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第134回 日本の近代園芸学の始祖、福羽逸人~レジェンドによる座談会【前編】

公開日:2021.9.3

「明治における本邦園芸の開祖 福羽逸人博士の業績を語る会 昭和11年5月18日御命日の日に」

[掲載誌]『実際園芸』(第22巻1~5号)
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1937(昭和12)年1月~5月号
[入手の難易度]難

日本園芸界の始祖、福羽逸人の業績を回顧する

明治はじめから大正時代にかけて、日本の近代園芸学、造園学に多大な業績を残した福羽逸人(1856~1921、図1)について、その偉業を回顧する座談会が昭和11年に行われた。これを翌年、『実際園芸』誌上で5回にわたって紹介する記事があるので紹介したい。

福羽逸人は、日本のアカデミズムの黎明期に活躍し、後半は宮内庁、皇室関係の仕事に従事した人物であるため、その名前があまり知られていないが、日本に園芸学、造園学を根付かせ、海外に負っていたさまざまな農作物や加工品を国産化することに着手し、多くの後進を育てた貢献はたいへんに大きなものがある。特に、新宿御苑や皇居の庭園、離宮などでの仕事は福羽以外に誰にもできなかったことだと思われる。ヨーロッパやアメリカなど生涯に5度の海外渡航のような豊富な実際の経験から、日本に海外列強の王室園芸に比肩する皇室園芸の姿を実現しようとしていた。

戦前は福羽が構想したように、官と民と皇室の三者がそれぞれに園芸を高度に進化させていった。晩餐会であるとか、観菊会や観桜会のように多くの外国貴賓を招く「皇室外交」は、福羽が構想した美しい舞台で行われ、福羽が育てた野菜や果物、花が大活躍するようになっていった。新宿御苑は、明治12年(1879)に宮内省所管の「新宿植物御苑」となり、宮中晩餐会などの皇室行事で用いられる野菜や果物のほか、洋ランをはじめとする装飾用の花や緑の育種、栽培を行う御料農場としての役割を担うようになった。こうしたなかで生まれた「福羽苺」(図2)は、今日に至るまでその名を残す名品となっている。

福羽は明治24(1891)年に宮内省御料局技師、31(1898)年内匠寮技師、新宿御苑掛長、39(1906)年には内苑局長のとき、5年におよぶ大改修を終える(このときから「新宿植物御苑」から「新宿御苑」となった)。この間、御苑に多くの研修生を入れて実際を学ばせている。ここで学んだ人たちが地元に帰ってそれぞれの持場で活躍した。今回の座談会でも御苑に関わった人たちが多く含まれている。

図1 福羽逸人の肖像 (『実際園芸』第2巻1号)
図2 現在流通するおいしい日本のイチゴの始祖となっている「福羽苺」(『実際園芸』第2巻1号)
図3「福羽逸人博士の業績を語る会」に集まった人々(昭和11年5月18日、命日の日に)
図4 座談会に参加した人々。

昭和11年5月19日、福羽の命日に集まり、墓参した人たちは、石井勇義の企画で座談会にのぞんだ。そのメンバーは実に豪華だった。(画像3、4)写真には12人の姿が見える。植物学者・牧野富太郎、静岡県興津の園芸試験場の主任技師で西園寺公望の「坐漁荘」の土地選定に関わった石原助熊、福羽逸人の子息で園芸家の福羽発三(のぶぞう)、新宿御苑で学び、大隈重信邸や岩崎弥之助邸で活躍し千葉高等園芸学校で教えた林脩已(のぶみ)、小田原の辻村園芸主、辻村常助。

また、盆栽界の重鎮・小林憲雄、英国に留学しマスクメロンで名を挙げた五島八左衛門、湘南大磯に大農園を経営しランの栽培で有名な池田農園=日本園芸主、池田成功(日銀総裁、大蔵大臣・池田成彬の長男。五島八左衛門は日本園芸会社に参与、)、新宿御苑から東京都立園芸高校で教え、フラワーデザイナーとしても知られる森川肇、小石川植物園の松崎直枝、新宿御苑から恵泉女学園で教えたランの第一人者・岡見義男、そして石井勇義という顔ぶれである。

福羽逸人は、本連載で紹介した田代安定と同じ年に生まれた。福羽は森鴎外と同郷の津和野藩(石見の国)の人であり、田代は薩摩藩でどちらもば幕末には幼なすぎて戦闘に関われなかったが、歴史に名を残す郷土の志士とは直接間接に深い関係を持っている。そのような人たちの系譜がこの座談会にも反映している。

福羽は田代と親しい間柄だったという。田代の弟子が松崎である。僕は、日本のフラワーデザイナーの先駆けである永島四郎を調べているが、永島四郎の千葉高等園芸学校時代の先生が林脩已である。林は恩地剛が始め、石井勇義が務めていた東洋園芸という園芸会社に永島四郎を推薦した。永島の同窓には本連載でも紹介した新潟のチューリップの恩人、小山重がおり、にいがたにチューリップを普及させるために林脩已も講演などをおこなっている。つまり、福羽逸人からするとは永島や小山は孫弟子にあたる。福羽に触れた人々が目に見えない糸で互いに結びながら、それぞれの仕事をし、歴史をつくっていく。

座談会のMCは石井勇義が担当した。記事を読んでみると、牧野富太郎先生は、いつも質問されたことにまともに答えていない。自分の話をする。しかし、そこから展開される経験談や植物知識は他の誰にもできない面白さがあって、ついじっと聞いてしまうところがある。石井は、しばらく話をしてもらったうえで、最初の質問を繰り返したりしているのも面白い。

福羽逸人の偉業

座談会では福羽の偉業を中心に語られるが、ほかにもいろいろな気づきがある。とりあえず、項目だけでもメモしておこう。

・福羽は若い頃、伊豆七島や甲州ぶどうなどの調査を行う。植物学者やプラントハンター的な仕事の時代。
・御苑に関わる前から、国内外の博覧会で、植物の審査員を務めるほどの名声があった。
・福羽は非常に厳格でカタいタイプの人物だが、食については道楽があり、グルメだった。後年、皇室の台所をあずかる大膳頭になる(「天皇の料理番」秋山徳蔵の上司)。
・牧野富太郎は宮内大臣・田中光顕と関係があった。天皇に植物名を教えるために、和名をつける仕事をする。

牧野が国内外の植物に和名を命名した数が多いのは、このようないきさつがあったからかもしれない。

いっぽうで植物学や園芸学に関わる人たちは和名ではなく学名を基準として使っていたというのも面白い。

・新宿御苑の改修計画は竣工までに5年を要し、その間、植栽計画と苗の準備を周到にされていた。
・果樹園芸、整枝果樹栽培、さまざまな接木の方法等は福羽にはじまる
・海外から輸入するワインの国産化は福羽から(※明治天皇は大のワイン好きとして知られる)
・洋食の調理には欠かせないオリーブ油の国産化は福羽の試作から。
・オリーブの試作場所は、珍しい苗木が泥棒されないように市街地から離れた試験場に決まる。
・高級洋食でよくつかわれる西洋野菜を導入、マッシュルーム栽培や、軟化栽培、促成栽培も福羽から
・御苑の改修で本格的な洋式庭園を実現。
※日露戦争で国庫にはお金がなかったらしい。本来なら、御苑の広場に大きな西洋館が建てられるはずだった。・日本人による温室園芸は御苑が最も早い時期から始める。温室でランや観葉植物をやる一方、外では日本桜草、オタン、キクなど日本の伝統植物の栽培、育種も進めていた。

図5 新宿御苑の温室群(時代不明、第2回の誌面より)。

【資料】「明治に於ける本邦園芸の開祖 福羽逸人博士の業績を語る会」 園芸研究会

『実際園芸』(22巻1~5号)1937年1月~5月号に掲載(※読みやすいように、旧漢字を改め、旧仮名を現代かな使いに直している。現在では不適切と思われる言葉もそのまま記した。「※」はマツヤマ注)

