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園藝探偵の本棚

第62回 眼球でタニクを舐め、サボテンに触れよ~視覚を触覚に代えて楽しむ園芸とその歴史

公開日:2020.4.17

『ACID PLANTS―鶴仙園 新世界植物写真集』

[著者]鶴仙園/靍岡秀明
[発行]スペースシャワーネットワーク
[入手の難易度]易

『EYESCREAM』No.166 特集「新世界植物 ACID PLANTS」

[監修]鶴仙園
[発行]スペースシャワーネットワーク
[入手の難易度]易

参考 https://eyescream.jp/culture/19836/ (『アイスクリーム』誌のサイトから)

コロナ問題で引き続き、自宅で仕事している。僕は九十九里浜南端の町に住んでいる。近所の店はいつでも閉まったままだし、通りにそれほど人が出歩いていないので、ネットなどで知るニュースが頼りだ。

さて、今日は、本の山脈のなかから、サボテンと多肉植物に関する最近の出版物を出してきた。一番新しいのが3月に発行されたばかりの『ACID PLANTS―鶴仙園 新世界植物写真集』だ。合わせて過去に出た『EYESCREAM』No.166も並べてみた。

タイトルにある「ACID」ってなんだろう。文字通り酸味の効いた、気難しい、厳しい環境下で育つ植物、というような意味なのか、あるいは、深読みして、コンピュータ科学における用語「ACID」(atomicity=不可分性、consistency=一貫性、isolation=独立性、durability=永続性)から想像しろ、ということなのか。

写真集というだけあって、鉢植えとして栽培されたサボテンや多肉植物のすばらしい大判の写真や「原生地」の生育状況を撮影したページで構成されている。サボテン・多肉植物(いわゆる「サボタニ」というのでしょうか?)の写真は黒バックで撮影されるか、白バック(またはシンプルな明るい背景)かの2つに大別されるのだが、この本は「白」。僕は、白好みなので、たいへんに気持ちよくページをめくることができた。

「視覚」を「触覚」に変える

「園藝探偵」という手法は、書籍や文献を用いて園芸に関わる、読む園芸をやる、ということだ。これだと、場所も取らないし、外に出る必要もない(※ただ、書籍を置く場所がものすごく必要で、お金もかけずにすむわけでもない、というのがつらいところだ)。写真集の場合、本の作者、編集者、あるいは撮影者が意図を持ってその写真を使っているわけで、その眼差しが直接読み手である僕らの内面に働きかけてくる。

以前紹介した写真家、石内都さんの『sa・bo・ten』(大和プレス、2013)のサボテンと「叢」の小田康平さんのサボテンは、同じものでも全く違って見える。この本に登場する植物も違う表情をしている。僕らは家にいながら、サボテン・多肉植物の専門家の「視覚」を経験できる。僕らはこれらの写真が意図するように、多肉植物を舌先で舐め、刺に指を強く押し付けたりできる。柔らかいものなのか、固くて強いものなのか、写真から触れながら想像する。この本には「花」はほとんど写っていないが、むしろ、それだからこそ、植物自体の姿や質感に触れることができる。

(図1)左が雑誌、右が写真集。

『ACID PLANTS』は、本のカバーを外すと装丁が現れるのだが、そこには本文中に紹介された植物の全体像がわかるものが、カラーでズラリとまとめて印刷されている。アイデアがあって楽しい装丁だ。あらためて進化の不思議というのか、植物の多様性に驚かされる。「アイスクリーム」という雑誌は表題にサブカルチャー誌であることを謳っているのだが、こちらで植物の特集を組むほど若い人たちの間にサボテンや多肉植物がライフスタイルを構成するものとして取り入れられていることがわかる。2018年に発行されたものだが、写真集に入れられなかったカットもあり興味深い。上下を逆さまに入れた写真など、僕はとても好きだ。出版の校正者が仕事をするとき、原稿用紙を逆さにしてチェックする人もいるというが、植物の写真も逆さまから見ると、通常の概念とは異なるイメージが生み出され、こちらに迫ってくるような気がする。

サボテン、多肉植物は「ブーム」なのか

『ACID PLANTS』が視覚・触覚の遊びを楽しめるほかに、実際に栽培する趣味家やプロに取材した「読み物」があるのがいい。鶴仙園の先代の話のほか、四人のレジェンドが登場し、座談会形式で話をしている。サボテン・多肉植物には需要が高まる、いわゆる「ブーム」の波が何度かあったという。大正の後半ころ(第一次世界大戦の後)が第1次で、昭和は第2次大戦が始まるまでが第2次ブーム、それに戦後の昭和30年代が第3次。その後バブル時代に熱量があがり、現在はここ5~6年が大きい。いままでにない規模だとレジェンドたちは声を揃えて言っている。『ACID PLANTS』以外の本のタイトルは最後にまとめて紹介するが、いずれもここ数年の間に出版されたものだ。

