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第135回 日本の近代園芸学の始祖、福羽逸人~レジェンドによる座談会【後編】

公開日:2021.9.10

「明治における本邦園芸の開祖 福羽逸人博士の業績を語る会 昭和11年5月18日御命日の日に」

[掲載誌]『実際園芸』(第22巻1~5号)
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1937(昭和12)年1月~5月号
[入手の難易度]難

日本園芸界は官と民と皇室の3本柱で発展した

前回に引き続き、日本園芸界の始祖、福羽逸人(図1)の業績をたどる座談会記録を紹介する。

振り返ってみると、戦前の日本の園芸は、官と民と皇室の3本柱があった。それぞれに別の「お財布」があって、それぞれに現場でバリバリ働く人たちがいて、その多くは互いに交友をもって知識や技術を高めあっていた。趣味で園芸を楽しむ人による種苗交換会があり、そのなかには国際的にも評価される達人がいた。植物園や園芸試験場では地道な研究が数多く行われ、技術指導も行われ、新しい植物や道具が民間に払い下げられることもあった。海外経験が豊富な富裕層が一般の好事家にも庭や温室を公開することもよく行われていた。「民」はたしかに「稼げる園芸」を目指していたに違いないのだが、損得抜きで消費者を育てることもまたビジネスにつながるとよく理解していたと思う。

福羽逸人には3人の恩人がいるといわれている。第一の恩人は、園芸を一生の仕事として志した若い頃に、栽培の基礎を教えてくれた元老院議官、子爵、水本成美(みずもとなるみ)だ。水本はボタンや花ショウブ、キクなど日本の伝統園芸植物に詳しく、御苑での仕事につながった。2人目は、薩摩に生まれ若い頃にフランスに留学、明治政府に出仕し殖産興業、特に勧農政策(三田の育種場なども)に力を尽くした内務省勧農局の前田正名。福羽は前田に目をかけられオリーブの試験栽培や播州葡萄園の責任者として抜擢された。3人目。その後、「官」から皇室園芸に誘われ、新宿御苑で実力を発揮するようになった時、宮内大臣の田中光顕からは特に信任厚く、5ヵ年におよぶ御苑の改修計画を了承、支援をしてもらった。日露戦争で国庫が危機にあるにもかかわらず、英断できる実力者だった(土佐出身の田中は幕末の志士。田中の回顧録から当時無名だった坂本龍馬が有名になっていった)。このように、福羽は「官」から「皇室」のヘッド・ガーデナー、皇室の台所のマネージャーとして誰も成し遂げることのない業績をあげ、数多くの後進に財産を残していった。

図1 福羽逸人の肖像 (『実際園芸』第2巻1号)。

幕末の混乱期に幕府によって結ばれた諸外国との不平等条約の改正は新生日本の長い間の懸案、宿題となっていくのだが、官、民に加えて、「皇室外交」は条約改正運動に大きな役割を果たしていたという。各国の大使や貴賓は日本の「ミカド」に面会したがった。こうした外国の貴賓を天皇が迎える「最高のおもてなし」の場所(庭園、ランドスケープ)、料理(ワインやデザートも)、そして花き装飾! こうしたものを日本人の手ですべて作り出そうと構想していたのが、宮内省大膳頭、福羽逸人だった。多くの日本人がまだ、「鬼」と戦っていた時代(参考:マンガ「鬼滅の刃」)に、福羽の構想は諸外国の王室、政府の応接マナーとまったく同等、ひけをとらない品質を目指して黙々と働いていた。