座談会に御参会の方々

当日御列席の方は何れも福羽先生とは特にご関係が深く、左の五氏は直接当時関係された方ですが、その他の方も間接に福羽先生の指導や影響をうけて園芸界に入った方と申しても過言でないと信じます。福羽発三氏(※図6)は福羽子爵の御次男(※三男とも)で北大の御出身、現に宮内省主膳官であられます。

牧野富太郎博士 本邦植物界の耆宿(きしゅく)であられる事はすでに御承知でしょうが、お話の中にあるように新宿御苑の嘱託をして居られた方です。

石原助熊氏 久しく農林竹園芸試験場技師として、かつては仏国に留学され、本邦園芸界の耆宿であり、明治産業界の先駆前田正名氏と因縁深い方(※助熊の妹が前田正名の妻)であり、その関係から福羽先生とは旧知で当時の事情に精通して居られる。

林 脩已氏 現に千葉県農事試験場技師(※現・南房総市、試験場の設計から関わる)であられるが、千葉高等園芸学校の創立当時の観賞植物学の講師で、園芸に志して始めて福羽逸人博士の門を叩かれた一人で、その後英国にて花卉園芸を学ばれた方で、福羽先生とは特に関係が深い。

岡見義男氏 本誌の読者の方とはお馴染の深い方で、矢張り、福羽先生について園芸を学ばれ、御苑より英国キュー植物園、蘭の巨商サンダー商会等に於て実際を習得された方である。

五島八左衛門氏 現に日本園芸株式会社(※池田成功の経営する農園)の技術主任であるが、福羽先生について始めて園芸を習得、御苑より英国に渡航してエンゲルマンその他に於て技術を学ばれた方である。

図6 明治30年頃の整枝果樹の圃場 小型の馬に乗っているのは福羽発三氏、7歳頃(第3回の誌面から)。

【資料】「明治に於ける本邦園芸の開祖 福羽逸人博士の業績を語る会」 園芸研究会

『実際園芸』(22巻1~5号)1937年1月~5月号に掲載

五月十九日、福羽博士の御命日に当り、先生の園芸界に対する業蹟を偲ぶ人々に依って、謹んで一同青山の墓地に眠らるる博士の墓参を行い、それより青山の辰好軒に集りて牧野富太郎、石原助熊、林脩已、岡見義男、五島八左衛門の諸先生を中心に、あらゆる園芸部門に亘って、明治大正の日本の園芸界の開祖である、福羽子爵のなされた足跡について思出話を伺ったのが次に述べる座談会録で、花卉園芸は勿論、果樹、蔬菜、庭園、加工等の一切がすべて福羽博士に依って基礎を造られた事に驚かざるを得ないものがある。

石井 一寸御挨拶を申上げます。これから今日の園芸研究会としての座談会を開きたいと思います。実はこのお集りを開くようになった動機は、昨年牧野先生のお宅にお伺いしまして、先生から「福羽先生が新宿御苑でなされた園芸上の御業績について、あの当時関係した方にお集まりを願って、福羽先生の墓参をいたし、そのあとでお話を伺ったら、非常に有益な記録が出来るし、一つの明治の園芸史の資料にもなるだろう」というお話を承りまして、大変に結構な御意見と思いまして、いつか実行したいと考えて居りました。最初は「実際園芸」で開こうと考えましたが、却って園芸研究会としてお願いした方が有意義だろうと考へまして、今日お集まりを願った訳であります。また私自身としましても、福羽先生に依って明治の園芸の中枢、つまり基礎をお作りになられたということは固より、色々なお著書並に先輩の方々のお話で存じて居りましたが、併し本当にあの偉大なるお業績であったということは、ここにお出でになる福羽さん、岡見さんに御昵懇に願うようになって詳しく当時のお話を伺う機会を得まして、私どもが外部から想像して居りました何倍何十倍も進んで居るのに全く驚いてしまったのです。で常時の日本の園芸の進度から押して、全く程度の違ったことが、然かも明治年間にすでに福羽博士に依って行われたわけで、温室花卉や蘭科等の栽培では欧米諸国に少しも負けていなかったという事に非常に鷙いたのであります。そこで私共と同じように、福羽先生の御偉業の実際をご存知ない方が、今日の日本の園芸界の方々の間にも非常に多いのじゃないか。その点から考えても、明治園芸の発達史の資料として、記録を残しておく必要があると、私自身切に感じたのであります。 私ども園芸雜誌の編集者という立場から、何か一つの記録を造って、少くとも園芸界に携わって居る人々にはその偉大なる御業績の一端を知らしめたい、ということを考へて居りましたところへ、牧野先生からのお注意もありましたので、今日皆さまのお力添えによりまして、実現することが出来たのであります。甚だ僭越でありますが、お話の進行を私にさせていただきたいと思います。初めに牧野先生の新宿御苑に御兼勤になって居られた当時の御話からお願いいたします。

牧野 話の前に、私の手許にこういうもの(福羽逸人著『伊豆七島植物誌』の写本二本を示さる)がありますが、これはいつだという年号がチットモ分りませんが。

福羽 それは分ります、明治十二年でございます。伊豆七島巡回を仰付けられて居ります。その報告が七月三十日付で、伊豆七島巡回報告書として農務省から出て居ります。

牧野 報告書の一部分ですかね。

福羽 そうだろうと思いますが、その他にもう一つあると思って居ります。

牧野 左様ですか、これは本屋から買って来ましたんで、この頃よく本屋が写して売って居りますが、農務省へ報告されて居るのですね。

石原 巡回を命ぜられたのは内務省からでしょう。

福羽 そうです。それですからこの報告書は後の話でしょう。

石原 明治十二年というと、農商務省はまだない。勧業寮の時代ですから。

福羽 それからこれは甲州葡萄栽培について書いたものですが、上巻だけで下巻が発行されたのかないのか、私にも解らぬのです。

牧野 伊豆七島の植物調査書の方の書名というか、本当の名は何ういうのでしょうか。

福羽 明治十二年七月三十日に伊豆七島巡回を申付られて、「伊豆諸島巡回復命書」(※復命書とは報告書、レポートのこと)というものがあった筈ですが、そのうちの一部分ではないかと思って居ります。当時父は内務省御用掛であったようです。