江戸時代の菊づくりにしろ、朝顔にしろ、ブームがあると出版もそれにつれて数多くの本が出されるものだ。それに現代には、インターネットがある。現在見られるサボテン・多肉植物に関する本は、多数の品種を集めたもののほかに、栽培方法を詳しく紹介したものが数多くある。自分で世界に情報を得て、収集・栽培する人たちによる「実際園芸」だ。インターネットの情報の質が向上していくにつれ、紙に残せる情報の質も高まっている。僕らの知らない園芸世界、非常に興味深い。年月をおいてブームが起きるというのは、そこに魅力があるのは当然で、また同時に、誰かがその道を開き、手を差し伸べている、ということだろう。

仙人掌の伝説的伝道者、棚橋半蔵

日本のサボテン史の最初のページをめくると「棚橋半蔵」という人物が登場する。この人は、いかにも時代劇に出てきそうな名前をしているが、外交官であった日本人の父とドイツ人の母のもとに生まれたハーフだった。ドイツで生まれ育ったために日本語がうまくできなかったという話もある。明治43年、25歳の時に来日し、神奈川県下吾妻村梅沢の里に洋館を建て居住し、そこに栽培室を建て、日本初というロックガーデンにも手がけた。3棟の温室と5棟のフレームがあり、そこにサボテンを集めていたそうだ。半蔵は一度ドイツに帰るが、再来日する。大正2年頃だった。サボテン先進国だったドイツなどから珍稀種を含むサボテン・多肉植物など多数の植物を取寄せた。まもなく起こった第一次世界大戦(1914~1918)によって1917年にドイツヘ帰り、56歳で亡くなるまで日本へ戻ることはなかった。

(図2)『仙人掌及多肉植物名鑑』1917(『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』から)

棚橋が日本のサボテン界に貢献した最大の成果は『仙人掌及多肉植物名鑑』(図2)だろう。1917年(大正6)に横浜植木株式会社から出されている。実物を見せてもらったことがあるが、パンフレットのような薄くて小さな本であるにも関わらず、図版の構図がものすごく迫力があるし、発色もいい。

特筆すべきは、当時の植物学で広まりつつあった「シューマン法」という分類方法によって学名に沿ってページに配したことだった。それ以前、明治の終わり頃にサボテンが高く取引されたため、流通経路を特定できないように、わざと学名を伏せ「和名」をつけて流通されていたのだが、それぞれに「異名」も多く、混乱を招いていた。それをこの本では一挙に解決し交通整理をすることを意図されていた。多肉植物をのぞきサボテン全科638種を網羅し、それぞれに学名と和名の対照、および各属の種に対する和名の命名、異学名の例記などが実行された。

こうして、『仙人掌及多肉植物名鑑』は日本サボテン界の発展に革命的に大きな影響を残した本となった。出版にあたって助手を務めた横浜植木株式会社社員、大塚春雄は、もともと草花全般に詳しい人物だったが、仙人掌についての専門家となり、後にわれらが誠文堂から1929年(昭和4)に『仙人掌の種類と栽培』を上梓する。大塚春雄は戦前の『実際園芸』にも数多くの記事を書いた。

※棚橋半蔵については、日本カクタス専門家連盟、日本コノフィツム協会会長を歴任された平尾博氏の「サボテン今昔」が詳しい。博氏は、以前も紹介した「園芸ニュースレター」の平尾秀一氏の実弟。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/tanahashihonbun.html

http://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/tanahashi_kan/tanahashi430.html

※同じく平尾博のサイトから 棚橋の人となりがわかる文章。トマトが大正初期には「キチガイなす」と呼ばれて一般にはまったく普及していなかったことがよく分かる面白い記事。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/mukashibanashi/tanahashi_ninomiyanomukashibanashi.html

メキシコに4度渡った脇金太郎

古い資料を見ていくと、明治も早い時代(20年代から)に数多くの園芸植物が世界中から日本に入ってきている。日本の明治維新からの開放政策へと転換する時期、それは、欧米各国が大航海時代から帝国の時代にかけて、植民地が各地にできて200年、高度に園芸化された植物のパンデミックが起きようとしていた時期だった。日本はありとあらゆる商品が棚に揃ったスーパーマーケットにふくらんだお財布を持って出かけたお客さんみたいなもので、一気にそれらの園芸植物を輸入するようになった。また、そういう植物を受け入れる体制もあった、ということになる。

