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第109回 日本サクラソウと植木鉢

公開日:2021.3.12 更新日: 2021.4.14

『さくらそう』

[著者]鳥居恒夫
[発行]日本テレビ放送網
[発行年月日]1985年4月17日
[入手の難易度]易

『桜草・続編』

[著者]鳥居恒夫
[写真]さくらそう会
[発行年月日]2019年3月30日
[入手の難易度]易

植物に似合う鉢を探す、造る

90年代、僕は大田市場の仲卸に勤めていた。時代はガーデニングブームに差し掛かっており、イタリア製の赤いテラコッタやスペイン製の明るいベージュ色の鉢が数多く出回るようになっていた。イギリスのテラコッタは寒冷地仕様で低温でも割れない程堅く焼かれていた。
これらの鉢は日本に従来からある型とは異なるおしゃれな姿が人気を呼び、素焼き鉢だけでも一気に楽しい気分になったのを思い出す。
輸入会社「コベントガーデン」社のある東京都羽村市まで仕入れに行ったり、友人のアーティストに頼んでそれらの鉢にガーデン用のカラフルなペイントで色をつけて卸売したり、スズランを仕入れて素焼き鉢に植え替え、ヤマゴケ(ハイゴケ)を乗せて花屋さんに卸す等、手を加えて商品化するのも面白かった。

図1 100円ショップの食器に底穴をあけてスイセンを植えたもの、2月末。

図1は、「花芽つき球根」のスイセンを器に入れたもの。
「花芽つき球根」というのは、球根を夏場から数ヵ月かけて細かく温度管理をして花芽を調整し、クリスマスから年明けに開花するよう販売される商品だ。室内であれば2月には開花させられる(無処理で庭に植えると3、4月に開花)。図1の鉢は、しばらく外に置いていたので遅くなった。

器は100円ショップで購入した食器。石材、陶、ガラス用のドリルビットで穴をあけて鉢にしている(スイセンだと水を加減すれば底穴をあけなくても管理できる)。園芸用の鉢に気に入ったものがない場合は、器に穴を開けることでいろいろなものを利用できる。

図2 (右)角材のようなものを地面に挿して台にし、雑巾等をあてた上に器を乗せて「釘」や「タガネ」で少しずつ叩いて穴をあける。 (左)シュロの皮をピンセット等をつかってきれいに敷いて土を入れる。   『農耕と園藝』1960年3月号(第15巻第3号)から

図2は、器に穴をあけるようすを図解したもの。『農耕と園藝』1960(昭和35)年3月号(第15巻第3号、表紙はサイネリア)から採録した。「旅の思い出を鉢にこめる 小物盆栽の仕立方と扱い方」という記事。盆栽家の中村是好による小品盆栽の案内である。
「旅先の山等で、実生の草木を抜いて持ち帰り、鉢に仕立てる」という内容で、現在ではまず雑誌の企画として成り立たない内容だと思われるが、自分で採集した種子をまいて鉢に仕立てる場合に参考になるかもしれない。

植木鉢は、「ぜいたくを言えばきりがありませんが、古代植木の始り時代は木の箱で作ったらしく、昔の絵にもあります。そのように小さいのはイチゴの箱やミカン箱、または箱のこわれを自分で好きな形に造りなおして、箱に植えても結構だしざっと板を焼いて砂でみがいて箱を造ると、丈夫で腐らないしシャレたものになります。
また、私は汽車でお茶を15円で買って呑み、のこりのお茶の湯呑みの小さいほうに穴をあけて、(小さいくぎで底に木をあててゆっくりと金づちで叩いていくと、5分くらいで穴があきます)植木鉢として使っています。また大きなハマグリの中心に穴をあけて鉢にしても面白く、アワビなら穴をあけずにすみます。」

これを書いた中村是好(なかむらぜこう 1900~1989)は、幼少期に寺住みとなり10代で得度、愚堂を本名とする僧侶でありながら、新派の演劇人、役者でもあり、エノケン一座、松竹、東宝等の映画、テレビで活躍した。愛称はゼコやん。
「盆栽はおのれの鏡」「役者が内職で、盆栽が本業です」という程で、とくに豆盆栽、小品盆栽をひとつのジャンルとして生み出す中心にいた(盆栽鉢でなく植木鉢に植えたら植木。高さ1尺8寸以上は盆栽ではなく「鉢もの」。盆栽はそれ以下で、特に小盆栽は5寸以下、豆盆栽は3寸からと決めた)。長く国風盆栽会評議員を務めた。

