村やホテルで使われる食材の多くを直前に調達するのではなく、計画的に仕入れをし、あるものは加工まで済まして「冷凍」されたのである。野地によると、選手、役員関係者を含めて毎食1万人の料理を用意する。選手は、6,000kcal(普通の人の倍)を基準とするため、必要とする食材の量も膨大なものになる。ピーク時には、1日で肉が15t、野菜が6t、卵が2万9千個にのぼった。「それほどの量を生鮮材料だけでまかなうとなれば、マーケット価格に影響を与え、肉も魚も野菜も値段が上がってしまう。そこで、村上(信夫・帝国ホテル料理長)はオリンピックが始まる半年以上も前から、肉、魚、野菜を少しずつ購入し、それを冷凍していった。そうすれば、材料価格が高騰しないうちに、仕入れができるからだ。」なるほど、そういうことだったのか。

冷凍食品は旅客機の機内食で発達

選手村の食事の提供を請け負ったのは社団法人日本ホテル協会。会長は帝国ホテル社長の犬丸徹三だ。協会はオリンピックに協力することでホテル産業全体の底上げを図るチャンスと考えた。参加する選手の大半が滞在する代々木の選手村には3つの食堂(「桜食堂」「女子食堂」「富士食堂」)と「サプライセンター」が設置され、選手のコンディションを左右する大切な食事を提供する。期間は50日間、日本全国のホテルから精鋭を集め、その全体を監督する責任者に抜擢されたのは帝国ホテルの村上信夫シェフだった。当時42歳の働き盛りだったが、選手村の各食堂の責任者となった4人の料理長のなかでは最年少だった。すでに4年前のローマオリンピックの際に現地に派遣され、食堂運営を調査している。村上は日本、アジア、中東の選手団向けの「富士食堂」の責任者も兼任した。1万人を満足させるメニューを開発する際、当時、まだ珍しかった中近東、アフリカなどのエスニック料理やイスラム教徒向けのメニューを研究し、つくりあげる必要があった。レシピの1単位は120人前だったそうだ。また、料理のことだけでなく、調理場の設計、食材の調達やサプライセンターを活用した調理全体の段取りや仕組みをつくるという大変な仕事だった。この膨大な量の料理を効率的につくるために必要な冷凍食品の使用は避けられない。まず、犬丸徹三会長にこれを認めさせるのが一仕事だったという。犬丸は、戦前から帝国ホテルでは冷凍食品を認めないことで知られていた。当時の冷凍食品のイメージはクジラやタラなどが代表で、「冷凍物はくさくてまずい」のが常識だった。村上も社長に許可を得るのに随分と逡巡したという。ようやくのことで相談すると、犬丸は「わかった」と答えたが、「試食会をやろう」ということになった。

村上には強い味方がついていた。帝国ホテルで同年代の同僚の白鳥浩三だ。この人物は、アメリカのパンアメリカン航空に出向した経験をもつ冷凍食品のスペシャリストだった。村上は白鳥について、次のように書いている。「冷食と言えば飛行機の機内食が大先輩で、技術も随分進んでいた。白鳥さんはオリンピックの準備が本格化する前に、先兵的な役割を帯びて、出向して学んでいたのだ。冷凍食品の最新事情を知り尽くした白鳥さんは、富士食堂で副料理長格として働いてくれた。得難い補佐役だった。私のシベリア抑留中の経験も役立った」(『厨房物語』)。当時の日本のホテル業界はまだまだ生鮮一本やりで、品質面で劣る冷凍食品の出番は少なく、設備も整っていなかった。帝国ホテルも同様で、冷凍設備はなく、食品の保存に関する技術研究も立ち遅れていた。もちろん一流ホテルにおいて、食材の鮮度重視は大前提である。しかし、この当時、いよいよ経済成長が飛躍的に伸びる社会情勢に合わせて大型の宿泊施設の建設と大宴会場の設置によって求められる「大量調理」に冷凍食品は大きな武器になると注目されるようになっていた。東京オリンピックはその実践の場として大きな意味を持っていた。選手村食堂の調理場は、ニチレイとの共同作業で超大型の冷凍庫が導入された。ニチレイの社史を調べると50年代の始め頃から冷凍食品の事業化が始まっている。この歴史が東京オリンピックで花開き、日本の冷凍食品の一時代をつくっていったのだ。『農耕と園藝』の1963年の座談会でニチレイの担当者が参加していることの背景が見えてきた。