牧野 明治十二年というと、よほど昔のことですね。

石原 甲州葡萄の調査に行かれたのは勧業寮ですか。

福羽 そうです。あれはその前で、明治十一年に勧業寮から甲州地方に出張したようで、その復命書が「甲州葡萄栽培」として出版されたようです。

石井 牧野先生が新宿御苑にお兼勤なさっておられた、その当時の模様を伺いましょうか。

牧野 私どもはチョット出て居っただけですから、内容まで立入ってよく分りませんが、あの時分には田中光顕(たなかみつあき)伯爵が宮内大臣の時であったと思いますが、渡邊千秋子爵が内蔵頭(くらのかみ)時代で、何でも田中光顕伯が福羽先生に話されて、私があそこへお世話になるようになったように覚えて居ります。それから私のやった事はどういう仕事であったかといいますと、温宝の中などの植物の調査ですネ、その植物の名称などを調査するというのが何でも名目であったようでした。それで温室の中の植物などの名称がまだよくついていない物を色々詮索した訳なんでした。それが私のあそこでの主だった役目という訳なんです。そういう訳でして、一週間にホンの一度位の程度で出勤して居ったと思ひます。そうしよるうちに渡邊千秋さんが大臣になられまして、それからその温室の中の蘭へ和名をつけて貰いたいということがあったのです。それはどういう訳であるかというと、宮中では御宴会のありました時に陛下に咫尺(しせき ※高貴な人の側に仕える)して居られるのは大臣方で、宮内大臣は最もお側近に居られるようです。それでそのテーブルの上の装飾として御苑で栽培したところの蘭の花などをテーブルの上に飾る訳でした、それで宮内大臣が一番近くに、陛下のお側近に侍して居る訳でありますから、陛下から時々御下問になるようです。何という植物かとお尋ねになりますその時に西洋語の名では自分がお答えするのに誠に不自由だという、それで日本の名で呼ぶ名がほしいから、和名を一つ付けてほしいという訳で、なんでもその時、今月の七日という事であったと覚えて居りますが(さア月は何月でありましたか)、七日に御宴会があるから、それまでに付けよということでありまして、そこで数種の蘭について和名を作った訳であります。私には初めてのことでありますし、殊に宮中で、ということでありますからして、私は謹んで色々とその蘭に相応わしい名称を考え、また名称としても野卑に流れぬ、良い名称をつけなければならぬというので、それで可なり頭を悩ましまして、その名称をつけた訳なんであります。それで「日の出蘭」というような名は、その時に出来た名でありまして、まアそういうような或は「翡翠蘭」とか今の「日の出蘭」とかいうような良い名をつけたのであります。その時渡邊子爵のお話ではこれは牧野という者に命じて名をつけさせたということを、陛下へ言上するというお話でございましたから、私としましても、慎重に名称を考えてつけた訳であります。その時は何でも五つか六つ位の種類のものであったようです、誠に立派な蘭の種類であったのですが、これから先にそういうようなことがまだ続いて行くであろうと思った訳でありまして、それから後にも温室の中の色々な蘭について、花を見ますと名称をつけました。そのつける時にも、やはり温室闌のファレノプシスとか、そういう属のものは、その属ぶった名称がありまして、それから形容詞をつけた時は、それを見た時、何属であるということが分るから、成るべくそういう方針で行こうということでした。その当時の蘭の和名のことは私のやってゐた「植物研究雑誌」に一部は発表しましたが後に発表しないものが残って居りますが、それは御苑へ私が参りました時、蘭の一つのリストがありまして、チョットポケットヘ入れられるようなものがあります。それは現存して居るという。蘭の種類の名が書いてあります。その目録に私の時分につけたものが、その控えのうちに今も入いって居ります。

今のあのシプリペジュー厶というようなものは非常に類似した品がありまして、合の子が沢山ある。従って花の形が類似して居るという訳で、これを何とか名称で多少の区別が出来るようにしたいと思いまして、色々苦心して名をつけました。それも今尚お残って居りますが、今まで発表せずにして居りましたが、それからまたその後には、宮中の方はどういうようになりましたか、それから後には話もなかったんので、その儘になって居りますが、そのうち大臣も更迭にもなりますし、また私も御苑を退いたような訳であります。

とにかく蘭の和名というものは、大臣からのこういうような話で、名をつけましたけれども、平生は大抵はああいうものは学名で呼んでいるものでありまして、和名などで呼んでる人はメッタにない訳でありますから、悉く和名をつけるという必要もあんまりない譯で、その当時はそうでありましたけれども、その後には私ども名をつけずにずっと来て居りますが、そういうことがあそこにあったんです、これは私があそこに勤めて居る間にあった事件の一つであります。

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それから今度はあそこで出来た種類を一つ写生してはどうかということの話が、福羽先生からありましたの、それで私は色々あそこで絵具や何かを整えていただきまして、温室の中で幾日もかかって――なかなか一つのものを写生しますのにも、念入りに実際に違わぬように写生するのにはえらい時間がかかりますが、それで幾日も幾日もかかって一つの図が出来たという訳でありまして、その図が何枚か出来た訳でありますが、ホンの僅かでありますが、これは福羽先生が、ネペンテスに何とかいう種類と何とかいう種類をかけ合わされまして、そうして合の子を作られたその合の子になったのを私が写生した。いまその名を覚えて居りませんが、何とかいう種類のものです。それを福羽先生がかけ合わされまして、合の子が出来まして成長して花が開いた、それをまア写生した訳ですが、あの時シプリペジユームの合の子になりますと、新らしき名を作らんければなりません、どちらの変種という訳ではありませんから、シプリペジュー厶福羽という名をつけたものがあります。それでその時フクバであるか、フクハであるか、どっちかとお尋ねしましたところ、フクハだということで、バではない、濁らずにいうというお話でありました。それでフクハという名をつけておきましたことであります。今もやはりフクハといって居られますか。

福羽 いやフクバです。

牧野 今の福羽先生のお名前も福羽逸人(フクハ・イツジン)と世間一般の人はいわれるようですけども、あれはやはりそうじゃないんでしょうね。ハヤトとでもいうのでございましょうが、ところが誰もその名で呼んでる人はメッタにないようであります。

まアそういうことがありました。それでその写生した図は私があそこに長く勤めて居りましたらば、図ももっと長く続いたでしょうがいま四枚位残って居るような訳です。それで私の勤めて居ります間というものは、そう長くなかったんです。毎日出勤した訳でなく、一週一回位ですから、大して日覚ましい仕事も出来ませんでした。ですけども、私はあそこで園芸の植物や何か見せていただきました為に非常に知識を得ましたので、私に取りましては短かい間でしたけれども知識を得る上には非常な幸福であったと思います。

その時親しく福羽先生にお目にかかり、色々お話を聞いたり何かして居った訳ですが、あれからあの御苑を経経営せられる時の話もその時に聞きまして、後に私の勤めて居りました大学の松村任三先生が欧羅巴から帰られて、そうして小石川植物園を、色々とあちらで見て来られた為に、もっと改良するというので、先生必死になってやって居った時がありました。これは植物園の話でありますが、今もその遺跡が残って居ります、あの中央のところにキリシマを沢山植えられたところ、先生ただ目分量で植えるものですから見渡したところで、両側ヘキリシマを植える、それが百本か七十本、それからまた先へ行くと、また先が要るという訳、ただ先を向いて行って、後をふり向いて見ると、どうも都合が悪いということが起った訳、そうこうするうちに植物園で費用がそうある訳でないから、先生の計画が頓挫しまして、松村先生も熱が冷めた訳です。それでチョット着手して完成せずに済んだ訳ですが、その時思いました。さすがに福羽先生であると思った。福羽先生があの御苑を経営される時に、仏蘭西へお出でになりまして、あちらの一流の造庭家、これは私が聞きそこなって居るか知れませんけれども、一流の技師に頼まれて、一つの計画を立てられて、その案を作られた。それを何でも図を拝見したように思って居りますが、平面の図と、それから所謂鳥瞰図とでもいいますか、上から見たところの図が二つ出来て居ったように覚えて居りますが、それでその時にやはりああいうものは方々から見通しがつかなければならぬ、歩いて行くうちに見通しがつかなければいかんということをお聞きしまして、その図を拝見しますと、誠に都合好く出来て来りました。それを五年か何程やらの計画で、今年はこの部分を完成する、その次はこちらを完成するということで、遂にに五年か何年かかって、今日のようなものが完成したということをお聞きしました。

松崎 桜の紅彼岸か何かに福羽さんの名前をおつけになったのはありませんか――。

牧野 そうそう、福羽先生は園芸ではお世話になり、またオーソリチーのお方で、早く日覚めて日本一の方の尖端を切ってやって居られた訳です。御苑の方でも、御苑でやってることは世間でやっていないことをやって居られるということで、日本の園芸の方では非常な功績のあった訳ですから、何かの節に福羽先生の名を、名誉としてつけておきたいと私は始終思いまして彼岸桜の一つの変種である、ベニヒガンザクラ(Prunus sublitella, Maq. Var. Fukubai, Makino.)、即ち彼岸桜の変種名として福羽先生のお名前を学名として上に記した様につけておいたことがあります。これが発表されまして、今も用いて居る訳であります。それでその原木はどこにあったかと言いますと、御苑にあった原木ではありません、私が今勤めて居りますずっと前の教室、その教室の玄関口にその桜があって毎年よく咲ました。それを私どもが初めて研究した時に、そういう名前をつけたんですが、福羽先生はお知りにならなかったかも知れませんが、これは学名でありますから、いつまでも消えずに世界に向って残って行く一つのものになる訳で、つまり記念名が出来て居るという訳であります。