著書の『小品盆栽』(1968年)では、小品盆栽は、植物の栽培や盆栽の入門に最適だと勧めている。
種まきについては、春の彼岸ごろにいちごの箱なり、売っている素焼きの植木鉢(平鉢)の底穴にシュロの皮を切って底に入れ、赤土でも黒土でもいいから肥料っ気のない土をふるいにかけて入れる(深さは種子の3、4倍くらいがいい)と記す。

是好さんは、この他に器は「横浜崎陽軒のヒョータン型のしょう油入れ、各地のサザエの貝殻、気のきいた駅弁当の入れもの、たとえば横川(長野県)の釜めしの土釜等を使えばよろしい。ぞうきんをあてがってタガネを使ってコツコツとあけるのです」と書いている。駅弁と一緒に売っていたお茶は土瓶に入れて売っていたし、崎陽軒のシュウマイ弁当には陶製のひょうたん型醤油入れと四角い受け皿がついていたらしい。

図3 玉露の茶碗に植え込んだセキショウ、ものすごく小さな小品盆栽の真骨頂。 『農耕と園藝』1960年3月号(第15巻第3号)から

2019年にたばこと塩の博物館で展覧会『江戸の園芸熱 浮世絵に見る庶民の草花愛』が開かれ、記念講演会の一つ、「陶磁器から見た植木鉢とその魅力」(2019年2月3日)を聴講した。講師は愛知県陶磁美術館学芸員の佐久間真子氏。
陶芸美術品のなかで「植木鉢」の研究には難しいことが多いという話が印象に残った。
この講演で学んだことを以下にまとめる。

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「陶磁器から見た植木鉢とその魅力」(2019年2月3日講演)

1、日本陶磁史における植木鉢の位置

  • 植木鉢とは何か
    歴史的に「転用植木鉢」(別用途の器を転用)と「商品植木鉢」(鉢植え用の生産・流通品)がある
    植木鉢は、比較的新しい器種(江戸時代以降に数多く生産され流通する)

2、江戸時代以前の植木鉢

  • 史伝や、伝世品、出土例も乏しい(保存されない)
  • 商品植木鉢はごく少量の特別注文品、もしくは中国産等の舶来品

3、江戸時代の植木鉢

  • 江戸時代中期からの園芸の発展によって、植木鉢の需要が高まる。(第9回参照
    (※植木鉢を使った鉢植えによって園芸人口が増え、発展の要因となる)
    1750年代:穿孔された陶器の半胴甕(=転用植木鉢)が出現
    1770年代:陶器の鍔付き植木鉢(=商品植木鉢)が出現
    (※享保期~の奇品家(永島氏)のデザインした「縁付(えんつき)」の鉢)
    1800年代:磁器の植木鉢が出現
  • 栽培・運搬のための道具から、園芸を演出するアイテム、そして威信財に

4、明治時代以降の植木鉢(大量生産、輸出向け美術工芸品)

  • 窯業技術の進歩と、万国博覧会等の特殊な需要の発生
    植木鉢は西欧でも馴染みがあり、国内でも作り慣れた器種
    大きさや装飾技術をアピールしやすい

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植木鉢は世界的に見てもとても古い歴史がある。日本でも古くから使われてきたが、鉢植えの需要は極めて限定的で、使用される植木鉢のほとんどが舶来品か木製であったと考えられている。
鉢植えが広まるのは江戸時代中期で、別な用途の器に底穴を開けて利用する「転用植木鉢」と最初から植物を植えるためにつくられる「商品植木鉢」がある。
初期には転用鉢が多かったが19世紀に入ると、全国各地の大生産地で焼かれた染付の磁器が数多く流通する(※やきものの植木鉢が江戸中期以前にみられないのは、技術的な問題ではなく、需要がなかったから)。19世紀には、瓦質で素焼きの土器から高級な飾りや染付の磁器にいたるまであらゆる種類の植木鉢が使われるようになった。
江戸時代の植木鉢は、鉢の上部の縁が反り返るように外に張り出す「縁付き」が特徴だ。手をかけて育てた植物や貴重な希少品種を格式あるデザインの鉢に入れることで植物と鉢が一体となった「鉢植え」としての価値を高める働きをし、展示会や品評会でその美観を競っていた。