図2および図4は、1900(明治33)頃、アメリカとフランスの園芸誌に特集された日本のキクの「大作り」に関する記事で紹介された写真だ。1900年のパリ万博で日本から出品された大作りキクに関する記事があると、「園芸探偵」の友である細谷宗令先輩から教わった。図4のほうは、実際にフランスで制作され展示されたもの(200輪クラス)だが、図2の800輪クラスの作品は、御苑で制作されたものである。パリ万博の当時、現地で園芸関係者に展示を説明した福羽は日本が誇る菊の秀品に関する写真を何枚も持参していたという。ヨーロッパの人々は盆栽を「人工的過ぎる」と否定したが、キクの展示については、植物の持っているポテンシャルを最高に引き出した傑作としてたいへんに高く評価している。私たちは、地元で「おじいちゃんたちがやっている菊花展」のスタイルがいつ始まったのか知らない。古い時代からあるものだと思い込んでいるかも知れないが、実はその多くが御苑、皇室の庭園スタイルに基づいている。福羽が何度も京都に足を運び、古くから伝わる栽培、展示方法や品種改良の研究を重ねて作り出した、まさに近代日本の園芸技術を世界に発信するための形式であったことを忘れないでいたい。

それでは、前回に引き続き、座談会の後半を再録する。写真3は、座談会の当日、福羽の墓参の際に撮影されたものである。福羽家のお墓は東京の青山墓地にある。神宮外苑から歩いてもそう遠くない場所で、木々に囲まれた墓所である。

福羽逸人の偉業(後編)

・福羽は西洋の植物を日本に導入しただけでなく、日本古来の植物も大切にし、日本ギクの基礎を作った。

・大ギクの一本作り、一輪作り、大作り等の形式を確定していった。

・特に「花壇」の展示方法は皇室独自の形式として品格を表す秀逸なものに高められた。

・福羽は若い頃に水本成美子爵から花ショウブだのキクだのの日本の伝統的な園芸品種や栽培方法を徹底的に学んだ。

・福羽が育てた園芸品種は横浜のボーマー商会などを通じてアメリカに輸出されていた。

・福羽は国内外の園芸知識に造詣が深かったが、実際に技術面でも優れた腕を持っていた。

・ゆえに弟子には厳しかった。ノートを取らせないというのは有名。

・福羽イチゴのもとになったのはフランスから持ち込んだゼネラルシャンジー。

・イチゴの苗は船での長距離輸送に耐えられず、種子をもとに育種をしたので、固定されない品種が「福羽」の名前であちこちに広まった。

・福羽の名がついた果物は「ナシ」にもあった。日本のナシと西洋ナシとの掛け合わせ。国内ではなくヨーロッパで出回っていた(あまりおいしくない)。

図2 明治後期に御苑で制作されていたキクの大作り。800輪の傑作。
左に見える男性は技師、市川之雄(ゆきお)だろうか。
(画像は『The Florists’ Exchange』 1903年10月4日の記事から)
図3「福羽逸人博士の業績を語る会」に集まった人々(昭和11年5月18日、命日の日に)。
東京、青山墓地にある福羽逸人先生の墓参で撮影された記念写真。左から森川肇、牧野富太郎、辻村常助、五島八左衛門、石井勇義、池田成功、石原助熊、福羽発三、林脩已、岡見義男、松崎直枝。小林憲夫の姿が見えない。

 

【資料】「明治に於ける本邦園芸の開祖 福羽逸人博士の業績を語る会」 園芸研究会

『実際園芸』1937年1月~5月号(22巻1~5号)に掲載(※読みやすいように、旧漢字を改め、旧仮名を現代かな使いに直している。現在では不適切と思われる言葉もそのまま記した。「※」はマツヤマ注)。

—————

五月十九日、福羽博士の御命日に当り、先生の園芸界に対する業蹟を偲ぶ人々に依って、謹んで一同青山の墓地に眠らるる博士の墓参を行い、それより青山の辰好軒に集りて牧野富太郎、石原助熊、林脩已、岡見義男、五島八左衛門の諸先生を中心に、あらゆる園芸部門に亘って、明治大正の日本の園芸界の開祖である、福羽子爵のなされた足跡について思出話を伺ったのが次に述べる座談会録で、花卉園芸は勿論、果樹、蔬菜、庭園、加工等の一切がすべて福羽博士に依って基礎を造られた事に驚かざるを得ないものがある。

