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第61回 日本の大学教育は「耕作学校」から始まった~日本初の「総合大学」札幌農学校と卒業生の話

公開日:2020.4.10

『札幌農学校の理念と人脈 独自の学風はどのようにして生まれたのか』

[著者]山本悠三
[発行]芙蓉書房出版
[入手の難易度]易

新型コロナ問題で、できるだけ家にいるようにしている(タイトル写真もうちのなかで撮リマシタ)。しばらく外にでないでいいように、庭中の空地に野菜の種子をいろいろ播いた。夏野菜もがんばってつくろうと思う。

さて、きょう紹介するのは、今年になって出版されたばかりの新刊。本文150ページほどの手に取りやすい本だが、非常に面白かった。内容を一言で表すと、「札幌農学校は農業学校ではなかったのです」ということになる。あれ?学校名からして、農学校となっているではないか。教頭(学長)のクラークはマサチューセッツ農科大学(MAC)の学長であると同時に植物生理学者だったし、北海道の開拓と農業振興の基礎をつくった先生、エドウィン・ダンや、園芸を教え、日本にホップやリンゴを定着させたルイス・ベーマー(のちに横浜で種苗商として大成し、その商売は「横浜植木株式会社」につながっていく)が活躍していたし、第2期卒業生の新渡戸稲造は農学者だし、同じく宮部金吾は植物学を極めた。それが、かなり一面的な見方でしかない、というのか。

「農学校と呼んだのは misnomer だった」と新渡戸は言った

札幌農学校は、純粋な意味での農学校ではなかった。新渡戸稲造は「農学校と呼んだのはmisnomer だった」と語っていたらしい。「ミスノーマー」とは、誤称、間違った名付け、という意味だ。

ちなみに、明治11年(1878)に開校した駒場農学校を見てみよう。同校は、東京山林学校と合併して東京農林学校となり、後に農科大学として帝国大学に統合されていくのだが、農学、林学、獣医学の3学科から成り立つ文字通りの農業系で、大正8年(1919)に東京帝国大学農学部、と改称された。それゆえ卒業生は専攻によって農学、林学、獣医学の3つの学位が与えられた。

これに対して、札幌農学校は、明治5年(1872)、北海道開拓使仮学校を母体として、明治9年(1876)年9月に創立。札幌農学校の卒業生からは農学博士だけでなく、工学博士、理学博士が輩出され、法学博士も生まれている。これはカリキュラムや教員構成からして、農学校らしからぬ特色を備えていたからだというのだ。たとえば、どんな教員がいたのか、次のような紹介がある。

生理学、比較解剖学、英文学 教授
ゼー・クラレンス・カッター(MAC卒業後、ハーバード大学で医科を学び医師免許取得)

開拓使・土木技師 兼 教頭
ウィリアム・ホイーラー(MAC卒業)

数学、土木工学、英語
デビッド・P・ペンハロー、セシル・H・ピーボディー(MAC卒業)

化学、歴史、英語 予科教頭
宮崎道正(東京帝国大学)

数学、地理、英語 予科教員
市郷弘義

兵学教育
加藤重任(少尉・陸軍士官学校出身)

このように、農学校に入学した学生は、外国人から直に教わる英語を基本にさまざまな分野の勉強を幅広くできる環境にあったといえる。いわゆる一般教養のカリキュラムがしっかりしていたということだ。僕らが興味を持つ日本の近代園芸は、明治以来、いくつかのルートで発展してきた。そのうちの一つが北海道開拓使、札幌農学校のルート(人脈)である。ほかには、開港地・居留外国人ルート(特に横浜)、試験場・新宿御苑ルート、財閥・貴族・皇族ルート、東京・千葉などの園芸学校ルートなどがあり、その後の人的交流は入り組んでいる。

たとえば、北海道開拓使と日本の近代園芸の発達に関連して、次のような事実がある。東京にできた官園のうち、青山南町の第一官園は園芸技師のルイス・ベーマーが任され、また、青山北町の第二官園は農業技師のエドワード・M・シェルトン、麻布の第三官園は牧畜技師のトーマス・テーラー(=トーマス・チロル)に、それぞれ責任者として運営を任された。このチロルという先生は、農学校を終えて東京にもどるのだが、そのときに、添員としてつけられたのが「出島松造」だ。この人は明治初年にアメリカに密航した人物で、後に帰国、伊藤博文の渡米の際に通訳をやるなど政府に近い人脈のなかにいた。チロルともに東京に戻った松造は、のちに横浜植木商会を創立する鈴木卯兵衛と知り合った。先にあげた園芸技師、教師のベーマーは開拓使の仕事を終えて横浜で種苗商として大きな事業を行っており、卯兵衛はそこで仕入れ主任を任されていたのだ。このとき日本から送られる百合根などの花が米国でたいへんな需要があり、高価に取引されていることを教えたと言われている。外国人を通さずに、日本人が自ら貿易を行うことの大義と利益を教えたのだ。松造の言葉は、日本人による植物の直接輸出を図る横浜植木商会設立への大きなきっかけをもたらすことになる(『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄ほか 誠文堂新光社 2017)。