サクラソウと半胴鉢(はんどはち)

転用鉢の代表的なものが「半胴甕(はんどかめ)」で、本来は水を汲み置いたり、味噌、塩入れ等多様な使い方をされる日用雑器、形は円筒形で大小いろいろなサイズがあり、現在のタッパーウエアのような汎用性のある器だった。これに穴をあけて植木鉢とした。
こうした転用鉢はやがて専用の植木鉢に取って代わられるのだが、不思議なことにサクラソウだけは長い間、「孫半胴(孫半斗、まごはんど)鉢」と呼ばれる素朴な姿の鉢が利用され続けている。マンド鉢とか土管鉢と呼ぶ資料もあるが、かつての転用鉢の姿をそのまま写したような色、形をしている。(図4-1、4-2)

図4-1 孫半胴に植えられた日本サクラソウの鉢植え  『実際園藝』1928(昭和3)年4月号から
図4-2 『実際園藝』1933(昭和8)年6月号から

現在のサクラソウの大家である鳥居恒夫氏の『さくらそう』(1985年)によると、「孫半斗鉢(まごはんどばち)」は、見た目や価格、扱いやすさだけでなく、サクラソウ栽培に適した鉢であることがわかる。
鳥居恒夫氏は、1938年愛知県生まれ、千葉大園芸学部園芸学科卒業後、東京都神代植物園、都庁、夢の島植物館で勤務。サクラソウの保存と普及に尽力し、2020年園芸文化賞を受賞(園芸文化協会)された。

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  • 孫半斗鉢は明治時代まで、愛知県の瀬戸で大量に焼かれ流通していた。
  • 上質の陶土を使わず、鉢の断面を見ると孔質でビスケット状を呈し、外側、内側ともに赤茶色の釉薬がかけてある。
    見た目より軽く、ビスケット状の陶質により熱の伝わり方が和らげられ防暑防寒の効果をあげているように思われる。
  • 形や大きさも様々だが、「半斗(5升)瓶の小型のもの」という意味で「孫半斗」と呼ばれるようになったという。
  • これに植えると乾燥もほどほどで育ちがよく、しかも優しいサクラソウの風情によく合うところから、ついにはサクラソウ専用の植木鉢として定着し、現代まで伝えられている。
  • 口径は5寸と6寸の2種類、すべて手作りという。こうした古い孫半斗は作られなくなって久しく、大正時代にはまとめて入手できなくなっていた。
  • 孫半斗鉢が入手困難になった大正時代以降、それに代わるサクラソウ鉢が必要となり、いろいろな人によって製作が試みられた。産地は瀬戸、益子、信楽、丹波等いろいろな窯場だが、手本はつねに孫半斗鉢であった。
  • 「さくらそう会」では、深谷市の窯元に依頼してつくってもらっている。サイズは4号(口径12cm)、4.5号(13.5cm)、5号(15cm)の3種類ある

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たしかに、『桜草銘鑑』を出した伊藤十兵衛や芝山政愛らが中心になって、大正7年に「日本桜草会」が発会され、関西の「浪華さくらそう会」とともに展示会や苗の分譲が行われていた。
だが、この大正末から昭和の始めにかけて、すでに古い孫半斗鉢は入手困難になっており、ニホンサクラソウの普及を妨げる要因にすらなっていたようだ。
『実際園藝』昭和8年6月号(第14巻第7号)に「日本桜草の培養法」という記事で、東京の永井誠也は鉢の苦心について次のように述べている(大久保の一ツ橋家家臣・芝山家と染井の伊藤家は、江戸時代からの品種を明治の世に伝えたレジェンド。永井誠也は大正から昭和にかけてのサクラソウ栽培の第一人者、著名な育種家)。