【第3回つづき】

 日本菊の栽培の基礎も作られた

 話が、少し逆戻りをしますが、番町時代に菊を最も熱心に、花壇をお作りになることを研究になって居ったんですが、その当時大菊の一本作り、一輪作り、それで鷹司家に菊の絵巻物があって、それ等をお持ちになって、大分菊の栽培を研究になって、そのうちに今どうしてもこういう作り方は我々としては考え及ばぬところだが、どうして作ったかというようなことを仰しゃって居ったのは、一本の木で地上一尺位から五尺位までの所に菊の輪が二十四、五輪つきまして、それが同じ大きさで、同時に咲いて居るのですね。そういう絵が書いてあるのですが、それで一つ花壇が出来て居る、こういう絵がありますが、こういうことは難かしい。一本作りなどは多分列彩様花壇という。そこで種々の種類を、厚物、薄物或は管物を作って、それで奥さんとよく御相談なすって居ったようでしたが、前年に全然似ぬように花壇配列図が出来て居りまして、去年はこうしたが、今年はこうしよう、あの時はこことあそこの色合が面白くなかったから、今度はこう変えて見ようじゃないかとか、或はあの時はこう重り合って居たから、今度は薄物と管物を互い違いに配列して見ようじゃないかというようなご相談を始終して居られたんですが、ここに一寸奥様のことを申上げますとおかしいんですが、なかなか或る場合には奥様が先生より記憶がよかったようで、奥様から注意なさると、ああそうだったかなというようなことで、互にお話をなすって居ったことを存じあげますが、まア結局そういうのが現在の赤坂御所のつまり一本作りの本になって居るんじゃないかと思うんです。それから例の千輪作り、大作りと称する、それで私の初めて係り合わせました、二十五年に作られたのが、今ありますか、どうですか。旭の波というのでしたが。

福羽 それはありません。

 中菊の平弁の千重咲で、弁の少ししだれる赤で、両ふちが白い菊です。それが大作りで、非常によく出来たんですが、それはその自分(※時分)の何ですな、横浜のボーマー商会、二十八番ですが、行って、そこにアンガー(※ドイツ人、ウンガーともいう。ボーマーから経営を引き継いだ)というのがありまして、出て来てまして、これは綺麗と感じたんでしょうかね、それをアンガーが貰い受けて、大分苗をふやして英吉利やアメリカヘ輸出して、大分好評を博したという話でしたが、そういうように大分日本の植物を菊に限らず御自身なり、或はそういうような人の手からも外国に出してお出でになるようでありますが、尤も後にはあれは三十五年ですが、今の報告のありましたのは一九〇二年ですから明治三十三年になりますか、向うの博覧会で菊花栽培では日本の園芸を紹介された本にもなって居るんですが、丁度二十五年あたりには故人の市川(※之雄)さんですね。あの方がよく福羽さんの屋敷へ行って、花壇の造り方、結立(ゆいたて)とかいう事を習って居られたんですが、なかなか市川さんは器用でもあるし後に市川さんは御苑の役人になられて、博覧会(パリ万博など)には市川さんと、今日来られる筈になって居った相田(※春五郎)君がついて行って、菊の栽培を向うで大にやられたという話です。それからその他に中菊ですね。今の狂い菊、それにホンサンの篠作り、これも福羽さんの屋敷で出来て居りまして、その中で最も大事がられて居ったのは宿の一本、これは赤の厚物、それから野辺の雉、これは黄色の極り弁が二廻り位した薄い花、これが狂い菊の標本だということを先生から教わった訳です。これは元狂い菊は薩摩のお方で水本(※成美)元老院議官、園芸が熱心で、花菖蒲だの菊だの、お作りになって居って、そこへ福羽先生が若い時分お習いにおいでになって思ったような話です。私は多分二十六年と思いますが、先生のお使いでお邸へ伺ったことがありますが、雨が降れば役所へ出られるし、天気の良い日は園芸という訳だったそうです。今の田村景福さんがそこの書生でこの方が福羽先生の園芸の日本の先生といいますか、余程園芸趣味を養われたように伺っています。