冷凍食品、サプライセンター(セントラルキッチン)の黎明期

村上と白鳥、それにニチレイの技術者は、一緒になってさまざまな材料の冷凍の仕方を研究した。肉、魚、野菜を一律に冷凍するのではなく、冷凍するまでの処理方法を試作しては実験した。生でやったり、調理してからやったり。ニチレイの冷凍庫に何度も通った。村上は帝国ホテル新館の料理長でもあったため、仕事を終えてから夜の時間や休日を使って冷凍、解凍を繰り返し試行錯誤した。村上はこう述懐している。「白鳥くんはパンアメリカン航空に出向していたことがある。機内では冷凍食品を使うことが多いので、調理の具体的方法に詳しかったのです。彼が教えてくれたのは、冷凍は急速に、しかもなるべく低い温度でやると味が落ちないということでした。低ければ低いほど理想的な冷凍保存ができる。オリンピックのために日本窒素が開発してくれたのは、瞬間的に零下180度まで下げる機械でした。その冷凍機械があったから質のいい料理を出すことができたのです」。この「冷食研究チーム」は、あらゆる材料を試した。野菜はどれも生で冷凍して味が落ちないとわかったが、ブロッコリー、アスパラガス、ニンジンは茹でてから冷凍すると状態がよく仕上がり、ネギ、タマネギは茹でたあと、ソースの状態にしてからの方がいいと知った。肉はシチューのような煮込みものは味をつけ、料理の形にしてから急速冷凍するといいといったことを一つ一つ試していった。マグロは冷凍に向くが、ヒラメとカレイはだめだった(生鮮もの使用決定)。このような計画的で地道な実験をもとに、数百名の著名人を招いた大々的な試食会が開かれ、これを大成功させる。途中で、本日の料理は冷凍食品を活用したメニューだと発表すると誰もが驚いたという。こうしたオリンピックメニューの試食会は何回か開かれた。

オリンピックで冷凍食品が大活躍したおかげで、各ホテルは一斉に冷凍設備の導入を急ぎ始めた。帝国ホテルでも五輪閉幕直後に、零下50度まで下がる大型冷蔵庫を導入した(それまではGHQの置きみやげの冷凍庫つきの冷蔵庫しかなかった)。「新兵器」の導入で食材の急速冷凍が可能になり、その後、急ピッチで増えた大型宴会に対応、千人を超す宴会は何でもなくなったという。

オリンピックで大きな力を発揮した「サプライセンター」方式も全国のホテルに取り入れられる。大量に使う食材は、事前に質や形をそろえ、下ごしらえしてストックしておく。昔からやっていたことだが、ホテルの大型化に向けて、より徹底的に、より機能的に刷新されるようになった。コックも、個人バラバラではなく、作業を分担し、大量の料理を短時間でつくる方法を取れるようになった。意識が変わったのだ。村上が想定したように、選手村で経験を積んだ若い料理人は地元に帰って、たとえば大量にサンドイッチをつくって、販売する、といったことでホテルの売上向上に貢献できるようになった。サプライセンター方式はのちのレストランのチェーン展開に欠かせない「セントラルキッチン」や食品工場などに進化していく。

ニチレイの冷凍倉庫は小学校の体育館ほどもある大きな施設だった。防寒具、防寒靴、防寒帽に身を整え、実験を繰り返した。村上は、ジャガイモの冷凍実験で、戦時中の満州への従軍とシベリア抑留時代の経験を思い出した。零下数十度のなかで強制労働をさせられた。このとき、カチコチに凍ったジャガイモを解凍の仕方を工夫することでおいしく調理できることを発見していた。凍ったままのイモを熱湯で素早く調理するのがコツだった。

参考
『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』 講談社編 講談社 2014
『亀倉雄策の直言飛行』 亀倉雄策 六耀社 1991(新装版2012)
『帝国ホテル料理長 村上信夫の ニッポン人の西洋料理』 村上信夫 光文社 1994

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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