松崎 福羽さん如何です。

福羽 それは初めて伺いました。ベニヒガンですね。

辻村 福羽さんの御祖父さん、美靜(びせい)という字の名前ですね。あれはどうお読みになりますか。

福羽 ヨシシズと読みます。

小林 そうですか、それは初めて伺います。今のお話のことなども初めてですが、あなた(福羽さん)のお名前も発三(のぶぞう)とは知りませんね、世間では―。

牧野 それからまだ一つ事件がありました。忘れて居りましたが、それは福羽先生のお宅に多分欧羅巴へお出でになった時に持って来られた一つの灌木がありまして、これは今の植木屋ではあれをタチバナモドキという名前でいって居りますが、今方々で生垣になりまして、今は大変拡がって参りましたけれども、私ども御苑へ勤めて居りました時分は、まだあの木というものは世間にはなかったんです。福羽先生のお宅では大きくなって、赤いようなオレンジ色をした実がむらがってなって、大変綺麗でありましたが、或る日‥それを持って来られまして、この名が分らんから、一つ論議してくれという話でありまして、それから私はそれを大学へ持って行きまして、教室の本で見ましたらば、直ぐ名称が分ったんですが、それは支那の西の方の植物ですね、それが欧羅巴へ行きました。欧羅巴から世間へ広まった、その植物であれはことごとくパイラカンサ・アングスチフオリアというのです。そういう名が分りました。ところが和名がない、和名をつけなけれぱならぬというので、トキワサンザシという名前をつけました。植木屋などはそう呼んで居りますが、これも世 間ヘだいぶ広まって居ります、トキワカンザシと呼んで居りますか。

松崎 いや、この頃はもう拡まって、タチバナモドキは使わないようです。

松崎 横浜植木会社で売り出したので殖えて来ました。

小林 あれを盆栽の方ではヒメビワといって居ります。

松崎 成程、そうですか、メスブリブ、あれをクマビワといって居りますが、よい思いつきだと思ひます(※メスブリブ、クマビワ不明)。

【連載第2回】

牧野 それからもう一つこんな事がありました。これも雑誌や何かに書いておきましたが温室で、植物を見よります時に、あそこを拝観に来た人、観覧者があった訳ですが、それは何でも四十位の女の方で、それへ他の二三人の女の人が付き添うて居りました。それで私丁度あそこの中に居りましたが、その一室にシクラメンが咲いて居った時でありまして、その四十位の女の方がいうのには、これは大変かがり火に似て居るといいました。私は聞いていて、とてもいい見立てだなと思いました。今の若い女学生などにはかがり火といったって分りませんが、あそこを拝見に出る位の人だから、源氏物語だとか、ああいう時代の本でも見て居る人ではないかと思ったんですが、それであんまりいい思いつきだから、和名にしたらよいと思いました。それから後にかがり火花という名で、自分の本ではそういう名前を書いてあります。つまりその女の方の感じを私は非常によいと思ってつけた名前なのですがね。

石原 ブタノマンジュウというのは。

牧野 あれは西洋語の直訳ですよ。何でも明治十二、三年頃ですね。理科大学であの自分は大久保三郎という人が大学の助教授をして居りました。その人が居る時分、ブタノマンジュウという名前をつけたんですが、古い話ですネ。

石原 すると、その前には和名はなかったんですね。

牧野 そうです。シクラメンの名しかなかったんです。

今日の果樹園芸は福羽博士に依って始まる

石原 私の問題は果樹栽培に関しての福羽さんの御貢献ということです。大きく言えば、今日の果樹栽培というものは福羽さんによって出来たものだといって差支えないと思うのです、というものは、福羽さんが農科大学で講義をされる前は、果樹栽培というものは剪定も知らず、無論品種などということも分らず、従来あったものを作るという程度で、生えて居るままで果実を探って居ったという様な事で、甲州葡萄と紀州蜜柑位のものが、本当の栽培で、柿などは、枝を切るとそこから枯れて来るということで、それで皆枝を折っていた、というようなやり方であったのです。それで福羽さんが講義をされて、その時の「園芸果樹編」というものがあるのです、これは駒場の農科大学の学生が先生の講義を筆記したのを出版したものです。これには明治二十五年六月編者誌るすと書いてあるのです。それには第一編にオリーブ栽培があって、続いて二編、三編、四編となって居ります。その次に「仏国コー卜ドール州葡萄栽培及び醸造法目次」というものがあります。それがまた一編と二編に分れて居ります。その次には「苹果栽培法目次」と「紀州柑橘目次」とそれから「甲州葡萄栽培法目次」「桃樹栽培法目次」という順序になってますが、それだけ講義されたものか、もっとその他にもあったものですか知らんが、これが先づ日本で近代の果樹栽培ということに対する書物の一番初めじゃないかと思います。これが明治二十五年六月ですから、二十四年頃から講義をされたんじゃないかと思いますが、どうです。

福羽 農科大学へ行きましたのは、二十四年ですから、その頃からと思われます。

 二度お出でになったようですな。

福羽 二十三年の四月四日に東京農林学校兼務を命ぜらるということがあります。

石原 そうですか、すると二十二年か三年に東京農林学校が出来たと思いますが、その前が駒場農学校、それへ西ヶ原にあった山林学校を合併して農林学校になった訳だが、それでこの本が始まりで、日本で本当の果樹栽培の講義というものがその時始まったんですね。その前に、この間聞いた事ですが、米国人で駒場農学校時代園芸の講義をしたことがあるそうです。それから玉利喜造先生も講義されたようですが正式に果樹栽培というようなものを講義されたものではない様です。どうも福羽さんが一番正しい講義をされたように思って居ります。

牧野 この本(伊豆七島植物誌)の後に果樹栽培が出ましたのですね。

石原 そうです。

 この本の訂正ですね。

石原 それに紀州の柑橘を調べられたのがありますけれども。

福羽 この前に「甲州葡萄栽培法」というものを書いたのが一番先にあります。それは上下二巻ある筈ですが、私は上巻しか持って居ません。それにはその上巻の一部分しかありませんが、下巻は出なかったのかと思います。

石原 それから御苑の果樹栽培が始まった年代はいつですか。御苑で始めて整枝果樹を始められましたのは。

 私らの覚えて居るのは、明治二十六年頃に御苑に残って居りました枇杷が、繁って居るのを見ました。その枇杷は田中芳男先生から穂(田中枇杷)を貰って来て、高接ぎにしたのを覚えて居ります。それからその時前に、古い事務所が八畳ぐらいのがありました。その脇にガラスを片屋根にした、簡単な温室のようなものがありまして、そこで葡萄の接木などを教わったことを覚えて居ります。その次代からボツボツ温室果樹をおやりになって居ったようで、整枝果樹が出来たのはその次でしょう。

福羽 整枝果樹は私が七つ位ですから、一号の温室の横にコンクリートの塀がありあそこが整枝果樹の始めかと思います。

石原 それと、あの片屋根の桃の整枝果樹があったんです。

福羽 桃より李がございました。

 ですから一号温室が出来たのはその頃ですか。

福羽 二十七年でございます。ですから二十七年に丁度あの一号室が出来て、同時にあの塀が出来たんじゃないかと思います。そうして一部分は番町から持って参りました。ですからその時は整枝果樹の始まりで、果樹園の出来たのは、ずっと後です。番町では整枝果樹はやって居りませんでしたろうか。

 記憶はございません。

福羽 すると二十七、八年が整枝果樹の始まりでした。

石原 其の時代の整枝果樹のうちで、私の知ってる範囲では、整枝果樹というものはすべて外国式で、方法も外国の方法なのです。福羽さんのやられた純粋の日本の果樹を福羽さんの修められた学問でやられたのはいま言われた枇杷です。枇杷の盃状形仕立を作られたのです。その時の砧木に何にを使われましたか。