【第4回】

菊の研究と観菊御会

 福羽先生は、日本園芸の師であった水本先生に対しては、菊がよく出来ましたり、何か外国から取寄せられたりして、よい花が出来ますと、時々水本先生の墓前へ持って行って供えられたことがありました。これは福羽先生の屋敷の狂い菊の関係の話ですが、一本作りなんていうのは、今申上げました昔から鷹司家にあったか知れませんが、近代では先生の御創案でしょうね、それから御所の嵯峨菊は、こちらにはありませんでした。あれは安井という園丁が京都の御所からこちらへついて来て居りまして、これが赤坂御所で嵯峨菊の栽培をしてましたが、同氏は当時の権威者であったので福羽先生に、嵯峨菊については安井と云う人にお任せになって居ったようです。

石井 観菊会の始まりはいつ頃からですか。

石原 それは元の青山御所であったのです。福羽さんが、菊をやられるようになってから。私は十三位の時分に連れられて行ったことがあるから、五十何年前ですな(※石原助熊の父、石原近義は大久保利通の義弟で幕末維新期には行動をともにした有力者)。

 大作りは福羽先生から始ったものですね。それからその時には日本の桜草を大分御研究になって居りましたが、それは西洋にもよい花があるからという訳で、後には桜草はそうおやりにならなかったようです。

福羽 それは一時母がいって居りました。

図4 第5回パリ万博(1900年)に出品され大賞を受賞した大作り菊。花の輪数は150~200輪。盆栽の技法は人工的過ぎると批判が多かったのに対して、大作りは大変に高評価を得て来場者の目をくぎづけにしたという。(『Revue Horticole 1900』から)

蘭科の栽培とメロン栽培の始め

石井 蘭科植物などの交配をやって、新らしい品種を作りはじめたのはいつ頃です。

 そうですな、それは蘭の実生だとか、ネペンセスだとか、交配をして新種を出された事については、私どもが御苑を出ました、二十八年以後におやりになった仕事で、何年頃ですか、三十年前後だと思いますが、蘭は相当苦心してやられたようですけども、なかなか最初は生えませんでしてね、色々と今は進んだようですけども、その他実生の研究で、蒸溜水をかけるとか、細かい水苔、或はピートの熱気消毒というようなことまでやられたようです。それでフランスの万国博覧会は三十三(※1900)年でしたか、その後にヨーロッパから帰って来られて、いろいろよく出来るようになったようです。又、それから後に盛んになったのはメロンですね。メロン栽培、これも最初は長い間、形は出来ましたけれども、良い物が出来なくて、苦心して居られました。

石原 福羽さんがそういった、二十年間に初めて、メロンの栽培が出来たということを話しました。

 初めは出来るには出来たけれども、(※マスクメロンなので)ネットも、かかるけども、味(あじわ)いもないし、匂いもない。癇癪を起して居られたがね。

小林 メロンを作りはじめると、必ず胡瓜のようなものを作るというが、先代も初めは胡瓜のようなもの(※失敗作)を作られたことだと思うんだが。

先生の料理や葡萄酒に対する御造詣

 なかなか、何といいますか、味というものに対して、特殊の味覚を持って居られたんでしょうね。よくこういうことをいわれたんですね、君等園芸をやって、栽培については色々なことを研究するだろうけれども、出来たものをどう加工して、どういうようにして食べたらよいか、どういう方に向くかということを研究しなければいかん、という事を始終いって居られたのです。ですから、同じ一つのトマトならトマト、キューカンバーならキューカンバーがあっても、それを種々(いろいろ)な方法で料理しまして、そうしてよく私共がお伺いしますと、晩食の御馳走になりまして、必ず三つや四つは違った方法で、同じ材料の物を出して来られて、どれが一番うまいか、鑑定しろといわれましたが、こちらはどれもうまいんです。なかなかそういう所は細かかったんですね。そこまで研究しなければ、本当の園芸家にはなれないよと、始終説かれて居りましたが、だから料理はなかなかやかましかったようでしたね。