昔から日本桜草の栽培には、ズンドウ鉢(又は孫鉢とも孫ハンド鉢ともいう)ものが一番いいとされている。この鉢は径5、6寸、高さ6、7寸の常滑焼で胴はやや厚く、表面には灰茶色の釉薬が施してあり、水持ちがよくて、日本桜草を植えて納まりがよく、棚に並べて飾ると非常に美しく見える鉢である。そんなところから多く用いられたのであるが、実際に使ってみてほんとにいいとつくづく思う。
しかし現今ではこのズンドウ鉢を焼く所がないので、古い植木屋から譲り受けるか、数寄者から譲り受けるかするほかにはちょっとこの鉢を手に入れることが困難である。日本桜草が普及しない裏面にはこの鉢の問題が確かにあると思う。

そこで強いて日本桜草を作ろうとする人はコンクリート鉢を使ったり、今戸焼を使ってみたり朝顔鉢やもっと安い素焼鉢などを使ってみたりするけれども、そういう鉢ではどうも潅水が巧くできないし、又シガラキ焼では、白い鉢色が気障で納まりが悪いから日本桜草を作ってみても、本当の味が出てこない。
ただ焼き方からいって、ズンドウ鉢に一番近いと思われるのは、そこらあたりの瀬戸物屋で売っている、釉薬を塗った壺甕(つぼ)である。これなら焼きはまことに申し分がないのだが、ただ壺甕では口が小さく、深過ぎていけない。もっとも少し形が悪くても辛抱する気なら、この壺甕を買って(1個2、30銭)底に5銭白銅貨大の排水孔を穿って使うようにすれば、充分利用できると思う。これならズンドウ鉢に近い感じが出るし、作ってみて、水持ちの工合もなかなかよろしい。

しかし日本桜草の一栽培者として鉢について私がかねがね希望していることを素直に言わせてもらうと、篤志家が出てきて、古くから日本桜草の栽培に用いられており、私共が使ってみて、これなら一番適すると思われる前述のズンドウ鉢を製造し、広く一般の栽培家に、なるべく安い値段で分譲してくれればよいということである。
おそらくこれは、私一個人の希望ばかりではなく、日本桜草を栽培する人或いはこれから栽培しようと志す人々の等しく希望するところだろうと信じている。
(※漢字やかなを読みやすく変更した)

(図5-1)寸同鉢に排水孔をあける様子 上原梓・佐々木尚友 『桜草の作り方』1941年 から

(図5-2、5-3マツヤマ作図)鈴鹿冬三が自作し使っていた、磁製のラベル。長四角錐の楔型で、頭に番号等を書き込み鉢に深く差し込み、木札とともに使用し品種の混同を防いでいた。 加藤亮太郎『日本桜草』1959から

陶磁器を焼く「さや」説

サクラソウ専用鉢の名称は、上原梓・佐々木尚友『桜草の作り方』(1941年)(※図5-1参照)には
孫半土、孫半(マゴハン)、孫鉢(マゴバチ)、孫(マゴ)、ハンド瓶(ハンドカメ)、ハンド鉢、寸胴(ズンドウ)、寸胴鉢(ズンドウバチ)という呼び名の常滑焼であるとか、
浪華さくらそう会の重鎮、加藤亮太郎『日本桜草』(1959年)で
孫鉢、半土鉢、孫半、半土瓶、寸胴(ずんど)、寸胴鉢(ずんどばち)、常滑焼
と記しており、
「この鉢は、実は植物を植える為めに作ったっものではなく、貴重な陶磁器類を焼く時の外枠として用いたものだそうです。したがって、底には他の鉢に見られるような水抜穴がありません。そこで、鉢として用いる場合には、中央に穴をあけて用いたものです。」

加藤は、古い孫鉢が入手困難であることを述べ、朝顔鉢として作られている信楽焼や丹波焼、常滑焼、石焼等を代用している、と記した。

同じく浪華さくらそう会、鈴鹿冬三は『日本サクラソウ』(1976年)では次のように書いている。

「このもの(※サクラソウ)にのみ利用された面白い鉢があり、今日に伝わってきたのが、この孫半土です。
これは「孫鉢」「半土鉢」「孫半」「孫半土」「半土鉢」「寸胴」「寸胴鉢」などと呼ばれているもので、形は甕形をしていて、内外に釉薬がかかっていて、大きさはいろいろありますが、大きなものでは、口径18~18.5cm、高さ12.5cm、縁の厚さ1.5cm、小さなものでは、口径16.5cm、高さ11.5~12.5cm、縁の厚さ1.2cmくらいです。
(中略)
この鉢は、実は植木鉢ではなく、貴重な陶磁器類を焼く時の外枠「さや(※匣鉢)」として用いたものといわれています。武士の家などでは、これを味噌壺や梅干し壺に利用したとも言われています。したがって底には水抜き穴がありません。鉢として利用する場合には、中央に穴を開けて用いたものです。」