 砧木は日本枇杷です。在来のものです。

石原 在来のものに田中枇杷を接がれて、枇杷の整枝果樹では世界の元祖でしょうね。

石井 明治何年頃ですか。

石原 温室の出来た時代ですから、二十六年です。恐らく枇杷の整枝というものは御苑で福羽さんの作られたのが世界の元祖と見て差支ないと思います。それから日本で一体果樹 栽培の主に盛んになったのは、大きな戦の後がどうも著しくいつも盛んになっているようです。例えば二十七八年後に盛んになって、それから三十七八年の大戦後に非常にまた果樹栽培というものが盛んになって来たのですが、それはつまり農家の副業というものが盛んになった為じゃないかと思います。それで二十七八年の戦後は日本の果樹栽培というものが勃興した始めなんです。それでその時丁度福羽さんが種々御苑で以て果樹栽培を始められたものですから。そこへ全国の果樹栽培家の主な人たちが、みな福羽さんの所に来て栽培法を習って、或は質問をして、それがつまり今日の果樹栽培の進んだ方法の本になったものだと思います。私は三十九年に興津園芸試験場へ入ったんですけども、その時分は各府県の著名な果樹栽培家に会って話を聞くというと、まア何れもその人たちは福羽さんのところに一回若くは数回は行ったような人たちで、中には萬事相談をしたりして、また果実の形はこれでよいかとか、或は味ひはこれでよいのかというような事まで質問したようで、その時分有名な産地の岡山あたりの人からよくそういう話を聞きました。それから接木で芽接というものは、元は日本では無論なかったのですが、これを始められたのはやはり福羽さんが早い人じゃないかと思います。それから温室の果樹栽培、あれが明治何年ですか。

 整枝果樹が二十七年、温室の将棋の駒みたいようなものが出来たのは其後でしょう。

石原 何でも私が行った時、植えたばかりだから、やはり三十七八年かな。

 そんなものでしょうね。

石原 温室の果樹栽培、これを始められたのは日本では一番福羽さんが早いのでしょう、それから隨分外国から種々な果樹の種類を取寄せられて植付られましたけれども、その中には既に以前にも出来たものもありますし、それから新らしいもので、特に福羽さんが入れられて残ってるものというものは、私の記憶にチョットありませんが、何かありますか。

福羽 果樹でですか。

 しかし自分で取られたけども、残って居らんネ、特殊な物はない訳ですか。

石原 ただ一つの世界的の果樹栽培家ということを証明するのに、フランスのバルテーという学者で、果樹の苗木屋をやってる人がいるのです。これがフランスで種々な本を書いて居ります。苗木、それから果樹栽培という本を書いて居ります。その人が日本種と西洋種とかけ合せて新らしい品種が出来たのですね、それで福羽さんなどよりもよほど年長の人ですが、その人が、その名をヴィコント福羽という名をつけたんです。

福羽 それはおやじが向うから希望された物を御苑で繁殖させたのを送って、たしか向うでやったんです。

石原 ヴィコント福羽という名をつけた、それだから世界のやはり果樹栽培家の一人として認められたものと思ひます。果樹栽培について貢献といわれると、まず総括していえば、現在の果樹栽培の基礎は福羽さんによって起ったものと見て差支えなかろうと思います。

辻村 今の福羽さんの梨ですが、丸いんですか。

石原 長いんです。それで色は青いんですが。

辻村 私の見ましたのは、福羽というので丸いんです。品種の説明は書いてありませんが、やはり福羽さんのヴィコント福羽、あれはなかなか実のならないものですが、あれとは違いますかナ。

石原 違うんです。

福羽 それは見たことはありましたけども、私まだその頃若かったものですから、ハッキリ記憶して居りませんけれども、確か御苑の果 樹園には植えてあったんですけども自分があったと探す頃には見つからなかったんです。見たことは確か見たんですバルテーのより新らしいものでしたならば、殊によると、父が拵えた今村夏とバートレットとの交配種を明治三十九年に実生しています。それを送ったかも知れません。するとバルテーから送って来たルコントとは全然違います。

葡萄酒の醸造も福羽博士が創始された

石原 何かまた思出したら、後で申上げますが、その次に播州葡萄園のこと、葡萄酒の醸造のはじまりですが、これは私もよく覚えてませんが、播州加古川に農商務省で建てたものと思いますが、播州葡萄園というものがあったのです。それで福羽さんがそこの園長をされて居ったんです。

 何年頃です。

福羽 行きましたのは明治十六年です。ここで(福羽博士の年譜)こういう事があります。十二年に岡山県へ出張して居ります。それは紀州の柑橘調査に行って、それと同時に兵庫県に出張して居ります。その用務は葡萄園開設というものを時の松方勧農頭に提出して、容れられて、調べて来いといって出張して居ります。十三年二月に大阪府その近辺に出張を命ぜられて、葡萄園設置というものを泉州信田森に変更しようという議が出た。それで果して適当であるかということを確かめて来ようというので行きましたが、結局信田森は適当ではないというので、播州加古川に決めるということになって居ります。十二年の春に土地買収を終って、当時三田育種場で出来た苗を、葡萄の挿芽の苗二千余本を同地へ廻送するということが書いてあります。そうして播州葡萄園の開設が出来たらしく、結局十三年は葡萄園開設です。

石原 すると内務省勧業寮時代に葡萄園の設置が始まって、そうして農商務省になってから仕事をしたんですね。 その時の模様はよく分りませんけれども、私は一枚古い写真を持って居ります。加古川の時の、その葡萄の栽培から見ると、フランスの今の醸造をして居る葡萄栽培の方法と同じことです。同じ形の式でやって居られたようです。それからその時にテーブル用の葡萄ですね。欧羅巴種類の所謂温室葡萄です。温室葡萄が大分入っているようです。その時に、温室を以て福羽さんが作られたのが始めて結果したのは十六年何月というのですが、兎に角十六年に始めて日本に温室葡萄というものが結果したのです。その種類もよく分りませんが、何が結実したのですか。

石原 それは露地の方でしょう。確か明治十六年です(※前文とのつながりが不明)。それから先はどの位続いたか、よく分りませんが、福羽さんが外国に行かれるまで即ち十九年まであそこに奉職して居られたんですから、その時の葡萄酒というものは、私は他の人よりも見られる機会があったんですけども、子供の時ですから、見たかも知れませんが、よく覚えてません。ただ温室で出来た葡萄をたった一粒食べさせられたことはよく覚えて居ります。(※石原助熊は、石原近義とみね=大久保利通の実姉=の長男、大久保利通暗殺以後、妻も死去した大久保家の子どもたちの面倒をみていた前田正名と石原近義の次女イチはのちに結婚した関係で、助熊が播州でできた葡萄を食べる機会があったのかもしれない)

 農務局長はやっばり前田正名さんだったな。

石原 そう、しかしこれでも日本で葡萄酒が出来たということもヨーロッパ葡萄の種類で、葡萄酒が出来たので、これが日本で一番始まりで、今のところでは終りですね。ヨーロッパ種で造ったというのはその前に明治十一年にフランスの博覧会の時、甲州の人で土屋という人(※「まるき葡萄酒」創業者・土屋龍憲)と、それから宮崎何某(※「宮光園」宮崎光太郎)が葡萄酒の醸造についてフランスへ行っておられます。今の甲州に残って居る宮崎という人の葡萄酒はその時から始めて居るんですが、それは甲州種葡萄とかアメリカ種の葡萄です。それです。それで造って居たのです。それだから真の葡萄酒醸造としてもやはり福羽さんが勉強もして来られたのですが、しかし福羽さんの方のブドー酒は今はもう残って居らんのです。ただ加古川荀萄酒醸造試験場を一番初めにされたということだけがあるんで、それが今日のように広まったということはないのだと思います。ただその話の葡萄酒でなしに残って居るのは、岡山県の葡萄温室の栽培です。これが現在非常に盛んになってやはりこれは福羽さんの残された仕事が今日のように盛んになったと見て差支えないと思うのです。これは岡山県の御津郡の山内義男という人が、私は初めて三十九年に岡山へ行って見ました時に、既にその人一人が温室葡萄をやって居ったのです。そこの家へ行って見ましたところが、温室は甚だ簡単なものです。いま現在岡山辺でやってるよりもっと簡単なもので、ただ不思議に思ったのは葡萄の種類はヨーロッパの温室葡萄の種類が植って居りましたけれども、その樹形は、醸造葡萄の形なのです。それであまり樹形がおかしいので、その山内という人に一体どうしてこういう事を始めたのかといいましたら、私は加古川の葡萄園に居ったことがあると云われ、それで始めて樹形が分った。というものは、醸造用葡萄の樹形を温室にあてはめてあるのです。しかし今日葡萄温室栽培では一番成功して居るのです。