福羽 ええ。自分でも料理をやりましたがね。

 それから料理についてお話をしますと、葡萄酒をーー日本によい葡萄酒がなかった訳ですね。それでフランスから大きなビヤ樽へ入れて取って、あれを番町の屋敷に五六本も、蔵の下にありましたが、そういうようにしてお取寄せになりまして、閑院宮殿下の御殿などへも持って行かれましたが、よく売品によいのがないから、分けてくれという申込みがありまして、持って行かれたことがありますが、食事の時にこの葡萄酒が出まして、講釈を聞いたことがあります。葡萄酒はただ飲んではいかんとか、葡萄の一番よく出来た年の葡萄酒が一番高いとかいろいろ講釈がありました。

石原 葡萄酒は古いのがよいというが、どれもこれも、毎年の物を取っておいて、古いのがよいというのではない、何年のものは気候がよくて、よく熟したもので、それで醸造した葡萄酒がよいというので、千何百年のがよいんだという訳で、何年の年は非常に葡萄のよく出来た時、そのよく出来た年の酒でなければ貯蔵してもよくないというのだそうです。

 そういう訳で、何年の酒だといって、つがれたら、ダッと飲んではいかん、こぼれても構わぬから、コップを振って、一口チョット飲んでは、舌にコロコロころがして、そうしてぐっと飲み込んで、口を塞いで、鼻から息を出すんだそうです。すると鼻に匂いがついて居る。後(のち)三日でも四日でも、ハンカチで鼻かむ時、その匂いがついて居るから、やってみろということでしたが。けれどもなかなか、私共ではそこまでわかりません。

石原 こう持ちまして、こう振って居る。指先で温たまるその時匂いが出て来る、それで先づ以て一遍匂いを嗅いで、それから飲むというんですがね。

福羽 それは赤葡萄酒に限るんですね。白は冷して飲むんですからね。

養蘭月令と御著書の始め

 御苑の生徒で居りました時分、私は九段の下宿に居りましたが、帰りに先生のお宅へ寄りますと、するとその時分には蘭の栽培などは参考書は些つともありませんで、原書を先生が翻訳されまして、私筆記しましたが、養蘭月令を翻訳して貰って、それで御苑の蘭を作る根本になったのです。

岡見 何かこれにお書きになって居りますか。

 それは栽培の手引になったものです。それからその時に日本果樹栽培全書というのが、あれは五冊物ですが、石原さんのお話は駒場の講義、それをやり直して、口述せられたのを筆記して、そのまとまったものが日本果樹栽培全書。それが本に先生が出版せられた果樹栽培の始めてのものですね。それから「果樹蔬菜高等栽培」などというものも出て居りますけれども、それから花卉の栽培書も書くといって居られましたが、到頭晩年まで大きなものは出ていなかったんですが、しかし世間には公表がされないもので、書かれたものが随分あるということですが、まだ出す時期にはいかんということで出て居りませんからね。

石井 伺っているほど、段々とお話が出て来るようですが、もう少し逸話の方をお話しを願いたいと思います。

小林 堀切君の話ですが、いつもよく叱られるというのですが、或る時鉢植の、根のまいったものがある、それを植え換えなければならぬ。ところがあれをポンと叩いて抜くんですが、それをやってもなかなか抜けない。しきりにやって居った。そこへ先生が来られて、何だお前たちはーーと頭から叱られた。けれども先生だって、何に、やれるものかと思って居ったところが、こちらへ出せといわれて、出すと、それを取って、ポンと叩くと、スポンと抜けたという。これには一言もなく、叱られても仕方がないということでしたが。

図5 国産1号のイチゴ、「福羽苺」 細長い楕円形の大粒、果肉は赤い。色・形・香りともに優秀品種。
皇室に献上するために御苑で育てられ、門外不出、「御苑苺」と呼ばれた。(『実際園芸』第2巻1号)