また、たとえば、札幌農学校の新渡戸の教え子である有島武郎は農学校からハーバードへ進んだ。有島の教え子が原田三男で、この人は植物学を専門に、広く科学を紹介する科学ジャーナリストになり、誠文堂新光社から「子供の科学」を出す。この原田に認められるのが辻村園芸から東洋園芸の農場主任になっていた石井勇義で、誠文堂新光社から「実際園芸」をスタートさせるわけだ。日本のフラワーデザイナーの先駆けとなった恩地剛も札幌農学校(中退?)からハーバードに留学した園芸人だった。有力な種苗会社だった東京興農園の経営、「二十世紀ナシ」の名付け親となった渡瀬寅次郎も札幌農学校から開拓使で働いている。また、新渡戸稲造のもとで学んだ河井道は恵泉女学園を設立したし、秘書を務めた小川青虹は、新渡戸の勧めで草月流に入門し、戦後は勅使河原蒼風の通訳として大きな働きをしている(『園藝探偵』3号参照)。

「賊軍」の子弟、子女が多かった札幌農学校

日本は幕末から明治維新にかけて、内戦状態の混乱期を経て支配層が大きく変わる。その結果、いわゆる「官軍と賊軍」に区分され、旧幕府方についた士分の家族は賊軍として仕事をなくし、土地を離れる人々も多数あった。北海道開拓使に付属する仮学校には、旧幕臣の師弟が多く応募し、学んだ。それは、学費が無料であっただけでなく、生活費もすべて官費でまかなわれたからだった。ただ、条件としては、卒業後には、開拓使の各部署に入って働くことが義務付けられていた。私費で勉強したものは5年間。すべてを官費で勉強したものは10年間のいわば「御礼奉公」が課せられた。日本最初の女子留学生、津田梅子や山川捨松で有名なアメリカに渡った女子も含めて、学校で学んだ女子は開拓使で仕事をし、あるいは奥さんになる、という条件があったという。津田たちは、結局11年もアメリカにいたので戻ったら開拓使がなくなっていたのだった。

明治初期の日本は、北海道という未知の大地を開拓するために、外国人技師の協力と日本人の人材育成を同時に進める必要があった。それで、明治2年(1869)に北海道開拓使を設置すると、まもなく、東京に仮学校を設立(明治5年)し、また農業経営のための実験農場(家畜場も)を開いた。北海道に導入すべき動植物の中継農園としても必要な措置だった。仮学校は芝の増上寺のあたりにおき、農場は青山から麻布にかけて3つ開いて、アメリカから取り寄せた種苗を植えて研究をした(仮学校跡地については、地下鉄「御成門」駅出てすぐの芝公園内に石碑がある)。牛や馬も飼われ、道具を作る工場もあった。このような場所で、生徒は座学と実習をしたわけだ。生徒は日本各地から学力優秀なものが入学するが、北海道在住の子弟たちも一緒に勉強した。彼らは地元に戻って農業指導者になるのだ。日本がアメリカに指導を頼んだのは、その当時の農務局局長というトップにあったケプロンで、学校を東京と北海道の両方におくべきだと提言したのもその人だった。そして、驚くことに、ケプロン自身が日本にやってきた。ケプロンは、開拓を成し遂げるために望ましい人材を思い描き、そうした人材を育成するための学校設立を提案していた。それが仮学校になる。その際、アメリカを見てきた黒田清隆も、ケプロンの提言に同意し、農業だけでなく、幅広い知見をもった総合的な人材育成を含む「農業工業諸課学校」を構想していた。