 あれも葡萄園では岡山県の大森という人は目黒の花房子爵のところに来てやって居った。

石原 大森というのは岡山の果樹栽培か何かやってる人だな。

 それは播州葡萄園で習って来てやられたんじやありませんか。

岡見 ついこの間まで花房さんの所には土台か何か残って居ったといいます。

石井 何年頃ですか。

福羽 三十四、五年じゃございますまいか。

石原 もっと早くないかね、私どもが学校に居る時分ですぜ。

オリーブの栽培も始めらる

石原 それからその次はオリーブの栽培ということですが、このオリーブの栽培はやはり勧業時代に出来たものではないかと思います。加古川の葡萄園と一緒じゃないかと思います。この福羽さんの書かれたものによりま  すと、明治十年に日本に入いったのが一番早く、初めは製油つまり、オリーブ油をとる目的で「明治十二年に神戸と紀州、それから尾張、高知及び鹿児島等に分布せり」と書いてあります。それは覚えて居りませんが、神戸に山手通(やまのてどおり)という所があります、そこにオリーブ園がありました。これは多分加古川の醸造試驗場と一緒に、ここで以てやって居ったものじゃないかと思います。私の見ましたのは明治二十一、二年頃です。見た時にはまだ立派なオリーブ園でして、そうして真っ黒な実と真っ赤な実となって居って、大変うまそうな色をして居るものですから、一つ食ってみた。所がとても渋いものでした。あそこで多少その時分製油をして居ったんです。それから段々あそこは、神戸の町がオリーブ園の方へ広がって行って地面も高くなって、その後にどこか神戸の諏訪山脇の方へこれを持って行って植えたということを聞いて居ります。けれどもその後それがどういう風になったかよく覚えて居りません。

現在香川県でオリーブをやってるのは明治四十二年です、四十二年に始まったので、前のオリーブ園の方とは全く関係なく出来たのです。

 あの時指導に行って居られやしませんか、小豆島の方へ。

福羽 小豆島へ行った時の講演がこれなんです。

五島 四十四年頃に武庫離宮がありました。あそこへ行かれた時もあるように聞いて居ります。

石原 それでは武庫へ持って行ったのがこれですか。

福羽 それもハッキリ聞いたことはありませんが、何となく立消えになって、そのままになってしまったようです。それで父と母と話をしておるのを聞いたのですが、「あそこの大きいやつは木が残って居る」ということを母に話して居ったのを記憶して居ります。

牧野 それはこういう事を聞いて居ります。山手通りの所に前田正名君が後に屋敷を持って居った。あそこがオリーブ園、それがいまお話のように仕ようのない木になったので伐ってしまった。後を普通庭園にした、そういう風にしてオリーブ園は消滅した。その消滅した時、田中芳男先生、先生は丹念なお方ですから、記念の為にこの黒のオリーブの伐った材で、物置台を造りまして、それを持って来られて拝見したことがあります。

福羽 それは父も頂戴した物を、私子供の時に見ました。大小二つありましたが、厚さは二三分に切って、よく磨いてございました。

牧野 私、田中芳男先生のところで拝見しましたが、いま神戸に参りますと、山手通りの東西に通った通りの西向いてこっち側、角の所に大きなオリーブの木が残って居ります。唯一の記念物で、いま札を建てまして、歴史的に物を書きまして、残って居ります。

牧野 それからこの本を拝見して写しましたが、紀州へ移したということ、私先年紀州へ参りました時、田辺に大きな庭園を持って居る人、その庭園にオリーブが庭木にしてありました。明治十年頃やった時の遺物だと思い ますが。

福羽 これを見ますと、和歌山県の島田村にも行って居ることになって居ります。

牧野 上野の帝室博物館の後ろにも大きな木がありました。あそこで研究して居る時分、花が咲きまして、写生図を作ったのがありました。その後園丁が、あんな木ですから、枝を切りましてね、それをこの前見ましたが、あれは古い木ですがね。

福羽 鳥居坂に一本ありました。実吉(さねよし)という人の家、玄関の前の所です。実吉君とは札幌の大学に居る時一緒でしたから、見に行きましたが、どこからどうして這入ったか、皆目分らぬ、前からあるというのです。

牧野 オリーブに関係した話ですが、オリーブというものは漢名というものはありません。橄攬(※カンラン)というのがありますが、アリベッ(※不明、橄欖の読み方か?)ということになった。それが今日まできた訳です。ここで以外なことは日本でエゴの木の漢名として出て居った斉墩果といったり、油樹といったりしますが、それがオリーブですね。その名が、それを日本の学者がものが分らんものですから、エゴの木というものがあります、傘のロクロにする木ですが、それが斉墩果、オリーブというのは音訳して、ペルシャの言葉でオリーブをセーワン(※『植物記』牧野1943ではZeitunゼイツン、)というのです。それを支那人が音訳した、それが斉墩(※セイトン、『植物記』)となった。それでオリーブは斉墩果と書いたらよい訳ですね。それからこれもよく書物にあることですが、ブドウもペルシャ語、ブドウはペルシャ語を翻訳したブドウと書いてあって、葡萄の字が書いてあった。今の葡萄、これは字に意味はありません、音訳ですから。

石原 ああ、そうですかね。

石原 私は有栖川宮さまの武庫離宮のを知って居りますが。

 小豆島の苗はどこから行って居るんです。

石原 あれは農林省で米国から取寄せて、例の日露戦争の時日本には鰯があるけれども、油がない為に、油漬が出来ない。それでオリーブを試験したらどうかということを清浦さん(※清浦奎吾か、第23代内閣総理大臣)が いい出したんだ。それで農林省で三重県と、それから香川県と鹿児島県の三県に指定してやらせるということが決まったんだ、それで行けということで私が行ったんだよ、試験場を見に。ところが三重は鳥羽の先きだ、あそこに関とかいう所がある。そんな所をどうして候補地に選んだかというと、どうもそういう新らしい物だと、無くなって仕様がないから、林業試験場の苗圃があるからその中でやって貰いたい、でないと監督に困るからという。それから香川県へ行ったら、香川県は小豆島が一番よいという、一体香川県という所は風が強いところ、小豆島なら農商務省から指令の気候とか温度とかいうものに適合するから、あそこにしてほしいという事で、小豆島に見に行った。それで他の果実にもよいから、ここなら良かろうと思った。それから鹿児島県へも行った。鹿児島は市の近くで今は 市になって居るだろう。唐湊(とそ)というところがある、そこに置こうというので見たところが土地が軟かい土地で、どうも面白くない。他に探そうじゃないかといったところが、試験場の傍でないと監督に困るというので、そこでやったんだ、それから今の三重県は風が非常に強く当るところで、大風で以て殆ど大部分吹っ飛ばしてしまったんだ、それから鹿児島はどうも木は可なり大きくなるけれども実がならぬ。その中に小豆島は能く結実した。それで小豆島だけが残ったのである。

 その時のが福羽先生の指導なんですね。

石原 それで香川県へ福羽さんが行って、オリーブの講演をされたんですね。オリーブ栽培について、それでこれも日本に栽培する手を加えられたのは福羽さんですね。(つづく)

 

※参考
オリーブの漢名がエゴノキの漢字名として当てられていることについて、『植物記』1943に詳しく書かれている。
中国の唐時代の古い書誌『西陽雑俎(ゆうようざっそ)』に出ているという。レファレンス共同データベースも参照。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000073253