福羽苺の由来

石井 福羽苺の実生は何時頃やられましたか。

福羽 福羽苺のことはハッキリ存じませんが、私の考えるところでは三十二、三年頃かと思って居りますが。

 世間ではこんなことをいって居ります、ゼネラルシャンジーと一緒だというのですが。

福羽 ゼネラルシャンジーを輸入したのはいつですかね。父がゼネラルシャンジーの種子を 輸入したというのですがーー。

石原 それは福羽恩蔵さんとやったんだが、ゼネラルシャンジーを播いた、それが基になったということです。所がその元はフレームでなしに、穴を深く掘って、そこの方へ作ってあった。私が西洋から帰ってからだから三十五、六年であったでしょう。その中で一本早いやつが花を咲いた、それを一本ぬいたのが、今日の苺だということでした。

福羽 そうでしょう、私は父から聞いたんですが畑で働きながら、これがお前こうだよ、といってくれたのがゼネラルシャンジー。これは大きいからよいと思って輸入したけれども、三遍四遍、取り寄せたけれども、印度洋を渡って来る間に枯れてしまった。どうも広まらんから種子を取寄せた。そいつを播いて、沢山出来た中から、ゼネラルシャンジーに似た形、花が早く出るやつがあったから、それを取って拵らえあげたが、これがゼネラルシャンジー、こちらがゼネラルヘーグ、ゼネラルキッチナーというようにそのまァ交配であったんですが、あの苺を御苑ではインプルーブド・ゼネラル・シャンジーといって居った。ところが御苑に居る父は自分で平生花卉だけで、細かいことはいって居らなかったものですから、シャンジーということをいえば、シャンジーで通って居った訳です。ですからゼネラルシャンジー、ゼネラルシャンジーと一般が思って居った訳。ところがおやじの頭にはインプルーブドがちゃんとついて居ったんです。そんなことを父は言わんものですから、大きいのはゼネラルシャンジー。ところがその中におやじの話とまぜてしまうんですけれども、ゼネラルシャンジーと同じで、よい苺があるという訳。そのうち偶然と出たのが花房男邸へシャンジー(※が移出し、また)それか東京府の農事試験場が中野にあった時、中野に出て居ることが分って居る。働きに来て居る人間が知っていて、ゼネラルシャンジーといって出てきます。これが形の上でゼネラルシャンジーといって居りました。私が大体そんなように聞いて居りましたが。

 別にゼネラルシャンジーを取寄せた人はないんですか。

福羽 ありません。今の立川農事試験場で輸入したことはないんですからーー私としても佐藤場長にも話をしたんですけども、私としてはハッキリ言わん方がよいけども、形式の方からいえばハッキリした方がよいと思った。当然なかったことですから、咎められて、それだから。

石原 元々ゼネラルシャンジーは実生でしょうね。

 それでは福羽苺というのは、どういう訳です。

福羽 あれは誰がつけるともなしについて、初め頃は違うんですが、それが店へ出て居るうちに、これは土倉(つちくら※実際はどくら、土倉龍治郎)さんあたりが作り出された頃は御苑苺(ぎょえんいちご)と云う名前だった。それが広まるに連れて、福羽苺という名前が出来てしまった。

 御苑で良い苺が出来まして、岩崎久弥さんのところにあげられた。すると康弥(やすや※岩崎康弥。岩崎弥太郎の三男、久弥の弟、「こうや」園芸家、種苗商)さんがその苗が欲しくって仕様がなかったが、先生出されなかった。そこでどうかしてというので、考えて居ったところが、あなた(※福羽さん?)のところに、康弥さんが行かれて、御馳走になって来られた。その時まア来いと自慢で、先生苺を出されたので、これはおいしうございます、もう一つ頂戴いたしますといって、三つ四つ食べて、それから、そっと袂からハンケチを出して、種子をそれに包んで持って帰って来てから、その三つ四つで実生をして、それをフレームに入れて、五つか六つか出来るまでこらえていよいよ実がなるようになってから、蓋をはぐって康弥さんが見せられた、こりゃア種子をどこから持って来たのか。いやこうこういう訳でと自慢話になったという、そういう話を聞いたことがありますが。