しかしながら、日本の環境に合わず、また知識と技術の不足から多くの植物が淘汰されていった。なので、明治や大正時代に入ってきている、という記録があっても、途中が抜けているものは数多くあるわけなのだが、それにしても、先人たちの勇気や好奇心に脱帽せざるを得ない。

今まで知ることができなかったことだが、明治から大正期、日本にもプラントハンターがいて、数多くの植物を日本に持ち帰っている。面白いのは、こうしたプラントハンターには横浜植木に関わった人たちが幾人もいる。庭師だった脇金太郎もそうだった。横浜植木の請け負いで、4年契約によるメキシコの外務大臣の庭園を造りに行ったのを皮切りに、明治30年代から40年代にかけてメキシコへ4度渡航し、そのたびに洋蘭やサボテンを持ち帰り、鈴木卯兵衛に高値で売っていた。鈴木卯兵衛は商売上手だったそうだが、それでも当時では信じられないほど高値で引き取っている。それは、つまり、それ以上の高価な価格でそれらの植物を顧客に売ったということになる。明治期に日本でサボテンを輸入・販売していたのは横浜植木の他に東京・三田の育種場があったくらいだという。脇金太郎は、まわりでサボテンが高価で売れているのに火をつけられて、メキシコへ向かう。『横浜植木株式会社100年史』には、つぎのような記述がある(昭和10年刊の『サボテンと多肉植物』1月号所蔵の篠崎雄斎「仙人掌の回顧」という文章。文中に現在では不適切な言葉が使われているがそのまま掲載する)。

 

「団扇とか、獅子とか、又は大砲(注:長者丸)花盛(注:花盛丸)などは、古くから栽培せられ、仙人掌はそんなものだと、思って居りましたが、明治35、6年(1902、3年)頃、緋に染めたような猩々丸(しょうじょうまる)が僅かに輸入されたので、人々は驚異の目を見張り、非常に人気を博したので、敏感な、横浜の植木商脇金太郎老人、いそいでメキシコに渡り、恐ろしいメキシコ狗(イヌ)の住む荒野に、土人をひきつれ、野営して、猩々丸をさがし廻り、漸くにして、此の山をさがし当て、雀躍してかき集め、無量1000個と金剛丸や白龍などを採取して、喜び勇んで帰朝に就き、横浜に着いた時は、さあ、大変な人気。猩々丸の1本20円、25円と、羽が生えて飛ぶように売れ、それが、愛好者には50円位になって買われ、株物の優品は250円で、近江の愛好者の手に、入ったのであります。蘭や万年青や、紫金牛(やぶこうじ)などしかないと思っていた変り物園芸は、センセーションを引き起こしたので、それからそれと、段々と種々の種類が、輸入せられて参りました。」

(図3)明治42年(1911)の園芸カタログ『定価表』の表紙 横浜植木株式会社蔵

脇金太郎はその後、明治44年頃にも出かけており、猩々丸などの希少なサボテンを茶箱に3杯輸入し、これまた「人気は無茶苦茶」だったという。棚橋半蔵が歴史に登場するのは、その後のことになる。

図3は、横浜植木の国内向けの園芸カタログ『定価表』の1911年(明治44)版。このカタログは、多肉植物のメセン類(メセンブリアンセマム)が日本で初めて掲載されたものだという。参考にしたのは前掲の平尾博氏のサイト。奥一氏の記事として、以下のような記述がある。

『奥一著「明治さぼてん力タログ」。以下の記述がある。「横浜植木会社が明治42年(1909)に四六倍判96ページのカタログを出した。当時日本に珍しい外国植物ばかりで挿画は外国から写し取ったもので久保井市太郎の木版画であった。このカタログに最初に選ばれたのが、なんとメセン類であった」として11種のMesembryanthemumが出ている。私の知る限りこれが一番古い記録である。』

参考
http://www7a.biglobe.ne.jp/~websabotenkonjaku/mesennoyoake/mesennoyoake20081030.html

『サボテン全書』パワポン・スパナンタナーノン  グラフィック社 2018
『多肉植物の栽培』羽兼直行 主婦の友社 2018
『ビザールプランツ』主婦の友社編 主婦の友社 2019
『ビザールプランツ 冬型珍奇植物最新情報』主婦の友社編 主婦の友社 2020
『横浜植木株式会社100年史』横浜植木株式会社 1993
『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017
『仙人掌の種類と栽培』大塚春雄 誠文堂 1929

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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