【連載第3回】

促成栽培もマッシュルームを作ったのも福羽博士が元祖

石原 次に私は、福羽さんに依って野菜促成栽培が始められたということを申上げます。福羽さんがフレームを使っての促成栽培をやられたのを現在覚えて居るのは私位のものでしょう。当時の記憶では今の新宿御苑の裏門から入いって、少し先へ行ったところに小さい事務所があり、その前に促成用フレームが四つ位あったと思う。その中に茄子と胡瓜が作ってあったのです。私はまだその時分には園芸のことはちっとも解らないので、福羽さんがこれを見てくれといわれて、わざわざ自分で案内して見せてくれたんですが、やはり茄子と胡瓜だと思って、興味を有たなかったんです。

石井 それは明治何年です。

石原 二十三年だと思いますが、どうです。

福羽 そうですか、私の生れた年ですから。

石原 外国から福羽さんが帰って来られた時は農商務省に居られて、それから宮内省へ入いられたんです。そこで始めて今のフレームを造って、フレーム栽培というものが始ったんです。もうその時作って居られたのは、これ も自慢に見せられたのはマッシユルームを作って居られた――君(林技師を指さして)あの家を知ってますか。

 知ってる、知ってる。

石原 そうか。して見るとやっばり君も爺いだな。

松崎 マッシュルームもそれが日本での始めてなんですな。

石原 そうだ、それを言おうと思って居ったんだが、しかし西洋人がもう大分来て居ったからどこでどんなものをやって居ったか分らんがまず福羽さんが元組と言ってよかろうね。

小林 よく出来て居りましたか。

石原 それはこんなまるい物に入いって居りますから、その形は外国で種屋が共進会や何かに出す時の形なんだ。外国へ行ってから分ったんですけれども、板の上に蒲鉾形に拵えて植える、種屋はそれごとそっくり出して、私 のところの菌はこういうように生えますと見せるやつだな。その式を以てやられたんだ。それから軟化栽培というものの始まりは福羽さんで、昔から根生薑(※根生姜)、根芋というものもあるにはあったが、あれの西洋式の栽培をやって居られた。今の丁度御苑の脇のところ、あそこに大きなモミかなんかあった。その所でやって居られた。

 いま、あそこの所に稲荷さんがありましょう。あそこで根芋、生薑(※生姜)、三つ葉、そういうものをやって居った訳です。

洋式庭園も福羽先生が始めてであった

石原 先程の牧野先生のお話があったうちに、仏蘭西の人が、あそこの庭の設計をしたということをいって居られたが、あれは仏蘭西のマルチニーという庭園師です。設計図を書いたのは仏蘭西のヴェルサイユの園芸学校の先生で、私があちらに行った時にその人から、「福羽さんにこういう設計をしてやったが、あれはどうなった」といわれたが、私はその時に知らんといったが、帰って来て福羽さんの所へ行ったら、福羽さんが私を案内してくれて、見たんですが、その中で特に福羽さんの自慢をされたところがあります。それは御苑の正門を入いって、あがったところの衝き当りから新宿の方を見た所です。それがですね、どこまでこの庭が続いて居るかという風に見える場所なんだそうです。ここを見てくれというので、特にそこを案内された事がありました。

石原 話がもどりますがその今のフレーム栽培が現在のフレーム栽培の本です。

石井 今ぐらいのフレームの大きさですか。

石原 今のと一緒です。

 その時御苑の役人で井上銀之助という人がありました。勧業寮へずっと勤めた人で、この人が福羽先生の促成栽培を習って、あそこの担当者、雇か技手であったか知れませんけれども、これはよい事を習ったというので、役人して居るより自分がやったら得だというので、千駄ヶ谷で大きく営利的に商売的に始められた人ですね。なかなか一時は相当な収入があった人ですが、恐らくこれが促成栽培の営利業者の始めでしょう。

石原 フレームを使ってね。

 井上さんが作られた茄子を神田市場へ持って行って、一つ十銭か十五銭しましたが。

五島 あの人ともう一人古賀傳(こがでん)という人がありました。

図7 タバコを手にお話する林脩已氏のポーズ
フラワーデコレーター、永島四郎の恩師。英国仕込みでかっこいい先生だったという。

(※林脩已氏の)福羽先生に対する私の思い出

 私の福羽先生にお目にかかった動機は、私の郷里は鳥取県ですが、鳥取の片寄俊(かたよせしん)という方  が県庁の役人で居られた。このお方が後に御苑の役人で、最後には山口県の農事試験場に勤められ日本の園芸界に功績のあった方ですが、その鳥取県に来られる前、先程からお話の出ました播州荀萄園に勤めて居られて、福羽さんとご懇意であった訳です。それでその片寄さんの御紹介で地方から東京へ勉強に出ることになりました。その当時園芸を教える所というものは他になかったものですから、それまで丁度御苑が御料局の管轄で、福羽先生が主任であって園芸の仕事を拡張すると同時に、生徒を募る予定だから、それでは自分の方で引受けようという御交渉が、片寄さんとの間に出来ました。それで始めて明治ニ十五年に東京へ出たんですが、その当時は先程からお話に出て居った御苑というものは、まだ現在の御料場の脇にほんの小さな事務所があるだけで、役人としては井上さんと原田さんが居られたんですが、それが事務の方をやって居られた。井上さんは園芸の方で、市川之雄さんが入いられたのはずっと後です。そういう関係で私は東京へ出ました。しかしまだ御苑も生徒を置く段取りにならなかったのですから、二十五年の正月から三月頃まで、福羽先生の宅に居れというお話でございまして、書生の御厄介になった訳です。その当時にもう既に先輩の福羽恩蔵さんがやはり播州の葡萄園に居られたのが、こちらに出て来られて、宮内省の紅葉山の園芸係として、福羽さんの家から始終紅葉山の方へ出勤をして居られたのです。紅葉山に出て、主に促成栽培をなすって、土筆を早く作るとか、蕨を早く作るとかそういう事が英照皇后(※皇太后、明治天皇の継母)さま、その当時の皇后陛下のお慰めになって居たので、それを福羽先生が福羽恩蔵さんを指導せられて、そうして同君がこれを受持って、やって居られたんです。それからその当時のお宅は番町小学校の前、下六番町ですね。それからその時は一時宅にそういう風に御厄介になったんですが、書生さんに太田という人が居りましたが、これが中途でお暇をいただいて、後に兵庫県の試験場の園芸主任になった人です。

石原 そうですか。それは始めて伺ったですね。あなたの所に居ったことは知って居ったんだが。

 一時兵庫県の試験場で随分鳴らした人です。今は多分明石に住んで居るということですが、そういう人が当時厄介になって居った訳です。その時にお邸に、九尺に五間くらいの温室がありました。それでその中に作ってありましたのが、いまも記憶にあるのは、蘭ではシンビジューム、スタンホペアー・チグリナ、それからセロジーネ・クリスタータその他集まりましたが、そういう蘭があり、且つクロトン、ドラセナ、ベコニヤ・レックスというような観葉植物もありますし、花ではシネラリア、プリムラ、シザンサス、カルセオラリヤ、ペチニヤ、パンジー、ヴィオレット等というものが作ってありますし、球根物で球根ベゴニヤ、グロキシニヤ、そういう物がこの温室でぎっしり一杯所狹く並んで居りましたことを覚えて居りますが、それで先生は昼間は御苑へお勤めになる。夕方なり日曜なりに自分で栽培に従事せられた訳です。それをまた今の太田君だの私などお手伝いするという、それはまた温室係ですね。それから外では、あの時は日本桜草、それから牡丹、菊というようなものが作られて居りました。そうして勤務から帰って来られては栽培に従事したり研究して居られたんです。そうして二十五年四月からでしたか、今の御苑の方にいよいよ生徒を置くようになったからというので、私は他へ下宿して御苑の生徒として通って居ったんでしたが、その時分の御苑はチョット先程申上げましたように、勧業寮の跡がありあり残って居りまして、それで福羽先生が新たにやられた仕事はほんのはじまりかけなんです。それで先程石原さんのお話のフレームを使っての促成栽培ですね、これが恐らく日本に於ける切めでしょう。