このように、過去には、大量に流通する「日用品」としての半胴甕以外に、焼物の製造に使われる「さや」も利用されていたのかもしれない。ただ、流通する量からしても、大量生産の日用品(味噌壺、塩壺)を転用するほうが圧倒的に多かっただろう。
いずれにしても、長い間、古い孫半斗鉢は入手困難で貴重なものだった。

図6 昭和初期、東京、日比谷公園で行われていたサクラソウの展示花壇 。『実際園藝』1928年4月号(第4巻第4号)から

尾崎哲之助翁とサクラソウ

以前、本連載で取り上げた『朝顔抄 花とともに六十年』(1971年)には、尾崎哲之助翁がサクラソウに取り組んだ経緯が描かれている。(尾崎翁に関しては、本連載第25回第26回第27回参照。)

アサガオを専門とする尾崎だったが、園の経営上、年間を通して無駄なく仕事を続けるためにはアサガオ以外にも何かをやらねばならぬと、小金井時代にはキクの実生(品種改良)をやったが、戦後になって日本サクラソウを取り入れることにした。翁と日本サクラソウとの因縁には面白いエピソードがある。

尾崎翁の小金井時代、すなわち小金井朝顔園の時代なので昭和9~18年頃(元陸軍軍医総監藤田嗣章翁=画家、藤田嗣治の父親、の伝手で借地した2千坪の農園。駅から直ぐの場所にあった)、隣町の国分寺にもと神戸のある銀行の頭取をつとめたことのある園芸愛好家がおり、来園のたびに多大のお引き立てをいただいていた。

ある日、このお得意に誘われるがまま、お屋敷にうかがって花壇づくりの手伝いをした際にたいへん上等な植木鉢を見せられた。この人は神戸時代、熱心な日本サクラソウのファンであったとのことで、京の清水焼の名人、(当時の)先代六兵衛翁に高価なサクラソウ鉢を、特別に頼みこんで製作されたものだった。その「六兵衛鉢」が庭の片隅に百数十個並べてあった。そこで「今度きみが日本サクラソウを作る希望があれば、この鉢を半分くらい進呈してもよい」と言われた。
当時日本サクラソウに興味を持たなかったが、天下の名人、六兵衛翁の手になるという鉢欲しさに、希望を述べて50鉢をいただいたのだという。
当時、東京都下、小金井、武蔵境地方には江戸末期から明治時代にかけて日本サクラソウのマニアがそこここに住んでいた。せっかく良い鉢をいただいた手前、作らないわけにはいかなくなったので2、3の人にいくらかの芽を分けてもらって栽培を始めたところ、戦争が始まってどうしようもなくなり、また南洋セレベス島へ飛ぶこととなったためサクラソウ作りの計画は頓挫してしまった。

ところが終戦、帰国した直後のある日のことだった。新宿を歩いていて偶然にも路上でその人と遭遇する。そのまま招かれて終戦後移転したという落合の新邸にうかがい、たまたま先年の残りの鉢が数十個、縁の下に置かれてあったのを全部いただくことになった。
こうして、まるで運命のような出会いから、今度こそはと、永福町にアサガオ園を再興した時にさっそくサクラソウ会から数種の名称つきと混合種の芽、多数の分譲を得て栽培に入った。さらに烏山に移った時には地植えにした多数の混合種の花のなかで優秀花と思われる数種から採種して実生まで開始した。

続いて東京朝顔園開設にあたり、小金井時代のキクに代えてこの花を取り入れることとし、絶滅から救うのみならず、すすんで江戸時代に返したいととんでもない野望を抱くようになった。
そこで今度は、京王と組んで資金もいくぶん豊かになったので、大々的に散逸した品種の収集に乗り出した。