「耕作学校」は留学生の海外派遣よりメリットが多い

開拓使の事業の初期にケプロンとともに関わったアンチセルという人物も教育機関の設置を黒田長官に提言している。当時の日本は、海外にものすごく多くの若者を留学生として派遣し、学ばせていたが、膨大な経費がかかる割に、見合った成果が得られないという批判も少なくなかった。アンチセルは、北海道に学校を作るのを後回しにして、まず、東京に「耕作学校」を作ることを勧めた。耕作学校は、多くの生徒を学ばせることができる(少数を留学させるよりはるかに効果が大きい)。また、名称は「耕作」であっても必ずしも耕作に限ることはなく、各種の技術や貿易、産業、製造法等も同時にカリキュラムに組み入れることで、効果的な教育が進められると述べた。すなわち、「機械学」ならびに機械術、「土木学」ならびに「建築学」、「鉱山学」、諸芸に用いる「化学」の5学科の設置を提言した。アンチセルは、優秀な先生だったが、ケプロンと意見の相違があってたびたび衝突した。仮学校の最初の教頭(学長)になりながら、最終的には解雇となり、その後大蔵省造幣局のもとで紙幣用のインクの研究と製造に携わり、勲四等が贈与された。

冒頭に掲げた、なぜ、総合大学なのに「農学校」と名付けられたのか、という問題に深く関わっていたのは、ケプロンとアンチセルの提案から始まったということになる。アンチセルは当初、北海道には学校を置かず、「まずは東京で」と言っていたのに、その後意見を変え、北海道にも学校を開くべきだと意見していた。このときアンチセルの提案は、「北海道術科大学校の構想」と訳された。耕作学校でもなく普通の学校でもなく、「大学校」である。「政府誘導ニ因リ人間必用ノ道理及ヒ歳歯ニ応シテ学科ノ順序ヲ定メ以テ学科上及ヒ術科上ニ於テ少年輩ヲ教授スルニ在リ」との趣旨から、7つの専課学校つまり大学校と大学校への準備教育を行う小学校(中等教育を行う機関)、それに「商工教諭ノ学校」、「少女ノ学校」から構成されていたという。アンチセルは日本政府に求められたことだけでなく、教育のシステムについて考え、提言しようとしていたのだと思われる。高等教育、即戦力として現場に投じることのできる人材育成・・・。これを行うためには、総合的な学習機会が必要であるし、先生も要る。基礎教育を受け持つ教育機関も必要だ。そうしたシステム全体に口を出そうとしていたのだと思う。しかし、アンチセルは排除された。

実現はしなかったが、アンチセルが構想した7つの専課学校は、建築学系統の造営学校、農学系統の農耕学校(いいね!)、土木工学系統の理術学校、鉱山学系統の鉱山学校、応用化学系統の百工舎密学校(舎密学とは化学のこと)、社会科学系統の国法及商法学校、医学系統の医学校で、入学資格は小学校の教育を経た17歳以上の者で、修業年限は2年とされた。関連科目も掲げられていたが、実際には、2年で就学できるとも思えないような科目数だったという。著者によると、アンチセルの構想は日本に来てから考えたものではなかったようだ。19世紀後半のその時代にアメリカに生きた人間が考える理想の学校、だったのかもしれない。西へ西へと向ったアメリカの開拓のスピリットが到達した人材育成システムと言えそうだ。

カリキュラムについて仮学校規則につぎのような記述があるという(規則第15条)。

・学科を普通と専門の2科に分ける
・さらに普通を2科、専門を4科としている
・「普通学」の第1は「初進ノ少年ヲシテコレニ入ラシム」とあり、英語学、漢学、算数、手習、日本地理、歴史等が配列されおり、これらは、現在と同じ一般教養に相当する科目となっている
・さらに「普通学ヲ修行セシ後ニ専門学科ニ入ラシム」とあり、専門学が4科で組まれている
・専門学は、第1から順に舎密学、器械学、画学、第2は鉱山学、地質学、画学、第3は建築学、測量学、画学、第4は舎密学、本草および禽獣学、農学、画学となっている

参照 アンチセルの提言 「北海道英学史稿」 池田哲郎 1967
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeiken1964/1967/85/1967_85_1/_pdf

著者は、これらを見て、「専門学」にある科目が「普通学」の第2に配置されている科目と重なることから、それぞれの連携が重視されていたのではないかと指摘する。また「農学」が第4に配置されているところから、農学に比重がかかっていたわけではない、と述べている。こうしたことから、開拓使仮学校は札幌農学校の前身ではあるが、必ずしも農学校としての特色を打ち出した科目配当となっておらず、いままで言われてきたようなケプロンの提言というよりも、むしろアンチセルの提案した学校の体裁をとる学校としてスタートしたことになる。