石原 康弥さんはそれをやったんだな。

 こっそり作って、出来たから発表したのでしょう。

福羽 そういう話があれば尚更実生ということもいえるが、ドクトルモーレルなんかも入いって居るというのですが。葉がドクトルモーレルとは違うんで、ゼネラルシャンジーが固定して居るということが前提で行けばですね。

石原 ドクトルモーレルはビクトリアから出来たんです。

池田 しかし固定して居りませんぜ。私の農園で何百個か実生からやりましたが、一つも似たものがありません。

福羽 ところが実生から増やして居ったものが沢山ありました。私が行った時、新宿御苑の福羽苺というものは、まいてからの実生で、それは一寸見ますと、よく似て居りますけれども、どうもよく見ますと、違うと思ってだんだん聞いて見ましたところ、脇から入れて植えたということを聞いたんで、私自分の家から持って来て更新したんです。

 私共の二十五年頃にはドクトルモーレルより他になかったんですが、三十ー年に先生が持ってお帰えりになりました。

福羽 種子は郵便で取寄せたのです。三十年前後です。その当時は私、子供の記憶ですが現在の事務所らしいんですね、あの辺に実生がありました。その時真ッ白い苺、それから種種な苺が出来て、何でも松平農場で似もつかぬものをそういって居りました。その当時、父より大したものを上げないで、棄てるようなものを上げたんじゃないかと思います。

石原 それは全く系統と質が違います。私もあそこから貰って来たんですが。

福羽 それは違うのが当りまえ。色々な交配をして居りましたから、そのうちのどれかが松平さんへ行って居ります。もう一人聞いて居ります。私のところにもある、父から貰って来たんだから、福羽苺だというのでしょうが、私の父に貰って来たんだというだけですからそれで福羽苺というのがあれにあてはめることがよいのか、どうか分らんのです。

【第5回】

苺と福羽先生

石原 ドクトルモーレルは私行った時まだ生きて居りました。ヴィルモランの家なんか昔からバイオレットを作って居った。そうしてその花束を作って、朝市へ出して居ったんですって。ところが病気が出て、すっかり病気になってしまった。何かこれに変わるべきものはないかというので、苺をやったらというので苺を作り出した。それでそのドクトルモーレルの庭に植えてあるうちからあれが出たという。これは大きいというので採ったのがドクトルモーレルの苺だというんです。

池田 日本ヘドクトルモーレルが入いったのはどういう訳ですか。

石原 それはドクトルモーレルで入いったのか、ビクトリヤで入ったのか。興津でも取寄せたんですが、私のところでも西壮一(にしそういち)というのが花を作った。それがサットン商会に居った。それが苺を取寄せて実生をやったんです。興津でも私が居った時、種々なものを取寄せたんですが、二度やったが、みな腐ってしまってうまく着かなかったんです。

池田 一体日本では沢山苺の品種がありますがどういう訳でーー。

石原 あれはみなヨーロッパもので、それがアメリカから廻わって来たのじゃありませんかね。

池田 けれどもカタログのあれを見ますと、大分イギリスの名前がありますね。

石原 だから来た時はアメリカからーー印度洋を廻わしたんでは、どうしても来ない、だからアメリカ廻わりで取寄せたんではないかね。

 福羽苺の系統というものは色々変って居りましょうが、どれが一番本格ですか。

福羽 この間もその話で、どれが本当かということでしたが、現に府下では足立区が一番多い。それから市川は殖えて来て居りますが、比較的新らしい。それから静岡県へ行って蒲原、神奈川県の寒川、これは蒲原より後、それから静岡市の附近、これも福羽苺組合というものが出来て居ります。それから久能山、久能山は極めて僅かでありますが、このうち蒲原に私、関係がありますので、志田君が促成をやりに来ましたから、苺をやったらどうかというので、それから私が二種類あげました。それを作り出したのが蒲原の苺、それが広まったものですから、足立区のはどこまでもゼネラルシャンジーと頑張って居るために、実の選択標準を変えてしまったんです。それで実の形が違って居ります。