戦前、帝大附属小石川植物園で活躍した友人の松崎直枝は日本サクラソウの権威だった。彼は江戸時代から明治初期にわたる5、600品種を集めて花期には植物園内で展示会を開催して一般に観賞させていた。氏が書き残した日本サクラソウの記録は今日唯一の参考資料となっている。ただ、実物については、戦争でほとんどが失われていた。

しかし、井の頭公園に隣接する井の頭自然公園に松崎氏存命中に分譲されたかなり多数の品種が栽培されていた。当時の園長、嘉悦一郎氏の好意で約200品種を分けてもらうことができた。

さらに爆撃を逃れた京都のサクラソウマニア、鈴鹿冬三氏(当時、奈良県御所市高鴨神社の宮司で荒張冬三と改名)のもとにある約300品種の分譲を得た。これらのうち重複するものを整理すると400品種となった。
その後、栃木県小川町に本種の専門園で「桜友園(川上直市氏)」があるのを聞きつけ、同園を訪れて品種交換をした。
こうして、すべてを整理してみると、全部で450~460種になった。

つぎに先年烏山の仮りの園で行った多数の実生苗を東京朝顔園内の一隅で培養したが、大部分が平凡な花のみで取り上げるまでにはいたらなかったが、そのなかに、かろうじて優秀な品種数種を選出することができたのは幸せであった。さっそく、命名の上新品種としてカタログに発表することにした。これらは好評を博した。

さて、実際に自分で栽培をしてみると、案外難物であることがわかった。
当初は健全な芽を揃えられなかったことが大きな原因であったが、日光の直射と乾燥を嫌う植物なので、ヨシズの掛け外し、水の手加減、培養土等、要領を飲み込むまでの数年間の栽培成績は芳しいまでには至らなかった。それに鉢の選定も栽培上はもちろん観賞上見逃すわけにはいかなかった。昔は「孫半」と呼ぶ粗末な鉢が使われていたが、観賞用にはそぐわぬものであるし、素焼き鉢は乾燥しすぎていっそう不向きだった。
以前もらった例の六兵衛鉢は、さすがに名人の作だけに雅味に富み気品もあって申し分ない。これを模倣して丹波で焼かしてみてはと考えた。
そこで見本として一鉢を窯元に送り、試みに作らせてみた。やがて送ってきた見本を見ると、本物の気分を味わうに十分でじつに良い。そのうえ値段も手頃であったので、さっそく数千鉢を頼んだ。

その後この鉢を実地に使用してみるとサクラソウにはぴったりで栽培成績も良いことがわかった。こうして私をサクラソウに導いた因縁の六兵衛鉢は丹波焼ながら姿形も本物そのままに長く私の栽培に使用されるようになったのである。
約5年やっても、うまくできなかったサクラソウ栽培だったが、丹波の鉢で2千数百鉢を栽培することに踏み切った頃、ようやく良い花ができはじめ、最初の展示会を開催できた。

鉢を見て盆栽に仕立てる

日本はやきものの国。先にあげた中村是好さんは「器に合わせて植物を植える、あるいは植物に合わせて器を選ぶのが盆栽の基本」だという。鉢を見てやらなければいい盆栽はできない。
実際、日本の鉢植えや盆栽用の器は非常に工夫、改良されてきた、と述べている。盆栽のようにギリギリの容積で植物を育てるために鉢も追究されてきたのかもしれない。

植木鉢は古くは中国からの輸入物で、植物用の鉢以外にも香炉(「愛間(あいがん)」と呼ばれる小さな穴の空いた野香炉)を利用することもあった。こうした中国の手本を観察しながら先人たちは植物を栽培するのに適した鉢を生産するようになった。そこには栽培者のアドバイスもあっただろう。植物を維持できる鉢の深さ、ものを植えた時の映りのよさを引き出すための奥行き…。いわばみんなの苦心でつくっていった。
かつては、瀬戸や常滑等国内の産地以外に中国まででかけて発注する、ということもやっていたという。しまいには、中国から職人(「銭子孔」という名の名人)を連れてくるということもあった、と是好さんは書いている。
反りや狂いがでるため薄く堅く仕上げるのはとても大変なことだった。話の中に、とても高価な鉢をコンクリートの棚に落として割った男の話が出てくる。棚に鉢を置くだけで割れるかもしれないから棚は木製がいい、コンクリートの上に板を敷いてもいいのだから、と忠告した矢先のことだったという(『小品盆栽』)。