この本の著者は、札幌農学校に関する最新の研究成果を網羅してこの本を書いている。こうした事実の提示はいままでの常識を覆すような内容で、非常に興味深い。当時のアメリカの状況、たとえばグラント大統領とケプロン農務局長との確執があって、事実上ケプロン追い出しのために日本に派遣された、とか、ケプロンの無能さとアンチセルとの確執とか、さまざまな要因が記録の背後に見え隠れしている。

当初、札幌農学校ではなく「札幌学校」だった

明治8年(1875)開拓使仮学校は札幌に移される。その際の名称は、「札幌学校」だったという。記録には、「農学専門科」設置を前提とした農学校として開学される予定だったというのだが、当初の名称に「農」の文字はなかった。クラークが赴任した直後に、「農学校」と正式に決まった。ケプロンの提案への配慮やクラークが学長を務めるMAC(Massachusetts Agricultural College)の看板を引き継ぐ動きがあったのではないか、という。ただ、黒田長官の本願は「農業工業諸課学校」であったし、MAC自体も農科だけでなく文系、理系を問わず幅広い学科目が設定されている。札幌農学校でもこれを参考に同じような運営体制が採られていても不思議はない。農学系、理学系、工学系の専門科目と語学、一般教養科目、また教練の3種類があったが、最近の研究では、農学の割合が他と比較してその比率はそれほど大きくなかったのではないか、むしろ本家のMACと比較しても小さい、ということがわかってきた。このような初期のカリキュラムの中から、第1期生、2期生というふうに日本の歴史に名を残す卒業生が輩出されていった。新渡戸稲造は就学中から英文学に没頭し、その道に進もうと考えるほどだった(トーマス・カーライル研究者として有名)。

土木工学の道を進んだ広井勇

本著には、総合大学としての札幌農学校の詳しいカリキュラムと初期の卒業生の進路が解説されている。1人、興味深く読んだのは、後に「港湾工学の父」と呼ばれた広井勇(ひろい・いさみ)という人物だ。広井は内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らと同じ、黄金の2期生の1人だ(クラーク帰国後の学生)。文久2年、高知生まれ(牧野富太郎、新渡戸と同じ年生まれ)、工部大学校から農学校に入学、ホイーラーやピーボディーらに数学、土木工学、図学、測量学を学び、卒業後は約束通り、開拓使勤務、その後、渡米し武者修行の末に帰国、母校、札幌農学校、東京帝国大学の教授をしながら実務を続けた。その間、築港、防波堤、橋梁、ダムなど数多くの仕事を手がけた。広井がアメリカに留学した時に、自身の英語がアメリカの上流階級が使う品位のある英語だったことがずいぶん助けになったという。また、農学校教授としての広井の肩書は、英語で「Asst. Professor of Civil Engineering in Sapporo Polytechnic Institute」となっていたという。ここでも農学校は農科大学というより、「諸工芸大学」という表現を用いていたようだ。

広井勇の東大教授時代の弟子に台湾で難工事とされたダムを完成させ、地元民によって銅像もつくられた偉人がいる。八田与一という。八田は大学を卒業後、台湾総督府の技師となり、それまでオランダ人技師でも成し得なかった台湾南部最大の平原地帯の開墾事業に着手した。現地を調査した結果をもとに完成させたのが烏山頭ダムである(1930年完成)。アメリカでフーバー・ダムができるまで、世界最大の貯水量を誇った。このダムの完成により雨季の洪水と乾季の干ばつの被害を減らすことができるようになり、豊富な農作物を得られるようになった。このダムはのちに「八田ダム」と呼ばれるようになる。園芸に関わる僕らとしては台湾のダムというと、「亀山ダム」「亀山水力発電所」について語らなければならないだろう。吉野の林業家で日本の造林王、土倉庄三郎の次男、土倉龍次郎は、新島襄の同志社を卒業後、台湾に渡った。そこで、林業、樟脳採取事業で成功。工業化を推進するために水力発電所をつくり、台北電気株式会社を設立した。これは、台湾で初めての水力発電会社だった。龍次郎がつくった台湾最初の水力発電所「亀山水力発電所」などの事業により、「台湾水力発電の父」として名を残した。同じく、龍次郎は、帰国後、カーネーションの営利栽培を始め、育種も精力的に手がけ、「日本のカーネーションの父」、カルピスの創業者としても歴史にその名を残している。

参考
北海道開拓使仮学校跡地の石碑(港区のサイトから)

https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/koho/shibakouen/shibakouen03.html

『ケプロンの教えと現術生徒 北海道農業の近代化をめざして』富士田金輔 北海道出版企画センター 2006

『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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