池田 途中でデコボコしたんですね。

福羽 いや、スンナリとした徳利型。色の着き方が悪いんです。こうなりやしないかというとそうですという。それで私の見て居るのは、組合長と三人で来たんですが、私のいったのを肯定したのですから、素質を持って居ると思うんですけれども、母本の選択を変えたからそうなったんで、出来た時のものを見てみれば、まア静岡あたりのは比較的似て居ると思うんです。今は三角型になりましたが、出来た時は牛ノ舌型になって居りました。その園を丁度去年書いて、色を塗ったのを見つけたんです。それでこの春農業世界の一月の口絵にやったんですけども、色がそっくり出なかったんですけども、断面だけは出来た時のを出したんですがね。

 まア苺は一番名前が広がって居るんです。

辻村 福羽苺はわかりましたが、福羽梨というのがあった様に思いますがどうなって居りましょうか。

石原 それはバルテーという人の家にはあったんです。そこで作った。福羽の名をつけて居たんですから。

池田 バルテーというのはどこですか。

石原 フランスです。あちらの苗木屋さんです。

辻村 福羽先生はその時代にすでに洋梨と日本梨の交配をやられたわけで、そういうものをこちらに引戻して、こちらで広めてみたら、如何でしょう。

福羽 それはしかし味があまりよくないということもありましょうね。それは今村秋とバートレットとの交配種、これが出来たのは、今から判断すると、大正大礼という名前がついて居りますから、大正の初めに結果したものだと思います。それがそのうちの一つは逸人(はやと)と自分の名前をつけたのです。後の一つは大正大礼となって居ります。バートレットと今村秋なんです。バルテーの方は片ッ方は私気がつかなかったんですが、それでバルテーには書いてあったように思います。ヴィコント福羽はわかるんですけれども、現在日本で出来たやつは確かなんです。

熱心であった先生

 しかし技術上の園芸の話ですと十一時、十二時までして居ってもあきられなかった。だから何かについての園芸上の質問をすると、どこまでもやるという大変な熱心さでしてね、抜術上の事だといいんですけども、一遍は叱られたことは、手帳を出していわれたことを書き留めて居ると、手帳に書くような考えでありますとものが覚えられない、頭で覚えて居って、家へ行って書けといわれたことがある。手帳に書くのは直ぐ忘れるから、といわれて、それでコリコリしたことがありましたが、他から観察に来て、手帳に書くような風態をすると、幾ら聞いても知らん顔をして居られたのです。

石原 しかし同業者で地方から来たものは、みな感謝して居ったよ。

 市川技師と大野さんが最後まで女房役でやられたんだね。

五島 しかし今では手本があるし交通機関も発達しましたが、あの時分には、外国から蘭が丈夫で来るか知らんと思うと寝られなかったんですが、先生はそういう時に病気でも氷袋を持って出て来られたんだがやはりその身にならぬなれば分りませんね。その時分は、まア、うまくつくかと思って誰でも心配したもんです。印度洋を通って来る、随分日数がかかりました。今は殆ど無事に着きますが、その時分は半死半生で着くんですが、今から見れば我々その時代のことを知ってるから分りますが、現在の人は感じませんね。それにまア何ですね、我々は尚お一層感心して居るのは、我々温室なら温室の物の一部は多少詳しいことは知って居ますが、先生は果樹から蔬菜庭園それに料理まで知って居られたですからね。

石原 あれは世界一だね。西洋だって果樹、花卉何でもやる人はあるけれども、皆やるとなると浅いものだけども福羽さんのはみな専門的だからね。 (終わり)

参考

『実際園芸』第2巻1号 「我国実際園芸界の始祖福羽博士を憶ふ」 園芸研究会 誠文堂新光社 1927
『平成30年度特別展 新宿御苑―皇室庭園の時代』 新宿歴史博物館・宮内庁宮内公文書館 新宿歴史博物館
福羽イチゴについて 新宿御苑のサイトから
https://fng.or.jp/shinjuku/2020/02/11/20200211-01/

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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