品種ラベルのことなど

他の園芸植物も同じだが、多様な品種を集めることを楽しむサクラソウ栽培で、品種名を正確にしておくということは最も大切なことだという。
そのためにそれぞれの個体につけるラベルが重要になってくる。趣味家はこのラベルを落としたり(「札落ち」)、品種名が分からなくなったりすると大いに落胆し、つくづくイヤ気がさすという。鑑賞や購入する場合も同じで、ラベルの取扱いには細心の注意が必要だ。
鈴鹿冬三『日本サクラソウ』のなかで次のように要点を示している。

サクラソウの品種名が混乱しているものがあるのは、ラベルの取り違えが原因であることが疑われる。名札は常によく点検し、破損や消えかかっているものは書き換えるなり新しいものに取り替えること。

名札の材質には木札、セルロイド札などがある。これに墨をよくすって書くと消えにくい。

墨に硝酸銀の結晶をごく少量加えると簡単には消えない。クリーニング店が使っているインクは耐水性があり大変便利だという。

木札に船の船底に塗る塗料を塗っておくことで耐久性が大きく伸びる(15年は使える)。

鈴鹿氏は磁製の特製ラベルも併用している(図5-2、3)。陶製は霜にあたって凍結するともろくなり、耐久性に劣る。磁製は半永久的に使える。

サクラソウの展示で花壇に陳列する場合は、ラベルも「正規のもの」に代えて飾り付ける。

正規のラベル(花名札)は、通常ヒノキ板を用い、幅2.4cm、厚さ0.4cm、差し込み部を両ソギし先を尖らせたもので、黒漆を塗ったもの。

これに糊紛を溶いたもので名前を書き正しく花の後ろに立てる。

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最後に、鈴鹿冬三も「鉢植えを栽培する棚」について触れているので、メモして今回の話を終わりにしよう。

鉢ものは、土の上に直に置くより棚に乗せるほうが管理もしやすく、植物にもいいことが多い。

鉢底孔からミミズなども入らず、土が跳ね上がって鉢や名札が汚れることもない。

棚の高さは手入れや観賞しやすい高さ45cmから60cmくらいが無難。風情はないが、ブロックを積み重ねて土台とすると、木製より長持ちして経済的。

棚板はいろいろな素材があるが、スギ、ヒノキなどがいちばん長持ちする。思い切って8分~1寸板を購入しておくと結果的には安上がりになる。日照時間にもよるが約10年程は使える。

鈴鹿氏も棚板には苦労した。鉄道の古い枕木、大きな機械を運ぶ時に使用する枠材「アビトン材」、古材屋にある各種の板などいろいろ試したが、価格は安くても結果には満足できなかった。

コンクリートも永久的でいいように思われそうだが、置く場所をよほど吟味しないと危険だ。冬季には鉢底が凍りつくおそれがある。もしも貴重な「支那鉢」や「銘鉢」等を凍らせると大変なことになる。夏季は熱気がひどく、植物の生育に悪影響が出る。日陰か半日陰をつくってやる必要がある。素焼き鉢管理では、梅雨明け頃、鉢ごと土中に9割がた埋めて夏越しさせる方法もあるそうだ。

※参考

  • 『絵で見る伝統園芸植物と文化』
    柏岡精三・荻巣樹徳・監修 アボック社出版局 1997 非売品
  • 『小品盆栽』
    中村是好 鶴書房 1968
  • 『江戸の園芸熱—浮世絵に見る庶民の草花愛』
    たばこと塩の博物館 2019
  • 『実際園藝』第4巻第4号(昭和3年4月号)
    誠文堂新光社 1928
  • 『桜草の作り方』
    上原梓・佐々木尚友 博文館 1941
  • 『日本桜草』
    加藤亮太郎 加島書店 1959
  • 『日本サクラソウ』
    鈴鹿冬三著 NHK出版 1976
  • 『朝顔抄 花とともに六十年』
    尾崎哲之助 誠文堂新光社 1971

検索ワード

#100円ショップ#豆盆栽#崎陽軒#釜飯#江戸の園芸熱#植木鉢#サクラソウ

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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