洋菜の本式な栽培も始められ

その時分は福羽さんのはみな仏蘭西で御勉強なすったんですが、今はフレームで分るんですが、当時シャシーといって、我々分らずながらそういうような事を覚えて居りました。作られたものは促成栽培の他に、そのフレームを使ってフランスのヴィルモラン商会から花の種子や、野菜の種子を取りよせて播いて苗を作りました。今の花椰菜とか、甘藍(たまな)、セロリー、それからポテト、(ジャガイモ)、そういういうような物もフレームを応用しては、苗を作っては、外へ出して栽培して居られた。その時分普通ポテトより促成栽培用の小さなもの、マジョランというのですが、いまこちらで探してもありません。

福羽 ございますよ、いまだにやって居りますがね。

 これはまだ世間では恐らく伝わって居らんと思います。御苑にはいまおありだということですが、それは促成用の専門のもの、今のような露地のポテトの促成では本当の仏蘭西料理にはならんのでしょう。あれなんかはむかずに直ぐ洋食に使える種類なんですからね。それからその時代の果実の方では、先程石原さんのお話のビワの高接ぎですね。これは日本の在来のビワの直径二寸五分位、高さは二尺八寸のところで伐って、そこへ二口なり三口なり接がれたんですが、その穂を福羽さんのお使いで本郷金助町の田中芳男さんのところから持って来まして、多分あの時ニ十五本か三十本接がれたのが、現在御苑の中に直径七八間(樹冠)ありますか、枝の張り方が大分拡がって居りますね。十間にもなって居りますか、それでございます。それからしきりに研究して居られたのは、葡萄の免疫性の砧木、今でいえばリバリヤ砧木。それに葡萄を接ぎまして、それも切接じゃない、舌接でやって居られました。今の一号温室が建ちましたのは、あれは二十五六年でした。

岡見 七年ということでした。(※一号温室は明治27年)

 そうですか。今の御苑でやって居られる一号温室あれが何坪ありますか、百坪はありますまい。

石原 そんなにないよ。

 それが六十坪位に出来ましたか、片屋根それから正面の前、中はスパンルー、それから中央に室がありまして、始めて温室が出来た訳ですが、この時には先程申上げました番町の小さな温室の中に作られて居る蘭とか鑑賞植物を全部を持って来られまして、兎に角こちらの温室一杯あった訳ですね。中央温室には芭蕉も植って居りましたね。

蘭科植物の輸入もやられバラの芽接、牡丹の芍薬砧も先生が始め

 後に、まアそういう風な状態で、兎に角色々と数回となく蘭科植物などが英吉利、仏蘭西から輸入される、また新嘉坡(シンガポール)のビノーという商人からも大分来ますし、段々蘭抖植物も増加して来たのでありますが、それで蘭が着く時は横浜まで、その時は福羽恩蔵さんが紅葉山をやめて御苑の專属になって来て居られたんですが、始終横浜まで出張って無事に着くか着かないかというので、気を揉んで居られて大騒ぎであったことを覚えて居りますが、それからあれで何遍御洋行なすったんですか、しまいまで五遍ですか、兎に角五回外国に行って居られましたが、その都度いろいろお帰りになりますと、新らしい植物を持って来られるし、また新らしい方法を研究して来られたんでしょうが、私どもが始めてお習いしたのは第一バラの高接ぎつまり、芽接ぎですが、これ等も殆ど福羽さんによって始めて日本でやられたものでありましょうし、それからバラが普通の接ぎ方で行くと、みな砧(だい)に芽が出て困るんですが、向うから研究して来られた結果、実生をした砧木で貝割の下に芽接ぎをすれば、砧芽が出て来る心配がないとか、そういう方法だとか、それから現在は世間では普通になって居りますが、芍薬砧(だい)に牡丹をつぐというような方法ですな。これ等もこの五遍の洋行の問に御研究になって帰って来らたもので、随分新らしいことをやられたものです。私は明治二十七年までしか御苑に居りませんでした。

博覧会の審査官も先生が始終やられた

 それから福羽先生が京都の第三回内国勧業博覧会の審査官をやられ、園芸の出品の方の係を命ぜられまして、その時に福羽先生は審査官として園芸の方の審査に行かれたんですが、この時の審査官が南さんですな(※北大教授、南鷹次郎か、札幌農学校第二期卒業生)、それから池田謙三(※正しくは謙蔵)さんですが、それから福羽先生と三人です。それで私は出品の方でしたけれども、ついでに審査の手伝いをさせていただいたんですが、殆ど大部分は福羽先生が審査に骨折って居られましたが、その時に始めて今の久留米つつじ、あれが世間に出ない前、始めて博覧会に久留米の赤司廣楽園(※あかしこうらくえん)から出して、それで一遍に花が綺麗に揃って咲くから裝飾用として、よほど適するというので.大分よい賞与があったことを覚えて居りますが。それから滑稽なことは牡丹の審査についての話ですが、これは大阪の池田と兵庫の山本という両方の産地がありました。一方は大阪府出品、一方は兵庫県出品であるので、負けず劣らずに競争して居ったんですが、いよいよ花が咲いてから審査をするというので。普通の苗では審査はしなかったんです。それで大阪府の方の花が非常に出来が悪かったんですね。それで木が大きいのに花が小さく咲いたというのでそれで先生が不思議がられて、何か原因があるのだろうというので調べて見られたら、花の大きさの競争に負けないという訳で、大阪の方は肥料をうんとやり過ぎた、それで根を痛めまして、花が木の割合に大きく咲かなかった。それで福羽先生がつまらんことをすると大笑いをされた。

園芸家として写真をやられたのも福羽先生が初めである

それからその時分は頻りに写真道楽をして居られまして、園芸をやるには写真をやる必要があるというので博覧会で、出張の時でも夜は宿へ帰って、写真の現像のお手伝いをする訳です。それから或る時嵐山の花を見に行こうじゃないかということで、お供をさしていただいたんですな。雑踏する時の花は見たくないけれども、極く人の通らぬ時見ようじゃないかというので、朝四時頃起きて、俥(くるま※人力車)で、御飯を食べずにお供をした訳ですが、あそこに三軒茶屋という旅館がありまして、花を見て、そこで朝食が整った訳ですが、勿論先生に御馳走になったんですが、その時鮎の蓼酢が出たんです。それが大変先生の気に入りまして、これはうまいからというので、一尾づつかつけて来ないのを、三遍もお代りをされた。私にも食べろ食べろといわれて、もう一つ頂戴してお代りをしたんですが、後の勘定がベラボーに高かったんです(※明治27年、おそば一杯1銭2厘『値段史年表』、1円は100銭です)。何でも一尾一円五十銭かして、大変にそういう風の食べる方のお道楽だった(※今で言うグルメ)のでしょうが、後に大膳頭(だいぜんのかみ)になられる方であったが、その時から御研究が積んで居られたんでしょうが、なかなか御馳走がお好きでおあがりになりました。それから御苑に私チョット帰って、暫く入れていただいて、二十八年に大隈家へ参りましたのですが、大隈家の温室に二度目に出来ました設計、その他牡丹や菊などもやり色々始終福羽先生が御指導にお出でになって居った訳ですが、その時に大隈家は勿論温室もあります、それから蔬菜の促成、或は普通の果樹蔬菜の栽培というものもみな福羽先生が御指導になって、私が後を指導通りでやった訳です。(次号へつづく)

※参考
『実際園芸』第2巻1号 「我国実際園芸界の始祖福羽博士を憶ふ」 園芸研究会 誠文堂新光社 1927
『平成30年度特別展 新宿御苑―皇室庭園の時代』 新宿歴史博物館・宮内庁宮内公文書館 新宿歴史博物館

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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